藤原京の条坊制‐その実像と意義‐

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Title
藤原京の条坊制‐その実像と意義‐
Author(s)
林部, 均
Citation
林部均:都城制研究(1)(奈良女子大学21世紀COEプログラム報告集
Vol. 16), pp.37-66
Issue Date
2007-11-30
Description
URL
http://hdl.handle.net/10935/2736
Textversion
publisher
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藤原京の条坊制
- その実像 と意義林部
均
は じめに
藤原京は、持続8年 (
6
9
4
)に飛鳥浄御原宮か ら遷都 した都である。 日本ではじめて条坊
制 とい う方形街区を取 り入れた都である。 ただ、都の成立 ということでは、天武段 階の飛
鳥や難波において、条坊 こそみ られないが、すでに都 は成立 していた と考 える。 そ ういっ
たことを歴史的な前提 として藤原京で条坊制が導入 された 1)。
本稿では、藤原京にかかわって、今、 どういったことが問題 となっているのか、そ して、
私 自身が、 どういった ところに関心 をもっているのか、 とい うことを中心 に述べ る そ う
。
いったなかで、発掘調査で明 らか となっている藤原京の条坊制の具体的なようす と、その
。
特徴 について、大雑把 に述べ ることにす る2)
1.藤原京の条坊復元 (
研究史)
藤原京の現状
藤原京では、都が廃絶 した後、条坊 を消 し去 って条里が施工 される。 そのため、藤原京
の条坊 にかかわる痕跡 は、一部の条里がお よばなかった丘陵地 を除いて残 ることはない。
平城京のように遺存地割な どを使 った条坊復元 3)をすることはで きない。発掘調査 とい う
方法 を使 うことによって、 は じめて条坊復元 をお こなうことがで きる0
岸俊男復元藤原京
藤原京 には、今 で も、い くつ もの京城復元案がある (
図 1)。 これは、先 にも述べ た よ
うに条坊の痕跡が条里の施工 によって、ほぼ完全 に地上か ら消 し去 られていることによる。
その中で、図 1のABCDは、岸俊男 によって、復元 された藤原京の京城である4)。 1
9
6
6
年か らは じまった国道バイパスの建設にともなう発掘調査の成果 を取 り込み、横大路 ・中
ツ道 ・下ツ道の位置 を厳密 に確定 し、文献史料 との整合 を考 えて復元 された ものである。
東西 8坊、南北 1
2
条 (
この場合の 1坊 は約2
6
5
m四方) に復元 された。 この学説は長 く、定
9
7
9
年、檀原市葛本町、 な らびに檀原市院上遺跡で、藤原京
説 として考 えられて きたが、 1
の条坊 に合致 した道路が検 出されるに至 り、再検討の必要が生 じることになった 5)。
しか し、岸俊男説藤原京の周囲で検出された条坊道路 (
以下、藤原京関連条坊 と呼ぶ)
は、最初、その検 出地点 も少 なかったことか ら、藤原京の条坊 として積極的に評価 される
ことはなかった。郊外道路 ・京外条坊 といった解釈がみ られた 6)。
「
大藤原京」説 と条坊復元の再検討
9
8
6
年、阿部義平 と押部佳男 は、時 を同 じくして、藤原京の条坊復元
そ ういったなか、1
を全面的に見直 した学説 を発表 した7
)
。それは、 これ まで、岸俊男説では、藤原京の 1坊
-3
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小津2003をもとに作 図)
図 1 藤原京の京城復元の諸説 (
ABCD-岸俊男説 EFGH-阿部義平 ・押部佳周説 EI
J
H-秋 山 日出雄説
KOPN-竹 田政敬説 KLMN-小津毅 ・中村太一説
-3
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を半里四方 (1里 -約5
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5
里 ×8)
、南北 6里
(
0
.
5
里 ×1
2
) を京城 としてきたが、発掘調査で検出される条坊 を検討 し、偶数大路が広 く、
奇数大路が狭 い ことに着 目し、偶数大路 に囲まれた範囲 こそが藤原京の 1坊 (1里 -約
5
3
0m)ではなかったか とした もので、それをもとにEFGHとい う東西 8坊 (8里)、南北
1
2条 (
1
2
里)の藤原京 を復元 した。
四条遺跡の調査
翌年、橿原市四条遺跡において、四条大路の西-の延長の東西道路
と下 ツ道か ら 1坊半
■
西の南北道路 (
西六坊坊間路)の交差点が検出された 8)
。四条大路 は 6世紀前半の古墳 を
壊 し、その周濠 を埋め立てて造営 されていた。 また、条坊道路の区画に囲まれた宅地には、
多 くの建物群がたちならんでいた。その様相 は、京内の宅地 と何 ら変わるところはな く、
考古学の立場か らは、 この場所 を京外 とする積極的な理由はとくにみあた らない として、
藤原京関連条坊が検出されている範囲 も京内 とみなすのが 自然ではないか と考 えられるよ
うになった 9)
。
四条遺跡での調査では、その他 にも、条坊の計画線や造成土など京造営 にかかわる痕跡
がみつか り、藤原京研究にとって様々な重要な成果がえられた。そのような四条遺跡の調
査 に刺激 され、藤原京で検出されている条坊道路の再整理が進め られ、京内で検出される
条坊 と京外で検出される条坊 とは、同一の企画で設計 されていることが指摘 された。 また、
宅地に分布する建物群の京内 と京外 とで様相 にも何 ら変わるところはな く、条坊が検出さ
れる地域は、 まさに藤原京であったとみてよい と考えられるようになった。 さらに、四条
遺跡の調査成果か ら、京外での条坊施工が遅れ、藤原京は岸俊男説藤原京か ら、ある段階
に京城 を拡大 している可能性 も指摘 された10)。 しか し、 この段階においては、明確 な京城
を提示するには至 らなかった。
さらにその後、調査が進むと、岸俊男説藤原京の周囲では、た くさん条坊が検出される
ようになった。 もはや藤原京 は岸俊男が復元 した ものよりも大 きかった ということは、ま
ちがいのない事実 となった。
藤原京の東西京極の確認
そういったなかで、1
9
9
6年、橿原市土橋遺跡、桜井市上之庄遺跡 において、西の京極、
東の京極 と推定 される条坊道路が検出された1
1
)
。土橋遺跡 は下ツ道か ら西- 6坊 (
この場
合の 1坊は約2
6
5m)
、上之庄遺跡は中ツ道か ら東へ 6坊 (
この場合の 1坊 も約2
6
5m)の位
置にあたり、藤原京関連条坊は岸俊男復元で東西2
0
坊 (6+6+8坊 -2
0
坊 -1
0
里)-5
.
