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NAOSITE: Nagasaki University's Academic Output SITE
Title
離島社会の後進性とその歴史的展開
Author(s)
河地, 貫一
Citation
経営と経済, 47(2), pp.1-44; 1967
Issue Date
1967-07-31
URL
http://hdl.handle.net/10069/27749
Right
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離島社会の後進性とその歴史的展開
離島における産業、社会の前期性−問題提起にかえて
河
地
貫
一
離島社会の後進性とその歴史的展開−主として対馬の本戸制度について︵木戸制度とその成立・機能 木戸制
の構成 木戸制の地理的構造 木戸制の崩壊︶
離島における産業、会社の前期性−問題提起にかえて
一般に面積が小さくしかも山岳的地形の卓越している離島は耕種燵業上の自然条件は劣悪で、ことにわが国の自給
農の核心をなす水田造成に不利である。当然そこにはわが国の明治以降の特色である寄生地主制の発達も比較的弱く、
l
むしろ労働地代的な労役奉仕型態が長く残存してきた。例えば寓畠︵鹿児島県︶の旧郷士部落であ声﹁怒﹂集落では、
農地開放前小作人は小作料をおさめるほかに、地主に対する種々の労役奉仕を義務づけられていた与対馬︵長崎県︶
2
でも被官、名子の制度が実質的に戦前まで存続し、今日でも某家は其々家の被官であったことを明確に指摘すること
が出来る。
終戦時の小作地(%)
1)島 l
良部が多い
(昭和2
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県勢要覧)
2
)五島列島の大部分
経営と経済
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北高来郡
南高来郡
北松浦郡1)
市 松 浦 郡2
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寄生地主制の弱かった離島社会では戦後の農地解放は必ずしもそ
の社会の根底をゆりうとかす力とはなり得なかったと思われ、戦直
後に行われた﹁九学会連合﹂の対馬調査は農地開放後であったが、
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その報告は対馬社会の後進性に焦点があてられ、そこから向島の新
しいうときを何らよみ取ることが出来なかったほどである。また薩
摩の離島十島村はさきにふれたように宝島を除いてはなお耕地(山
Aせ
林ではない) の共有性が残存し、土地はすべて部落有であり藩政期
高度ほ Y八0 0メートル)には極め
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L継承されている。大土地所有と悲惨な農
村プロレタリアートが農業の進歩を阻む障害にな可ている。:::その農業は非常に未開であり、生産性が低いま、に
世犯の中頃まで存続した貴族的蒙昧主義的支配の時代の社会構造がそのま
て強固な村落共同体体制がみられた。また P ・ジョルジュによると、イタリア半島の南部(離島をふくめて)は一九
ni
摘しうるところである。例えば広島県の旧八幡村(中国脊梁山系上に位置する
もちろんか冶る現象は単に離島ばかりではなく、前期的な生産関係や自給体制を維持している地域にはなお多く指
することが出来よう。
椛の紛争と地元漁民ゆ勝利との過程は、大資本の三井楽社会の前期的性格の利用と地元漁民のめまめの過程から説明
よって近代資本のはげしい収奪と村落支配のプロセスが詳細に報告され﹁また五島三井楽の戦後における定置網漁業
EU
してか﹀る社会構造がいかに離島の発展をおくらせているかについては例えば若松町の古い郷制度を利用することに
後もなお離島社会の多くは前期的な生産関係や自給型態を在続し、それに照応する古い社会構造を混在してきた。そ
には例えば壱岐などに根めて普遍的に認められた割替性が今日でも行われているといわれている。要するに農地解放
(長崎県)
止まっている﹂。
。
。聞かに彼はギリシャの農業はヘシオドス(紀元前八世紀)の描写のま、であるとし、またイベリア半
川町川
島の農業の前期的停滞をあげ、﹁その農業改良のためには封建的な枠を打破して天然資源を全国民の財産として利用
することが前提であるH とし、別にその半島社会の後進性をするどく指摘している。
こうした古い社会体制自体は既に崩壊していても、本土においては既に消滅してしまっているような個々の古い社
会的経済的事象に至っては数多く離島に温在されている。たとえば対馬の山地にはさきに述べたように極く最近まで
原始的農業といわれる焼畑耕作が行われ、五島列島や平戸島の極く孤立的社会であるかくれキリシタン部落ではなお
蔀政期の信仰型態を止め、今日全く土俗信仰佑している。或はかつてムラの共同体社会に規制力をもっていた事象が
現在部落の祭組にその形骸を止めている事例に至っては限りないであろう。またよく引用される例であるが吋本土か
ら伝わJ頃に当該本土では消滅し終っている風習が離島ではなお温存されている例も多い。長崎県北松(的山)大島
の須古踊は発祥地である対岸の佐賀県では全くみられなくなっている。
このような現象から多くの民俗学者によって離島はいわば民俗学の博物館的地域として把えられる傾向が強く、か
つそれを離島の隔絶的自然条件からする普遍的性格とみ、更にはか﹀る古い社会構造や事象の温存から逆に離島の孤
立性や後進性を例証しようとされる。離島振興法第一条にみられる﹁この法律は、本土より隔絶せる離島の特殊事情
からくる後進性:::﹂とあるのも、またか、るあらわれであろう。
しかしながら、これらの前期的な社会構造や或は個々の古い社会事象がなお現在の離島の社会経済を規制する力を
もっているのは島のもつ自然条.件のみの責任ではなく、離島自体の前期的な生産関係や自給的な経済体制にもとづい
たものと考えるべきであり、言葉をかえると資本主義社会における前期的経済機桔に照応した社会構造なのである。
そしてか、る古い構造や事象の﹁温在﹂もまた離島のもつ隔絶的自然条件から結集したと考えるべきでなく、またか
離島社会の後進性とその歴史的展開
経営と経済
りに離島において特にか
Lる古さの温存が卓越しているとするならば(本土の僻地より、離島において特にそうであ
(長崎県観光課大串氏撮影)
福江本島にあるチャンココ踊りと同種類のもので発生
も同じものである。チャンココ踊りは藩の御用踊りを
つとめてきた関係上、服装演技形式はかなり変佑して
いるので、最初の形式は福江本島の属島嵯峨島のオ{
モンデー踊りが最もよく残している。
伝承によると、五島藩祖宇久家盛 (
1
2
世紀)からのも
のであり、 7世紀以上の歴史がある。
(長崎県の文化財4
0
頁一昭和 3
6年)
るとするだけの資料は筆者にはない)離島の前期的従って孤立的な経済機構にあっては、さき(﹁離島の変遷とその
嵯1
成島オ戸モンデ戸踊り
自然環境﹂)において述べたように島のもつ隔絶的条件が古い社会事象を沼存せしめる役割を本土の僻地よりより強
竜造地時代の末期 (
1
6
世紀末)に現在の佐賀県白石町須古か
らこの島にうつされたものと伝えられる。現在、乙の面浮立系
の踊りが最も純粋な形を残しているといわれ、発祥地の須古で
は消滅している(昭和 3
1年撮影)。 なお、乙のあたりがかつて
向島で最も繁華な場所であったが、現在では殆んど空き屋にな
っている。
く果すのであると考えるべきであろう。
的山大島の須古踊り
四
従ってか﹀る古い社会構造や事象は離島の前期的経済の崩壊とともに当然運命をともにするはずである。さきに述
べてきた如く、戦後の国家資本の投下は、政府専売品の酒、たばこの市場でしかなかった戦前の離島を資本主義社会
に編入して、その自給性を放棄せしめ、それ自体の資本主義佑を押しす︾めつ﹀あるとするならば、今やか﹀る前期
何
は
的な社会構造や或はなお現在的意義をもっ個々の古い社会経済事象も当然崩壊を進めまた消滅を早めているであろう。
しかし、最近﹁限界観光地﹂として離島の観光資源が注目され、離島の孤立性が喪失していくとともに、その古い
社会事象が逆に本土資本の要請によってかえって温在されようとする傾向をも否定し得ない。平一戸におけるかくれキ
リ シ タ ン の 信 仰 型 態 、 或 は 五 島 の 古 い チ ャ ン コ コ 踊 り 、 福 江 島 の 属 島 嵯 峨 島 の オl モンデ i踊 り が 今 や 全 く 観 光 資 源
と九て、保護され混在されており、また佐渡や伊豆大島の民謡や風俗もやはり観光資源として温存されようとしてい
400
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1
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離島社会の後進性とその歴史的展開
五
被官のま﹀の主従関係を在続することが許された。後者の場合はその時称もつ Yき、同時に伝来の関係をも保っている(中
須川家が三かまを所有していた(有賀・永島二削指)。被官は明治以降も主家の希望によって、百姓かまを立てさせ、或は
されるのみとなった。給人は自作経営が中心であったから被官をもたないものが多い。三根の松村氏が被官六かま、豊玉の
会組織に関する二、三の問題l対局の自然と文化所処)、寛文検地後被官の制が大きく変り一つの地頭領に一人の被官が許
ゆる勤役をなした。厳原の斉藤家の地頭領(城下侍の地万知行地)には二 O軒の被官があったが(中村正夫日対馬村落の社
在郷武士)や城下侍の知行地の耕作には﹁被官﹂が与えられ、侍との聞に完全な主従関係があり、被官は主人たる侍にあら
有賀喜左衛門・永島福太郎日対応封建制度の諮問題(九学会日対馬の自然と文化l昭和二九年)によると、対馬の給人(
藤岡謙二郎日離島の人文地理(昭和三九年)一一二一一良。
(
2
) (
1
).
