特集 大会講演 「西行法師生誕の地」として知られる和歌山県紀の川市の「ホール田園」 にて紀の川市短歌大会を開催しました○ 今年で八回目を迎えた伊香保短歌大会は、伊香保温泉「ホテル天坊」 での開催でした○ 両大会ともに、お集まり下さった方々が熱心に耳を傾けておられた講 演をご紹介します○ 講邁とと塞議運とと醜 轟講繭講墨 圏点諾霊選鮨鞄堕諮露盤一一一/i\\-(〉\i/\/〈\、-// 羅会綱鰯 芸事'i溌 譲灘満iii深紫薄/、, 鞠一時轡千千円景/鷲 ∴一一一;.一 期鮎や畢町畿重言 /oふiや、演舞瀬無- 〇m∴ 歌という作業に'まった-というと嘘にな 出合う機会がとても多-て、私自身は、選 がいるんだと驚いたり-いろいろな歌に るいは'こんな素晴らしい見方をできる人 ろなことを感じます。 だと てもい 歌になるのになあとか、あ んな生活をしていますが、その中でいろい いかもしれない。非常に惨めというか'そ よりも、人の歌を読んでいる時間の方が長 非常に多くて、自分が歌を作っている時間 だと思いますけれども'選歌をする機会が と思います。 ですが、しばらくお付き合い ただければ す。とにかく、昼ご飯を食べて一番眠い時 というタイトルでお話をさせていただきま 私を含めて今日の六名の選者、みな同じ ちょっとこ がどうかなあ、こ がこう 今から五十分くらい、「作歌のヒント」 「作歌のヒント」 が、「作歌のヒント」というタイトルで、 時から、体系だった入門書とは違うのです NHK歌壇で選者をさせていただいていた えてみたいと思います。 し'そういう時のヒントのようなものを考 気が付くことが多くあります。今日は少 歌になるのを逃している。そういうことに みんなが同じように惜しいところで、い どうしても一様に陥りやすい落とし穴 - を過ごしているという気がしております。 まして、とても貫重な体験、あるいは時間 を走らせていただいている'そんな気がし てこられる方々のそれぞれの生活のすぐ横 また後からお話をしますけれども、投稿し むしろ楽しい時間という気がしています。 りますけども、あまり苦痛を感じません。 ただ、たくさんの歌を読んでいますと、 実は今から六年くらい前になりますか、 永田和宏 で--(笑)。 まず「歌は常識が嫌い」という括りで三 3 ですが、適当に てますので、そのつもり る歌もあります。いかにも授業という感じ 少しお話をします。中に空自のカッコがあ があると思いますけども、それを見ながら お手元にレジメとい ますか、歌の資料 歌が内包している気付きの作用 うと思っております。 に出合って感じていることを少しお話しよ いたことも一部含めながら、最近新しい歌 ただくことができました。今日はそこに書 ト』という本を、NHK出版から出してい 話をするのと同じタイトルの 『作歌のヒン りました。四年間ほど書きまして、今日お 選歌の中で気の付いたことを書き続けてお ると、あれ、唇からだいぶ離れている、十 形の若武者が笛を吹いている。でもよく見 は「横笛いずれも唇に届かぬ」です。菊人 と思いますが'何といってもこの歌 見所 「秋探し」で始まるのはなかなか格調高い はそれを詠んでいます。 いるのですよ。五条の橋の上でね。この歌 のパターンでして、義経は大体笛を吹いて て'曽我五郎十 があってというお決まり ちょっと別世界。源義経の菊人形があっ -と、菊の香りが強く漂っていて、何か -、うら寂れている感じもあり'会場に行 雰囲気があってい ものでしたね。何とな 菊人形を見に連れて行かれました。独特の しまい したね。我々子どもの頃は'よく は菊人形って、あんまりはやらなくなって めて見た時からびっくりしました。この頃 とてもい 歌だと思っているんです。はじ ちの 『塔』という雑誌の会員です。これ、 ち」と読むのでしょうね。岩切さんは私た 首あげておきました。 唇と書いて ますが、この場合は「く いかということをい たいのではないです 作ってないじゃないか、間違ってるじゃな 義経の菊人形を作った人の不備'リアルに あとは思わないわけです。 れて も、あっ'これでは音が出ないよな パッと菊人形を見た時に十センチくらい離 いう風に我々は訓練されてき いるので' ていかにも闘っているように見える。そう ない。当てたらダメなんですね。