伊賛 Fと 露 三 ョ ーズ 臨7 発 行 伊択 市 敏 背 秦員 会 生 涯 牛 君 潔 文化 財 係 ■ o 5 9 5 ・ 22・ 9601 〒 518・ 8501 三 貫 県 伊 貿 市 上 野 九 之 内 】1 6 , H 0 5 9 5 。 22・ 969J 2008. 8. 22 川 上 南砦 跡 発 掘 調 査 の 成果 に つ いて 柱 建 物 跡 と共 に 円 面 硯 や 墨 書 ・刻 害 土 器 が 出 土 して い ま す 。川 上 中 縄 手 遺 跡 で は 、 カ マ ドを 伴 う竪 大 住 居 跡 が 検 出 され 、 こ の 時 代 の 土 師 器 や 須 恵 器 が 出 土 し て い ま す 。 中 世 に な る と川 上 中 縄 手 遺 跡 で は 掘 立 柱 建 物 跡 や 土 坑 が 検 出 され 、 鎌 倉 時 代 か ら 室 町 時 代 の 遺 物 も は 土 量 が 多 くな る こ とか ら こ の 頃 に は 人 々 の 生 活 が 活 発 に な つ た 様 子 が 窺 え ま す 。 室 町 時 代 の 終 わ りに 近 い 戦 国 時 代 に は 、 1. は じbに 阿 保 小 盆 地 を 図 む 丘 陵や 木 津川 支 流 の 前深 瀬 川 や 川 上 川 周 辺 の丘 陵 上 に も中 川 上 ダ ム 庭 被 に 伴 う埋 蔵 文化 財 の 発 掘調 査 につ い て は 、 平 成 1 3 年 か ら旧 常 山町 教 育 委員 会 が 、平成 1 6 年 1 1 月 の 市町 村合 併以 降 は 伊 賀 市 教 育 委 員 会 が 行 つて きま した 。今 年 度 は 、主 要 地 方道 松 阪 ・美 杉線 の 付 誉 工 事 に 伴 い 、伊 賀市 川 上 に所 在 す る川 上 南 砦 跡 の 発 掘調 査 を行 い ま した 。 2.H査 地 周 辺 の遺 A S 世 城 館 跡 が 数 多 く築 か れ て い ます 。 3.川 上 高 害 跡 とそ の 周 辺 の 城 館 跡 に つ い て │1上 前 深 瀬 川 左 岸 の 見 晴 ら しの 良 い 丘 陵 支 尾 根 の 先 端 部 に は 川 上 出 羽 城 跡 ・サ 砦 跡 ・川 上 南 砦 跡 が 限 下 の 谷 底 道 を 監 視 す る よ う に 近 接 して 築 か れ て い ま す 。 川 上 出 羽 城 跡 は 、 平 面 の 規 模 が 南 北 約 1 2 0 m 、 東 西 約 1 0 0 m あ り、 山 頂 を 切 り 伊 賀 市 南 部 、木 津 川 上 流 域 や 支 流 の 前深 瀬 川 流域 に は 多 く の 遺 跡 が 存 在 して い ます 。川 上 中縄 手 遺 跡 をは じめ 花 代 遺 跡 、東 出遺 跡 、中直 橋 と 跡 で は縄 文時 代 早 期 の 上 器 が 出 上 して い ま す 。 込 み 削 平 して 主 却 と し 、三 方 を 高 い 土 墨 で 囲 み 、背 後 は 2 条 の 堀 切 を 入 れ て い ます 。 ま た 、 東 西土塁 の東 │ 1 上中 縄 手 遺 跡 で は 縄 文 ま た 、ハ サ ` ( 卜t式 【 ` に `` い│十 の開 には見 張 時代後期 を中心 に晩期 の 遺物 も り台 と考 え ら 確 認 され て お り、 人 々 の 生 活 が れ る郭 が 設 け られ て い ま す 。 う こ とが で き ま す 。 続 く 弥 生 時 ミぷ 継 統 して 営 ま れ て い た 様 子 を 窺 川 上砦跡 は、 代 の遺 構 につ ぃ て は 明確 で は あ 平 面 の規 模 が りませ ん が 、 楳冴 祭 遺 跡 で は 後 南 北 約 40m、 期 の 上 器 が 出 土 して い ま す 。 そ 東西約 50mで の後、古墳 時代 には沢代 遺跡 や 主郭 の三方 を 羽 根 中 島 遺 跡 な どで 竪 穴 住 居 跡 上星で囲み 、 な どの 造 構 が 見 つ か っ て い ま す 。 背後 は堀切 を ま た、 木 津 川 両岸 の 丘 陵 上 に群 設 け、正面 は 集 墳 が 築 造 され て い ま す 。 奈 良 切 岸 と細 長 い や 平 安 時 代 に な る と沢 代 遣 跡 や 腰郭 で防御 し 中 出 向 遺 跡 、 花 代 遺 跡 か ら姻 立 四 1 目 査地周 辺 の遺 障 (1:50,000) - 1 - て い ます 。 