3
k
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までひろがることが明 らか となった。
藤原京1
0条10坊説の提唱
こういった発掘調査の成果をうけて小津毅 ・中村太一は、阿部義平の条坊復元を継承 し、
1坊 の大 きさを 1里 として、東西1
0
坊、南北 1
0条 に藤原京 を復元 した12)。 これが図 1の
KLMNである。 発掘調査の成果 と文献史料 との整合的に解釈 した もので、近年、最 も有
-3
9-
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図 2 藤原京の条坊復元 (
十条十坊説) (
小津2
0
0
3をもとに作図)
-4
0-
力 な意見 とな りつつある。 藤原京は、東西1
0
坊、南北 1
0
条に復元で き、その中央に宮 を配
置するとい うもので、中国の古典である 『
周礼』考工記匠人骨国条にそのかたちの原形 を
求めた理念先行型の都であった とされた (
図 2)。
そ して、藤原京か ら平城京-の遷都 についても、藤原京 を造営 していた天武 ・持続朝に
は遣唐使の派遣はなかった。そのため中国の最新都城の情報が途絶 し、中国の古典である
『
周礼』に依拠 し、藤原京 を造営 したが、大宝 2年 (
7
0
2
)栗田真人を代表 とす る遣唐使
が、3
3
年ぶ りに派遣されると、大唐帝国の都である長安城 と藤原京 との違いが明確 とな り、
遣唐使が もちかえった長安城の情報 をもとに平城京 を造営 した。東アジア社会の中で、外
交 などにかかわって国家の体面 を保つため、長安城 をモデルに新 しい都城 を造営 した とさ
れた。ただ単に、都のかたちの比較 にとどまるのではな く、律令国家の形成や当時の国際
情勢 もか らめた解釈は魅力的で、 きわめて傾聴に値する意見である1
3
)
。
1
0条1
0坊説は成 り立つか
しか し、藤原京 を1
0
条1
0
坊 に復元する京城案 には、 ここでは詳述 しないが、多 くの問題
点があ り、私は賛成 しない。図 3は、現在、条坊が検出地点に重 きをおいた藤原京の復元
図である14)。藤原京は、計画 として東西1
0
坊、南北 1
0
条であった可能性 は否定 しないが、
実際の造営 された藤原京のすがた というものは、図 3に示 したものであった。すなわち、
藤原京 は、奈良盆地東南の丘陵地 をさけ、容易 に条坊が施工で きる平坦な地形 を選んで方
形街区を設定 し、そのほぼ中央付近に藤原宮 を造営 していた。
平城京の京城
さらに2
0
0
5
年夏、大和郡山市下三橋遺跡において、平城京の南京極大路である九条大路
や羅城 を越 えて、南に 3坪分、条坊がのびていることが明 らか となった1
5
)
。様々な解釈が
のべ られているが、少な くとも条坊が施工 された段階においては、その場所 も都 と意識 し
て造営 されていたとみてまちがいないであろう。 そうすると、その後、羅城が設定 され京
城が確定 したと考えるのが 自然であるが、このことは、藤原京の条坊復元や藤原京か ら平
城京への遷都 をどのように考 えるのか という問題 などに少 なか らず問題 を提起する。 今後
の調査の進展 を期待 したい。
ところで、藤原京の京城 を考えることは、非常に重要なことではあるが、結局の ところ、
今後の発掘調査の進展 を見守るはかない というのが現状ではないか。そこで、 ここでは、
この間題にはあまり触れないで次の章にうつ りたい。
2.藤原京の条坊の特徴 と意義
条坊の設定方法
藤原京は1
5
0
0
大尺 (
約5
3
0m)
、7
5
0
大尺 (
約2
6
5
m)
、3
7
5
大尺 (
約1
3
3
m)を単位 として基
準線を設定 し、それに道路の中心が くるようにして、条坊道路が設定 されている そこで、
。
道路 に面 した街区の部分では、道路幅分の土地が宅地か ら割かれることになる。 そこで、
- 41-
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図 3 条坊検 出地点 をも とに した藤原京の復元 (
林部 2007)
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二
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轡
道路幅の広い道路に面 し
た宅地は狭 くなる。 すな
■
わち、藤原京では、条坊
道路 に囲まれたひとつひ
とつの方形街区の大 きさ
■
■
が同 じではない という特
徴がある (
図 4)。 いわゆ
■
る分割方式の条坊の宅地
割 りがなされている。 こ
■
■
の方式 は、平城京 などに
も継承 される。
ト
= 大路
一
「
条坊道路
大路
藤原京の条坊道路は、
坊
閉
路
小
路
大路
小
路
図 4 藤原京の条坊 (
井上 2004をもとに作図)
大 路が約 1
6m、条間路 ・
坊間路が約 9m、小路が
約6.
5mで道路幅が設定さ
れている すなわち、宋
。
雀大路や京内をとおる横大路、下ツ道 (
西四坊大路)
、中ツ道 (
東四坊大路) をのぞ くと、
6
)
。いっぼう、平城京では、その用
基本的にこの 3ランクの道路 に整理することがで きる1
途や使用頻度にあわせて最大規模の 「
朱雀大路」か ら小路 まで、様々な道路幅の条坊道路
が設定 されていた。厳密には、道路の路面幅や側溝幅の詳細な比較検討が必要であろうが、
藤原京での条坊道路の設定は、単純で形式的なものであった (
図 5)。す なわち、藤原京
では、道路その ものにそれぞれの道路特有の機能や性格 といった意味などが付与 されるこ
とはなかった。 これは、条坊制導入期の特徴 とみてよい1
7
)
。
「
朱雀大路」
藤原京の 「
朱雀大路」 18) は、宮南面では、道路幅は約24mで検出されている。 藤原京で
は一般の大路の道路幅は約1
6mであるか ら、視覚 的に 「
朱雀大路」が広い道路 とは認識で
きなかった と思われる。 平城京では朱雀大路 は約74.
0m である。 宮南面 を東西 にとおる二
条大路 は道路幅約35mである。 一般の大路 との規模の違いは歴然 としている。 平城京では、
宋雀大路や二条大路 を使って様々な儀礼がお こなわれた19)。そのため、 これだけ広い空間
が必要であった。
ところで、藤原京では、最近の調査で、朱雀大路は都の南端 まではのびていなかったこ
とが明 らか となっている2
0
)
。さらに、羅城 門に当たる場所 には、丘陵が張 り出 して きてお
り、 とうてい、そのようなものが作れる状況ではなかった21
)
。藤原京では、「
朱雀大路」 を
は じめ とした都 を舞台 とした儀式空間の整備 は十分ではなかった。
-4
3-
側溝心 々間距離 :20小尺
多 くの小路
2
0大尺
多 くの小路
25大尺
条闇路 ・坊間路
30大尺
四条条閉路
40大尺
六条大路
45大尺
西二坊大路 ・東四坊大路 ・
三条大路 ・二条条閉路
6
0大尺
西三坊大路 ・東-坊坊間大路
8
0
大尺
)
東-坊大路 ・西-坊大路 (?
7
0大尺
西-坊大路 (?)
西-坊坊間大路
1
05大尺
二条大路
21
0大尺
朱雀大路
平城京
朱雀大路
7
0
大尺
60大尺
六条大路 (?)
45大尺
大路
2
5
大尺
坊 間路 ・条闇路
側溝心 々間距離 :20大尺
小路
藤原京
図 5 条坊道路の比較 (
藤原京 と平城京) 〔
井上 2
0
0
4をもとに作 図〕
藤原京の正面
この ことは、藤原京がつ くられた位置 とも深 くかかわる。 図 6には飛鳥 ・藤原京 ・平城
京 と大和 の古道 との位置関係 を示 した。藤原京 は奈良盆地の南部 に位置 している。 おそ ら
く、その東南 の飛鳥 と一体 で機能 していたのであろ う。そ こで、新 た に益 した京、「
新益
京」と呼 ばれた22)。 いずれに して も、藤原京 は、奈 良盆地の南 に位置 していた関係 で、北
か らアプローチす る場合、横大路や下 ツ道 な どが利用 された と考 え られる
。
-4
4-
そ して、宮の
図 6 奈良盆地の古道 と宮都 (
小津2003より転載)
※なお、藤原京の京城 は小浮説 による。
-4
5-
北方や西方か ら都 に入ることになる。 もちろん、方形街区の中央 に配置 された藤原宮は南
に正面があることは、その建物配置か ら明 らかであるので、北方か ら都 に入った場合、 ど
うして も、いったん南下 したうえで、あ らためて南面する宮正面の門にアプローチすると
いう不 自然な経路 を通 らな くてはならない。 しか し、 この場合 も、羅城門は存在 しないの
であるか ら、都の南端 までは下ることは、おそ らくしなかった。下ツ道などを南下 して、
途中か ら宮の南面中門へ と向かった と考 えるのが 自然である。 そ ういった関係で、「
朱雀
大路」 を南端 までつ くる必要はなかった。藤原京はその全体計画はともか く、実際の施工
で も、 こういう状況であるので、京 に入 るにあたっての儀式空間を設定する場合、様々な
面で、不都合が生 じていたのではないか と考 える。 わずかに宮の南面中門の前面の 「
朱雀
大路」のみが、宮の位置が確定 したのち、宮正面を意識 して、その道路幅を約 1
6mか ら約
2
4m に拡幅 された可能性がある。 いずれにして も、藤原京において、その方形街区全体、
