長泉 町が生んだ奉仕の人 - 医療法人社団 鳴海

長泉町が生んだ奉仕の人
米山梅吉物語
この物語は 長泉町が1994年に発行した
ふれあいカレンダーに掲載の 漫画
「長泉町が生んだ奉仕の人 米山梅吉物
語」
絵:ラッキー植松
を参考に作成したものです。
文中では敬称を略させていただきました。
梅吉は、慶応4年
2月4日、東京芝田
村町で、武士・和田
竹造の三男として
生まれました。
お母さんは、
「うた」 といって三
島大社の神主の娘
でした。
5歳の時、父が亡くなり、和田
家は母の実家のある三島に移
りました。 8歳から長泉村の
“映雪舎”へ通いました。
三島の学校に通わず、
長泉に通ったのは、兄
がそこで先生をしてい
たからでした。学校では
大変成績がよく、12歳
の時、米山家から養子
の話が起きました。
米山家(上土狩)は400年続いている
旧家で、13代目当主米山藤三郎氏は、
明治26年に長泉村の第3代村長も
務めました。
明治14年、梅吉は米山家から沼津
中学へ通うようになりました。
当時、江藤素六先生が校長で、梅吉
少年は大きな影響を受けました。
梅吉は頭が良く、文章を書くのが好きだった
ので全国版の雑誌によく投稿しました。
当時、夏目金之助(漱石)と梅吉少年の文がよ
く載せられました。
中学には体育の授業がなく、かわり
に梅吉たちは、韮山の反射炉や香貫
山、鮎壺の滝などを見て歩いていまし
た。
学校では政治演説を聞くことを禁
止させていましたが、梅吉は大いに
興味をもって聞きに出かけていまし
た。
梅吉は自分の人生を考えていま
した。 そして、東京へ出て勉強
する決心をしました。
明治16年、だまって
家を出た梅吉は、3日
がかりで東京へ着き
ました。 この頃はま
だ鉄道がなく、歩いて
箱根を越え、そして横
浜から汽車に乗りま
した。
沼津中学の先輩をたよっ
て、梅吉は銀座の江南学校に
入学しましたが、もっと深い勉
強がしたいと、漢学者土居光
華先生の書生になりました。
しかし満足はしませんでした。
アメリカへ行けばお金がなくても、
スクールボーイをしながら学校へ通
えることを知ったのです。
この頃、アメリカまでの旅費は100
円ぐらいでした。
梅吉は、アメリカに行っ
て勉強することを考えは
じめました。 そこで、苦
学生の梅吉はしばらく学
問をあきらめ、東京府の
吏員(公務員)試験を受
け合格、働いてアメリカ
へ行くお金を貯めること
にしました。
アメリカへ行くため、福音英語学校の夜学や
東京英和学校に通って英語を習いました。
だまって、米山家を出てきた梅吉は、ある日米山家
を訪ね、あやまり、すべてを許してもらい、アメリカへ
行くことも了解してもらいました。
明治20年10月梅吉は米山家の養子となり入籍
しました。
そして、翌年、親兄弟に見送られてアメリカへ出発
しました。
メソジスト派の福音派を
たよってアメリカへ渡った
梅吉は、サンフランシスコ
に滞在しました。
ここには、40-50人の日本人
青年がいろいろな志をもって
身を寄せていました。
このころ東京英和学校(後の青山学院)でお世話
になった本多庸一先生もアメリカへ来ていました。
ある晩、本多先生を訪ねた梅吉は、先生が火鉢
の灰の上に「巧遅拙速(こうちせっそく)」となにげなく
書いたのに気づきました。鋭い梅吉青年は「まずく
速いより、遅くても良い方が良い」といさめられたこ
とを悟りました。
江戸時代、鎖国をしていた
日本に開国をすすめた提督
ペリーの伝記を読んで、梅吉
はペリーを尊敬していま
した。 そして、ペリーの生地
ニューポートを訪ねたことも
ありました。
このころ、学費をもってアメリカ
へ行く青年はほとんどありません
でした。アメリカには貧しい青年
のために学問の道が開かれてい
ました。
こうした学生はスクールボーイと
呼ばれ、住む部屋を与えられ、仕
事の合い間に学校へ行くことが許
されていました。梅吉はこの仲間
に入って働きながら勉強しました。
梅吉は、福音会関係のハリス
監督の推薦でオハイオ州ウェス
レアン大学へ入学、さらに
ニューヨーク州シラキュース大
学で法学を学びました。学費を
稼ぎながらの苦しい8年間でし
たが、この間、梅吉青年は世界
のことにふれ、いろいろなことを
学びました。
明治28年、梅吉はアメリカか
ら帰国しました。新聞記者をめざ
していた梅吉は、アメリカで書い
た原稿「提督彼理」を出版しまし