それでい ルほど離れていますよ。絶対相手に当たら るでしょう。でも刀は'相手から一メート れが古典芸能です。歌舞伎で斬り合いをす るのか、観客はみんなが理解している。そ す。観客が'その (壁)が何を意味してい 典芸能というのは、(型〉 で見せるもので この歌'何をい たいのでしょうか- 短歌会の選者の一人でもありますけども、 ん、今日の大会の選者の一人で、私たちの ぴったりつけていたら、奇妙に見えるかも 考えもしない。逆に、もし義経が笛を唇に 秋深し菊人形の若武者の横笛いずれ から少し離れているなんて、そんなことは を吹いていると思って見ていますから、唇 ことに気が付かないですよね。最初から笛 センチ-らい離れていると。普通はそんな の持ってる一つの意味だと思います。 ことに気付かせて-れる。これが、この歌 こんな風に(壁) で見ていたのか'という よね。我々がものを見るというのは、あっ' 歌舞伎でも能でもそうですが、日本の古 人生が豊かになる喜び 同じ括りの二首日、これは吉川宏志さ しれない。 も唇に届かぬ 岩切久美子 こういう一群の歌があると思います。 ということに'改めて気付かせてくれる。 に、常識的な見方でしかものを見ていな る'つまり我々がいろいろなものを見る時 風にいっていますけども、気付かせてくれ る。 私はこれを「気付き」、気が付くという いう作用というのが'一つ、厳然としてあ うことに、はつと思いあたる。歌にはこう いうのはいかにむずかしいものなのかとい 一首を読むと'先入観なしにものを見ると で、物事を知識や型で見ている。こうい れているということにすら気が付かない 我々は菊人形の笛と唇が十センチほど離 4 思わないですよ。 濡れながら泳いでいるんだとは、なかなか 濡れているとは思わない。あ、この金魚は の中を泳いでいるのを見ている時、金魚が いの若い時に作った歌だと思います。 でしょう。で、我々ね、普通は、金魚は水 金魚掬いの歌ですね。金魚掬いって掬う ぱり不幸なことだと思いませんか。 せんよ。何にも感じないってことは、やっ んな感じ方があるなんて、誰も思いもしま いう感じ。この歌に出合わなかったら、そ 的に出された途端に、全身が濡れたんだと 別に濡れてないんだけれども、水から強制 れども (笑)。 て'何が得したってわけでもないのですけ でもない。そんなことを知ったからといっ えさせる。そんなことを考えて何ぼのもの ら濡れているんだろうか'ということを考 ば'金魚は水の中にいる時もひょっとした ということの喜びのかなり大きな部分だと とは、自分が歌を作-、また人の歌を読む に'おっと思って世界観が変わる。そのこ いる歌に出合えることがある。出合った時 時々とんでもなく素晴らしい感じ方をして 歌を読んでいますけども、やっぱりね' 方は素晴らしいと思いましたね。そういえ す。 「お っ!」と思うことがいっぱいありま 非常にうまい作者で、彼の歌によって' 彼はこういう気付かせをして くれるのが 「金魚は濡れる」という表現そのものもす 彼がまだ二十代を越えたか越えないくら れしのち金魚は濡れる 吉川宏志 円形の和紙に貼りつく赤きひれ掬わ 「掬われしのち金魚は濡れる」、このい 濡れたんだと感じる。 からないけれども、引き上げた時に金魚が にいる時は濡れているか濡れていないか分 てきたというのとは違うんですね。水の中 む'人のい 歌に出合う'この喜びです。 との半分くらいの意味は'人のい 歌を読 ろうかと。でもね、我々歌を作っているこ ておられる。どうしたらい 歌ができるだ ことについては皆さん'すごく熱心に考え 魚を掬った。その時'濡れた金魚が掬われ こ ですね。金魚掬いの白い紙の上に、金 は、「掬われしのち金魚は濡れる」という、 ごいですけれども、私がびっくりしたの も、人生豊かになると思いますね。 ものがありますよ、きっと。それだけで た時に、今までと違って何か金魚に感じる 金魚は、水という環境の中にいる時は、 すけども。 起伏のない日々、毎日毎日同じような日 で、あっちこっちで吹聴して廻ってるので 思っています。 次の歌もそういう歌です。私の好きな歌 ね人はこ ろ病みゆく 高野公彦 黒き月を三日月抱けり起伏なき日々重 私も自分の時間を削るようにして、人の 自分が歌を作る時って、歌を作るという 今日こ に来られた方は、次に金魚を見 いですね。