すなわち都の正面は明確 なものではなかった。
都の中心軸
藤原京は、「
朱雀大路」その ものが、 こういった状況であるので、その南北中心軸す ら、
はっきりとしない都であった といわねばならない。藤原京の造営にあたっては、都の中央
をとおる 「
朱雀大路」ではな く、大和の古道である横大路、下ツ道がその基準 となって設
計がなされた可能性が強い2
3
)
。平城京では、下 ツ道 を基準 に して朱雀大路が設定 され、方
形街区がつ くられていた。のちの長岡京 ・平安京などでは、 このような古道を基準 にした
設計の原理はみ られないので、藤原京 ・平城京の特徴 ともいえる
。
もちろん、 日本の条坊
制の源流 となった中国都城 にもそ ういった設計原理は認め られない。
中国では、都城の造営にあたっては、その南北主軸の決定が きわめて重視 されていた。
すなわち、中国では天は丸 く、地は方形 と認識 され、その天の中心である北極星 と四角い
地の方形の中心が交差するところが、天子の居住地、宮 と観念 されていた。そ して、北極
星 と太陽の南中する点を結んだ天の子午線が地上に投影 された南北軸が きわめて重視 され
た といわれる。 そのため、宮や都城の造営にあたっては、都の南北軸 をどこに置 くのか と
いうことが、 まず決定 された。中国では、正 しい方位の測定は、世界の運行 と分類の原理
を知 る聖なる技術であった といわれる。中国では、 このような世界観にもとづいて、宮や
都城の造営がおこなわれ、その王権の正統性が保障された とい う24)。藤原京では、都 の南
北中心軸です ら、先 に述べた とお りであるので、その造営にあたって、あまりこのような
思想的なことが考慮 されなかった と考えざるをえない。 このあた りにも、条坊制導入期の
都城の特徴が端的にあ らわれている。
藤原京の造営過程
表 1では、藤原京の造営過程 を 『日本書紀』の記事 をもとに一覧 にした。いかに藤原京
の造営が困難 をきわめたのかがわかる2
5
)
。条坊制を導入することもは じめてならば、 これ
だけの広大な土地を造成 して街 をつ くるということもはじめてのことであった。その基盤
-4
6-
天武元年
6
7
2
2年
6
7
3
5年
6
7
6
是歳,宮室 を岡本宮の南 に営 る○
2月
発未 (
2
7日) に,天皇,有 司に命せ て壇場 を設けて,飛鳥浄御 原宮に
即帝位す○
是年,新城 に都つ くらむ とすo限 りの内の田園は,公私 を問はず,管
耕 さず して悉 に荒れぬo然れ ども遂 に都つ くらずo
9年
6
8
0 11月
発未 (
1
2日) に,皇后,体 不予 したまふ○則 ち皇后の為 に誓願 ひて,
初めて薬師寺 を興つ○
11
年
6
8
2
3月
甲午 (1日),小紫三野王及び宮内官大夫等に命 して,新城 に遺 して,
其の地形 を見 しむo偽 りて都つ くらむ とすo
己酉 (
1
6日) に,新城 に幸すo
1
2
年
6
8
3
1
2月
庚午 (
1
7日),又詔 して日は く, 「凡そ都城 .宮室,-処 に非ず,必ず
両参造 らむ〇枚,先ず難波 に都つ くらむ と欲 ふo是 を以て百寮の者,
各往 りて家地 を請 はれ」 とのた まふo
辛 .陰陽師 .工 匠等 を畿 内に遺 して,都つ くるべ き地 を視 占しめた ま
ふo是の 日に,三野王 .小錦下采女 臣筑雁等 を信濃に遺 して,地形 を
看 しめたまふ○是 の地 に都 をつ くらむ とす るかo
1
3
年
6
8
4
3
2月
庚辰 (
(
2
8日)
日),浄
広 韓 広 瀬 王,小 錦 きた
中大まひて,宮室之地
伴 連 安 麻 呂,及 び
判 官 ..
録
辛卯
9
に,天皇,京師に巡行
を定めた
ま
ふo
宋 鳥元年
6
8
6
9月
丙午 (9日)に,天皇の病,遂 に差 えず して,正宮に崩 りま しぬo
持統 3年
6
8
9
6月
庚成 (
2
9日) に,諸司に令.
一部二十二巻粧 ち賜ふ○
4年
5年
6
9
0 正月
1
0月
1
2月
6
9
1 1
0月
1
2月
戊貴 (1日),皇后,
.即天皇位すo
壬申 (
2
9日) に,高市皇子,藤原の宮地 を観すo
辛酉 (
1
9日) に,天皇,藤原 に幸 して宮地 を観 すo
甲子 (
2
7日) に,使者 を遺 して新益京 を鎮め祭 らしむo
乙巳 (8日) に,詔 して日は く 「
右大 臣に賜ふ宅地 四町o直広 式 よ り
以上 は二町.大参 よ り以下 には-町○勤 よ り以下,無位 に至 るまでは,
其 の戸 口に随はむo其 の上戸 には-町o 中戸には半町o下 戸 には四分
之-o王等 も此 に准- よ」 とのた まふo
6年
6
9
2 正月
戊寅 (
1
2日) に,天皇,新益 京の路 を観すo
む○
7年
8年
6
9
3
6
5月
丁亥
2
3日) に,天皇,藤原の宮地
に,浄広韓難波王等 を遺
して,藤原の宮地 を鎮 め祭 らし
発
巳 (
3
0
を観すo
2月
8月
戊午 (1日),藤 原の宮地 に幸すo
6
9
4 正月
己巳 (
1
0日) に,造京司衣縫王等に詔 して,掘せ るF を収 め しむo
乙巳 (
2
1日) に,藤原宮に幸すo
注) 読み下 し文は日本古典文学大系 『日本書紀』下 岩波書店
1
9
9
3
年による。
表 1 『日本書紀』にみえる藤原京の造営過程
- 47-
整備 な ども十分 ではなかったのではないだろ うか。多 くの都市問題や環境破壊が発生 した
であろう。 いずれにして も、藤原京の造営 は天武 5年 (
676) には じま り、持続 8年 (
694)
の遷都 まで じつ に2
0
年近 くかかる。 遷都後 もおそ らく造営 は続いたであろう。 藤原京の造
営 には、非常 に長い年数がかかっている
。
ところで、天武の王権の正統性 を支えるために藤原京 を造営 したとい う意見がある26)。王
都 には王権 の正統性が反映 されると考 えて よいので、それは正 しい意見であると私 も考 え
るが、 なぜ、 これだけの時間がかかったのか、天武 ほ どの絶対的な権力 をもった天皇が、
どうして順調 に造営 を進めることがで きなかったのか、 どうして宮だけで も移 さないのか、
天武の王権 を考 えるとき、大 きな問題である と考 える2
7
)
。
宮内先行条坊
つ ぎに藤原宮 と条坊 との関係 について述べ る (
図 9)
。藤原宮 は一辺約9
0
0mの方形 を呈
している。 宮 の周 囲には掘立柱 の形態 をとる大垣が まわっている。
ところで、藤原宮の下層 には、先行条坊 とよばれる条坊道路が存在す る 宮内先行条坊
。
と呼ばれている
。
また、先行条坊 に沿 って、その道路 に規制 されるかたちで、多 くの建物
群が存在す る (
図 7 ・8)
。藤原宮 にかかわる建物 は、 こういった建物群 を撤去 し、先行
条坊の側溝 を埋 め立て、あ らためて土地造営 して うえで造営 される。 もちろん平城宮では、
この ような先行条坊やそれに伴 う建物群 は検 出 されていない。藤原宮 だけの特徴 である。
それでは、なぜ、 この ような先行条坊や建物群が存在 したのか。様 々な意見が述べ られて
いるが2
8
)
、私 は、本来的に条坊 を施工 した ときに、宮 の位置が決定 しておれば、宮内先行
条坊 は必要が なかった と考 える。 また、後 に宮 となる場所 にわざわざ建物 をつ くらせ るこ
ともなかった と推定す る
。
しか し、藤原京 は、宮の位置 を決めず に条坊 の造営工事 をは じ
めたため、宮の位置 にかかわ りな く広 い範囲に条坊が施工 され、方形街 区がつ くられた。
その結果 として、宮内の下層 にも条坊が存在す ることにな り、そ こに住 まう人々の建物が
つ くられることになった と考 える。 そ して、その後、天武 1
3年 (
683) になっては じめて宮
の位置が決定 された。先行条坊 は埋 め立て られ、それに伴 った建物群 も撤去 された。 この
ように、藤原京 には、条坊 の施工 と宮の計画 ・造営 とが一体でなされない とい う特徴があ
る2
9
)
。いずれに して も、宮 内先行条坊や建物群 の存在 は、 こういった宮 と条坊 の造営 を考
える とき、重要 な視点 を提供す るもの と考 える。
最近、平城宮 について も、その造営 当初 は宮 のかたちす ら決定 していなかった、 もしく
)
、
は決定 されていたか もしれないが、造営途中で変更がなされた可能性が指摘 されているが30
宮 と条坊 の造営 について も、最初か らすべ てが厳格 に決定 されていた と考 えるのではな く、
もっ と柔軟 な ものであった可能性 を考 える必要がある
。
宮周囲の空閑地 と濠
0mの空閑地が存
藤原宮では、その周囲を大垣が取 り囲む。そ して、その周囲には幅約7
。 とくに、図10は、藤原宮の東方官街地区の建物配置図である 東面大垣が
在す る (
図 9)
。
-4
8-
I
ー
▲ ー
冒
i
ロ
と
こ
=
コ
l
コ
8
敬
○
I
lj
石
那
□
⊂
コ
i
:
O脚
J
に
コ
ー
=壬
ロ0
0
Ei
拷
「
一
ー
「
ll
歪大
秦
五垣
大
面
西
#
秦
拷
闇
i
=
i
口
f
コ
H
戚 n
拷
路
大
西
U
I
図 7 宮内の先行 する条坊 と建物群 (
1
)西南官葡 地区下層
-4
9-
(
S=1/
2000) 〔
林部
2
0
0
3
〕
T
l
F
「「
▲
朱雀大路
1
-(
.