経営と経済
村正夫日前掲)。名子は主として、給人、本百姓の分家の家である。
日本人類学会・日本言語学会・日本考古学会・日本宗教学会・日本民俗学協会・日本民族学会・日本社会学会・日本心理
野口隆・八木佐市川樽床部落の共同体的性格とその解体(広島県教育委員会日三段峡と八幡高原i総合学術調査研究報告
岩波書居日日本資本主義講座第八巻四五三1四五五頁にその詳細な過程が説明されている。
長崎県水産詰験場日若松町漁業振興基礎調査報告書(昭和四O年)の﹁郷村制の問題﹂一一一一ニl 一八五頁。
鹿児島県日離島振興一 0か年の歩み(昭和三九年)一五頁。
昭和二九年﹂がその報告書である。
学会・日本地理学会の九学会による対馬の総合研究が回和二五年から同二六年にわたって行われた。 ﹁対馬の自然と文化l
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島の地理(昭和三四年)一一 ol一一一一一頁によると、伊豆諸島の頭上運搬、八丈島、南西諸島の高合、そ
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mguEom。己巳円四ロ目。ロ色。(一宏∞)・邦訳、小川徹“世界の社会地理学八三l八六頁。
戸。。。円m
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o E P・訳本九O頁
目
日
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moHのふ。唱ωUEOお
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明されている。
4EE4
拙稿口壱岐観光産業の現況とそのあり方について(長大壱岐調査団l壱岐の経済、一九六四年所処)参照。
時北松大島は竜造寺の箱図であった。須古は一時隆位の居城があった。
特定の神社の祭杷のためのものではない。この踊りの起源は竜造寺隆位(一五ニ九l 一五八四)の時代に始まっている。当
叫佐賀県白石町宇須古から伝わったもので、旧七月十四、十五日に大島の神ノ浦、西宇、的土の三部落に盛大に行われる。
の他若者仲間の組織などがあげられ、また佐渡の民謡は哀日本や西海域から伝わったものの変形したものであるとしている。
) 例えば大村肇
1
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山
口 Bozo(
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印 M)邦訳、本阿武・山本修日世界の農業地理八五頁。
!一九五九年所処)において、樽床部落の水没計画の進展とともに、その共同体的結合の強固さとその内部矛盾について説
5
) (
4
)
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(
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)
叫大村は風俗や民謡のように比較的伝播の円滑なものは地万との結びつきによってかえって温在され、言語・社会儀礼・償
(大村肇二別掲一一一一一1 一一四頁)
習・信仰などのように社会的な結びつきの強いものは地方との関係が断たれる乙とによってかえって温寄されるものである
として、離島における古い事象の温存、消滅の現象を法則的に把えようとしている。
離島社会の前期性をよくあらわすものに対馬の本一円制度がある。この制度については、
離島社会の後進性とその歴史的展開 l 主として対局の制度 l
本戸制度とその成立・機能
の
ん
さきにふれた﹁九学会﹂の主として民俗学、社会学的調査報告や歴史学、経済学的な研究は多いが、乙︾では筆者は
地理学的な立場から考察してみようとする。
対馬の社会には本一戸、分家および寄留の三つの社会グループ(少くとも社会のヒエラルヒ!としてとらえる乙とは
出来ない)があり、この本戸群を中心とする村落共同体的組織が本戸制度である。本戸から分れた分家のグループや
外来の移住者(主として部政末期以降)である寄留グループには本戸を中心に営なまれている共同体生活に参加する
資格はないが、なお村落内における生活は本一戸群の決定に規制される。つまり﹁本戸群のいとなむ伝統的な共同体関
係がなお村落生活の基調になっている﹂のが九学会の調査した昭和二五、六年頃の対馬社会の実態であったと考えら
れる。か、る共同体組織が、筆者が上来しば/¥ふれてきたように戦後急速に変貌してきでた対局の、今日において
もなお正確な記述になりうるかは極めて疑問であるが、少くともこの共同体体制が完全に崩壊したとみることは出来
4'
ないであろう。例えば緒万(美津島町l対応)に最近起った事件のように、本戸群の決定した部落憲法がなお入寄留
者に対して規制力をもち、変質しながらも佐賀の部落事務所の機能などは木戸制残存の好例であろうし(あとでふれ
脱出社会の後進性とその歴史的民間
七
経営と経済
、
ー
る)、また島内各地域各部落によってかなり異った実態を示していることは否定出来ないであろう。貨幣経済の早く
から侵透している厳原連坦地や外来船の漁業基地として発達してきた比田勝、或は戦後まき網漁業の基地として急速
に商業的機能を成長せしめてきた佐賀などでは本一戸制はかなりはげしい変質をとげている。また本一戸の第二極的兼業
F
D
漁民佑のはげしい大船越などでは、﹁戦前まではっきりしていた本戸制も戦後大きく崩れ去って、ほとんど残骸に等
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しい状態﹂であ名ペしかし、他の多くの農業部落或は農漁兼業部落では強く共同体遺制を残在していると考えられる。
この前期的な社会制度を支えてきたものは本戸群の独占する経済的特権であった。すなわち、本戸群はまず耕地を
独占的に私有し、明治の地券交付以降木戸からの分家や外来の移住者に対して分譲売却は認めなかった。その上、宅
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地、山林を本一戸群で共有し、更にその延長たる海面地先権をも本一戸総有で独占してきた。この封建的遺制が戦後の漁
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業法改正まで存続してきた。戦後共有山林の分割同進むがその購入権は本一戸群に限定されている。本戸群の窮之に伴
って、まず宅地、地先の磯売り、宅地、耕地、山内の寄留所有もあらわれ、また漁業改革とその法改正で地先権の独
占は完全に崩壊する。しかし、山林の本戸総有はなおもっとも普遍的な対局における所有型態であり、これが木戸制
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を支える基本的な経済的基盤になっている。しかも、一方法改正後も慣行的に地先権行使における本一同群の特権が維
持されている例は多いようであるペ
本一円群の没落と本一円制定の崩壊は否定しうべくもないが、その独占的特権はなお﹁山林に、宅地に更には地先権の
一部に残り本一戸層分解の阻止要因となっているとともに、この社会構造は(│筆者記入)全住民の生活の上にもかな
りの規制力をもっている﹂のが九学会の調査以降変動のはげしかった十三年目の一九六二年頃の佐賀(峰村)の実態
である。しかし、これは、商品経済のかなり進んだ佐賀における事例であるから農業部落ではなおより強力に乙の制
度は残存しているとみるべ、きであろう。
MU ・
4
同
本戸制の存続は対馬に大きい不幸をもたらしてきたことは否定出来ない。すなわち本来耕種農業にとって自然条件
が極めて劣悪で、歴史的にみても貌志倭人伝時代から自給不可能ないわば非農業世界でありながら、資本主義社会に
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直接の資料でないが、対局良民の漁民佑、林業従事者の増加は充
分推定される。なお、町村別にみると、浅茅湾 l
こ面する美津島町に
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魚、林従事者への移動は大きい(昭和 2
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%からは 3
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)。
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より効果あらしめるためには、何よりも父兄の社会教育の推進が前提で
理主義精神の欠如は当然考えられるところである。川崎は子弟の数育を
義的精神の極めて強いことを強調しているが、前期的社会にあっては合
川崎は対馬社会の社会心理学的調査からその権威主義的、因襲尊重主
三六名中四六二名は対馬出身者である)。
前倒
ては無縁の存在か、せいん¥ぜい狸掘りの段階にあった(現在全工員六
亜鉛)も東邦亜鉛の戦後における本格的開発が始まるまでは農民に取っ
もかなり増加してきでいる。もちろんその富豊な地下資源︿主として鉛、
また山林の農民的および資本主義的開発も戦後に始まり、林業従事者数
群の漁民化(漁船漁業およびゃとわれ漁民﹀は極く最近のことである。
の肥料源としての採貝藻地かせいぜい地曳網漁場でしかなかった。本戸
たのは島外からの出漁者と外来の移住者であり、島民に取って海は地先
人焼子であった。また漁族の宝庫といわれた海域を漁場として資源佑し
も農民的生産ではなく商人資本の手で行われその労働力は漂泊的な半島
草源であり、木庭耕地であった。戦前独占段階に入って栄えた木炭生産
おいて自給農を存続しようとしたことであった。そのために全島の九OMを占める山林は古くから自給農のための採
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1次産業別人口梢成(センサス)
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(昭和 3
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年)対馬公共事業総括
(百万円)
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経営と経済
│事業費│国県費│地元
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(都野尚典:対馬の財政と金融)な
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、 昭和 3
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年の町村税収入は 1
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万円である。
あるとしている。か﹀る現象は実はその自
己閉鎖的な共同体的社会体制 l本 戸 制 度 │
に旺胎していると思われ、こ、﹀にまたこの
前期的な社会構造のもつ大きい問題点があ
る。対馬において学校教育の効果が上らぬ
点がしばしば問題になるが、(それにもか﹀
わらずその集落の遺跡的分布のために義務
教育の学校々舎が本分校あわせて九六校(
厳原町の佐須川流域を除いては、
対局の集落は殆んど、海岸の小浦に
立地し、陸上交通の条件は極めて悪
く、相互に強く孤立している。この
集落の孤立は、また商人資本の絶好
の寄生条件でもあった。離島振興法
による南北縦貫道路と、これら集落
を結ぷ道路整備は今後の大きい事業
である。義務教育の学校九六校は、
いわばかかる対馬の自己表現であろ
。
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園 高 絞
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③中学校
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1字 分 校
⑥町村l~~在地
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(古田敬市:対応の現況と閃発の方途一対局
総合学術調査書)
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昭和 3
7年皮佐賀部落事務所決算表 (
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0円)
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水道負位
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金
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給水、工事
1
3
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部落会資
人口六八O人当り一校の割合となる))になり、文教施設
が 著 る し く 地 方 財 政 を 圧 迫 し て い るoUもちろんこれら学
卒者の島内残留者は少く、地域の開発に殆んど貢献して
o
い な い こ と は 他 の 離 島 共 通 し て い る ( そ れ で も 農 家l 主
として本戸ーのあととりの離村は比較的少い刈
然らば現在本戸制が対馬社会にいかなる機能を果して
いるのであろうか。さきの佐賀部落の﹁部落事務所﹂の
存在、機能は乙の前近代的な社会構造が変質しながらな
お現在的な意義を示していて興味深い。部落会費(寄留
も支払う)と従来本一戸居の共有していた家敷地の地代と
現在漁協が管理している地先磯場の管理料の一部とが事
務所経費に組みこまれ、この部落事務所は地方自治体の
代行機関的機能と同時に離島住民の大きい税外負担の解
決をいわば部落共同体的組織によって果そうとしている。
本戸居のもっていた古い共有地独占と入寄留の新興勢力
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と近代的な漁協組織と三者の妥協した産物という型態で
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1
I金 額 l%
勘定科目(収入)
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6%の支出を占め、またその収入では、従来本戸群の独占権のあっ
主として部落の水道維持が大きい事業であるが、部落の税外負担と思われ
(秋山時一:離島の経済構造一対局、佐賀部落の実態、経済季報No.
4(
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6
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)
)
7
.