黒い月の部分は書いてない。だ て、上弦の月になり云々と。 うい 形でと、照っている方しか出てこな れば、新月'それから段々と三日月が出 が地球の周りを回っている、満月の時もあ では分かっているんですよ。理屈では、月 摘されないとなかなか思えなかった。理屈 に衝撃を受けました。これは高野公彦に指 一つ黒い月があるんだということに、非常 ます。あ、そうか'三日月の内側にはもう で、ハッと思わせられたのを鮮明に覚えて う。陰の部分ですね。私はこの歌を読ん 黒い月がもう一つあると、高野公彦は言 日月の内側には、三日月が抱-ようにして 大体が、理科の教科書でも'三日月はこ 意深い目が必要ですけども、注意深い日だ にもたらしてくれるか。これには非常に注 ことが'いかに驚きであるか'衝撃を読者 うのです。 日月って言った途端に見方が固定して ま 三日月のように照っている部分だとした いろいろに解釈できる。たとえば、自分が 照ってる方の月しか見な-なっちゃう。三 「あ、今日は三日月だ」と思った瞬間に、 ところ、そうい ところに気が付-という が、陰の部分としてあまり注意を払わない す。 通りもあって'それは読者次第だと思いま 方もあるかもしれない。解釈の仕方はいく の自分って一体何だろうかという解釈の仕 だ三日月だって言って喜んでいた自分。こ にも気が付かないで、平凡にただ'三日月 るいはもっと単純に'そんな黒い月の存在 という風に取る人もあるかもしれない。あ 何か黒い心のマグマのようなものがある、 ら、自分の内側には、自分には見えない' こ ろ病みゆく」が、一つの解釈ではな- ウ- 。一つ名前を知ってるだけで'その フグリがあるとか'ホトケノザ、ケマンソ ね。この歌の驚きは、「黒き月を三日月抱 でも草の名前を知っていると、あ イヌノ ない。草のそれぞれの顔が見えてこない。 草だと思って過ぎていると、何も見えてこ す。我々'道を歩いていても、初めから雑 和天皇だそうです。い 言葉だと思いま 「雑草という草はない」と言ったのは'昭 うことがとても大事です。 のかというと'こういうい 歌を読むとい ます。それじゃあどんな訓練をすればい のあたりがやはり訓練になって-ると思い は、感じられることですね、分かる歌です 常を重ねながら、人はこ ろ病む。これ 不思議なものでね。見つけよう見つけよ 外の'もう一つの月もあるんだということ けど、そういえばいつも月には照ってる以 こういう発見を上の句において'下の句 はくれない。 うという'もの欲しげな日では駄目で'こ に改めて気付かせて-れた。 を読んでみると'「起伏なき日々重ね人は この歌で大事なのは、そうい 普段我々 風景がとても親し-立ち上がって-る。歌 けり」という表現ですね。夜'空を見て、 だけど'虚心坦懐によく見ると、あの三 う気付きというのは向こうからやって来て ンテナをしっかり張っていないと'こうい ながら、しかし一方で'どっかで視線のア 感情とかを'どこかで少し空虚に浮遊させ していても見つからない。自分の主観とか とも必要で、何か探そう探そうと思って探 けでは駄目なのですね。 何というか'ボーつと見ているというこ 6 だきます。 がありますので、会場の誰かに答えていた ただごと歌の魅力 揺-で四首あげてあります。空自のところ りします。 然と接していると、時たまい 歌ができた の見方もできるんだと思いながら風景に漠 のはできないですけれども、こういうもの くなります。なか こうい 発見という うい 風になると'歌というのはとてもよ たものにどこか違う光を当てられる - こ できるというか、当た-前として過ぎてい がみんな前を向いていると知ったからっ この歌はすごく好きなのです。運転する人 これがなかなかすごいことで (笑)'私は を向いて る」 って感動してるんですね。 やね」と'すご-感動してました (笑)。 うって言うけど'本当に馬は道草を食うん 車の人も前を向いている。あっ、つぎも前 い。その時に'「お 、この運転手も次の いって'なか 横断歩道が青になら ん車が過ぎていく。次から次へと過ぎて ないわけです。 いうことすらも、我々は普段、気が付いて て'運転する人はみんな前を向いて ると わけですよ。