最 図 2 川 上 高 害 酷 周 辺 の城 館 障 の 組 張 り田 ( 1 : 2 5・0 0 ) も南 に 位 置 す (『 伊 文 の 中世 城 館』 伊 賞 中世 城 館 田査 会 編 よ り) t る川 上 高 砦 跡 は 標 高 い は 、 肖J り 残 しで は な い か と想 定 しま した 。 調 査 は 、 上 記 の 課 題 や 向 に伸 び る支 尾 根 上 砦 跡 に 伴 う建 物 跡 , 柵 列 等 を 確 認 レ 3 1 0 ∼3 1 6 m の 北 東 方 に 立 地 し、 丘 陵 下 の す る こ と を 目的 に 行 い ま した 。 表 平 地 部 との 比 高 差 は 土 を除 去 し、 無 遺 物 層 の灰 黄 色 土 約 7 0 m あ りま す 。 規 の 上 面 で 遺 構 の 検 出 を 行 い ま した 。 調 査 の 結 果 、 小 穴 を数 か 所 検 出 しま した が 、 形 状 か ら木 根 の 痕 跡 と考 え られ ま す 。 調 査 区 南 東 部 の 凹 地 で は 人 の 往 来 を 示 す よ うな痕 跡 は確 認 で き ま せ ん で した 。 ま た 、 背 後 に 堀 切 を 設 け 、北 東 側 の 正 面 に は 堀 切 と土 橋 を設 け 、小 さ な 馬 出 状 の I 郭 円 形 の 高 ま りの 範 囲 は 直 径 4 , 2 田 と連 絡 して い ま す 。 田 郭 は Ⅱ 郭 の 下 に あ る 平 坦 地 で 、そ の 周 りは 急 斜 面 の 谷 と な っ て い ま す 。 今 回 、 皿 郭 の 一 部 が 調 査 の 対 象 とな りま した 。 で 検 出 面 上 か ら 0 . 8 ∼0 , 9 回の 高 さ が あ りま した 。 遺 構 や 遣 物 は確 認 ※ 縄 張 り図は、城 館 の 構 成 ( 堀や土塁 、平坦地等の配置 ) を分析 した 現 況平面 図。 で きま せ ん で した 。 断 ち割 りを行 ※部 は 、ぱ ほ とも書 き、城 館 を防仰 す るために 作 られ た平坦 地 。 い 、 土層 の 状 況 を確 認 す る と 、盛 ` 4.盟 査 につ いて 上 の堆 積 は 見 られ ず 、 H 郭 の 地 山 今 回 、田 部 の 北 東 部 の 道 路 に か か る 部 分 ( ? 4 0 ボ) に つ い て 調 査 を 行 い ま した 。 皿 邦 は Ⅱ 郊 の 下 を 西 か ら東 に 巡 る 平 坦 地 で す 。 工 部 ・I I I 郭 共 に 尾 根 を 削 平 して ミ 醤 皆 品 警 曾 を 岳 】 言《 s、 、 ヽ ギ `ヽ 塞 1丼 器 督 を :魯 骨 骨 ]` 十 サ ヽ ( 審 樹 言 替 品 畳 雷│(\ 畳 筈 │ 、 田 5 H査 9 区遠 補 平 面 図 ( 1 : 2 0 0 ) の 堆積 が 高 ま りに続 く こ とが わ か りま した 。 した が っ て 、高 ま りは 、盛 土 で は な く、 配 却 を 削 平 す る 陳 に 肖」り残 され た地 山 部 分 と考 え られ ま す。 遺物 に は 、表 土 か ら出 上 した砂 岩 製 の ほ 石 が あ りま す が 、層 位 的 に古 い も の とは考 え られ ず 、 山 で 働 く人 々 が使 用 した も の と思 われ ます 。 ぶ ヽ 5 、由金のまとめ 1 ・ 今 回 の 調 査 で は 、土 坑 や 柱 穴 と考 え られ る遣 構 が 検 出 され ず 、建 物 や 細 とい つた構 築 物 が 調 査 区 にお い て 確 認 す る こ とが で き ませ ん で した 。 ま た 、時期 を 判 断 で き る よ うな造 物 も出 土 しませ ん で した 。1 砦跡 が 立地 して い る尾 根 の 表 層 は比 較 的 軟 らか い 土 で 、調 査 区南 部 で 岩 盤 と考 え られ る硬 い 土層 が 露 出 して い ま した が 、 北 端 部 ・東 端 却 は い ず れ も l m 以 上 下 に岩 盤 層 が あ る と考 え られ 、 (ン 檻 原 地形 の 尾 根 部 も北 側 ・東 側 に傾 斜 して い た と想 像 され ます 。 ま た 、I t l I下邦の 斜 面 は か な り急 で 、人 が 麓 か ら登 る こ とは か な り困 難 な様 相 で あ り、急 峻 な 自 盛 土 を 伴 う遺 構 あ る 図 4 目 査 区位 置 田 ( 1 : 1 0・0 0 ) 然 地形 を利 用 し郭 が 形 成 され て い る と考 え られ ます 。
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