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%を占めている。
た土地、地先からの収入カ )
にうも
ん戸が
この際注意すべきことは、乙の事務所の例も他の諸部落でも本戸川ω
独占する共有宅地料で部落の道路、橋梁の改修などが行われている例
の一つとして考えられるのであるが、その際本戸の共有山林からの収
益はか﹀る部落の公共的経費(受益者に分家、寄留告ふくむ)には使
用されず、また部落事務所の経費にも組み入れられていないことで、
結局現在の本一戸制の基本的な経済的基盤は山林の共有にあるといって
も過言ではないであろう。従って、共有山林の零細な大船越において
(共有山林二O町歩)さきにふれたように、本一戸株を放棄する新しい
世代が現われ、結局﹁残骸に等しい状態﹂を招来することになるわけ
である。
本一戸制度の成立した時期に関して例えば九学会の豆殴(対馬南端)
の報告によると、明治に入って独立した家をもち、かつ耕作に従事して
年宮治
三主主にの
九三入た
年」つめ
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の
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わ布も採
れこど農貝
主ぞ 512
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っこ治旧
た の三武
)戸九士
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従は一本
つ固九百
て定 O 姓
本し六 l
戸世)公
に袈年役
はさに人
落れぬと
いた農家(旧武士、本百姓、名子、被官をふくめて)は、その自給農業
数 (
o
2
頁)
(月川雅夫:佐須の農業2
小茂田部落は有力給人斉藤、一宮両家があり、両者で被官 9、
和忍明
名子 4 (分家)をもっていた(月 1
1
1:同上)。
でで慣
いあ行
るる的
( 且1
2に
計
及本の
わ=家藻
れ、、に漁、
の伝う業
調 2
2け権
査 Z
Eつ を
で 1
Eが も
は品れち
一芸て(
八?き藩
Vり 、 宗
留
戸
同ア
今日き
日いた
政期の農民のほかに旧士族(給人)、僧、名子、被官をもふくんでいるはずであるがその構成主体は給人と落政期の本
│
経営と経済
て 業 い 旧 社 会 階 層 と 現 在 ( 昭 和3
1年)の耕作規模(対馬厳原町小茂田)
株権つ
のをた
¥
5反未満¥ 5~1O 1 1O~151 計
形申│
を請に
族
4
1
2
士
取し与
ったえ
本百姓
5
1
7
2
1
0
て家ら
きがれ
被官、名子
5
1
3
8
て今て
白 MW
百姓である。一七OO(元政三乙年の新対馬島誌所蔵の本百蛇がよぴ美津島町神宮民所蔵八郷給人分限帖(一八二
仙川可
一一一ーー文政六年)による給人の数の合計と筆者が昭和三九年全島に亘って調査した本一戸数との闘にはかなりのひらきが
ある(明治に入って士族株の売買もあった)。当然被官、名子の少なかった部落ではかなり今日の数字と接近してい
る。要するに本戸とは落政期からの農業従事者(被官、名子をふくめて)であり、山林と地先、宅地との前期的な共
有権をもっ家系である。本戸制度の経済的基盤もそこにあった。
i
(
1
な
1I 2
3
民
2
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8
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その{(g
61 31
林
2
7
.
1
民
林
離島社会の後進性とその歴史的展開
加志│内院
1
瓜│内院!日一同比
2
1
0
│ 1
加志は純良部落、内院は良漁兼業部落、加志は昭和
3
6年、内院は昭和 3
9年の実態調査による。
留の職業は当然非農業部門に集中している。分家のばあいは土
本戸制度によって土地所有から全く排除されてきた分家や寄
寛文元年│一六六一年若手)に求められるであろう州市
同同叫
公領地を農民に﹁地分け﹂してその耕作権を認めた寛文検地(
みるべ、きであろう。そしてか﹀る本一戸のもつ特権の淵源は実は
残存する乙とによってしか資本主義社会に適応出来なかったと
できたもので、生産性のひくい閉鎖的な対馬農民は古い遺制を
入った明治以降にも実質的にこの封建造制的社会制度を存続し
期がこの頃であったとみるべきである。つまり資本主義社会に
の経済変動期に直面して制度的に確立する必要にせまられた時
家、入寄留の一戸数増大によって農家の慣行的特権を日露戦役後
の農民の特権が慣行的に明治に入ってもうけつがれ、それが分
さきの記述では本戸制度が確立されたのは明治三九(一九O六)年であるが、実はさきにもふれた通り藩政期から
対馬における社会グ J1.-~ プと職業関係(戸数)
経営と経済
的性格をもっている。
本戸の構成│①旧士族l給人
薩摩藩では藩の防衛拠点として在郷武士団の支配する﹁麓﹂集落が形成されてきた
従って現在のこれら社会グループの職業をみても、寄留は漁業、その他賃労働者が多く、分家は本一戸、寄留の中間
れているが、社会的には入寄留として取扱われている叩
かった。木戸株は大正の不況時ことに第一次大戦後に涜買され、豆酸の浅藻でも入寄留の漁民に本一戸株三O株が売ら
権は分家にも暗黙のうちに是認乱打ている。入寄留には全く例外がなく土地(宅地をふくめて)の所有が認められな
地分割について地域によって若干の差異があり、本戸と小作関係を結ぷばあいも多く、また豆酸の例では山林の入会
四
が、対馬の宗藩では各郷村に給人とよばれる武士団を配置して村落の防衛と支配との末端機構としてきた。中世から
1
7
0
0年(元禄 1
2
年) 1
)
1
8
1
1年(文化 8年) 2
1
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2
3年(文政 6年) 3
)
1
8
6
2
年(文久 2
年) 2
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3
)神宮光太郎氏所
2
) 同3
6
2
頁
2
5
4
3
6
1
4
0
3
7
6
5
1
) 新対馬島誌 3
8
4
3
8
7
頁の集計
蔵八郷給人分限帳集計
よび給人数はかなり増加し、元秘二一(一七OO) 年には七八村に給人二五四
権と山林の共有権が認められた)は減少していくが、在郷給人の地方知行地お
地頭領内の農民は明治に入って他の公領と同様に地券を交付されて耕地の所有
今日の美津島町の加志村などは幕藩体制の崩壊まで地頭領としてつい﹀き、その
下待の知行地(これを地頭領とよんだ。地頭領は寛文検地後次第に減少するが、
分属せし勺それぞれの村に地方知行地をもった給人が配置された。ほかに城
哨
り
宗藩は全島を上下二群に分ち、それぞれ四郷計八郷としそこに一一一ケ村を
きれてきた。
宗誌の支配の変らなかったのと、乙の島が国境的位置にあったことなどから、各郷村の在郷武士は寛文検地後も存続
対馬給人数
凡
例
対局の殆んど全部落 (
1
8
2
3年当時 1
1
1ヶ村中 9
1村)
に亘って、給人が配置されていた。特に北端と浅茅湾
沿岸の軍事上の要地には多い。
的VW
離島社会の後進性とその歴史的展開
一
五
対朝鮮貿易の隆替が対馬の藩経済を大きく左右してきたが、貿易の衰退は一方では新BD開発をおし進めるととも
つに対外的な軍事目的をもっている乙とは明かである。
て各村に配置さているが、浅茅湾沿岸、西海岸、北部に多く東海岸と峰村に少い。従ってこの給人の配置の目的の一
文政六年の八郷給人分限帳(加士山村神宮光太郎民所有﹀によって藩政後期の給人の島内分布をみると、大体平均し
人の減少したものはない。
人配置されていたのが、文政六(一八二一ニ)年には四O三人の給人が九一村に配置されている。各村 Cとをみても給
落政期における給人の分布
地頭領
3
0
.
1
6
.
3
6
.
6
給人領
1
7
.
1
2
1
.8
2
0
.
7
百姓地
1
1
.0
その他
1
9
.
7
一
8
.
1
一
7
.
3
5
8
頁)
然と文化 1
一六
に、また当然郷村の苛飼諒求となってあらわれる。農民の不平抑圧
に大きい役割を演じたのはこれら在郷の給人であった(対馬に農民
一授が殆んど記録されていない理由の一つであろう)。つまり給人
は村役人(奉役、下知役)として村落支配の末端機構をなし、農耕
7
司
(笠
4間0
8寸 3分 1J
l
I
T1
毛8
大
浦
(
河
(柏垣元吉:対応附ける奴蛇と被官)
九州文化史研究第 1
号一昭和 2
6年 /
にも従事していた。なかには被官を領主から拝領していた有力給人
4問 1尺 9寸 9分 1匝 1毛 8
もあり、かなり兵農未分離
藤
(
佐 設)
4問 2尺 0
9分 6匝 4毛 2
の中世的性格をもってい
が戦前まで残った口
の中核的存在としての地位を持続し、多くは本戸の総代となり今日の山林台
も)の私有を認められ、かっ旧士族として明治以降も本戸制度にあってもそ
1
) 有賀・永島:対馬封建制度の諸問題(対馬の自
帳をみても、その所有が﹁某々外O O名﹂とある某々は旧士族であるぱあい
護
FJ司E
佐
{訂U・
4同 3尺 2寸 1分 0
8
毛
弘
が極めて多い。つまり本戸制が今日もなお中世的ニュアンスをもっていると
斉
これら有力給人はかなりの被官をもっていた。
た。そして土地生産性のひ
これらの給人の家糸が知
くい対馬では労働地代型態
行地(耕地のみならず山林
人
経営と経済
4
6
5.
本戸を構成する主体は数においては給人より、寛文検地に
ホ
f
内)
6
3
.
8
%
旧本百姓
松
根)
7問 2尺 7寸 7分 4l
I
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(小茂田)
表
主
同
有
馬
2
2
.