た。この本の題字は勝海舟に書
いてもらっています。
このころ、梅吉は勝海舟と親し
く、榎本武揚、福沢諭吉とも交友
がありました。
明治29年10月、梅吉
は米山はると結婚しまし
た。
新聞記者になることを
あきらめた梅吉は、英語
のできる人を求めていた
日本鉄道会社に入社しま
した。
生活は楽ではありませんでした。
梅吉は長女が生まれたのを機に、
旧藤田四郎の義父・井上馨の推
薦で三井銀行へ入行することにな
りました。明治31年31歳の時で
した。
このころ政界では伊藤博文、陸
軍では山県有朋、財界では井上
馨と言われていました。
生活は安定しました。2年目に
は上司から認められ、優秀な3人
に選ばれ、2年かけて欧米の銀行
を見て学んでくる役を命じられまし
た。
同行した3人でまとめた
報告書は、三井銀行ばか
りでなく、日本の銀行を改
めるものとなりました。
いつしか梅吉は三井の
米山ではなく、日本経済
界の代表者の一人と見な
されるようになっていまし
た。
大正3年、47歳のとき
「新隠居論」という考えを
発表しました。
これは、年寄りは後進
に仕事を譲り、経験を生
かし、社会に尽くす仕事
をすすめるものでした。
大正9年、53歳のとき、
梅吉はアメリカで創立さ
れた奉仕団体ロータリー
クラブを日本に設立し、
会長になりました。
そして、ロータリー会員
としての奉仕の生活 ―
新隠居論の実行に力を
そそぎはじめました。
大正10年、梅吉は米英訪問実業団に
加わり、アメリカへ向かいました。
このとき、フランクリ
ン・ルーズベルト大統領、
ロックフェラー研究所の
野口英世博士と会いま
した。
梅吉は、「銀行行余録」、
「常識関門」、「看雲録」など、
多くの本を出版しました。
この中で梅吉のすぐれた
考え方がうかがわれます。
大正13年、日本で初め
ての信託会社、三井信託
株式会社を創立しました。
昭和9年三井家が協力し
て設立した「三井報恩会」
の理事長を務めるようにな
りました。さらには昭和13
年、貴族院議員に勅選さ
れました。
昭和6年、梅吉は郷里の
長泉小学校に図書館と本を
寄付しました。
これは「米山文庫」と呼ば
れて人々に親しまれ、利用
されるとともに、村人の自慢
の一つとなりました。
昭和12年私財をなげうって緑岡小学校
(青山学院初等科の前身)を創り、新しい
教育を手がけました。
ここでは、あたたかい雰囲気の中で、正しくのびやか
に信頼できる人間教育をしたいと考えていました。毎週
一回の梅吉校長先生のお話は、「人々にしてほしいと
あなたがたの望むことを、人々にもその通りにせよ」と
いう聖書の言葉を毎回読み、それについてのお話でし
た。
昭和9年梅吉は、三井
報恩会の仕事に専念す
るようになりました。
三井報恩会は、貧しい
人々を救うため、いろい
ろな活動をしました。
学問の研究や実験の協
力をしたり、助けた人は
数えきれません。
こ
れは、奉仕の精神をもっ
た梅吉のリードによるも
のでした。
昭和15年、外国との戦
争がこじれ、ロータリー・
クラブの方針の一つであ
る国際性が、軍部ににら
まれるようになり、クラブ
を解散しなければならな
くなりました。
戦時中、「水曜クラブ」と名
を変え、ロータリーの精神
は受けつがれました。
晩年、病気がちだった梅
吉翁は、無理がたたり、昭
和21年4月28日、長泉村
下土狩の別荘で永遠の眠
りにつきました。
78歳でした。
米山梅吉の墓は
鶴見の総持寺と
長泉村上土狩の
両方に作られました。
上土狩の墓石は、終戦後
間もなくで物が不足していた
ので、梅吉の句碑をそのまま
お墓にしています。
「いさかいもなく 漫々の青田
かな」 ― 長泉という名であり
ながら水の乏しかった土狩は、
水喧嘩がよく起きました。
この句は、雨がたくさん降って
一安心した気持ちをうたって
います。
戦後、昭和24年ロータリー・
クラブは復興しました。
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ロータリアンは
分かちあいの心
梅吉の残した仕事を記念して、
米山記念奨学会が ロータリー
クラブの仕事の一つとして生ま
れ、アジア各国から日本に留学
している学生に、今も奨学金が
贈られています。
現在ロータリークラブは、200以上の国または地域に広
められ、日本においても全国各地に2千を超えるクラブが
結成され、10万人に近い会員が活動しています。