:
.
:
こ
コ
□n
ロ
f
30
坊
路
西
間四条大路
極
殿
南
門
器
率S
,
'
D
日
1
9
01-A
D
Il大
外
郭
秦
内
I
l
四条大路
0
西 一坊 大 路
西面 大 垣
こ
コ≧
Ⅰ
ヨ
⊂
=
コ
良
□
d B
五条 条 闇路
冒
o
o
0
■ ■■
I
□
■l
n
ロ
0
5
pm
西二坊坊 間路
図 8 宮内の先行する条坊 と建物群 (2)(
S-1
/
2
0
0
0)〔
林部 2
0
0
3
〕
1.内裏西方地 区下層
2.西方官街地 区下層
-5
0-
路
大
殿
西
拷
図 9 藤原宮の周囲の空閑地 と宮内先行条坊 (
林部 2
0
0
3
)
あって、その外の条坊道路 (
東二坊大路) までの間に幅6
0m あまりの空閑地が存在する。
平城宮では宮の周囲を区画する大垣の外 はす ぐに条坊道路である 空閑地などは存在 しな
。
い。すなわち、藤原宮では宮 と条坊 とが うまく整合 していないことがわかる。 ちなみに条
坊の設計の基準 は、先 にも述べたように1
5
0
0大尺、7
5
0大尺、3
7
5大尺であったが、宮の設
計は、そ ういった条坊 の単位 とは無関係で整数値 であったことも証明されている3
1
)
。 この
ことも条坊施工 と宮の造営が一体ではおこなわれていないことを示す証拠ではないか と考
える。
さらに、藤原京の場合、宮の周囲には外濠 とよばれる濠がめ ぐる (
図1
0)。 こういった外
濠 も、平城京 には存在 しない。宮の大垣の外 は、す ぐに条坊道路 となる。 すなわち、藤原
- 51-
東二坊大路
官
■■■■璽璽璽艦喜寿l
一■J
■■■■JJ
-
Ⅰ
コ
東二坊坊 間路
「一
条
大
「
J 「
外 濠
「「
口
-
空 閑[
東面大垣
「
0「o
T宮外
内濠
t
=
l
■■■l
■■■一■
路
SL l
l
-
I
J
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J-
J
-
i
Z
■ ■
路
秦
条
間
四
1宮内
一(
⊂
コ
嘉一坊大路
□
B
H
内裏外郭野
=
昼コ [E
ヨ
コ ロE
=
臼
コ:
「
図10 宮周辺の空閑地
東方官衛地 区 (S-1
/
2000) 〔
林部
-5
2-
2003〕
宮 は、条坊 に対する宮の独立性が きわめて高い。 このような特徴 は、藤原宮の造営 と条坊
の造営が一体でなされたものではなかったことを示す とともに、藤原宮が、 まだ一時代前
の宮が単独で存在 し、周囲に条坊がなかった時代の特徴 をなお留めているものと考えるこ
とがで きる
。
もともと、藤原宮以前の宮は単独で存在 した。藤原京か ら宮の周囲に条坊の方形街区が
施工 されることになる。 条坊制 を導入 した最初の都城である。 そこで、 このような空閑地
や外濠 といった、宮が単独で存在 した時代の特徴が、そのまま残 ったのではないか と考え
る そ ういった意味で、藤原京 は条坊制 を導入 した最初の都城ではあるが、宮などに単体
。
で存在 した時代の施設が残 るという過渡的な様相 をもっていた ということになる
。
条坊制の基本原理
ところで、藤原京で条坊制がはじめて導入 される。そ もそ も条坊制 とは、中国では、坊
を囲む坊胎があって、住民の管理 ・治安維持 ・防御のためにつ くりだされたものであった。
また、多様 な民族や様々な階層の人々を棲み分けさせ る施設 として登場 した ともいわれて
いる32)。
しか し、 日本の条坊制は、同 じ方形の街区を導入 しているが、そのようなことを意識 し
た形跡はない。藤原京では、坊 を区画する壁 (
坊据)はな く、掘立柱塀や簡易な施設で区
画 されるだけであった。藤原京の条坊制は、 きわめて開放的なものであった (
図1
1・1
2)。
方形のグリッドプランを導入 しているという意味では、中国都城 との類似は認められるが、
その内実は大 きく異なっていた。
また、 日本の条坊制は、宮 との位置関係、そ して宅地の広 さによって、視覚的に律令制
の中での身分秩序 を示す ものであるといわれている33)。 すなわち、宮の位置に近いほど、
そ して、宅地が広いほど、それだけ身分が高い ということを視覚的に表現 していた。すな
わち、宅地をその場所 に与える (
班給) ということに意義があった。
ところが、藤原京では、宮が条坊の施工 された範囲のほぼ中央付近にある関係で、そ う
いった身分秩序がたいへんわか りに くい構造 となっていた。 また、藤原宮か ら離れた左京
1
1
条 3坊でも、 2町を占地 した大規模な宅地がみつかっている (
図1
3)
。 どの程度、先に述
べた条坊制の基本原理が貫徹 されたのかは、はなはだ疑問である。 いっぼう、平城京など
では、宮の周囲で大規模 な宅地がみつかってお り、条坊制の基本原理は貫かれていた (
図
1
4)。
さらに、藤原京では、平城京でみ られたような *京 *条 *坊 といった数詞による条坊呼
称がみ られない。「
軽坊」「
小治町」「
林町」など固有名詞で呼称 されていた。数詞による
条坊呼称であれば、都の中での位置関係がす ぐに明確 とな り、先ほどの条坊制にあらわさ
れた律令制の身分秩序 について も、その住 まいの場所 を聞 くだけではっきりとしたが、藤
原京のような固有地名だ と、そのあた りが明確ではない。条坊呼称の方法にも、藤原京の
もつ問題点があった。
-5
3-
西十坊 大路
北四
⊂
盛
二
匝コ
50m
」
北四 ・五条十坊
1.藤原京右京北四
-5
4-
2.藤原京右京 四条六坊
東五坊坊 間路
東-坊坊
I ∩ 間路
一 匹 9-
.▲
-
北四条路
図1
2 藤原京の宅地利用 (2)(
S-1
/
2
0
0
0)〔
林部
1.藤原京左京六条三坊
2.藤原京左京北 四条-坊
-5
5-
2
0
0
7
〕
3.藤原京左京一条五坊
条坊制の導入 と集住
それか ら、飛鳥 ・藤原地域では、近年、発掘調査が進み、官の周辺地域で天武朝頃の有
力氏族の邸宅がみつかるようになった。た とえば、橿原市五条野向イ遺跡、五条野内垣内
遺跡などがあげられる (
図1
5
)
。そ して、 これ らの居宅が、藤原宮 ・京への遷 (
宮)
都のとき
には大 きく変化せず、平城京への遷都 に伴 って廃絶 していることが明 らか となっている。
すなわち、飛鳥か ら藤原宮 ・京-の遷 (
宮)
都 によって京内に邸宅を移す とい うことをして
いない可能性がある。別に京内に宅地の班給 を受けている可能性 はもちろん否定で きない
が、少な くとも、藤原宮 ・京への遷 (
宮)
都 にかかわって、周辺の邸宅に変化がない とい う
1
●
● 4町 占地 の宅地
2町
● 1町
・1町未満
図13 藤原京における宅地利用 〔
林部 2
0
0
7〕
※京城 は小 津 説 に拠 る。
-5
6-
+
+
J
●
●
●
●
●
●
●
●
●
●
●●●
●●●
●●
●
●
● ●●● ●
●
● ●
● ●
●●
●●
平城京
塞
西●
大
右
大
東
寺
●
●左
京
1
京
元興
●
●● ●
●● ●
●
●●●●
●
●
●
●●
●● ●
●
● ● ●
守
●
大
審
●
四坊
三坊
二坊
-坊
-坊
二坊
三坊
輿福
・
ヽ
有位者
明
五坊●
●
● 六坊
六位以下
三位以上
その他
四位 .
