第2章 日本建築史序説 「古 代」

第2章 日本建築史序説
「古
代」
1.神社建築の発生
・豊作を祈るため、毎年祭りを行うようになり、そのとき 神
の降臨を受け、臨時の神殿を作り、祭りが済めば取り壊
す時代があったと思われる。神社建築が、寺院建築と違
い、新しいものを尊び、何年毎に立て替える式年造替に
制があったのは、このような神社建築発生の事情による
であろう。
⇒神籬(ひもろぎ)空間:神事で、神霊を招き降ろす
ために、
清浄な場所に榊(さかき)などの常緑樹を立て、
周りを囲って神座としたもの。
⇒結界: 仏語である。一定の区域を制限すること。ま
た、その区域。外からの出入りを制限する。寺院で
の内陣と外陣(げじん)の間、または外陣中に僧と俗の
席を区別するために設けた木の柵(さく)。
商家で、帳場の囲いとして立てる格子。帳場格子。
代表例
①伊勢神宮内宮
・本殿は、屋根に反りのない切り妻平入りの「神明
造」といい、他の神社がまねできないものとして、
特に唯一神明造」と呼ぶ。
②出雲大社
・神社建築の最も古い形式として、伊勢神宮の神明
造と、妻入りの出雲大社の「大社造」がある。妻
入りより平入りへと変化したであろうことは容易
に考えられるが、神社建築の発生時から、すでに
平入りの建築があったので「大社造」→「神明造」
と当てはめることは出来ない。
(*建築における「妻入り」、「平入り」形式とは)
2.仏教建築の伝来
(*外来文化の日本建築への影響を与えた事象の一つ)
・仏教輸入に伴って、大陸の諸文化も我が国に輸入された。
寺院は単なる宗教の殿堂ではなく、もっとも進歩した文
化を包含する芸術の殿堂であった。
・飛鳥寺、四天王寺、法隆寺などが相次いで営まれ、ここ に
初めて大陸的大伽藍が出現した。
・神社建築に見られるように、仏教建築輸入以前における
建築は、かなり進んでいたと はいうものの、掘立柱、草
葺きで、柱上に組み物は用いず、彩色は施さず、屋根や
軒に反りのないものであった。
・初期の伽藍配置は、中門、塔、金堂、講堂を中心上に並
べ回廊は中門から講堂に達する「四天王寺式」(四天王
寺、創建の法隆寺)と、金堂、塔を左右に併置し、後方
に講堂をおく「法隆寺式」(再建法隆寺)が通説であっ
たが(*大陸的、和様としての代表的伽藍でもある)、
再起の発掘の結果、塔の三方に金堂をおく飛鳥寺、塔、
金堂、西金堂からなる川原寺などがあり、また、この他、
金堂の前方、
一方に片寄せて塔を建てているものもある。
・飛鳥寺や四天王寺の配置が中国伝来の正統的なものであ
り、塔が二基となったものが「薬師寺式」、塔が回廊の
外にでたものが「東大寺式」又は「興福寺式」といわれ、
奈良時代の基本的な伽藍配置と考えられる。もちろんこ
れらの配置は日本において発展したものではなく、中国
のその時々に伝来したものであろう。
・飛鳥寺や四天王寺の配置は大陸にその類例もあり、左右
対称系から、大陸伝来のものと認めても良いが、高い塔
と、量の大きい金堂とを左右に並べた法隆寺式は、左右
対称を原則とする宗教建築にあって、全く破格のものと
いっても良い。法隆寺式配置は我が国において創られた
ものと見られている(*和様式の代表例)。
・二つの伽藍配置の相違から、民族による建築様式の一つ
の違いを見いだすのである(*この点は重要なことであ
る。何故か)。四天王寺式は奥行きのある 配置方である
のに対して、法隆寺式は一度に各堂宇を見せる羅列的配
置であるという相違である。これは中国の住宅の配置法
と、寝殿造りの配置法とについてもいいうることで、各々
のその特色を持っていると言える(*奥行きと網羅的配
置)。
3.仏教建築の発展
・遣唐使の派遣以来、日唐交通はすこぶる頻繁になり、中 国
文化史上の黄金時代とも言うべき唐の文物は、朝鮮を経
ることなく、直接我が国に流れ込んだ。一代遷都の制を
破り、藤原京、平城京※1(上図)と主都も唐にならって、
永久的なものが計画された。 代表例①薬師寺、②唐招提
寺金堂・講堂、③法隆寺・夢殿・伝法堂、④東大寺大仏
殿・南大門・講堂・正倉院・法華堂、⑤興福寺、⑥元興
寺、⑦大安寺、等々があり、数多くの傑作を残し、日本
建築史上の黄金時代ともいうべき時であった。
※1:唐の長安京を模して奈良平野北部に建設された首
都(710~784年)。広さは東西32町(4.2
Km)、南北36町(4.7Km)。条里制(大化の改
新以後の水田の耕地整理)の土地の上に1800尺の
方眼に地割りし、
地割り線を中心として街路をとった。
直交する大路により72坊に区画される。この坊は1
6等分して坪または町と称され、さらにこの1/16