こんなあんまり当たり前過ぎ しょう。笑ってしまって'ハッと気が付- かしい歌ですが'でもね'笑っちゃうで 歌人です。あまりに当たり前過ぎてばかば 作はこんな風にいっている。「前から順 うーん、いろ 考えられますね。奥村晃 「青になるまで」、「足踏みをする」- 。 れがこの歌のい ところだと思いますね。 同じ作者の歌です。 結句に何を入れたらい でしょうか。 る〇〇〇〇〇〇〇 7 信号の赤に対ひて自動車は次々止ま 一つの大きな喜びだと思います。 校内に馬術部があって、いつもそこを通っ と、当たり前な認識を歌にして喜んでいる 奥村晃作という人は、こんな当たり前なこ す、答えは、「みな前を向く」です。 じゃないですか。楽しくなりますよ、風景 じょうに大きなインパクトを与えてくれる 高野公彦流にいうと、起伏なき日々にひ けですよ。そう思えるってことは'先程の 句、何やったっけ」と思いながら、見るわ んな前を向くという歌を作っていた。上の を一首知ってるだけで、風景が全然違う見 る人〇 〇 〇 〇 奥村晃作 次々に走り過ぎゆく自動車の運転す 知識量の増加にもならないのだけれども' て、別にうれしいことも何もないし'何の な、皆さんよ-知っておられる。そうで 最後の七音、どうですか。あ 、すごい 後ろを向いていたらどうすんねん (笑)。 が。世の中を見ているのが楽し-なる。こ え方をしてくる。これが人の歌を読むもう 今日'たまたま娘と喋っていて、大学の 車道に而してじっと立っている。どんど に」。 て通っているのですけど、娘が「道草を食 どこかで、ちょっと違ったもの 見方が 次は、「あたりまえこそ面白い」という 奥村晃作という変な歌人がいた。彼は'み よ。思い出したらしめたものです。「あ、 立った時に、きっとこの歌を思い出します なと思えることがすごい。 会場の何人かの人は、次に横断歩道に ただそう思って見ると'みんな前向いてる ね。これじゃ駄目です。 なのですよ。これ、なぞっているんですよ 校へ行った。小学生の短歌って'大体こん たとえば今日'朝 顔洗って、それから学 どうでもい ことをなぞってるからです。 いことの大部分は落とされます。それは' 分がどうでもい ことでして、どうでもい になるかどうか投稿歌をみていると、大部 こんなにうれしい孫ができて'こんなに大 ぐらい得だと僕は思いますね。 す。で、どうでもい こと いうのは、歌 賃を払った甲斐があったというもの。それ になりませんか。今日こ へ来るのに電車 るって思えたら、なんかすごく得した気分 に出合った時'おっ'前から順に止まって い。一銭の得にもならん。でも、次に信号 あるかといったら、何も得することはな ように、この歌を読んで、得をしたことが から順に止まることはまずない。今言った 確かに、前から順に止まってますよ。後ろ 作すごいな、と僕は思っているんですよ。 どうすんねん。でもね、なるほど、奥村晃 こういうのは、どうでもい ことなんで どうでもい ことの中に、作者が何かを い体験をして、こんなに幸い思いをして' ることだけを何とかい たい。こんなすご ぎてしまって'自分が一番大事に思ってい ん歌を作ろうと思うと、あま-にも構え過 じょうに大事な言葉だと思いますね。皆さ 当たり前(笑)。前から順に止まらんで こういう言葉があります。 いる歌人だと思っています。佐藤 太郎に なかで'歌の生理というのが最も分かって すよね。私は佐藤佐太郎は、近代の歌人の られる。「歩道」という結社を作られてま でもい ことが、とても引き立ってきま というのがあってほしい。そうするとどう との中に'作者が何か自分で見つけたこと ても困るわけですけれど、 うでもい こ 何で先生は採って-れないんだ、と言われ が'佐藤佐太郎さんという有名な歌人がお 詩の表現の多様性 『作歌のヒント』 の中にも引用したのです て、どうでもい ことは詩になる。 事なことで'そのことを前提にして初め じゃなくて、気付-ということがとても大 気付-'見つける、発見する。なぞるん ると'歌が窮屈になる。 と思うわけね。こればかりに捕らわれでい 事なことだから'これを何とかい たい' そう佐藤健太郎は言っている。これはひ うなことを言うのも詩の表現である。 がありますね。夕暮れ'貨車が一両だけ んでしょうね'おそらく。