1
きれる所以であろう。
②
力
対馬島誌 1
4
0
頁
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領
公
新対馬島誌3
6
9
頁
2
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3
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文
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主
要22)│(鼎52)│1j吉野龍)
I
の 所 領 分 配
藩
刀て
日
! 士 族 の
と標札
家
離島社会の後進性とその歴史的展開
現在殆んどみられなくなったが、
門と玄関(流れ家根)の寄付きと
こういった(長崎県士族某々)標札
いわれているものが、本百性と区別
されるものである。写真の家は比較
は以前相当あった由(厳原町樫根の
的粗末であるが、至るところに豪荘
士族屋敷)。
9
な旧武家屋敷が残っている(昭和 3
9年撮影)。
多く散見?る(昭和 3
ほかに琴地区に比較的
年撮影)。
佐須郷
阿連
三根郷
三根 (
4
6
)
(
4
D
久根
吉田 (
30
)
(
4
D
与良郷
鴨居瀬 (
3
2
)
豆股郷
豆殴 (
5
6
)
(
4
D
(新対応島誌3
8
4
3
8
7
頁)
佐賀
(
30)
大船越 (
2
9
)
よって公領地を﹁地分け﹂されて、その耕作権を与えられた
ナシ
公役人(本戸、農中すなわち本百姓)の家糸である。公役人
仁位郷
は単に耕地のみならず木庭の耕作権と山林の入会権が与えら
伊奈
れ、自給用の肥料採取地としての地先漁業権をも認められて
(
6
D
3
9
)
(
3
D 話
買 田 (
伊奈郷
志多賀
七
佐須奈
いたのが、明治に入っても在続してきた (公領はもちろん地
渓 (
5
2
)
頭領においても)。
佐護郷
ナシ
こうして本戸群はさきの給人群とともにこれら土地所有に
豊崎郷
関する経済的特権を基盤にして村落共同体的な組織を存続し
公役人3
0
戸以上部落 (
1
7
0
0年) ( )は実数
経営と経済
'円相
ω
さて、これら入寄留ばかりでなく、分家もまた耕地、山林の所有を認められやす(分家のばあいは本一戸根の分割相続
圏を三分する商業の中心地点として成長した。
二二商屈までが一九五O年以降に設立されたとしている。その結果茂木が指摘しているように今日では対応の小売商
側
一九五O年頃あぐりあみが毎年五・六O隻も入浴し、 約三000人に近い漁夫が部落にみち、 今日の二八商屈のうち
には入寄留が多く、 一九六O年のセンサスでは明治初期の戸数で四.五倍、 人口では五倍に達した。 秋山によれば、
には戸数一二九戸に達した。それとともに季節的来住者も少なくなかった。戦後のあぐり網全盛期(一九五O年頃)
A勾
D 治末年 Cろから瀬戸内漁民の佐賀を
(元政二己年と一戸数では大差がない(五一一戸、二 O八人うち公役人三O ) 明
的
戸
一
根拠地とした漁業が栄え、﹁漁船ノ出入木島中屈指ノ地ニシテ寄留者モ年ト共ニ増加﹂し、大正一三(一九二回)年
昨村の佐賀の例をみると、 一八八二(明治一五)年には戸数五三、人口二八一人で入寄留は二戸もなく、 一七0 0
もちろん木戸株をもっていない。
島町の東岸に藩政末期に芸州藩から移住した入寄留があるが、他はすべて明治以降の移住者である)が入寄留であり、
①分家・寄留本戸から分れ本一戸株をもたないものが分家であり、外来の移住者(主として藩政末期以降。美浮
村落の被官、名子の数の大小によるものと思われる。
の給人、公役人戸数と今日の本戸数との間には殆んもで変佑のないものもあるが大部分は現在の本戸数が多いのは、各
るが大体西海岸に多い。今日東海岸に入寄留が多く、当時の村落人口数と今日のそれとに全く相関々係はない。当時
O戸をかぞえ、同村の全戸数の%を占めている。ついで豆故郷であり、多くは二五戸以下で一 O戸台が最も普通であ
ない村はなかった。その数は大体一村戸数の約半数を占めている。その最も多い部落は佐須奈(今日の上県郡)で六
てきた。元総一二(一七OO) 年の記録をみると。 一一一ケ村で給人の配置されていないものはあっても公役人のい
J
¥
は地域によって若干差異はあるが、多くのばあい認められなかった)、家敷地も本戸から借地し、かつ地先漁業に参
的
加することも認められなかった。従って乙の両者は本戸からみると、分家のばあい土地共有に関して若干の地域的差
異はあっても大差がなく、分家寄留、入寄留として殆んどは同一視されている。た Y分家寄留は藩政期の名子的性格
ω
を長く残し零細農家が比較的多いのに対して入寄留は多く専業漁民或は商人としての移住者であったために、今日の
職業構成にも明確にそのことがあらわされており、しかも終戦時と今日とでも大差がない。
要するに本戸制は、極めて土地生産性のひくい対馬において藩政期からの農家が農家戸数の増加を防ぎ、独占的に
自給農業を維持するための一つの自営手段l すなわち適応型態であったといえよう。か、る共同体体制は必ずしも対
馬のみの特異な事象ではないが、その自給農業のために地先漁業権をも独占してきたことや、土地生産性が極めて劣
悪なために長く労働地代的型態が残存してきたことは多分に島興的であり、また対馬のムラは多くのばあい山村であ
り農村であると同時に漁村であるという特異な性格を乙の制度は強く示したものといえる。か旨る本一戸制の構造の形
成と在続に対馬の山島的地形が大きい役割を果してきたことは否定出来、ず、また中世から支配者の変らなかった乙の
島にあって本一戸制度の代表者として旧士族の家糸が長くその中核的地位を占めてきた点などに、極めて対馬的性格を
もつものといえよう。
当然本戸グループにおいては農漁林未分佑の傾向が強いが、更に主として離島振興法による公共投資から日雇い労
働の就業チャンスを与えられて農漁林.日雇いの未分佑傾向が指摘出来る。例えば筆者の悉皆調査を行った与良内院部
落はその典型的な例であった。最近本戸屈が小型漁船漁業に進出し、或は一屈われ漁民佑の傾向は強いが、なお周年労
働までは進んでいないのでこの未分佑傾向は存続するであろう。同一部落内に専業の漁家やその他の分業が進んでい
ることは否定しないが、それは、農漁、その他の分佑というよりは本戸中心の農業或は農漁林兼業のほかに分家や外
離島社会の後進性とその歴史的展開
九
専
兼
農
に
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ι
の
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戸
昭和 3
9年
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経営と経済
昭和 3
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農家総数
専業農家
5
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2
5
年はセンサス。 3
9年は各町村資料より)
(
2
5年、 3
3
5
年は 1
種兼農家の 2
程兼移動を、 3
9年は 2種兼良家の脱良化を示すも
のと考えられる。 2
程兼農家を多く分家、寄留と考えると、こ〉での未
分化状態を考えるのは無理と思われる。九学会の報告でも強調されてい
る対馬産業の未分化理論は木戸屑に限るべきであろう。
ル
加
は ζのことを示す一指標であろう。
│本戸)分家
1
5
0
万円以上
i
寄留│商 │
段 │
漁
5
一
I
I
I3
0
5
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万
2
I
I
22
0
3
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万
5
n
r2
0
万以下
6
計
4
6
5
2
1
0
2
8 I1
8
I8 I 9
2
│他
一
一
3
2
3
(秋山博一:前掲(長崎県経済季報No.
43
8
頁)
上回 6
戸中、民地所有 3
戸
(
3反未認め
j
庶民地 3
芦、漁船はすべ
てが所有し、商1
[
.
(
¥兼業で、あるが、上田中の下位は商業から漁業に
転換しつ〉ある(向上3
9
頁)。
二O
来の寄留者によって
附加されたもので、
資本主義的な内部椛
造の分佑ではない。
分家、寄留にしても
業て
形い
かなりの兼業形態は
ヨ
J
t
き
ζのばあい
らが
む進
しん
ろで
あるが、
る。。分
かイじ
は家族の構成員内に
態であるといった万
が妥当であろう。最
近の二種兼農家(分
家、寄留が主と思わ
れる)の急速な脱農
対馬は水産資源、山林資源および地下資源にめぐまれているが、耕
極農業の最底の自然条件にありながら自給農業に固執し、山林も木庭
佐賀の所得階居(昭和 3
8
年)
か、薪炭材の掠奪的生産にはじまり、めぐまれた海面を漁場としてきたのは主として外来入漁者か移住者であったた
めに、本戸制からも貨幣経済に直接せざるを得なかった分家、寄留ことに寄留と比較して本戸は経済的に次第に優位
a
(11
瀬 ( 吹 崎
調査│消1
業│兼業│漁船 調査│漁業│兼業│漁船
戸数 l
収入 i
収入 i
規模 戸数 i
収入│収入│規模
戸 l 千円│千円 1 トン│ 戸i千 円 │ 千 円 トン
鴨居瀬分家 7
戸はすべて専業、!氏崎は分家 4
戸専業。吹崎ではな
お、兼業(民菜)のウエイトが大きし '
0 昭和 3
6年 8月実態調査、
性をうば昨糾てきている乙とは否定出来ない。例収ば秋山によれば、佐賀では所得の第一階屈を占めるのは分家と寄
o
留であり、かつ寄留は両極に分解する傾向をみせ吋資本の法則が貫徹している
日
ことが指摘出来る。 ζれに対して本一円周は大部分中階層以下の所得である
か、﹀る商業機能のかなり進んだ佐賀の例を全島的に拡大することは危険である
(例えば与良内院の例ではむしろ本戸層の上位を指摘されるように農業部前に
おいてはそうであろう)が、このような所得構造が、また本一戸制の崩壊を早め
対馬の本一戸の分布を、各部落別にその全一戸数に対する
つ凶あることも否定出来ないであろう。
本戸制の地理的構造
本一円の比率でみると(昭和三九年現在)本一戸率四O%を超える部落は南北を通
品川同
して西側に集中している。更に詳細にみると、北部では東岸に二部落(北の富
浦、横浦)の例外があるのみで刊こ胤は、北部対馬の東海岸はイカ単作の寄留
を中心とした専業の漁船漁業地帯仁川 Vう事実と対応するものである。極めて複
分
佐多君ー3
7
年卒業ーの子をわずらわした)。
4
0
1 1
.
3
判
)
8
1 3
.
3
1
1吋
家
雑な椛造を示しているのは浅茅路沿岸であって、本一円率はO%から八五%にま
1
3
1 7
0
5
) 5
7
1 2
.
9
1 1
4
1 2
7
4
) 2
8
6
) 1
.