七坊
五イ
.不
の
\
四坊
図1
4 平城京 における位階による宮人居住地の分布 (
奈文研 1998よ り)
l
l
図1
5 藤原京郊外 の宅地 (
S-1/
2000)〔
林部
1.五条野向イ遺跡
2
0
0
7
〕
2.五条野内垣 内遺跡
-5
7-
ことは重要なことだと考える。 藤原京-の役人の集住 ということを考 えるときに、ほん と
うにどの程度の役人を京内に強制的に住 まわせたのかという問題が残 る いずれにしても、
。
藤原京では、京内への集住 は不徹底であった といわな くてはならない。 これは、藤原京の
成立や条坊制の導入 を考えるとき、看過で きない問題である。
宅地の規模
さらに、宅地の問題にかかわって、 もうひ とつ
。
この点については、 もう少 し、藤原京
の宅地にかかわる調査データを集積 したうえで、検討 しな くてほならないが、平城京など
では、宅地の 1坪 を1
/
3
2や、1
/
6
4に分割 した小規模な宅地が発掘調査で検出されている。 と
くに奈良時代後半には、そ ういった ものが顕著 にあ らわれる傾向が強まるということがい
われている。 ところが、藤原京では、今のところ、 1坪 を1
/
8に分割 したものが最小の区画
である34)。藤原京では、あまり小規模 な宅地 はなかったのではないか。 さらに、宅地の中
での建物の規模や数、配置などについて も比較検討 しな くてはならないが、平城京のよう
な明 らかに一般民衆の家 というものが、 どれだけ存在 したのであろうか。疑問 とせ ざるを
えない。
藤原京の場合 は、本来的に役人の居住地 として方形街区が成立 し、それが平城京へ と引
き継がれ、奈良時代の後半以降の平城京において、都市民 と呼ばれる都市に住 まう一般民
衆が形成 されることになった。 これまで漠然 と都城における住民の階層 について考えられ
てきたことを藤原京について も、発掘調査のデータなどにもとづ き、詳細 に考えてい く必
要がある。
3.条坊制 を導入 したことによって何がかわったのか。
ここまで、藤原京の条坊制の特徴について、 きわめて限られた視点か らだけであったが、
若干の整理 を試みた。 ここであげた諸点は、藤原京の京城が どういった ものであれ、検討
しなければならない問題点であると思 う。 他の都城 との比較 を含めて、今後の検討が必要
であろう。
それでは、条坊制を導入 して何がかわったのか、条坊制導入の制度面、思想面での影響
についても考 えな くてほならないが、実際問題 として何が起 こったのか ということについ
て考 えてみたい35)。
条坊制の導入
まず、条坊制 という、方形街区が広い範囲に出現するということは、 日本の歴史の中で
も、おそ らくは じめてのことであった。人は、 はじめて四周 を道路 に囲まれた方形の宅地
といった環境の中に住むことになった。おそ らく、様々な都市間題、社会問題、環境問題
が発生 したと思われる。 それでは、具体的にどういった問題が発生 していたのであろうか。
宮の形態
まず、一つ 目は、宮の形態が正方形 になった。それまでの宮 というものは、飛鳥宮 (
伝
-5
8-
承飛鳥板蓋宮跡) などの ように不整形なかたちをしていた。前期難波宮で も、かつて、宮
は正方形 に復元 されていたが、近年は矩形、 しか も宮中枢 を軸 に左右対称 にな らないこと
な どが指摘 されている3
6
)
。私 も、かつて同 じことを指摘 し、場合 によっては、上町台地の
上 に不整形な宮があって もよい とも考 えだ 7
)
。 こういった不整形 なかたちをした宮が、条
坊 の方形街 区の中にはめ込 まれた関係で、条坊 との整合 をとるために、その形態 を正方形
に しな くてはな らな くなっだ 8)。 これは、おそ らく藤原宮か らで、宮の各面 に三つの門が
開 くの も条坊道路 に面す ることになったか らと考 える。 まず、条坊の方形街区が導入 され
て起 こった変化 として宮の形態の変化があげ られる。
こういった視点で宮の形態 を考 えることがで きるとす ると、前期難波宮 にともなう条坊
の問題 にも、少 し解決の糸口が見 えて くる。 前期難波宮のかたちは、先 にも述べたごとく
矩形 もしくは、不整形 と考 えた。当然のことなが ら、条坊 とは整合 しない。宮南面の中心
大路 を中心 とした北 を指向 した都市計画のような ものがあっただけで、条坊制 は施工 され
なかった とみるのが適切ではないか。同 じことは、飛鳥宮や大津宮 とその周辺 について も
いえる3
9
)
。ただこのことと 「
京」が存在 したか どうかは別問題であることは言 うまで もな
い。
廃棄物の処理
そ して、 もう一つは、方形の街区の出現 によってゴミの廃棄方法が大 きく変わった。飛
鳥などでは、 ゴミは宮周辺の谷地形などに一括 して捨て られ、土坑 を掘 ってゴミを捨 てる
とい うことはあま りなかった。統計的にまった く例 はなかったか といわれた ら、そこまで
はいい きれないが、少 ないことだけは間違いない。いっぼう、平城京 などでは、 ゴミは一
般的に宅地内に大 きな土坑 を掘 って捨て られる。 この変化 は、 なぜ発生 したのか とい うこ
とである。 飛鳥では、北 を指向 した都市計画の ような ものはあったが、いかなる方形の街
区 も存在 しなかった40)。そ こで、宮の周辺の谷地形 な どに簡単 にゴミを捨てることがで き
た。 しか し、条坊制が導入 され、方形街区がつ くられると、宅地の周囲が条坊道路 によっ
て囲まれる。 その周囲に頻繁 にゴミを捨てることは基本的に不可能 となる。 現代 の ように
ゴミを定期的に回収 してい くシステムもない。そ こで、周辺の条坊の側溝や宅地内に大 き
な穴 を掘 ってゴミを捨 てた41)。
周辺の谷や川 にゴミを捨てるのを仮 に 「
飛鳥塑」 とす ると、宅地内に穴 を掘 ってゴミを
捨 てる、条坊の側溝 にゴミを捨てるとい う処理方法 は 「
平城京型」 とも呼んで よい。条坊
制 の方形街 区の導入 に ともなって、「
飛鳥型」か ら 「
平城京型」へ とゴミの廃棄方法の変
化が起 こったのではないか。条坊制 という方形街区を導入 によって、住民の生活にかかわっ
て、 まさにゴミ問題が発生 していた。
こういった視点でゴミの捨て られ方 を分析する と、先 に取 り上げた前期難波宮では、明
飛鳥型」 といえ
らかに上町台地の低 い谷状 の地形 にゴミを捨 てている。 先の分類では、「
し
る。 そ ういったゴミの捨て られ方か らも、難波宮 には条坊制が ともなった可能性 は低い と
-5
9-
いわざるをえない4
2
)
。
都 と重地
それか ら、藤原京の成立、条坊制の導入 と深 くかかわるというよりは、む しろ都の成立、
あるいは都市の成立 と深 くかかわるのではないか とい う問題 を簡単に取 りあげる。
都 な り都市がで きると、そこに多 くの人々が集 まって住む。そ うすると、人である以上、
当然のことなが ら、死 とい う問題が発生する。 す なわち、都市 に住んだ多 くの人の遺体 を
どのように処理 したのか とい う問題が発生す る。 住 まいのす ぐそばに埋葬す ることは、思
想的 (
蔵れ) にも、 また衛生的にも健全 な処理方法ではない。 ということは、 どこかにそ
ういった墓地 (
葬地) を作 らなければならない とい うことになる 飛鳥 ・藤原京であれば、
。
その東南の地域 に天武 ・持続合葬陵 とされる野 口王墓古墳 をは じめ とした多 くの終末期古
墳が墓域 を形成 し、集中 して造墓がお こなわれている。 こういった墓地空間の形成 とい う
ことと、都、あるいは都市の形成は深 くかかわるように思 う。 日本の場合、身分の高い人
