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ライフサイクル論における遊びと超越に関する一考察―E.H. エリクソンの理論に基づいて
ライフサイクル論における遊びと超越に関する一考察
――E.H. エリクソンの理論に基づいて――
戸 來 知 子
HERAI Tomoko
はじめに
本稿では、E.H. エリクソン (E.H.Erikson,1902-1994) のライフサイクル論に基づいて、
「遊び」
が自我の発達を促し、さらには「超越」の問題にも関連していることを論じたい。
エリクソンは精神分析的な視点から、
「遊び」と自我発達の関連性について論じている。例
えば、
『幼児期と社会』において、エリクソンは、子どもの「遊び」は、
「幼児の自我の統合し
1
ようとする努力を理解する王道である」 と論じている。加えて、
『玩具と理性』においては、
エリクソンは成人の遊戯性についても、子どもの遊びが「子どもの重大関心事の中核で生起す
2
3
る」 のと全く同様に、
「成人の重大関心事の中核で生起しうる」 と記している。
ライフサイクル論においての「遊び」と超越の問題に関しては、先行研究として、西平直
が、
『エリクソンの人間学』において子どもの発達に関して、
「遊び」を通しての「自己超越」
の問題を論じている。しかし、大人の「遊び」については、これまでエリクソンの理論との関
連で論じられたことはなかった。
そこで本稿では、子どもだけにとどまらず、大人にとっても「遊び」が自我の発達に寄与
していることを闡明すると共に、
「遊び」の持つ超越的な問題について論じたい。そのために、
先ず第1に、子どもにとっての「遊び」が自我の発達や社会化に果たす役割を考察し、第2に、
大人にとっての「遊び」が果たす役割についても同様に考察することを試みたい。しかし、本
稿の目的は「遊び」と「超越」の関係について論じることであるので、第3に、ライフサイク
ルのそれぞれの段階、とりわけ老年期の課題である「統合」や「英知」の問題との関連性から、
「遊び」と「超越」の問題を論及したい。また、
「超越」の問題を論じるにあたっては、エリク
ソンの妻、J.M. エリクソンが、エリクソンの死後に付け加えた、第九段階での課題として「老
年的超越 (gero-transcendence)」の問題も視野に入れる。J.M. エリクソンは「老年的超越」を
論じるために、仏教思想を援用している。そこで本稿でも、仏教思想に含まれる「遊戯」の概
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念や「遊戯三昧」の境地との関連から、
「遊び」をある種の「人間の究極の境地」 として捉え
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た時に見えてくる「超越」の問題を論じたい。
1.子どもの「遊び」と自我の発達
エリクソンの著書を繙読すると、
「学童期」くらい迄の子どもの「遊び」は大別して二つの
意味的側面を持つと推察できる。一つは、
「青年期」の課題である「アイデンティティ」の確
5
立へと繋がっていく「儀式化 (ritualizations)」 の側面と、もう一つは、先行研究で、西平直が
指摘している、
「発達における自己超越」の側面である。しかし、この二つの意味的側面は、
全く別のものとして鑑みることができるというよりも、自我発達という共通の目的を支えてい
るものである。
まず、
「遊び」が持つ、子どもを「儀式化」へと導く側面を考察したい。子どもは「遊び」
を通して社会性を身につけていく。エリクソンに依拠すれば、
「成長していく幼児の遊び(長
い幼児期はそのためにあるのだが)は、種々の役割とヴィジョンの支配と指導下に置かれた実
6
在の内部で、想像的選択の活動余地を経験する訓練場」 である。子どもは遊ぶことで「擬似
−種族化 (pseud-species)」された自分が属する共同体の中で適応的に生きていくことを学んで
いく。
加えて、ライフサイクル論では、新生児が母親と「ヌミノース的な」微笑みを交わすことに
始まる「重要な関係の範囲」が示されている。すなわち、
「乳児期」では「母親的人物」
、
「幼
児期初期」には「親的人物」
、
「遊戯期」では「基本家族」
、そして「学童期」は「
『近隣』
、学校」
と拡大し、
「老年期」には「
『人類』
、
『私の種族』
」となっている。エリクソンは、子どもの「遊
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び」について、
「長い幼児期を費やして相互性と適格性とアイデンティティを結合」 していく
役割を果たすものであると論じている。
「乳児期」から発達段階が進むに従って「かかわりあう」
人間関係の範囲を広げていくと共に、
「遊び」もその内実を変容させていく。エリクソンはそ
の変化を次のように捉えている。
「子どもの遊びは自分の身体をおもちゃにして遊ぶことから
