《馬》 (1910-1915 年) 中津川市蔵 特集 : 岐阜文化考 美しくも厳しい自然の中で生まれ育った て、岐阜市内に一戸を構えており、守 にもなっている。父は妻子を村に残し 時に見た美しくも厳しい山間部の自然 がある度に故郷へ戻っている。そんな 仙人のような画家 クマガイモリカズ 熊谷守一(1880〜1977)は、 現在の中津川市付知町に生まれた、岐 が、彼の心の原風景となったのは間違 年ほど 絵が好きだった守一は、 歳で上京 し、 日 本 画 を 教 え る 画 学 校 に 入 っ た。 いないだろう。 一が3歳になると、彼を岐阜に呼び寄 せた。つまり守一は生まれて しか付知にいなかったのだ。むろん岐 阜県ゆかりの画家だ。 阜移住後も、彼は冠婚葬祭などの用事 て人々を魅了している。 歳を超 ような重みのある作品は、時代を超え 画家自身の人生を筆で塗り込めたかの えてから。色や形が美しいだけでなく、 絵を描けるようになったのは を確立し、自分でも納得できるような か し、 彼 が い わ ゆ る「 モ リ カ ズ 様 式 」 中央画壇での評価も高まっていく。し 展に『女』を出品するなど、少しずつ 合うようになった。そして第2回二科 あってようやく上京。再び制作に向き 35 60 功し、岐阜市の初代市長や衆議院議員 願の洋画を学び始める。同窓生には青 木繁、和田三造などがいた。 美校を主席で卒業し、将来を嘱望さ れていた守一だが、樺太調査隊の調査 団に加わって樺太に渡る。在学中に父 が亡くなり、経済的に苦しかったせい もあるだろうが、それ以上に彼を駆り 立てたのは自由や孤独を愛する心だっ たのかもしれない。樺太から戻り、第 3回文展に『蝋燭』を出品。見事入選 を果たしたが、その画家人生は順風満 帆とは言えなかった。 ひよう 1910(明治 )年、実母の死を 機に帰郷した守一は、以後6年間留ま 1915(大正4)年、 歳の守一 は、 そ の 才 能 を 惜 し む 友 人 の 勧 め も 自分が世話した馬を描いた『馬』だ。 ど な く、 数 少 な い 付 知 時 代 の 一 枚 が、 生活を送った。絵を描くことはほとん 運ぶ人)として働くなど仙人のような り、山奥で日傭(材木を水に浮かべて 43 守一は、男女併せて7人兄姉の末子 (三男) 。父・孫六郎は事業家として成 歳 に な っ た 1 9 0 0( 明 治 17 )年には東京美術学校に入学し、念 そして 20 050 051 33 3
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