の墓 しか、その所在地 はわか らないが、中 ・下層の官人たちや、それを支えた人々が どこ
に葬 られたのか、墓地が形成 されたのか も今後明 らかに しなければな らない重要 な課題で
あろう 都 に付属 した墓地の形成の問題は、都 の成立、都市形成 にとって、 また環境史 に
。
とって も重要 な問題である。 また、逆 に、 7世紀前半頃か ら、中ごろ、後半 と古墳 の分布
を詳細 に検討 していけば、すなわち、いつか ら、飛鳥の東南の地域 に集中 して墓地が形成
されるのか、本貴地か ら切 り離 されたかたちで造墓がお こなわれるのかを考 えれば、都が
いつ成立 したのか とい う問題について もアプローチが可能になる。
見通 しだけを述べ ると、飛鳥 ・藤原地域 における新 たな墓域の形成 は、天武 ・持続の墳
墓の造営が契機 とな り、その後、天武 ・持続 にかかわる皇子や有力氏族の墳墓がつ ぎつ ぎ
とつ くられた もの と考 える。 墓域の形成か らみた都、都市の成立は、その計画時期 も考慮
すれば、天武朝の中、その末年 までに求めるのが妥当であろう。
都の土器様式
さらに、都で使 われる特有の土器様式の成立 も都 の成立、都市の成立 と深 くかかわる
。
飛鳥時代後半、飛鳥 ・藤原京 を中心 として、多様 な券種構成 をした新たな土器様式が成立
して くる。 すなわち、食器が きわめて多様 にな り、いろんな食器 を使 って食生活や饗宴が
3
)
。 しか し、
おこなわれていた。かつて 「
律令的土器様式」とよばれた ものがそれにあたる4
その存在 は、飛鳥 と藤原京 だけで、その周辺である奈良盆地南部では異 なる土器様式の存
在が指摘 されている4
4
)
。 こういった食器の使 われ方 は、当時の役人への給食制度 とも深 く
かかわ り、都 での特殊 な生活形態 (
食器の材質や数 ・大 きさによって律令制の身分秩序 を
示す)だけにかかわって必要 なもので、それ以外の地域では、 まった く無縁 の ものであっ
た。実際、飛鳥 ・藤原地域 を一歩で も外へ 出ると、古墳時代以来の伝統的な食器 を使い、
単純 な券種構成 をした土器様式の分布が認め られる。
こういった都 だけの特別 な土器様式が出現 して くる背景 には、当時の都 の支配形態が深
-6
0-
くかかわる。 すなわち、 日本の都の場合、都の内 と外では行政的な管轄が異なる。 その内
は京職が管理 し、その外 は国都 (
評)里制による統治がおこなわれた。具体的には国司 ・
郡司による支配がおこなわれた。都 だけが特別行政区画 として、特別な支配体系の もとで
統治 されていた。情報や物資の供給や管理は、それぞれの官司によっておこなわれるわけ
であるか ら、都の内 と外では、そういった情報や物資の管理や流通のあ り方が異なってい
たということがいえる そうすると、都だけの独 自の食生活に対応 した土器の組み合わせ、
。
また、都だけの特別な流通体系 にもとづいた土器様式が成立 して くる可能性がある。 新 し
い特別の土器様式の成立は、都の成立 とまさに対応 していると見 なして もよい。
このような視点で、飛鳥 ・藤原地域、ならびに奈良盆地南部の土器様式の変遷をおおま
かに検討すると、 7世紀中ごろまでは、新 しい土器様式 を構成することになる個々の土器
は出現 しているが、いまだ、それ らが組み合わせて新 しい土器様式 を形成するには至 らな
い。 7世紀 中ごろか ら、新 しい土器様式 をかたちづ くりは じめ、天武朝、す なわち、飛
鳥 ・藤原地域の土器編年で飛鳥Ⅲの後半か らⅣの段階にかけて、新 しい券種の出現や券種
の多様化が一気 に進み、新 しい土器様式 (
律令的土器様式)が成立する
。
この段階におい
て、は じめて飛鳥 ・藤原地域だけに認め られる新 しい土器様式が成立 した。 これは、 まさ
しく、都、あるいは都市 における新たな食生活、独特 な食器の使われ方の出現 に対応する
のであろう また、都だけの独 自な食器の流通体系の成立 したことを意味 している。土器
。
様式か らみた都、あるいは都市の成立は、天武朝の中に求めるのが適切であろう
。
この新 しい土器様式は、平城京-の遷都 にともない、そのまま平城京へ と継承 される。
平城京 においても、奈良盆地北部、あるいは山城南部地域の土器様式 とは異なる土器様式
が展開 していた。都の成立 と、それにともなう新 しい支配方式が新たな土器様式の出現 を
促 した もの と考 えられる
。
都 と苑地
さらに、飛鳥宮では内郭 と呼ばれる空間の北西で大規模 な苑池遺構がみつかっている4
5
)
。
苑池には、王権 による支配理念や支配領域が象徴的に示 され、思想的にきわめて重要なも
の といわれる46)。そのいっぼうで、都や都市の成立、条坊制都城の成立などによって、周
囲に自然環境が少 な くな り、その中で、つ くりだされた自然 といった視点か らも考えるこ
とがで きるのではないか。そういった ものが、飛鳥宮のⅢ期遺構 (
後飛鳥岡本宮 ・飛鳥浄
御原宮)で最初 に認め られることに注 目したい。
まとめ 一藤原京造営の意義それでは、最後 に藤原京造営の意義について、少 しだけ述べて、 まとめに変えたい。
冒頭でも述べたように藤原京の京城 はいまだ確定 していない。 1
0条 1
0
坊であったか もし
れない し、そ うではなかったか もしれない。今の段階では何 ともいい ようがない。今後の
発掘調査 を見守 りたい。ただ、 これまでの発掘調査の成果にもとづ くか ぎりでは、宮は条
-6
1-
坊が施工 された範囲のほぼ中央付近にあることは間違いないようである。 どうしてこのよ
うな都 をつ くったのであろうか。
藤原京造営の意義
藤原京 1
0条1
0
坊説では、藤原京 をつ くっている天武朝 ・持続朝 には、遣唐使の派遣はな
い。中国の最新都城の情報が途絶 した。そこで、中国の古典である 『
周礼』にその範 をも
とめ、理念先行型の都 をつ くったという。 そ して、大宝 2年 (
702)、栗田真人を代表 とす
る遣唐使が長安城へ行った とき、その違いに驚 き、そ して、持ちかえった情報で、国家の
体面 を整えるために、東アジア社会の中で他の国々と対等に張 り合 ってい くために平城京
)
。
への遷都がお こなわれたといわれる47
しか し、ほんとうにこれでよいのだろうか。 こういった説明で、藤原京の造営、そ して
平城京への遷都 を考えてもよいのであろうか。 こういった考え方は、取 りようによれば、
藤原京の造営、そ して条坊制の導入の意義 を低 く見て しまう可能性がないであろうか。
私 は、その ようには考えない。天武 ・持続 は、階唐長安城の形態 を知 りつつ も、敢えて
違 った形態の都 を造営 した と考 える。 そこに藤原京造営の本当の意義が隠されているよう
に思 う。
遣唐使の問題については、天武 ・持続朝以前の遣唐使が確実に長安城 に行 っている。 入
唐僧や留学生 も帰国 している。 何 らかの形で階唐長安城の形態にかかわる情報 を伝 えてい
た可能性がある。 とはいって も、都の形態の細部 までの情報は入手することは困難であっ
たであろう 大 まかに惰唐長安城のイメージが伝 え られ、それは、当然の ことなが ら天
。
武 ・持続 も知 っていた。そこで、藤原京 を造営するにあたっては、あえて長安城の形態 を
採用 しなかった と考えるのが 自然である。 おそ らく、天武 ・持続の王権の正統性 を支える
都 として、 より荘厳 にみせるために造営 したのではないか。
とくに天武は壬申の乱によって皇位 を甥の大友か ら奪 っている。 ある意味で纂奪王権で
ある。 その王権の正統性 を示すために敢 えて長安城 とは違 う形態の都 をつ くったと考えた
