平成27年1月17日 金沢市立中村記念美術館 新春百人一首の集い 石川県かるた協会 百人一首講座 ・ 山崎英夫 伊勢物語と在原業平 在原業平の生い立ち 在原業平は、父は阿保親王・母は伊都(いず)内親王と、とても高貴な生まれです。 平城天皇は桓武天皇の後を引き継いだ天皇ではありましたが、情緒不安定でわずか3年で弟の 嵯峨天皇に譲位して、自らは上皇となりました。ところが平城京に戻って、ここで政治を行い 出したのでした。これには上皇の愛妾である藤原薬子の影響が大でした。嵯峨天皇がこんなこ とを許す訳がありません。兵を差し向け戦い「薬子の変」となったのですが、上皇側は簡単に 負けてしまいます。上皇は出家、薬子は自殺、息子である阿保親王は大宰府に流されています。 権力争いに敗れ、主流から離れた阿保親王の息子業平・行平の兄弟は臣籍降下して在原氏を名 乗ることになります。 「伊勢物語」に語られるような好色な業平は、こうしなければ時の権力者藤原氏から危険人物 と敵対されてしまうためかもしれませんね。 1 伊勢物語と在原業平 平安和歌文学の始まりといってもよい物語が「伊勢物語」です。 「むかし おとこありけり」で始まるこの男とは、在原業平のことです。 「伊勢物語」に書かれている業平を見てみましょう。 初段「初冠」(ういこうぶり) 昔、男、初冠して平城の京、春日の里にしるよしして、狩にいにけり。その里にいとなまめ いたる女はらから住みけり。この男かいまみてけり。おもほえず、古里にいとはしたなくてあ りければ、心地まどひにけり。男の着たりける狩衣の裾を切りて、歌を書きてやる。その男、 忍摺りの狩衣をなむ着たりける。 春日野の若紫のすり衣 しのぶの乱れかぎり知られず となむ、をひつぎていひやりける。ついで、おもしろきことともや思ひけむ。 みちのくのしのぶもじずり誰ゆゑに 乱れそめにしわれならなくに といふ歌の心ばへなり。昔人は、かく、いちはやきみやびをなむしける。 初冠(ういこうぶり)とは、男の子が子どもの髪型 から大人の髪型に変えて冠をかぶり、一人前になり 元服して一人前の男になる儀式です。 官位を授かったり、結婚もするのもこの時期です。 源氏物語の主人公光源氏も 12 歳で元服して、大臣 の娘「葵の上」と結婚していますね。 伊勢物語では、狩りに出かけたときに素敵な姉妹を見つけたときのことですから、とっても 自由な恋愛ですね。 一目ぼれしてしまったとその場で歌を送ります。素敵な女性を見つけたら、まず歌を送り気持 ちを伝え、女性のほうからも歌で返して受け入れる。それが当時の礼儀なのです。 しかも、精いっぱい大人びた背伸びをして、光源氏のモデルとも言われる河原左大臣(源融 み なもとのとおる)の「みちのくの…」の歌を本歌取りして、しかも着ていた忍摺りの狩衣に歌を 書きつけています。 本歌取りを、現代風に人マネのパクリだなんて言ってはいけません。先人の歌や物語を知っ ていることが、教養のある人なのです。そして、もとの歌を踏まえて、さらに自分の歌を進化 させる。本歌取りは単なる物まねではないのです。 それにしても、大人の仲間入りをしたばかりの青年が、なんとも初々しい物語の始まりかたな のでしょう。 2 伊勢物語 第二段〰第六段「西の京」 西の京に女ありけり。その女、世人には、まされりけり。その人、かたりよりは心なむまさ りたりける。時はやよひのついたち雨そほ降るにやりける。 起きもせず寝もせで夜をあかしては 春の物とてながめくらしつ むかし、東の五条に大后の宮おはしましける、西の対に住む人ありけり。それを本意にはあ らで、ほかにかくれにけり。うち泣きて、あばらなる板敷きに月のかたぶくまでふせりて、こ ぞを思ひ出でてよめる。 