民数記 • 聖書の第4書.ユダヤ人はこの書の名として〈ヘ〉ワ イェダッベール(「そして言った」という意味)か〈ヘ〉 ベミドゥバル(「荒野にて」という意味)のいずれかを 用いてきた.前者はこの書の初めのことばであり, 後者は初めから4番目のことばである.後者が名と して用いられるようになったのは,これがこの書の 内容にふさわしい表現だったからであろう.日本語 の「民数記」という名は,70人訳の〈ギ〉アリスモイ (「数」という意味)を背景とした名である.1‐4章と26 章にある人口調査の数字からきている名であること は確かである.しかし数字がこの書全体で占める割 合はごく限られたものである.したがって,書名とし ては必ずしも妥当とは言えない. 内容 1.五書の他の部分との関係. 2.民数記の内容. 3.民数記の著者問題. 4.民数記と新約聖書. 5.人口調査の数字. 1.五書の他の部分との関係 民1:1の「人々がエジプトの国を出て2年目」という表現は, この書の内容が出エジプト記の記述を継承していること を示している.同じ節の「主はシナイの荒野の会見の天 幕で」は,レビ1:1との明らかなつながりを示している.さ らにその内容からいえば,この書は創世記における族長 アブラハムの,神との契約の記述の継続であり,発展で ある.この民数記では,アブラハムへの約束のもう一つ の面である土地の取得への過程を土台にした神のみわ ざが進展する.約束の地カナンが今現実にイスラエルの ものとされようとしている.事実民数記が決してそれ自体 での完結を意図した書でないことは五書全体の構造上の つながりからも知ることができる. 2.民数記の内容 民数記自体が明らかにしているところでは,その記述は出エジプト後2 年目から40年目に及ぶ38年の期間のことについてである.セガール のように,その内容を五書全体の流れから大きく次のように分けるこ ともできる. 1. 1‐19章 出エジプト世代の物語の続き.シナイからカナンの方向 へ.相続の地を拒むことの結末. 2. 20‐34章 出エジプト世代の終局.約束の地を征服し所有するた めの新しい世代の始まり. 民数記そのものに焦点を当てて考える場合,地理的,年代的な展開 が一応の区分の目安となる.常識的には次のように分解される. (1)シナイ出発の準備(1:1‐10:10) (2)シナイからカデシュへ(10:11‐12:16) (3)カデシュでの38年間(13:1‐19:22) (4)カデシュからモアブの野へ(20:1‐22:1) (5)モアブの野での出来事(22:2‐36:13) 3.民数記の著者問題. • レビ記各章の初めに「主はモーセに告げて仰せられた」とい う表現が,いくつかの例を除いて繰り返されている.この同 じ表現がこの書でも頻繁に繰り返される.レビ記の場合と同 じように,このことは,そこに示されていることが神の啓示で あることを示そうとする記者の意図を表している.そしてこ の表現によって記者はここで述べられていることがモーセを 通して与えられたものであり,したがってモーセ起源のもの であると主張していることになる. • 五書の他の書との構造上のつながりからは,出エジプト記 について言えることはこの書にも原則的に当てはまることを 示していると言えよう.また内的にもこの書の内容が,言わ れている通りの荒野での天幕生活を前提としていること (1‐4章,10:1‐9,10:35‐36,19:3,7,9,14等)によって,記 述の行為と内容が同時代であることを示している.記者が エジプトの生活や習慣を知っていることなどが,実質的な モーセ起源の論拠として用いられる. 4.民数記と新約聖書. • • • • パウロは荒野でイスラエルが経験した出来事について,「これらのことが彼 らに起こったのは,戒めのためであり,それが書かれたのは,世の終わりに 臨んでいる私たちへの教訓とするためです」(Ⅰコリ10:11)と言っている.Ⅰ コリ10:1‐10においてパウロは不思議なほどにこの荒野の経験とコリントの 信徒たちの状態を重ね合せている.モーセにつくバプテスマ,御霊の食べ物, 飲み物,御霊の岩,キリストである岩」等の表現を通して,新約の真理の予 表をイスラエルへの神の取扱いの中に見ている. ヘブル人への手紙では不従順によって約束の地に入ることを阻まれたことを, キリスト者が天国の安息に入れなくなる罪の恐怖と重ね合せている(ヘブ3: 7‐4:13). 短いユダの手紙も,コラの反抗,バラムの失敗を用いて教会を囲んでいる危 険について警告している. 福音書では特にヨハネに民数記の記事への言及が多い.その中心はキリス トの十字架の型としての,あげられた蛇(民21:8‐9,ヨハ3:14‐15)であろう. 民数記と新約聖書との関係は当然のことながら旧約聖書と新約聖書,旧約, 新約を通じての神の贖いのみわざの歴史の中で理解されなければならない. しかし民数記は特に奴隷の家から解放されてから約束の地に入ろうとする までの神の民の歩みの基本線を示している.これが新約とのつながりにお いて啓示の一つの軸とされていることも見落してはならない. 5.人口調査の数字 • • 人口調査の結果として1:46にあげられている数字は,聖書の記事が信 頼性に欠けるという例としてしばしば取り上げられる.聖書学者の間でも この60万という数字を理解するために多様な努力が繰り返されてきた. 当時のイスラエルの人たちの総数としてはあまりにも大きいと思われる だけでなく,今日考古学的に知られているカナンの当時の状況に合せて 考えても,あり得る範囲をはるかに越えていると言う.当時のカナンの全 人口は300万よりはずっと少なかったことは確かと言われることがその理 由の一つである.イスラエル人には,自分たちの数はそこに住む者たち よりはるかに少数だという意識があり,また相手への恐怖感があった (出23:29,民13‐14章,申7:7,申7:17‐22)こともその理由とされる.こ のことから60万という数字を縮小する形での試みが重ねられてきた. たとえば一般に1000と訳されてきた〈ヘ〉エレフが実際には数字ではなく, 家族だとする説,新約の千人隊長のように指揮者を意味する説などが あり,結果的には60万を数千ないし2,3万に圧縮することとなっている. これらは興味深い可能性を示しているように見えながら,結局どれも十 分な解決にならないままである.それで数字をそのまま数字として受け 取るのでもなく,違った読み方をするのでもなく,イスラエルの勢力の強 さを相対的に表す象徴的な数字とする考えもある.
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