い。そこに藤原京造営の意義や、条坊制導入の意義があったと考える48)。
遣唐使 と平城京
それか ら、平城京の造営 と遷都 にかかわる問題は、条坊制その ものが、中国都城の影響
であるか ら、平城京の造営 にあたって、長安城の影響がまった くなかった とまではいえな
い し、私 も否定 しない。 しか し、平城京 に長安城の強い影響があるとするならば、その情
報 をどういったかたちで 日本 に持ちかえったのか というそのメカニズムの解明こそが重要
ではないか。国都 にかかわる情報は、大唐帝国にとって最大の機密事項であったはずであ
る。 中国は日本や新羅などとの関係はともか く、北方の国々と絶えず緊張関係 にあった4
9
)
。
そこで、国防上、 もっとも重要な国都 にかかわる情報 を簡単に遣唐使 に渡 したとはとうて
い思 えない。 また、中国での遣唐使の動向 とい うものはなかなかわか らないが、行動の自
由はかな り制限されていた。 自由に歩 き回って調べるということは、不可能に近い。また、
-6
2-
中国の人々が遣唐使 などに接触することも国家機密の漏洩にかかわって厳 しく禁止 されて
いだ o
)
。平城京の造営 にあたっては、都市設計図が国家 間レベルで伝授 された とい う意見
が述べ られている51) が、中国での遣唐使を取 り巻 く環境や、当時の国際情勢 を考慮すると、
常識的に考えて、そ ういったことはあ り得ないことではないか と考える
。
また、大宝の遣
唐使が政府が派遣 した公式の使節で、国家の枢要 を担 うべ き立場 にあった人材で構成 され
ていた ということや、その直接の見聞を通 しての判断を考慮すべ きという意見 もあるが、
そこには、 自ずか ら限界があったことは明 らかであろう。 近年、有力 とな りつつある大宝
の遣唐使 を高 く評価する意見 には、一抹の不安 を感 じる。
このように考えて くると、 とうして平城京が長安城 を模倣 したのか、また、ほんとうに
模倣 したのか も含めて今後の検討が必要ではないか と考える。 さらに、模倣 したならば、
どういったメカニズムで模倣することがで きたのかを考 える必要がある。 そういったこと
を検討することにより、藤原京の条坊制の特質、 ひいては条坊制導入の意義が明確 となる
のではないか と考える
。
ここまで、藤原京の条坊制や条坊が導入 されたことによって何が起 こったのか とい うこ
とについて、雑駁にまとめてきた。思いつ くまま、問題点を羅列 したにす ぎず、なん ら確
たる解答 を示 し得 なかった。具体的な検証が伴わない点 も多々み られた。 また、すでにま
とめた ものを再論 したに過 ぎない箇所 もあった。ただ、藤原京研究が もつ現段階における
問題の所在 は指摘で きた と思 う。 そこで、今 こそ、あ らためて藤原京 にかかわる調査デー
タの集積 と、それにもとづ く立論 こそが、最 も求め られていることを確認 して本稿 を終 え
たい。
注
」『古代王権の空間支配』青木書店
1)拙稿 「
飛鳥の諸富 と藤原京の成立
2
00
3年。
2)本稿 は、2
0
05年 8月 6日、奈良女子大学で開催 されたシンポジウム 「
古代都城 と粂坊制」での報告 をもとにまとめ
たものである。なお、報告の前半部分は、2
0
0
5年 3月に中央大学で開催 された国際シンポジウム 「
東アジアの都市
史 と環境史一新 しい世界-」での報告 と重複する部分が多 い。そのため、本稿 も、その報告集に収録 された拙稿
」
「
飛鳥 ・藤原京の実像- 『日本的』都城の成立- 『
都市 と環境の歴史学』2 (
2
0
0
7年 3月刊行予定) と重なる部分
が多いことをあ らか じめお断 りしてお く。 また、本報告 は、 日本学術振興会科学研究費補助金基盤研究 (
B) 「
地
理情報 システムを用いた古代宮都 の環境復元 と環境史の研究」 (
研究代表者林部均)の成果の一部 を含 んでいる。
3)岸俊男 「
道春地割 ・地名 による平城京の復原調査
」『日本古代宮都の研究』岩波書店
1
9
8
8年 (
初出は1
97
4年)0
」『日本古代宮都の研究』岩波書店 1988年 (初出は1969年)。
「
藤原京関連条坊遺構の調査」
『
奈良県遺跡調査概報』1
9
7
9年度奈良県立橿原考古学研究所
4)岸俊男 「
緊急調査 と藤原京の復原
5) 中井一夫 ・松 田真一
1
9
81
年、楠元哲夫 『
院上遺跡』 (
奈良県文化財調査報告書第4
0集)奈良県教育委員会
」
京の京城考一 内城 と外京 の想定- 『
考古学論致』 (
橿原考古学研究所紀要)第 4冊
6)井上和人 『
藤原宮一半世紀 にわたる調査 と研究-』飛鳥資料館図録第1
3冊
-6
3-
1
9
8
4年。
1
9
8
3年、秋 山 日出雄 「
藤原
1
9
8
0年。
」『千葉史学』 9
7)阿部義平 「
新益京 について
塙書房
千葉史学会
1
986年、押部佳男 「
飛鳥京 ・新益京
」『古代史論集』上
1
988年。
」『奈良県遺跡調査概報』1987年度
8)西藤清秀 ・林部均 「
橿原市四条遺跡発掘調査概報
1
990年。
9)考古学の立場 か ら何 を もって都 の範 囲 とす るか とい う問題 は、 きわめて困難 な問題である。す なわち、 日本 の都
城 の場合、明確 な羅城が存在 しないので、何 をもって京 内 と京外 とを区別すべ きなのか、その指標が はっ き りと
しないか らである。 この課題 は、四条遺跡の調査 か ら約20年 たった今 で も、解決 されない問題である。 この こ と
は、 シンポジウム当 日、 山田邦和氏か らも問題提起があ り、平安京 にかかわって重要 な論点 を提起 された。ただ、
私 は、藤原京以降の条坊制都城では、 ひ とまず条坊 が施工 されている範囲は、少 な くとも都 であった とみ るべ き
だ と考 える。条坊 の方形街 区は、周辺地域 とは大 き く異 なった特別 な景観であ り、京内 と京外 とを区別す る明確
な指標 と考 えるか らである。
1
0)拙稿 「
藤原京関連粂坊 の意義
」『古代宮都形成過程の研究』青木書店
2001年 (
初出は1
993年)。
ll
)橿原市千塚資料館 『
か しは らの歴史 をさぐる』 5 1
997年、 桜井市文化財協会 「
上之庄遺跡第 4次発掘調査 の概
要
」『平成 8年度
議会
奈良県 内市町村埋蔵文化財発掘調査報告会資料』奈良県内市町村埋蔵文化財技術担 当者連絡協
1
997年。
1
2)小洋毅 「
古代都市 『
藤原京』の成立
」『日本古代宮都構 造 の研 究』青木書店
」
82 吉川弘文館
「
藤原京 と 『
周礼』王城 プラン 『日本歴史 』5
1
3)小揮前掲注 (
1
2)論文、井上和人 「
藤原京 ・平城京造営の実像
2003年 (
初 出は1
997年)、中村 太一
1
996年。
」『古代都城制条里制の実証的研究』学生社
2004
年 (
初 出は2
003年)0
1
4)2004年現在での粂坊 の検 出地点 を示 した。本図の作成 は、「
地理情報 システムを用いた古代宮都 の環境復元 と環境
B)研 究代表者林部均) による。
史の研 究」 (日本学術振興会科学研究費補助金基盤研究 (
1
5)大和郡 山市教育委員会 ・元輿寺文化財研究所 『
下三橋遺跡第 1
次発掘調査現地説明会資料 』20
05年。 さらに2007年
6月には十条大路 に相 当す る道路がみつかった。
1
6) この規格 に合致 しない道路遺構がい くつか存在する。今後 は調査成果その ものの再検討 も含めて、その意味 を考 え
る必要がある。
1
7)拙稿 「
条坊制導入期の古代宮都
」『古代宮都形成過程 の研 究』青木書店
2001年 (
初出は1
999年)0
1
8)藤原京では、宮南面 中門か ら、南 にのびる道路 を 「