月やあらぬ春や昔の春ならぬ 我が身ひとつはもとの身にして 東の五条わたりにいと忍びていきけり。みそかなる所なれば、門よりもえ入らで、童べの踏 みあけたる築地のくづれより通ひけり。人しげくもあらねど、たびかさなりければ、あるじき きつけて、その通ひ路に、夜ごと人をすゑてまもらせければ、いけどもえ逢はで帰りけり。 人しれぬわが通ひ路の関守は よひよひごとにうちも寝ななむ むかし、をとこありけり。女のえ得まじかりけるを、年を経てよばひわたりけるを、からう じて盗み出でて、いと暗きに来けり。芥川といふ河を率ていきければ、草の上におきたりける 露を「かれは何ぞ」となん問ひたりける。 白玉かなにぞと人の問ひし時 露とこたへて消なましものを これは、二条の后のいとこの女御の御もとに、仕うまつるやうにてゐ給へりけるを、かたち のいとめでたくおはしければ、盗みて負ひていでたりけるを、御せうと、堀河の大臣(おとど)、 太郎国経の大納言、まだ下臈にて内へまゐり給ふに、いみじう泣く人あるをききつけて、とど めてとりかへし給うてけり。それをかく鬼とはいふなりけり。まだいと若うて、后のただにお はしける時とや。 第二段から六段には、二条の后(高子・たかいこ)がまだ若いころ、あまりに美しかったので 業平が恋焦がれ、ついには連れ出し逃げたのです。許されない恋は、駆け落ちするしかかった のでしょうか。 藤原氏など有力貴族は、娘を天皇の后に入内させ天皇の外戚として勢力を伸ばしたのです。 高子もそんな大切な立場の女性だったのです。 それを天皇の主流から離れた業平に盗まれたのですから大変です。高子の兄基経はすぐに二人 を追いかけ高子を取り戻したのです。 それを「伊勢物語」では、鬼に喰われたと言っているのです。 薬子はのち入内し、清和天皇との間に陽成天皇、貞保親王、敦子内親王の 3 人の子をもうけ ました。 3 伊勢物語 第六十九…百二段 「伊勢の斎宮」 ここに出てくる「斎宮なりける人」が「伊勢物語」の名前の由来とも いわれています。伊勢の斎宮との許されざる恋がこの物語の中核にな っています。 この斎宮は、文徳天皇の皇女(ひめみこ) 恬子内親王(てんしないしん のう)と書かれています。伊勢の斎宮や賀茂の斎院は、天皇の皇女で 穢れのない未婚の女性でなければなりません。前代未聞のスキャンダル は、今も昔もうわさの種となります。 むかし、をとこありけり。そのをとこ、伊勢の国に狩の使にいきける…中略…女、人をしづめ て、をとこのもとに来たりけり。をとこはた寝られざりければ、月のおぼろなるに、ちひさき 童をさきに立てて、人立てり。をとこ、いとうれしくて、わが寝る所に率て入りて、子ひとつ より丑三つまであるに、まだ何事も語らはぬにかへりにけり。…女のもとより、詞はなくて、 君やこし我や行きけむおもほえず 夢か現かねてかさめてか をとこ、いといたう泣きてよめる。 かきくらす心の闇にまどひにき 夢うつつとはこよひ定めよ とよみてやりて、狩に出でぬ。野にありけど、心は空にて、こよひだに人しづめて、いととく 逢はむと思ふに、国の守、斎宮のかみかけたる、狩の使ありとききて、夜ひと夜酒飲みしけれ ば、もはらあひごともえせで、明けば尾張の国へ立ちなむとすれば、男も人知れず血の涙をな がせど、え逢はず。夜やうやう明けなむとするほどに、女がたよりいだす杯の皿に、歌をかき ていだしたり。とりて見れば、 かち人の渡れど濡れぬえにしあれば とかきて、末はなし。その杯の皿に、続松の炭して、歌の末をかきつぐ。 又あふ坂の関はこえなむ とて、明くれば尾張の国へ越えにけり。 斎宮は水の尾の御時、文徳天皇の御むすめ、惟喬親王の妹。 4
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