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ナッシュの年譜
(1928-現在)
1928年6月13日
Nash は、アメリカ合衆国 West Virginia
Bluefield にて誕生, full name は
John Forbes Nash Jr.
この年、John von Neumann がMath. Ann. Vol.100 に
“Zur Theorie der Gesellschaftsspiele” (社会的ゲームの理論)
を発表。すなわちゲーム理論の誕生と共にNash は生まれる。
ハイスクールの学生の頃には、
E.T.Bell による “ Men of
Mathematics” などを読む。
ここに書かれていた素数べきに関するFermat の小定理の証明も成
功。しかし、いわゆる優等生というわけでは無かったようです。
1948年 (20歳)
カーネギー工科大学卒
(現 Carnegie-Mellon University)
この時までに2回の飛び級
学士と修士の両方の学位を与えられる
秋にはプリンストン大大学院入学
1950年(22歳)
プリンストン大学にて博士号の学位取得,
学位論文は
" Non-cooperative Games ”
「非協力ゲーム」
この論文および、ゲーム理論関係の諸結果は、在学中に達成され
たものである。指導教官は A.W.Tucker。この学位論文が受理され
なかった時の為にすでに全く別のテーマ " Real algebraic manifold "
の論文を用意していたという。(こちらの完成は 1951年の秋)
1950-51 年(22-23歳)
朝鮮戦争勃発、 II-A(職業が理由となる徴兵延期)資格申請(ちなみ
に I-A は甲種合格)。申請が受理されたどうかは不明であるが、結果
的には兵役につく事を猶予されたようである。
1951年(23歳)
マサチューセッツ工科大学(Massachusetts
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Institute of Technology, 通称 M.I.T)講師
等長埋め込みの問題へ関心を寄せる。この問題について C1埋め込みを
1953年成功,1954年には、 C r 化 (r 3) , そして1956年の Ann. of Math. に最
終形が発表される。等長埋め込みの理論の中で、後に Nash-Moser 陰関数
定理と呼ばれる解析的手法が確立される。
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1956〜1957年(28〜29歳)
一年間サバティカル(Sloan sabbatical)でプリン
ストン大へ(実際の住まいはニューヨーク)
クーラン研究所にて、楕円型偏微分方程式の研究(2次元の結果の高次元
化)についてニーレンベルクやヘルマンダーと議論。いくつかの基本的結
果を示す。(De Georgi- Nash の理論) De Georgi は独自にNash の結果を上回
る仕事をしたと言われているが、両者の方法は全く別のもの。
1957年 2月 結婚(お相手はアリシア・ラデ
ル)
1958年(30歳)
国際数学者会議(エジンバラ)でのフィール
ズ賞選考過程での候補者にあがる。しかし、
ルネ・トム(微分可能多様体のコボルディズ
ム)に破れ受賞できず。ちなみに同時受賞は、
ロス(整数論)。
ちなみに、1962 年(ミルナー、ヘルマンダー)までのフィールズ賞は一度
に2人までであった。(1958年の受賞者が3,4人まで可能な時代なら…。)
1958〜59年(30〜31歳)
1958年年末から ナッシュの行動に異変
1959年アメリカ数学会主催のコロンビア大学で
の地方部会にて異様な講演を行う。(ここで
Nash はリーマン予想についても述べてい
る。)
1959年1月ごろ、M.I.T. のテニュア(終身教授資
格)がまさに決定しようとした時期だった。
1959年春〜夏
統合失調症の入院治療
MIT を辞職
1959年夏〜1960年
ヨーロッパを放浪
1961年10月(33歳)
このころから、健康状況が回復し、再び研究
ができるようになる。
プリンストン研究所での一年契約の研究作業
が用意された。
1962年に発表された「コーシー問題の論文」はこのころ作成された。
1962年の夏
また健康状況が悪化
このころ、いわゆる Nash blowing-up のアイデアを思いつき、
広中先生とも議論をした。しかし、Nash 自身の論文などは
見たことがない。
Nash blowing-up に関しては 1975年出版の次の論文が初めての公式出版物
なのかもしれない。
A.Nobile: Some properties of the Nash blowing-up,
Pacfic. J.Math. Vol 60, pp.297-305(1975)
しかし、ここにはNash の名が何故ついているかの言及はない。
1963年〜64年(35〜36歳)
プリンストン研究所のスタッフの
努力で研究所での職を得る方向へ
向かう矢先、再び健康状態の悪化
1965年〜67年(37〜39歳)
ボストンでのひとり暮らし。MITへときどき通
う。健康をだんだん取り戻し、「陰関数定理
の解析データバージョン」執筆。
「特異点の標準的解消」に関する研究に取り
かかる( Arc space の理論だろうか?)。
1968年以降
再び健康状況が悪化
プリンストンへ戻り
1970年代、
ファインホールの幽霊と呼ばれる生活を送る。
1978年(50歳)
フォン・ノイマン賞受賞
(ゲーム理論に於ける「非協力均衡
論」)
しかし授賞式などには出られない状態
1994年(66歳)
ノーベル経済学賞受賞
“For their pioneering analysis of equiibria in the
theory of non-cooperative games.”
ナッシュ(プリンストン大学博士、66歳)、
ハルサーニ(UC Berkely名誉教授,77歳)、
ゼルテン(Bonn大教授、64歳)
現在(77歳)
プリンストン大学、ファインホールに研究
室をもらい、肩書きは、
Senior Research Mathematician
彼のホームページは、
http://www.math.princeton.edu/~kjfnj/