朱雀路」 とよんだ ことが 『
続 日本紀』和銅 3年 (
71
0)正月壬
子条によって知 ることがで きるので、「
朱雀大路」 と呼称す る。
1
9)今泉隆雄 「
平城京の朱雀大路
」『古代宮都 の研究』吉川弘文館
1
993年。
」
20)拙稿 「
藤原京 の 『
朱雀大路』 と京城一 最近の藤原京南辺 の調査 か ら- 『
条里制 ・古代都市研究 』2
0 2004年。
」『東北文化論のための先史学歴史学論集』 (加藤稔先生還暦記念) 1992年。
22) ただ単 に 「
京」 とだけ呼ばれ、固有名称 は もたなかった とい う意見 もある。橋本義則 「
『
藤原京』造営試考-『
藤
『
研究論集 』ⅩⅠ 奈良国立文化財研究所学報第6
0冊 2000年。 なぜ
原京』造営史料 とその京号 に関す る再検討-」
21
)北村優季 「
藤原京 と平城京
「
新益京」 と呼称す ることになったのかは別稿 を用意 した。
23)藤原京の条坊施工の原理 については、発掘調査の成果 を集成 し、 ひとつ ひとつの坊 を復元 し、実際に条坊復元 した
うえで、それ らを貫いて、条坊施工 にあたっての、 なん らかの共通 の原理が ないのか を導 き出す必要がある。 こ
-6
4-
れは、平城京 について も同 じである。安易 に粂坊 の計画線 を設定 し、それに検出された遺構が整合するのか、 し
ないのかを検討 しても、 どれだけの意味をもつのであろうか。
24)妹尾達彦 『
長安の都市計画』講談社
2001
年。
25)拙稿注 (
1
7)前掲論文。
26) 井上和人 「
平城京形制の実像-5
0年間 ・1
00haの発掘調査の成果か ら-
へー 』中央大学
」『東アジア都市史 と環境史一新 しい世界
2005年。
」
27)拙稿 「
古代宮都 と天命思想一飛鳥浄御原宮における大極殿の成立をめ ぐって- 『
律令制国家 と古代社会』塙書房
2005年。
28)建物群 を藤原京造営のための役民のための住 まい、すなわち造営キャンプとみる意見が強い。 しか し、具体的に、
造営キャンプにかかわる遺構が、 どういった ものであるのかが よくわか らない段階において、 このように考える
ことには無理がある。 また、具体的に藤原宮の下層でみつかる建物群 を分析すると、畿内に一般的にみ られる集
落の一単位 にきわめて類似 している。 また、都 を造営するためのキャンプであれば、 もっと一 ヶ所 に集中 して建
物がたて られるのではなかろうか。
29)拙稿注 (
1
7) 前掲論文。
」
30)井上和人 「
平城宮東院地区の造営年代一周辺条坊道路施工の実態か ら- 『
古代都城制条里制の実証的研究』学生
社
2004年 (
初出は2002年)
。
」『古代都城制条里制の実証的研究』学生社 2004年 (初出は1984年)0
32)妹尾達彦 「
都市の生活 と文化」
『
魂晋南北朝晴唐時代史の基本問題』汲古書院 1
997年。
33)佐藤信 「
平城京の宅地構成 と左京四条四坊」
『日本古代の宮都 と木簡』吉川弘文館 1
997年 (
初出は1
983年)
0
34)竹田政敬 「
藤原京の宅地」
『
奈良県立橿原考古学研究所論集』第十四 八木書店 2003年。
31
)井上和人 「
古代都城制地割再考
35) 以下の内容は、『
地理情報システムを用いた古代宮都の環境復元 と環境史の研究』 (日本学術振興会科学研究費補助
金 基盤研究 (
B)研究代表者林部均)において、2005年 7月に 「
古代宮都 と環境問題」 と題 しておこなった報告
にもとづ く。なお、 こういった視点か ら古代宮都、 とくに飛鳥 ・藤原京について検討 した く、先 に記 した共同研
究を立ち上げた。
」『大阪における都市の発展 と構造』山川出版社
36)横 山洋 「
孝徳朝の難波 と造都構想
」『古代宮都形成過程の研究』青木書店
37)拙稿 「
飛鳥浄御原宮の成立
2004年。
2001
年 (
初出は1
998年)
。
」『飛鳥 ・藤原京、及び平城京の都市機能の比較研究』 (平成11-14年度科学研究費補助金
(
C) (2)]研究成果報告書)2
003年。なお、この論文の初出は 「
都城論 一藤原京 と平城京 -」
『日本
38)拙稿 「
藤原京 と平城京
[
基盤研究
史研究最前線』新人物往来社 2000年。
39)拙稿注 (
38)前掲論文。
」『古代都城制条里制の実証的研究』学生社
40) 井上和人 「
飛鳥京城論の検証
2004年 (
初出は1
985年)
。
41
)拙稿注 (
38)前掲論文。
42)拙稿注 (
38)前掲論文。
」『土器様式の成立 とその背景』真陽社
「
桧前 ・上山遺跡発掘調査概報」 Ⅱ『
奈良県遺跡調査概報』1
984年度
43)西弘海 「
土器様式の成立 とその背景
1
986年 (
初出は1
984年)
。
44)拙稿
1
985年、拙稿 「
出土土師器の検討」
-6
5-
『
寺口忍海古墳群』新庄町文化財調査報告書
第 1冊
1
9
8
8
年、拙稿 「
都 の土器 ・さとの土器一奈良盆地南部にお
」
大和の古代土器』古代土器研究会 ・大和古 中近研究会
ける土器様式の特質- 『
して 「
古代宮都 と土器様式
1
9
9
4
年。 さらに、 これ らを総括
」『考古学論究』 (小笠原好彦先生退任記念論集)2007年 をまとめた。
4
5
)奈良県立橿原考古学研究所 『飛鳥京跡苑地遺構調査概報 』2
0
0
2
年。
4
6
)多 田伊織 「ニワと王権一古代 中国の詩文 と苑-」『古代庭 園の思想』角川書店 2
0
0
2
年。
4
7
)小樽注 (
1
2
)前掲論文、井上注 (
1
3
)前掲論文、井上和人 「東 アジア古代都城の造営意義一 形制の分析 を通 じて-」
『
東南 アジア考古学会研究報告』第 3号
2
0
0
5
年。
4
8
)これは、あ くまで一般的な解釈 であ り、 なぜ長安城 とは異 なる形態の都 を造営 したのか とい う具体 的な説明 とは
なっていない。 この点が井上注 (
1
3・
4
7
)前掲論文や小津注 (
1
2
)前掲論文 と比べて説得力 を欠 くものであること
は十分 に認識 してい る。今後の課題 としたい。ただ、 この時期 の唐 の評価 を低 くみて、いつ滅 びるかわか らない
国の都 の形態 を模倣することはしなかった とする意見 (
寺崎保広 「
律令国家の源流
」『古代宮都 と飛鳥池遺跡 』2001
年) には賛成 し難い。 『日本書紀』によると、推古3
1
年 (
6
2
3
)7月に唐か ら帰国 した僧恵 日が 「其の大唐国は、法
式備 り走れる珍 (
たか ら)の国な り。常 に達ふべ し」 と報告 している。唐 に対 して、寺崎が考 えるような認識 を
当時の政権が もっていた とは、 とうてい考 え難い。飛鳥時代 の天武 ・持続 の王権 と、奈 良時代 の王権がめ ざ した
律令 国家 のかたちが根本的に違 っていたので、あえて天武 ・持続 は長安城の形態 を取 り入 れなかった と考 えたい。
4
9
)石見清裕 『唐 の北方問題 と国際秩序』汲古書院 1
9
9
8
年。
5
0
)石見注 (
4
9
)前掲書。
51)井上註 (
4
7
)前掲論文。
〔
追記〕 なお、本稿 は註 にも記 したように、2
0
0
5
年 8月 6日に開催 されたシンポジウム 「
古代都市 と条坊制」での報告
原稿 をもとに成稿 した。本文が口語調であるのはそのためである。お許 しいただ きたい。 また、本稿 をさらに深
4
9
)吉川弘文館
めるかたちで、『
飛鳥の宮 と藤原京 -よみが える古代王宮 -』 (
歴史文化 ライブラリー 2
2
0
0
8
年発
刊予定 をまとめた。本稿 で述べたことを詳 しく記述 しているので、それ も参照いただければ幸 いである。
-6
6-