ある種の雰囲気 れていた貨車が外されて惰性で走って行- 調高い。 夕暮れの操車場に近いところで、連結さ 詩の表現は大切なものだけを言うの だが、言っても言わなくてもい よ なんですが'さすがに佐藤 太郎の方が格 す。 佐藤佐太郎の有名な歌です。奥村晃作調 つ 行く線路の上を 佐藤佐太郎 連結をはなれし貨車がやす と走り れんけつくわしや 太郎は言っていると思います。 私もどうでもい ことを歌ってるのに、 もい ことをいうのも詩の表現であると佐 ことですよ、本当に。でもこういうどうで に止まってなんて'こんなのどうでもい 自動車がやって来て、赤信号で前から順 8 と思いますか。「トイレあり」です(笑)。 た。「トイレのあ-し場所に」何があった 作ったのです。元の歌はこうじゃなかっ ど、「駅長室あり」は嘘です。これは私が がないので先に種明かし てしまい すけ 引いてみました。 ですが、雑誌「塔」に最近載ったものから 理だと思います。 ます。こういうことはとても大事な歌の生 がひじょうに立ち上がってくることがあり ことがある。あるいはそのことによって歌 「道の上を走るわけないんだから」等々。 て当たり前」'「そんなこと言わなくてい 」 すとこつぴどくいわれる。「線路の上を走っ 走って行く。でも、こういう歌を歌会に出 ただ余分なことまで念を押すように言わ 松村正直君の歌です。彼は私たちの仲間 なかなか面白いでしょう。これね、時間 結句は余分だと言われるでしょうね。 れることで'すごくリアリティが出てくる 駅は大きく姿を変えていたれどもト イレのありし場所に駅長室あり 駅は大きく姿を変えていたれどもト た。その気が付き方がい じゃないです 風に、何十年振りかでやって来て気が付い 松村正直 と'作れないですね。 固定観念から、ちょっと抜けてしまわない とだけをもっともらしくいうものだという う歌が作れるということは、歌 大事なこ やっぱり気が付いているわけです。こうい るということは、我々、日常生活の中で' もない。でも、そんな風に感じることがあ と、二束三文ですよ。認識しても何の価値 か。とても私はい と思いました。 イレの場所はやっぱりトイレなんだという とは言えないですけれどね (笑)。あ、ト あった。作者はそこに感動した。まあ感動 なじみの場所にやっぱりトイレがひっそり り様子が変わってしまった駅舎だけれど、 やっぱりトイレがあった。改装してすっか 来てみると'昔トイレがあった場所に、 は大きく姿を変えている。何十年振りかで こんなのは、まさに取るに足りないこ お 、すごいなと思ったんですよね。駅 イレのありし場所にトイレあり 松村正直 うの餃子だ」と言って、そこで一回'間を い んですけども、作者は「皮が破れるほ うと、一遍に分かってしまって、それでも 言ってる。「皮が破れるほうが私だ」とい て、私は皮が破れるほうの餃子なんだ、と 何だ、と言いたくなる。作者はそれも含め の餃子だ」というのが原作。 とき皮が破れるほうの餃子だ」 と、何が でも'「くっついた餃子と餃子をはがす と書いておいて下さい。「皮が破れるほう すとき皮が破れるほうの餃子だ」。ちょっ す。原作は「くっついた餃子と餃子をはが だ、と。よく分かる歌になったでしょう。 けど (笑)、でも、原作はもっとい ので これ、私が改作したからよくなったんだ 決しようとすると、いつも傷つくのが自分 -、何かあることがあって、何か無理に解 のです。「皮が破れるほうが私だ」 - つま 歌は読者に手渡すもの これも変な歌でね、実は私が作りかえた 皮が破れるほうが私だ 相原かろ 9 くっついた餃子と餃子をはがすとき は特に消長が激しいのですが、みんなが同 で、去年は「後期高齢者」でと'新聞歌壇 アー」でした。その次の年は「千の風」 方が多いです。数年前の流行は「イナバウ とか'いろ な社会の事件を歌にされる か、テロがあったとか、湾岸戦争があった 思っています。オバマ大統領になったと ておきましょう。 せ」 のタイトルの四首から、一首だけ言っ ふんと思いました。作者は、私が『作歌の たのですが、その作者の弁を聞いて、ぎゃ の人、一生大口を開けてるねと (笑)。 撮っているのですが、写真が残る限り、あ 写真」'い でしょう。宙に浮いた力士を る人が写っている。