7
戸
本
及でんでいる。このことはまた浅茅湾沿岸自体の複雑な性格を一示し、戦前まで
喪主地治であった不毛の海域が、戦後若るしくその性格を変えてきたこととも
離島社会の後進性とその歴史的展開
嶋田 瀬(抽出)、吹崎(全数)潟、家収入と規模
経営と経済
照応していると思われる。
美津島町の東岸北部は寄留の開いた漁業地帯であり、特にイカ一本釣の中心地を形成し市南部は厳原町北部にわた
って分家、寄留、本一円のほ Y平均したタイ延縄一本釣が中心の農漁兼業地帯であるが、特に本一円の漁民佑が進み次第
(全町村の悉皆調査の資料から)は本声率を示す。
太い黒線より西側が本戸率4
0
%をこえる地域ー図中の数字
に第二種兼業佑への傾斜を大にしている。しかしなお鴨居瀬の抽出調査の例(昭和三六年)によると本戸群一三戸中
(部落別)
対局島の本戸率
A却
釣漁業のほかに地先の地曳細川をかねているもの一一一戸をかぞえたが分家漁家には一一戸もなかった。厳原町南部では南
端の二部落(豆酸内院、浅藻)を除いてはすべて本一円率四O %をこえている。
対馬の分水嶺が東部に偏しており、農耕地は西側に集中し、西海岸地帯は古くからの農業地帯であり(一七O O年
の公役人の分布が西側に多いことからもこのことは充分推定される)、今もほ Y同様のことが指摘されるととろに主
として農家である本一円の比率の高いことが説明される。同時に西海岸は漁業の入寄留も抄く﹁北岸から南下した対馬
西海岸部もワカメ、アワビなどの特産的磯漁場を除けば零細生産性の雑漁業地帯である﹂。厳原町南部に北島のよう
な東西両海岸に本一円率の差のないのは両地域において北部ほど対照的でないことを一部すものであろう。厳原町佐須川
流域から西岸にかけて本一戸率が低いのはそ乙に立地する東邦亜鉛の影響が大きい。
浅茅湾は長く要器地帯として漁業的に開発が拒否され、従ってその沿岸部落は従来農業部落であった。近年そのす
3
4
3
5
4
3
6
2
業荒業である。
6年 8月実態調査)
(昭和 3
ぐれた自然条件から真珠養殖場として、また一本釣延縄漁場として急速に閃かれるに至って、沿岸地域も大きく変貌
家
2
してきた。各部落の本一円率にはなはだしい格差がある理
3
3
由の一つと考えられる。北岸に寄留の開いた三部落があ
4
2
3
2
り、湾内の島山岳、町の西部は一部浅務湾に面しながら
4戸は専業、他は農
分家のうち
8
計
なお本一円の多いいわば西岸的な農業地域であるが、尾崎、
川
司
z
r
H
、
HHH
3
1
昭和
昼が浦、吹崎などはかなり性格を具にしている。戦前漁
有
史
家二百円にすぎなかった吹崎の如きは本一円、分家二二の農
家が昭和三一 i 三六年の問に釣漁業に転換している。尼
崎、昼が浦の漁業転換も主に戦後である。浅茅沈を漁船
離島社会の後進性とその.歴史的展開
│火崎における民林家の漁業転換
美津島町における社会産業構造の地域区分と漁協の地域構造
経営と経済
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(昭和 3
6年 8月実態調査の資料より)
1尾 崎 2西海(破線内) 3浅海 4賀 谷 5赤島 6芦 浦
7鴨居瀬 8
犬吠 9緒 方 1
0久須保 1
1大船越 1
2難知
1
3根緒の各漁協
二四
漁業からみると現在では漁業規模
も少さく、少くとも美津島町では
最も低生産地域で、なお農業への
依容は大きい。美津島町の漁協の
地域的組織をみると一三単協に分
れ、各単協は、その生産性と本戸、
寄留の比率とに関係があり、生産
性がひくく本一戸率の高い浅茅湾沿
岸は西海漁協としてまとまってい
るが、比較的生産性が高く、本一戸
率のひくい尾崎のみは独立した単
協を形成している。イカ単作地域
の東岸でも一 O の単協に分れてい
るのは入寄留、本一戸、分家の分布
のし万による所が大きいと忠われ
る
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美津島町各部落の人口増加を
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(昭和 3
6年 8月実態調査.間関君-37
年卒業生ーによ
二五
解体を早めつ﹀ある地域と考えられる。
ど本一戸の比率がひく﹀外部的要因から木一円制の
会増が少いとすると、人口増加率の高い地域ほ
にあり、自由主義段階の時期のように人口の社
みると、本一戸率と人口増加率とは逆の相関々係
る)
。④ 。
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離島社会の後進性とその歴史的展開
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5年間の 1年平均)との相閃
経営と経済二六
ところが本一戸率が高くしかも人口増加率の高い例外的な三部落(吹崎、昼が浦、箕形)があるが、右の考え方から
すれば本一円率が高くとも、そんな型態のま﹀で本一戸の内部構造そのものから解体を早めているとみられる。すなわち、
人口増加率と本一戸率との逆相関は同時に本戸率のひくい漁業地域は人口増加率が高く、本一戸率の高い農業地域は人口
増加率がひくいことを意味する。本来前近代的な地先をふくめた土地の共有関係を基盤とする本戸制は戦後の漁業制
度の改革によって、本一戸率のひくい漁業地域ほど外部的に寄留増加という条件からばかりでなく、本一戸の地先権独占
域│常傭│季節雇傭
(昭和 3
6年)
美津島町商工課
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大洋漁業
部
北村真珠
浪
本戸率の全島的分布似ら注意すべき第二の問題は今日の対応集
展に適応しっ、ある過程として把えられるロ
制的生産関係に組みこまれることを通して対馬の貨幣経済佑の進
商品生産的な漁民佑或は大洋漁業、北村真珠など大資本との資本
なの起りつ、あるとみるべきであろう。具体的には自給農から小
は、やはり古い対馬社会の内部的変質として把えるべき現象がか
資本主義的発展に伴う内部構造からの変質ではない﹂とみるより
漁分佑の結果というより非農業群が古い社会に附加されたもので、
指摘しているような﹁各部落の非農家の増加は古い対局部落の農
質と崩壊とを早めているものといえよう。従って九学会の調査が
農業の卓越する本戸の多い部落に比レて当然本戸制の内部的な変
民佑が或は非農業的職業への分佑が進んでいる地域は、自給的な
南
り
の喪失という内部条件から崩壊を早め、かったとえ本戸率が高くてもさきの三部落のように、本戸の自給農民からぬ
美津島町の真珠養殖業従事者数
落分布の原型は給人、本百姓(本戸、農中あるいは公役人)の分布からみて一七OO(元誠一二)年頃には既に完成
していたという事実であるロそれ以降藩政期にい叩ける郷村人口の自然増加はあっても外来移住者を迎えなかった対局
では藩政期の集落分布に大きい変動はなかった。そして、さきにふれたように明治以降移住者を迎え特に東海岸と浅
茅湾に大きい変佑が起った。比田勝ついで佐賀は漁業基地から商業地としても成長し、厳原は特に昭和戦前に木土の
.出先機能をもつに至ったことはさきにもふれた。西海岸では対州鉱業所の立地する小茂田附近にかなりの変佑がおこ
っている。しかし多くの部落において新しい移住者を迎えても、同一部落内においても古くからの本戸部落から﹁棲
ミ分ケ﹂た孤立的な寄留集落が形成されている例が極めて多い。これら孤立した漁業部落はまた商人資本の寄生のよ
き基盤でもあった。かくして今日の対馬集落は、いわば自給時代の遺跡的農村と、仲買資本に支配された孤立的な寄
留漁村との前期的分布を強く示している。か、る前期的な集落の分布状態にあっては対馬の﹁山島的地形﹂はその交
通と生産との近代佑を阻害し、またこの前期的な社会構造を温在する役割を演じてきたことは否定出来ない。
本戸制の崩壊資本主義社会にあって前期的な自給農社会を閉鎖的に維持しようとして取られた本戸制は、対応が
戦後貨幣経済体制に組み入れられるに至って当然崩壊すべき運命をもつはずである。そして、単に非本戸的要素の増
大(分家、寄留の増加)という外部的要因からばかりでなく、本戸自体の内部構造の変質、崩壊を伴ってきていた。
きて、本戸制の成立の根拠は土地の共有にあったから、その分解過程を追求してみる。本戸の独占した土地所有権
の分解は入寄留の多い佐賀の部落では﹁まず宅地であり、 ついで地先権である﹂が山林はかなりおそくまで分解が進
二七
まず、共有型態が多く残存している。佐賀の例でも拍出農家(全戸数六O戸中二三戸拍出)のうち寄留の山林所有は
W同じく峰村の下里には二六戸中寄留の山林所有は全くな句、与良内院の例でも山林は
一戸で他はすべて本戸にあり
離島社会の後退性とその歴史的展開
経営と経済
二八
本戸の独占であり、しかも共有制が強く在続していて、一般的に山林の所有分解は少い。戦後の漁業改革(昭和二六
年)、および最近の法改正(昭和三六年)によって地先権の独占が制度的に本戸北ノ失われてきたので、結局今日本
5
戸制を支える決定的な経済条件は共有山林の本戸による独占的所有にあるといえる口従って共有山林の零細な地域で
は本戸の特権は殆んどなく、若い世代に入って本戸株の放棄を主張するものが出現している。
急速に寄留の増加した佐賀の例では昭和三(一九二八)年形式的に本戸の地先権は漁業組合に委譲されたが、実質
的には全く本戸の独占であった。佐賀に移住して、今日大規模な網漁業を行っている A氏は昭和一 O (一九三五)年
に地曳網、定置網漁業に進出するに際して九人の共同経営者のうちに地先権を独占する本戸六戸を加えねばならなか
ったし、今日 A氏が合併した他の小型定置も当初出資者以外の共同経営者をすべて本戸としていたがのである。
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戦後の漁業制度の改正によってこの地先権は漁協に委譲されたが、なお実質的には本戸群の﹁七草﹂採取の特権が強
く残寄し、との磯採貝藻業に関して本戸は寄留の約二倍の収入があつらこれが昭和三六年の法改正によって好磯漁
場を独占した本戸の支配権は根底からくずれざるを得ないはずである。こうした機漁業権の変.選を背景にもって、さ
きの A氏の定置網漁は大型化するとともに別のさきにふれた小型定置をも買収し完全に共同経営者から本戸を排除し
た。まさに﹁A氏の本戸層との共同経営をやめたプロセスは本戸の地先支配の喪失過程でもある﹂。さきにあげた所
得上階層群はこれら寄留の漁業をかねた商家であった。しかし漁業制度の改革はまた既特権の喪失に対応する木戸屑
の一一胞の漁民佑を進める契機でもあった。すなわち本戸が従来の自給農業を維持しなが ヤ
一方ではか、る兼業佑に
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よって適応してきたのである。木戸群に主って支えられてきた自給農体制は戦後独占段階に入ってその内部椛造自体
から崩壊してきた。今や対馬農家は一 00%がいわゆる兼業型態を取るに至っている。か、る型態は、第一決大戦後
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(昭和 3
9年悉皆調査)
の独占段階における商人資本による対馬山林に小商品生産的な木
炭生産が進められたのとは全く異質的な自己変質といわなければ
ならない。しかも、離島振興法による公共事業、山林労務、やと
われ漁民などによる賃金との対比が賃金採算の無視されがちな白
給農の存続自体に反省をせまっている。.
