近世初期に花開いた古活字版の世界 ② - 印刷博物館

近世初期に花開いた古活字版の世界②
前号では、近世初期の日本において花開いた古活字版の世
界がどのようにして築かれたのかを、キリスト教の布教を目
的に利用された、西洋からもたらされた活版印刷術と、豊臣
秀吉による朝鮮出兵を機に日本に将来し、徳川家康ら為政者
に用いられた朝鮮式活版印刷術の二つを中心に紹介しました。
今号では、寺院や民間をも担い手として広がりを見せた古
嵯峨本『徒然草』
江戸時代後期の版本
活字版の世界について紹介します。
る対抗心のようなものが感じられます。
この出版事業のもう一つ特筆すべき
点は、『伊勢物語』や『徒然草』、『方
の一時代を築いていきます。その最初
寺院における活字印刷
民間へと広がる
古活字版の世界
の舞台となったのが京都でした。まず
の年記(文禄4〔1595〕年)のある仏
ほ つ
け
げ ん
いった限られた層から、民間へと広が
る礎を築く役割を果たしたといえるで
しょう。そして、その結果として、元
丈記』などの古典文学を中心とする国
民間までを担い手として発展を遂げ
禄・化政両文化に代表される、江戸庶
文学書の印刷、出版が行われたことで
た古活字版の時代も、1640年を過ぎる
民による出版文化の誕生を促し、子供
しゅう え ん
す。中でも『伊勢物語』は、文中に多
頃に終焉を迎え、主役の座を再び木版
から大人まで多くの人々が書物に親し
古活字版の刊行は、その裾野をつい
くの挿絵を取り入れた本格的な絵入り
に取って代わられます。その要因とし
んだことはよく知られる通りです。
本国寺において、古活字版として最古
日本における出版の原点となり、江
古活字版時代の終焉と
その遺産
ぎ
戸時代までの間、出版文化を支えてき
教書として知られる『法華玄義序』な
に民間へと広げていきます。その代表
版本であり、後の挿絵本の出版に大き
ては、活字を用いての印刷が小規模出
たのは寺院でした。それは、共に中国
どの出版が、続いて要法寺において
として知られるのが「嵯峨本」の刊行
な影響を与えました。
版には向いていても大規模出版には向
前号に引き続いて紹介してきました
いていないことから、読者層の広がり
古活字版の世界は、近世初期を舞台と
さ
せ き
より伝来した印刷と仏教が、相互に深
『沙 石 集』などの出版が、木活字を用
い関係にあったことから考えてみると
いて行われました。これらは、おのお
「嵯峨本」は、京都嵯峨野の地を舞
これまでの仏教書や漢籍を中心とした
に対して供給が間に合わなくなったと
した、わずか50年余という短命のもの
納得がいきます。
の寺院の名をとって「本国寺版」、「要
台に、本阿弥光悦や角倉素庵を中心と
中世までの出版の様相を一変させると
する考えや、膨大な数の漢字、平仮名、
でした。その後、活字による本格的な
法寺版」と呼ばれています。
する一派によって刊行されたことから
ともに、筆写によってのみ伝えられて
片仮名の活字を作って印刷するより、
印刷の登場は、幕末における本木昌造
寺院における出版事業は、平安時代
です。
こうした国文学書の印刷、出版は、
後期において藤原氏の氏寺である奈良
京都を舞台に行われた寺院における
そのように呼ばれています。刊行にあ
きた古典文学の世界を開放し、国文学
一枚の版木に彫って印刷する方が時
らによる西洋式近代活版印刷術の導入
興福寺で行われた「春日版」の出版に
活字印刷は、その後次第に地方の寺院
たり彼らは、印刷に、行・草書体の漢
書出版の道を開くという結果をもたら
間、労力、コストの面からも手間がか
を待たなくてはなりません。
端を発します。そして鎌倉時代以降に
にも波及していきます。高野山金剛峰
字と平仮名よりなる木活字を用いると
したのです。江戸時代初期において、
からないとする考えなど諸説挙げられ
しかし、古活字版の世界は、ほぼ同
う ん
も
は、興福寺に加え東大寺や西大寺、法
寺での出版を初め、比叡山延暦寺では
ともに、草花や鳥などの模様を雲母で
「嵯峨本」以外にも、『枕草子』や『大
ますが、確たる答えは出ていません。
時期に日本へと伝わった西洋と東洋の
隆寺など南都諸寺における出版が、さ
慶長8(1603)年頃から寛永中頃
料紙に摺るなど、表紙・挿絵・装丁に
和物語』、『狭衣物語』、『栄花物語』と
このように、古活字版は、短い歴史
進んだ印刷技術を取り込んで、宣教師
らには高野山金剛峰寺において行われ
(1624∼44)までの約30年間に木活字
美術的かつ工芸的な意匠を凝らしまし
いった数多くの古典文学が木活字によ
をもって終焉を迎えましたが、「嵯峨
や宮廷、武家、寺院さらには民間まで
た「高野版」の出版、鎌倉五山や京都
による印刷、出版が盛んに行われてい
た。特に木活字は、2字、3字、稀には4
って印刷されたことはその事実を物語
本」の出現に見られるように、書物の
の幅広い層を担い手として築き上げら
五山の禅宗寺院を中心に行われた「五
ます。また、徳川家康の帰依を受け、
字をつなげて作られたものが用いられ
っているといえるでしょう。
世界をこれまでの貴族や武家、僧侶と
れた、印刷史上画期的な世界だったの
山版」の出版など、時と舞台を移しな
上野忍ヶ岡に東叡山寛永寺を創建した
ており、こうした工夫から民間人であ
がら広がりを見せ、数多くの仏教書が
天海僧正が、三代将軍家光の援助を受
る光悦らの、宮廷や武家の出版に対す
木版によって印刷されました。
けて木活字によって印刷した『一切経』
このような歴史を持つ寺院が、これ
の刊行(天海版または寛永寺版)も寺
までの木版に加え、新たに活字を用い
院による活字印刷としてその名を歴史
ての印刷、出版にも着手し、古活字版
にとどめています。
です。
文:緒方宏大(印刷博物館学芸員)
●参考文献:
川瀬一馬『増補古活字版の研究』1967年
鈴木敏夫『プレ・グーテンベルク時代』朝日新聞社
1976年
中根 勝『日本印刷技術史』八木書店 1999年
『日本古典籍書誌学辞典』岩波書店 1999年
『本と活字の歴史事典』印刷史研究会編 柏書房
2000年
「江戸時代の印刷文化―家康は活字人間だった!!」
印刷博物館 2000年
『印刷博物誌』凸版印刷株式会社 2001年 春日版
『大般若波羅蜜多経 巻第二百七』
5
嵯峨本『観世流謡本 あ古木』
『大和物語』(古活字版)
4