「大口とじることなき の向こうに'「あ ー」と大口を開けてい 結してしまったらダメなんです。 は、その力士を撮っているんだけれど'そ 青龍が浮いているのかもしれません。写真 れ。力士が投げられて宙に浮いている。朝 こうに海があるかもしれない。「走りつづ とえば'「その先の海」とかね。ドアの向 るということがとても大事です。自分でい すということをいつも考えながら、歌を作 のは、読者に手渡すものです。読者に手渡 まったら'い 歌はできません。歌という の方にある。隅っこにある。画面の隅の方 これは朝日歌壇で、私が年間賞に取った 僕だったら、ベストとは思わないけど、た じゃあ'もらった方は全然うれしくない。 ん」と'作者が決着をつけている。これ ら'何をつけますか。 歌にならない。「走りつづけて疲れておら 原作は「疲れておらん」です。これでは 思ったらダメなんです。自分で完結してし づけて」どうだと思いますか。皆さんな うことです。 は、読者を巻き込まなければ駄目だ'とい つまり、歌というのは'自分で立とうと に日を凝らせ'と私は言っています。 歌です。分かりますよね。新聞ですね、こ 年間賞なので作者のインタビューがあっ けてその先の海」とか何とかすれば、もう くら素晴らしい歌だと思っても'自分で完 時間がないので、「画面の隅に日を凝ら 社会詠というのは、私はすご-大事だと -Y ヽ● ○ に読者を巻き込んで-。 おいて、何がその餃子なんだというところ 今日のもう一つの話の大事なポイント 中心に見るから'みんな同じ歌しかできな ます。そんな画面を見る時、みんな画面の テレビの画面の中央に伝えたい情報を置き は'テレビ画面からですよね。NHKでも じ事件に向かって歌を作る。だけど大部分 ど (笑)。 なりますよ。これはコマーシャルですけ ら'皆さん、この本を読むと歌がうま- いたので、それを実践しましたと。ですか ヒント』 の中で、画面の隅を見よといって 歌になる素材というのは、画面の端っこ とじることなき写真 坂本捷子 宙に浮く力士のむこうの観客の大口 ぐらいの感じが一番い わけです。 こうなのかなあ- 、と言いながら手渡す そうすると人に手渡せな-なるからです。 て、自分で決着をつけたら駄目なんです。 者に手渡すものだということです。歌っ もう一つ、大事なメッセージは'歌は読 なぜか男がいつも走っている。「走りつ づけて〇 〇 〇 〇 非常灯にいつも走っている男走りつ 10 が'かすみ草って'何か輪郭がな-て、ど だったらまたちょっと違ってくるのです 印して、「夜の霞草」と歌う。「夜の百合」 てはいろいろなことを思う。それを一切封 ろう、いろいろなことを考えると'親とし が新しい生活に入る。待ち受けているであ 草」です。 るいは心配だとか。この結句は、「夜の霞 張れとか、親ならそんな風に言いた 。あ うどい ので、どっし-と根を下ろして、 は読者です。だから、倒れるぐらいがちょ たら倒れるものだ。それを支えてくれるの においた'そんな感じがします。 う、読者と握手する何か一つの道具をそこ 中に閉じ込めておいて、「夜の覆車」とい 者が落とし前をつけないで、それをあえて です。 そうい 例として、一首だけ言っておき 調i りで歌を出して下さい。それがすご-大事 いで、「あなた解釈してよ」くらいのつも 選者を信頼して、自分で落とし前をつけな は分かるんです、なぜですかね。そうい 大事だと思います。 式の前 日、これから新しい生活に入ろう 選者といえども'おそらく自分の歌はよく いですね。 す。あとで選評が行われると思いますが、 つまり、読者を信頼するということで つけてしまったら相手に渡すのが失礼だ、 相手に渡せない。あるいは、自分で決着を とか、楽しい生活を送ってほしいとか、作 は思います。 すか'ということを、問うているのだと私 それぐらいのつもりでお作りいただくとい 作者のい たいことはかなり出てきます。 ちょっとよくなるだろうと思うのです。 つまり'自分で決着をつけてしまっては めをり〇 〇 〇 〇 高野公彦 早寝して子はみづからの歳月を生き始 を読者に手渡して、あなた らどう感じま 脈とは関係のない花をおくことで、その歌 たのかもしれない。でも作者はおそら-文 そのためには'これからの将来が心配だ 分からない。