次に本戸制の経済基盤をなす山林の利用とその所有の分解に言
及しよう。対馬の山林が藩政期から木庭耕地或は自給農の採草源
仰
或は薪炭材の生産地として利用されてきたことはさきにもふれた
が、明治に入って木内が指摘したような例はあるが、大体藩政期
からの利用型態がつづき、戦前の独占段階に入ってようやく木炭
離島社会の後進性とその歴史的展開ニ九
0
ちれ、島民が土地と労働力とを、大資本が技術、資本を提供するものである。たにし収穫時の利益配分については植
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設と旅行して信托造林(公社のみ)、分収造林様式を取って進められてきた。これは一種 フランテ i ション方式とみ
が行われるに至った。すなわち公社造林(長崎県対馬林業公社)、会社造林、県行造林が離島振興法による林道の閃
林が進められるようになり、農民的な自主植林(苗木代の補助がある)と平行して島外資本による資本主義的な開発
ブl ムと結合して進められた。雑木材の枯渇につれて従来伐採あとに行われた木庭作に変って個人有林、共有林に植
野に'
M外資本が流入してきた。その上全島にわたる松喰虫の繁殖で松材の濫伐が都市産業の復興に伴った坑木、木材
戦後技術の進歩によって雑木材がパルプ資源佑するようになってパルプブ l ムが到来し、蓄積石数の少い対馬の林
生産地佑してき、何れにせよ掠奪的生産に終始し、その蓄積石数は極めて低位であっ向。
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6民家(木戸)日匝兼業
経営と経済
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民地のプランテ l ション方式と若干異っている。それらのうときにつれて、自給的な木庭耕地は殆んど対馬にみられ
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(昭和 3
9年県林務課資料)
(階層別戸数と面積の分布)
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若干の移動はあるが藩政期の身分関係が基本的に決定しているといえ、模式的に左のよ
念が強く生れてきた。対馬の今日の山林所有型態は閉鎖的な本戸制度の規制も加わって
こうした山林の農民的或は資本主義的開発が進められるにつれて山林の個人所有の観
ってきた。
て山林労務、薪炭材、木炭、木材生産の場として、海面とともに主要な現金収入源とな
なくなった。従来商人資本の手による木炭生産も次第に農民的生産に変ってきた。かくして対馬の林野は農民に取っ
.過去 5カ年同事業休別造林而積(対応) h
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うに表示されるであろう。民有林でいえば本戸共有の農民的所有型態が最も普遍的であるが、名目上共有林野でも実
質的には個人所有を慣行的にみとめられた個々の本戸の個人分割が進んでいる。例えば、美津島町の加志部落では山
4
品
林ム口一叫によると大部分の山林が木戸による件数六七の共有林として登記されているが、実質的には個人分割が進み、
名(台帖面﹀実(慣行的分割所有)ともに共有林としての性格をもつものはわづか一件五O町歩(一九六O年センサ
国有林には地租によるか乙いこみがほかにあ
註)
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林
社寺有林
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有
林
公領(良民入会林)の一部
民有(共有)林
公領の大部分
民有(個人〉有林
給人の知行地
る。社寺有林は明治当初部落からの寄贈がある。
離島社会の後進性とその歴史的展開
現
落直営林
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民有(共有)林の個人有林への移動があるが、
主義的所有が出はじめに。
多く良民間の移動である。戦後北部対応に資本
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日記い収入はあげられていないが、対
応農家の特質は明かである。民収入は
殆んど自給。
まっている。
記転換を要求する傾向が強
名実ともに個人有林への登
林も進められるに至っては
問題があり、 一方農民的造
契約造林は民法上かなりの
おいて分収林、信托林等の
か﹀る山林の所有型態に
残されている傾向が大きい。
に名実ともに共有林として
進んでいる。また一般に共有林の分割は里山に進み奥地山林
ずか一四%強である。北対馬ほど名実ともに共有林の分割が
私有林野の四七%に及んでいるが一九六O年センサスではわ
スの数字では五・二町歩) にすぎない。 また名目上共有林の最も多く残在している厳原町では共有林は台帳面積上全
対応山林の所千iß~r~
4
3
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5
営
2程
対局農家の著るしい特色で、北松群島、
日雇い、林業、漁業兼業の多いのは、
五島列島、壱岐と比較しても、乙の数
兼農家の脱農が(分家、寄留が多いと
思われる)顕著なことも他の諸島に比
本戸制存立の前提であり、またそのためにこの制度
が存続してきた自給農自体が崩壊を進め、かっ本戸制
を支える土地所有の分解の進展は当然本戸制そのもの
の根底からの崩壊が急速度で進められていることは否
定出来ないところであろう。
(昭和三O年)所処論文のほかに、例えば伊東多三郎日対馬藩の研究(歴史学研究九六・
字は極めて高い。それとともに、
経営と経済
佑
9
.
6
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1
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九学会日﹁対局の自然と文佑﹂
(
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をみない。
1
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一一)、宮本又次日対馬藩村落の身分構成(経済学研究一六・一一)、同氏日対馬藩の土地制度と貢租(同前一六・三)
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噌
長
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。
戸
中村正文日対馬村落の社会組織に関する一一、三の問題(対馬の自然と文佑、ニ O 二一氏)
大島譲一一日対局大船越の地誌l離島専業漁村の社会地理学的研究(関西学院史学第九、一 O合併号、昭和四二年)
いを拒否したが、結局支払っている。
凶一九六七年当初に起った事件で、部落に死者があった時に出漁したものは罰金を探せられる。入寄留者の一人がその支払
ω
研究は、その概説を基礎として説明した・ものである。
凶筆者はかつて﹁対馬の開発と日本資本主義(一九六五!対馬の経済と社会)﹂において地理学的立場から概説した。乙の
註
対応農家の兼業
刷本戸という言葉は今日使っているのとかなり異って、藩政期では本百姓のみをきしていた(宮本又次日前掲)。今日では、
本戸株をもったすべての家で、藩政期の給人、本百姓のほかに被官、名子の家もふくんでいることになる。しかし、岡田ら
υ
は﹁本戸なる時称は藩政期にはもちろん、明治初期にもなかった﹂ (岡田謙ほか五氏 鴨居瀬及び周辺地域の村落組織!対
馬の自然と文化、四九四頁)としている。
間秋山博一日離島漁村の構造工、漁業(長崎県経済研究所四号i 一九六三年)によると、佐賀の本戸届三三人共有の山林ニ
υ
(市川信愛 離島漁村の構造E、農業)
佐賀の例では明治初年に広島から移住し漁業で蓄財、土地を購入している二戸の寄留の山林所有(七 O町歩)の例がある。
いたが、のち韓国人に三カ年百万円で採藻権を売却している。
なお、秋山博一日前掲論文によると、佐賀において本戸の独占する地先漁場に、入漁料を取って入寄留の入漁権を認めて
O町歩の売買は本戸に限られ、反当り三、 000円(昭和二二年)であった。
。
。
川開戦後の漁業制度改革によって地先漁業経の本戸独占体制がくずれ去り、磯のアワピ、サマエの採取権は分家、寄留をとわ
ず漁協員はすべて平等であるが﹁七草﹂(ワカメ、テングサなど)の採取権は漁場に対する本戸の特権を認め、寄留(この
しかし、昭和三六年の法改正によって七草について良漁場を独占し得た本戸の支町体制は根底からくずれきろうとしてい
ばあい分家は本戸のなかにふくまれている)との収獲比は二日一の比である(秋山博一日前掲論文)。
る。また厳原久田の例では、解禁日の当初数日は、まず本戸が独占的に七草を採取し、あとを分家、寄留の入漁を認めてい
秋山博一日前掲論文
る(久田、一寄留者からの聴取り)。
U
.