が宅地班給の基準となった。朱雀大路北端に8町×1
0町で東南隅に2町×2町の欠け込みを持つ平城宮を
配した。
平安京
794年桓武(かんむ)天皇によって現在の京都の地に営
まれた都市。38町(5.3Km)×32町(4.5Km)
の広さを持った条坊制(条:東西の道路 坊:南北の道路)
の都市(★中国の都市形態の影響を受けて造られたグリッ
ド形式の官営都市)。基本的平面形式は平城京とほぼ同じ
であるが、平城京では仏寺が都市内へ計画的に造営された
のに対して、平安京ではそれがなかったこと、また平城京
では1800尺単位のグリッドシステムで構造が決定され
たのに対し、平安京では400尺四方のブロックの集合体
として都市全体がとらえられているのが異なる。1180
年福原遷都があったことを除いて、1868年まで帝都で
あった。
法隆寺伽藍(和様の代表的建築)
法隆寺金堂
法隆寺伝法堂(*日本住宅の原型と言われている)
唐招提寺金堂
4.神社建築の発展
・大陸建築の様式の影響は神社建築にも及んだ。柱は礎石
上に捉えられ、柱上に組み物を用い、軒、屋根に反りが
出来、木部に彩色が施されるようになった。
代表例
①春日造(主として大和地方を中心として行われた)
・春日大社本殿がその代表であり、切妻造(*他に
代表的例として寄棟造)、妻入りの前に向拝を付
けた形。
②流造(神社本殿形式のうちもっとも広く行われた)
・上下賀茂神社の本殿が代表であり、切妻造、平入
りの前に向拝をつけたもの。
③八幡造
・宇佐八幡を代表とし、奈良時代に成立し、切妻造
平入の社殿を前後に二棟並べたものである。八幡
造は本殿形式としての普遍性はないが、近世に多
く造られた「権現造」(本殿と拝殿とを石間で繋 い
だもの)の先駆的な形式として重要な意味がある。
④祇園造
・特殊なものであり、本殿と礼殿とを一つ屋根のう
ちに包んだ八坂神社本殿の形式が代表的である。
⑤両流造
・厳島神社
⑥日吉(ヒエ)造
・日吉神社
5.浄土教建築の流行
・国家的宗教であった仏教は、ついに貴族の仏教と化した。
かつては国家的事業として造成された仏寺も、今や貴族
の別荘として営まれるようになった。
・藤原時代(11世紀頃)に入って貴族の信仰は密教から
浄土教へと移っていった。(*質素・基本から華美へ)
代表例
①法成寺阿弥陀堂(無量寿院)(藤原氏の富と勢威と
を尽くして造立された)
②宇治平等院鳳凰堂
6.建築様式の日本化
・大陸建築の影響は奈良朝を通じてみられ、奈良末期建立
西大寺において中国的装飾が採用されている。更に平安
朝に入ってからもこの傾向は続いている。
・平城京における興福寺東院の「西檜皮葺堂」、また73
9年建立の法隆寺東院においては瓦葺の夢殿を巡って掘
立柱、檜皮葺きの中門、回廊、宝蔵があり、その講堂で
ある伝法堂(日本住宅の原点)には床が張ってあり、東
大寺法華堂もまた板敷き(寺院内における作法の日本化
を思わせる)であった。
・「瓦葺き」という忌み言葉で呼ばれた寺院にあってさえ
も、我が国古来の構造、材料に進出したことは、建築意
匠全般の日本化を予想させる。
・これを建築技術の面から見ると、野屋根の発生という、
一つの日本化のあとがうかがわれる。すなわち、大陸建
築においては化粧垂木が構造材であり、その上にすぐ屋
根が葺かれるのであるが、この方法によると、屋根の傾
斜が緩やかなときはよいが、多少急になると、屋根の流
れの中央付近で、地垂木に折れをつけなければならずそ
この葺土は非常に厚くなり、荷重を増し、構造上不利で
ある。
そこで考えられたのが、屋根面に沿って野垂木を化粧垂
木と別に設ける方法である。これにより野垂木と化粧垂
木との間の空間を利用し、屋根の傾斜を化粧垂木と関係
なく定めることが出来、また飛檐(ひえん)垂木の長さ
を増すことが出来るという技術上の進歩が起こった。さ
らに、意匠の点から、日本美術の一つの特質と考えられ
る優美さは、次第にその度を加え、藤原時代の代表作鳳
凰堂を生んだのである。
7.寝殿造の完成
・我が国における原始的は住居には、土間のものと、板敷
きのものとの二系統があった。奈良時代の庶民住宅が土
間のものであったことは、「万葉集」の貧窮問答歌に「ひ
た土に藁とき敷きて」と歌っていることで分かる。
これに対して、奈良時代の貴族住宅が板敷きであったこ
とは橘夫人宅と見られる法隆寺伝法堂の建物で明らかで
ある。庶民住宅と貴族住宅とは、竪穴と高床によって表
されるもので、その屋根構造は合掌式と束式とであ
った。
参考図書
・「日本建築史序説」、太田博太郎、彰国社
・「日本建築史図集」、日本建築学会編、彰国社