私もそうですが'でも人の歌 くらいに思って下さい。その呼吸がとても これは'娘さんが就職が決まって、入社 歌というのは一人立ちしないものだと ましょ、つ。 としている。今日は早寝して、明日に備え さあ皆さん、結句は何ですか。「まき 読者を信頼して 思って下さい。歌というのは、放っておい ているといった歌ですね。 くあれよ」なんてつけないで下さいね。頑 何の関係もないでしょう 。明日から娘 のでもない。 ですね。霞革が本当にそこにあったという ね。でも、霞革に意味があったのではない こかぼや-んとしてという感じもします きないぐらいの'それぐらいのところで読 者が手助けしてやらないとその歌が解釈で 面白味もない。ちょっと危うくて、何か読 押しても引いても倒れないような歌は何の 有体にいえば、本当は菜の花でもよかっ どい 。無責任だと思っているぐらいで、 ますが、でも歌は無責任な-らいがちょう 「そんな無責任なILと大部分の人は怒り ろ無責任にお作り下さいと言っています。 者に手渡すのがいい。 私は'歌は自分で責任をもたない。むし うことで、何かその時のある雰囲気みたい I櫛を拾った。櫛は私に拾われた、とい んが'何となく橋の上って感じがしたけど れに橋の上で1-橋の上とはいっていませ を、あれこれ詮索してほしくないが、夕暮 絶ってしまった。そんな彼女の心のあり方 か。残念ながら彼女は'若-して自ら命を 井さんはこの時どういう状態であったの した一番大きな意味だと思っています。永 したいと うのが、永井さんがこの歌を出 た'この時の感じというのを、読者と共有 なる。 言えば、当然盛り込める情報の量は少な- ことで言うと、上旬下旬で同じことを逆に ことではないんですよ。量の大きさという 暮れに櫛を拾った、そのことは別に大事な と。内容的には何もいってないですね。夕 私。夕暮れの櫛は私に拾われただけだ、 ことをいっています。夕暮れに櫛を拾った だと思う。まったく上の句と下の句と同じ でも'そうではなくで'櫛は私に拾われ 読者があってこそ成立するので、読者が読 をしておきたい。つまり、歌というのは、 一人で作るものではないということを確認 たかったのは、歌というのは、決して自分 と てもうれしいと思っています。 あったな」と、どこかで思い出して-れる 感じに照らして'読者が「あ'そんな歌が という気がするんですね。自分のある時の て'あなた方もそんな時があるでしょう' 出てきそうなくらい眠い。そんな時があっ でも'肺の内側から眠い眠いという言葉が 好きなんですね、この歌。素晴らしい歌 こへ行っても何を見ても眠い。息をする時 さんの希望だというふうに思います。 りあい気に入っている歌です。とにか-ど ゆふぐれに櫛をひろへりゆふぐれの櫛は てもそれは読者の自由、そんな読みが永井 いるというのではなく、どう取ってもらっ な永井さん自身のメッセージが込められて なものを感じられ ば'それでい 。重大 だと'いうことです。 えるものがないような歌には魅力がないん 自分で言い切ってしまって、読者が付け加 んでくれないような歌'つまり作者が全部 最後に私の歌を一首。 何の情報もない歌です。でも自分ではわ 後半、急ぎ過ぎてしまいましたが'言い わたしにひろはれしのみ 永井陽子 い ねむいねむいと肺がつぶや- ねむいねむい廊下がねむい風がねむ 入っていって、ちょうどい -らいかもし 歌の方が、作者がい たいことが読者が 永田和宏 これで終わらせていただきます。 言い足りないことがたくさんありますが' いただくと'い のではないかと思って' す。 そういうことを、少し心に営めておいて て読んでいけるような歌が、一番魅力的で ら'一首一首に手を貸してやる、身を入れ _V げないといかんのじゃないかと思いなが 自分がこの一首はこんな風に解釈してあ ヽ● ○ ような歌集というのは'ほとんど魅力がな んでも' うその人だけで、自足している ちっとも面白くないのですね。歌集一冊読 を読む時に、読む側が歌の中に入れないと れないと思っています。つまり、我々が歌 いはちょっと無責任に投げ出したくらいの それには、言い足りないくらいの'ある 12
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