刊
HU
1・・ 野木稔郎日離島の民業(経済論議九七ノ一!昭和凶一年京大経済学会)において、対馬は土地空産性および労働生産性に
劣り、ことに土地生産性においては﹁対応は北海道を除いて岩手県北部地帯とともに最低であり﹂、また労働生産性でも県
4E E
-EE-品
(
離島社会の後進性とその歴史的展開
経営と経済
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対州鉱業所資料(昭和四O年)
υ
拙稿一対馬林業に関する若干の問題(対馬総合学術調査報告書 11一九六二年)
いる。
e
υ 対馬の産業!日本産業史大系!九州地方編において貌志倭人伝時代の貿易の目的は米を買うことにあったとして
竹田E
上の自然条件の劣悪さを強調している。
下離島の最低であることを指摘している。更に同氏 対馬農林業の問題(対馬の経済と社会l九八l 一O O頁)に耕種農業
四
υ
新対馬島誌!三八四1三八七頁にわたって、元禄二一年幕府に提出された郷村帳によって当時の郷村人口、給人、公役人
表している。
昭和三九年に全島に亘って各役場に依頼して調査を行った。その結果はさきにあげた﹁対馬の開発と日本資本主義﹂に発
鈴木誠ほか七氏日同右
なくなったとある。
用、道路修理その他公共の支出、負担金などに当てられ、戦後に及んで借地人(浅藻の寄留)との争いがあり、地代が入ら
鈴木誠ほか七氏二旦酸(対馬の自然と文佑l 三九一頁)によると、浅藻の共有宅地料は主として、戦前は区費、氏神の費
υ
拙稿 離島における人口問題とその特質(対馬の経済と社会)
振興法事業﹀と異って地元負担は七一%に及んでいる(都野尚典 対馬の財政と金融l対馬の経済と社会)。
日文教施設建設費のみで対馬の全建設事業費(災害復旧を除く)の三七・六%を占め、他の産業基盤建設費(主として離島
間川崎の調査は、対馬の学校教育を効果あらしめるための方策の探究から始まったものである。
回川崎宏一対馬における教育の問題点(対馬の経済と社会)
13
)
(
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1
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目
(本百姓のこと﹀などを表示している。
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1
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+3
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位
須
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佐
良
旦
酸
+3
1
1
4
昭和三六年に美津島町加志の神宮光太郎氏(旧給人の家
月川雅夫日佐須の農業(三二1三三頁)によると、本百
系)所蔵の八郷給人分限帳をみる機会を得た。
ω
もちろん最近急速な変化が起り、乙とに浅茅湾沿岸の諸
時期でもあった(対馬の自然と文佑l 一五01一五一頁)。
によると、 ζの検地はまた蒔高制から問高制に移期でした
有賀喜左衛門・永島福太郎日﹁対馬封建制度の諸問題﹂
姓三一戸、名子二戸が士族株をかっている。
ω
倒
土O
艮
キ
一
一
通であろう。
或は分家)の漁業兼業佑、賃労働者化という型態が最も普
部落には変動が強いが、その変佑も一般的には農民(本戸
倒
+
1
崎
のがあり、例えば一八一一(文化八八年)年の給人、三六
被官を拝領していた。給人のなかには知行地をもたないも
一宮・相谷、河内の大浦、樫滝の小宮などがあり、何れも
賀の阿比留、三根の松村、佐護の佐護、豊の州河、樫根の
ー一六二頁)。有力給人では高四間以上に小茂田の斉藤、志
た乙とである(永島・有賀日前掲論文l対馬の自然と文化
成を藩主に上納することなく一定の勤役をなす義務があっ
給人に上下の階層があるが、共通点は自己の知行地の物
e
司
土O
1
6
9
1
6
1
0
2
1
2
8
1
1
3
7
6
人
4
3
5
6
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人
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3
盟
1
7
8
1
6
1
0
1
8
3
0
9
3
躍Z
E
│
の村数
村数|伶~l 給人数治信|給人数
名
1
9
2
4
年
郷
離島社会の後進性とその歴史的展開
五
八郷給人分布ー(村数、給人数)
(
1
) 新対馬島誌による。
(
2
) 加志、神宮先太郎氏所有八郷給人分限帳による。
宝府1
2
年
安 永 7年
文化 1
4
年
<
.
.
/、
天保 1
0年
天保 1
4
年
文久 3年
1
7
7
8年
1
8
1
7
年
1
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3
9年
1
8
4
3
年
1
8
6
3年
貞享 5
年
享保 1
8年
宝暦 2年
7
.
8
.
9
.
1
0
.
1
1
.
元 職1
5年
享保 4年
4lnLqua斗 FDFO
1
6
8
8
年
1
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2
年
1
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9年
1
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3
3年
1
7
5
2
年
1
7
6
2
年
経営と経済
写真の 2
枚は最初のものと最後のものである。
給 人 数 は 藩 政 期 に か な り 増 加 す る が 、 義 智 時 代 三 六l 一七世紀初頭)までの給人は旧家、享保(一八世紀初頭)頃まで
一人中六七人は無知行であった(新対馬島誌三六二頁)。
岡村誠一氏、神宮禿男氏、井浩氏所蔵のものを
年代を追ってみると次の如くなる。
加志
(
1
8
6
3年のもの)
加 志 神宮秀男氏所蔵
見した。加志村の郷人分限帳(文政六年のもの)には七人の給人が示され、その家系の現在の当主まで明かにすることが出
れが昭和三六年、美津島町の調査を行った時、見る機会を得た最古のものは一六八八年(貞享五年)で、安堵状を一一枚発
を中家、以降を新家とよんだ。知行地をもっていた給人は坪付帳にあらわれ、それぞれ所領安堵状を拝領している。われわ
l
e
l
8
当主名
1閲 1尺 6寸 1分 9匝
3尺 3寸
5匝 3毛 4
3尺 3寸 2分
神宮光太郎 ( 1
; )
井 浩 ( 1; )
岡村
清(新)
1尺 2寸 9分 5匝 8毛 4
1尺 2寸 7分 7匝
岡村幸弘(旧)
増田笠己(中)
1問 1尺 3寸 6分 9匝
対馬島誌九O七頁
知行地
離島社会の後進性とその歴史的展開
中村正夫日前掲論文
来る。
例えば森克己一中世未、近世初頭における対馬宗氏の朝鮮貿易、および宮本又
次一対馬藩の商業と生産万(共に九州文化史研究所紀要第一号!昭和二六年)に
υ
l対 馬
離島における人口問題とその特質
おいても充分うかい﹀われ、また筆者も対馬の人口の変遷を朝鮮貿易を無視しては
者えられないことを述べている(拙稿
新対馬島誌三六三頁。
の経済と社会l 一九六五年)。
小茂田の四二戸中本戸は、旧士族一二、本戸一七、被官名子二三戸からなって
一
七O O年の公役人数(二O) 、
いる。その旧士族中、本百姓三、旧名子二(士族株を購入)がふくまれているか
ら、藩政期の給人本百姓の合計は二七戸である。
一八二三年の給人数(四)との合計は二四戸でほY近い数字になる。なお給人二
戸(斉藤・一宮)はそれぞれ被官四、五かまをもっていたが、他は被官はなかっ
た(月川雅夫二別掲三二頁)。
上県郡役所差出者﹁庶務課史誌控事務符﹂ (明治一五年)
峰村郷土誌
茂木六郎 υ対局の商業と交通(対馬の経済と社会所処)
秋山博一日前掲論文
(
3
0
)
。
(
3
3
) (3~
岡村誠一(旧給人)
神宮秀男 ( 1
; )
1問 3尺 7寸 4分 4匝
(
2
9
)
D
七
加志村旧士族(昭和 3
6年現在)
(
3
4
)
。
万 (
お
) 制
経営と経済
三八
木一戸は急速に変ってきているが、分家、寄留の職業構成は、九学会の調査当時のそれと今日とではそれほど大きい差がない。
7
7
分家
(
戸
5)
のみ
地曳網
市川信愛日前掲論文
例えば佐賀の高所得者六一戸(すべて商家、分家一、寄留五)はすべて漁船漁業をか
昭和三六年八月実態調査の結果。悶和三七年卒業空佐多直目君がその資料を整理した。
をイカ一本釣地帯としている。
ω、青塚繁志日対馬漁業経済の分析(対馬の経済と社会l 一六七頁)において東岸北部
になる。
浦でも、もし、寄留部落として本部落から棲み分けた塩浜をふくめると本戸率一三%
冨浦は戸数わずか一二戸の部落で、うち一一一戸までが本戸で、寄留は全くない。横
ね、うち三戸は三反未満の農耕地を経営している。
。
。
。。
(
4
?
)
る。浅藻には大正年間、寄留による本戸株購入があったが、社会的に本一戸とみなされ
!三九二頁)ためであり、同時に農民の漁民佑も早くから進んできていると考えられ
漸次本村から本戸が浜町に移住してきた﹂(鈴木ほか七氏二旦酸l対馬の自然と文佑
附近のように寄留の﹁棲み分﹂がみられ、以前は﹁浜町に寄留が圧倒的に多かったが、
い本一戸群の農業地帯であるが、また入寄留の多い漁村でもある。かつてこ、は浅茅湾
浅議、豆醍内院および豆殴はプリ一本釣、延縄および定置網地帯である。豆酸は古
44
)
(
4
日(
戸
(
2)
戸
(
1
円
1
)
l
1
1
(
戸
3) (2)
(
1
3
円)
本戸
│商 │
役
職
釣延縄
兼
釣延縄
農
業
極めて疑問がある。
(昭和 3
6年 8月実施レた実態調査による)
造E、農業)はか﹀る未分化論を否定しているが、佐賀のような商業機能の発達した地域の例を全島に拡大して考えるのは
拙稿日離島における人口問題とその特質(対馬の経済と社会)なお、秋山(前掲論文)、市川(市川信愛 υ離島漁村の構
司
(
側
(
2
0
戸)昭和 3
6年
鴨居瀬抽出調査
2
6
1
3
nU
計
・nL
noA
ペ
漁業
その他世帯
計
離島社会の後進性とその歴史的展開
﹁本一戸の多い農
たYし美津島町に関しては阻和三六年に筆者がゼミナール学主五名と実態調査
その結果は本戸制が強固に残↑任している部落の数字はかなり信頼出来ると思う。
昭和三九l 四O年にわたって各町村に依頼して各々部落別に調査して貰った。
あった。
男は財産分与の代りにそれに相当する学校教育をャつけているのが一般的傾向で
なお賢形西方の本戸制の強固に残在している加志の聴取りでは本戸の一一、一二
いという話である。
具体的にみると、資形湾内の大洋漁業K Kの経営する真珠養殖業労務者が多
本戸制の崩壊より、本戸自身の内部的崩壊を進めているものと考えられよう。
分化が進められるとともに、分家・寄留の増加という外部的条件の附加からの
.のと考えられ、本文でふれたような未分化的な状態から家族内における職業の
一七をかぞえる。この両者の差異は、農家の次の世代の新しいうときを示すも
林センサスでは農家世帯二O戸中の労務者のいる九戸をふくめて、労務者世帯
では全二六戸中労務者戸数二戸(寄留のみ)と教えられたが、昭和三五年の農
業地域﹂である築形については次のように考えられる。昭和三六年の聴取調査
ミカタ
昼が浦、吹崎については本文の説明で了解されると思うが、
青塚繁志二別掲(対馬の経済と社会l 一七一頁)
ていない乙とはさきにふれた。
(
4
6
)
に当った。
九
8
9
(
l
司
加)
'
2
労務者世帯
(実態調査を分類したもの)
(
1
9
6
0年農林セシサス)
2
農業
非農林兼従事
者もいる
5
2
3
労務者
5
5
良林業のみ
1
3
計
│本戸│分家│寄留│
2
0
戸
1
1
農家世帯
紫形の産業構成(戸)昭和 3
6年
奨形世帯数
四
しかし、対馬島誌(二八四頁)によると、本格
八O四1 一八一四)芸藩との婚姻関係が庄じて同藩から移住者を迎えた唯一の
美津島町の赤島は議政末期(文化年間l 一
経営と経済
O
移住した例もある。ほか例えば、横浦(峰村)に対する塩浜、嵯峨(豊玉村)に対する東加藤、西加藤、唐州(豊玉村﹀に
にも本戸、寄留部落が地図に示されている。一旦殴の例では、さきにふれたように本来寄留部落であった浜町に次第に本一戸が
落と半島を一つへだてた舟志湾岸に家をかまえ﹂、また岡田ほか五氏の﹁鴨居瀬及び周辺地域の村落組織﹂(同書四九三頁)
堆外四氏の﹁廻、唐舟志、津和原調査報告(対局の自然と文佑l五九頁)に﹁外来漁民ばかりからなる寄留は現在は本戸集
美津島町東岸にある弧島赤島の如きはその典型的な例である。か﹀るすみ分けた例は極めて多く指摘され、例えば織田武
的移住は明治に入ってからで、﹁明治一 O年(一八七七)遂に一部落をなすに至れり﹂とある。
例外である(宮本常一一対馬の漁業展開l対馬の自然と文佑│一一一一四頁)。
(
4
9
)
(
5
0
)
(闘がの部落
匹四本戸と寄留の部落
巨ヨ寄留の部落
自ム団
のの集い
馬一が多
対同家は
﹁成の例
作外る
﹂てみ
化つ棲
文あ﹁
とこに
然一ブ的
門ベu b j J
ib
ョ
n 、
4
もわ
り以い
よ一戸て
頁本﹂
対する加志々などその例である(拙稿日対馬の開発と日本資本主義l対馬の経済と社会l三五頁)。
隠居瀬の本戸部落ミ寄留部落
栴井清 υ離島山村の農業・林業(同右)によると、下里部落の共有林はすべて本戸の共有であり、また私有林は分家、寄
拙稿一離島人口(再出)によると、与良内院部落の山林は台帳上殆んど本戸の共有である。
留各一件あるが何れも一町歩未満である。
(
5
)
1
戦後漁業制度改革が行われ、本戸の独占していた地先漁業経も漁協管理にうつされた。更に昭和三六年の法改正によって、
拙稿 υ対馬林業に関する若干の問題(対馬総合学術調査報告書l 一九六二年)
浅謀、佐賀の例でも共有山林の収入は寄留、分家をふくんだ部落全体の公共賀には組み入れられていない。これはあくま
残り、ま七禁解日からの最初三l 六日間はまず木戸の優先的漁業権行使が認められている厳原の例もある。
古い部落体制の崩壊をせまられてきた。しかし、佐賀のように実質的には﹁七草﹂については、なお本一戸群の好漁場優先が
きた地先漁場から若るしく後退するとともに、更に漁業松行使の主体を従来の部落別から業種別に改められることによって
漁協貝の制限が加えられたために、民主漁従の兼業型態の多い本戸居は、戦後の漁業制度改革後も慣行的に特権を行使して
phju
A 山可
ω (52)
頁
)
。
離島社会の後進性とその歴史的展開
四
元禄年間に山林の荒廃を防ぐために木陸作を廃止して段畑を奨励したが実践をあげるに至らなかった(対馬島誌l 二四六
うになったことをあげている。
木内信蔵一対馬人口のエコロジー(対馬の自然と文化)に、戦前独占段階日入って北対馬における木材生産がみられるよ
薪炭材、木炭の空産と販売)、日臣、その他賃労働などである。対馬は農漁林日雇いの島と模式的によく表現される。
家六五戸中三戸にすぎない(市川信愛ぃ前掲論文)。乙の例は大体全島的傾向とみてよい。現金収入は漁業、林業労務(或は
その程類も極めて多い。例えば商業地佐賀においても部落の民家では、その主作物はいも、麦、米であり、販売農家も全農.
対応の耕地率は極めてひく﹀(四%)、しかも水田は全耕地の二五%にすぎないが、全く自給農の食用作物が多く、かっ
でも本戸の特権である。
M
側
6
司
側
経営と経済
対局における林道開設は離島振興法による極めて重要な公共投資で、長崎県林道開設への投資は対馬に集中しているとと
四
収獲時に一切の必要経費を差しひいて全額を山林所有者に与えられるのが信托方式で県公社造林が乙の方式を取っている。
は既に述べた。
C
:
;
¥
J
)
現在の山林所有を簡単に結論する乙とは出来ないが、対馬島誌の記述によると藩政期における所有関係が今日の山林所有
υ
大正年間、山林に製炭その他の価値が認識されて昭和八年本一戸共有の四四O町歩のうち五O町歩を残して他はすべて本一戸
国有林は維新当時の藩直営の二五町の神山、御山等を合わせて一 O O町歩となる。
適、不適地によってかなり広狭に差があった。明治年間残り五二 O町歩中七五町歩が地租によって国有林にかこい乙まれた。
をふくめて)の共有林となった。明治年問、そのうち八O町歩は木庭耕地として本戸間にくぢぴきで分割された。木庭作の
地頭領六O O町歩と給人知行地(二六町歩)地があり、給人知行地は個人有林となった。地頭領の六O O町歩は農民︿給人
問和三六年八月に行った美津島町加士山部落の山林所有の推移をみると(昭和三七年卒業生湯藤君が詳細な調査を行った)、
業調査報告l昭和三五年)。
同じく R家は二五・八町歩の山林地主であるが同様に藩政期からの知行地をついだものである(九大林政学教室 対馬林
みると、例えば峰村の M家は台帳八九・九町歩の山林地主であるが、三根郷の給人の家で五戸の被官をもっていた。
基本財産となったものが公有林である。うち個人有林は給人の知行地が多く、本百姓の山林は共有林となった。前者の例を
社寺有、公有、民有林があり、民有林は維新当時藩から公領として地分けされたもの、そのうち一部が町村あるいは学校の
の基本になっている。すなわち国有林は藩政期の宗落直営山林(ほかに地租によってかこいとまれた民有林)である。他に
ω
になる可能性がある。.
そこで、六O %のうちから出資者が一切の必要経費を支出する。前者においてはもし利益がなければ山林所有者の所得は0
分収造林は県行造林、会社造林の取っている方式で収獲の六O %を出資者に、・四O %を山林所有者に分配される方式である。
側
倒
間に均等に分割された。しかし、台帳上は共有のま、である。乙の分割の際部落各区に散在する共有林をそれぞれ均等分割
悩附耐
↑菌﹀ゆ珪
一ω∞品司
(面ぎ∞布)
制羽田E
.甘口掛鵠誠S E葬当世隠瀦作市S
(酒器刊呂)
二宮﹀め控∞口一
一↑弓一
刊日前(面切口 ω
∞刊)
←却枇(洪説)葉(印 O弓)
﹀
(お耳)
←沼地(菌﹀ボ)葉(おDE
←洋品説
(
O
D
E
-
,)
したために個人有林(台帳上は共有﹀は非常に細分化された。社寺有は部落の寄贈のもので、事実上神社名義の部溶有林で
ある。
耕持活
温芯出世芭
∞司)←菌﹀説
(M
一↑二弓羽湿
L
l
h
t
法問問郵 (
8
0弓)←沼田淋説
診﹀郵
( M司 ) ← 洋 品 説
↑吋印有(昼間すn
FJnv)
↓
洋品出回
関同球部(凶司)←国
困
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d油田5日淋枇雰昇印O弓明(砂競﹂い印耳鳴)8hvdhヴ
ペF
時一雨﹂い菌﹀葉一件呑一 ODEHNwddBS主D
E.NWE淋訓詳R 白‘υ
J がH
vsd 恥 V N V (叫酎同認、苅 d百世ω∞刊∞泊)。
が
。 ns附昇州国昆温罰的見V P S謡史守中務ゆ﹁汁4
L
l
h
t
一九六O年の農林センサスでは、台帳上共有でも実質的に個人分割が行なわているばあいは個人有林になっている。また
V
対馬のぱあい、台帳と実際の面積とでは約五i 一
O倍の開きがあるといわれている。
制
八
註
離島社会の後進性とその歴史的展開
四
単位の行政(区政治となっている)が中心になり、各部落が部落有財産(主として山林・磯場)を所有し、しかも対馬にみ
数部落で一行政単位の形成されている上倒村(人口五、 000人)、下問村・(人口六、五O O人)などでは今日なお部蕗
000人である。
の名残りで、里村の如きは上甑村に属していた一部落﹁里﹂の独立したもので一部落で一行政単位を形成し、人口わずか三、
鹿児島県甑島列島も古くからの部落体制が存続し、現在人口約二万人足らずの乙の列島が四つの町村に分れているのもそ
追
経営と経済
h
共同体生活に参加しその利益を つける権利を等しく与えられている。区の財政基盤は部落有財産からの収入であり、例えば、
乙の部落共同体はしかし対馬の如く強い閉鎖社会ではなく、村外からの移住者(対馬の寄留にあたる)や分家にも、このー
で植林を行っている(上筒村長談l 昭和四二年八月)。
政治(区政治l区長、区評議員が選挙で選出されている)が昭和四一年廃止さがて以降部落有財産は村有財産となり、村営
られるような個人分割も進んでいない。上倒村は七部落からなり、各部落が大資本と分収林(植林)を行っているが、部落
四
四
木材、薪炭材と、更に山林に自生する百合根の販売収益の一 O %が区の収入の大きい支えになっている。そして部落民総出
2
4
2
その他
3
3
残
1
9
6
支出計
1
,
3
7
3
1
,
3
7
3
消防、衛生費
収入計
(
1
0
0
0円)
(昭和 3
6年
3
3
3
2
7
6
2
4
3
土木建築費
2
2
0
ノリ収入
2
8
5
教育費
その他
2
9
1 建中設学臨時校
費
木
出
支
入
収
2
4
4
.
5 8
8
9
.
2
6
4
4
.
7
里
7
3
5
5
4 会区役議場費
資
百合根
来
世
I
(下甑村勢一覧1
9
6
6、上甑村勢要覧)
昭和 4
0
年度、里村ょうらん 1
9
6
4
上甑村平良区決算
(当時の区長の所蔵より転記)
百合根は総収入の 1
0%を納入
が残っている。
村には区有の耕地
間村江石や、下甑
ている。なお、上
の磯場のノリ採集の収入は全く区費に編入され、いわば労働地代的性格をもち、税外負担が共同体的規制のなかに解消され
甑島の山林所有 (
h
a
)
オ
キ
名
公 有 林 IMA
1
iI 計
村 有 部落有 個人有
下
甑
上
甑
13
81
.04,
1
5
7
.
0
乙0
2
6
.
0
1 7
5
0
.
0,
19
7
0
.
9
,
12
8
3
.
8
6
8
7
.
1,