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始まり、自分の身体を中心にして展開する。これを自己宇宙の遊戯と呼ぶことにしよう。
」 と
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いう記述に始まり、次には、
「小宇宙−すなわち思いのままに操作できる玩具の小さな世界」
へと移行し、更に、
「保育園に行く年齢になると、ついに遊びは大宇宙に到達する。それは他
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の人々と共有する世界である。
」 と述べている。
「大宇宙に到達した」子どもは、
「何が空想
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の世界だけに許され、何が自己宇宙の遊びの中だけに許されるか」 を学習していかねばなら
ない。すなわち、自分の属する社会の「儀式化」を受け入れ、
「擬似−種族化」していくこと
を余儀なくされる。別言すれば、アイデンティティの確立に向けて、心理 - 社会的に漸進的に
発達していくということである。
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ライフサイクル論における遊びと超越に関する一考察―E.H. エリクソンの理論に基づいて
しかし、この「儀式化」はアイデンティティの確立を保証するものであるにも関わらず、幼
い子どもには様々な抑圧も与えている。子どもは実生活の中で親や周囲の人々から何かしらの
精神的な「外傷原因」を受けている。エリクソンは「初期の精神分析」に依拠して、
「遊びには、
12
成長しつつある者に、うっ積した情緒を発散させることを可能に」 する力があると論じてい
る。換言すれば、過去のフラストレーションを昇華させることができるということである。
子どもは両腕を広げて自らが飛行機になって駆け回って遊んだり、人形やままごと遊びで日
常生活を「劇化」したりする。あるいは、積み木で何かを型作ったり、それを一気に崩したり
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もする。
「おもちゃの並んだテーブルは、遊ぶ子どもにとって『ミクロコスモス』であり」
切り取られた人生の一コマでもある。自分の手で新しい世界を作り上げることも、また思いの
ままに壊してしまうこともできる。子どもは遊びにおいては、社会的現実に束縛されることも、
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良心の強制を受けることもなく、
「自己の自我と一体である」 と感じることができる。
しかし、ホイジンガ (J.Huizinga,1872-1945) も指摘しているように、
「遊戯は<日常の>ある
15
いは<本来の>生ではない」
。 そのことを、
「幼い子どもでももう、遊びというものは、ただ
<ホントのことをするふりをするもの>だと感じているし、すべては<ただ楽しみのためにす
16
ること>なのだ」 と知っている。それでも、
「遊び」には、
「固有の傾向によって、日常生活
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から」 何かを変化させる力が備わっている。
18
遊びは「自我が空間や時間の制約を超越し、決定的な社会的現実に束縛されない」 もので
あると同時に、
「遊びは自我の機能であり、身体的、社会的作用と自己とを同調させようとす
19
る努力」 でもある。すなわち、
「子どもの遊びとは、ある事態のモデル状況を創造すること
によって経験を処理し、また実験し、計画することによって現実を支配するという、人間の能
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力の幼児的表現形式なので」 ある。
「子どもは玩具の世界を新しく作り出すことで新しい自
分になる」ことができる。言い換えれば、実生活のなかでは解決できなったことや、何が問題
なのかさえ分からなかった様々な心の葛藤を、新しい現実を作り出していくことで乗り越えて
いくのである。
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エリクソンは、子どもが「自分の自我を分解修理する必要がある」 時には、
「小宇宙−す
なわち思いのままに操作のできる玩具の小さな世界」に帰っていくと指摘している。
「自己宇
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宙の中へ退行」 し、赤ちゃん返りをしても、その後、玩具で遊ぶことを通して乗り越えていく。
つまり、
「玩具という事物を支配する喜びは、それら事物に投射された心の傷痕を支配するこ
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とと結び」 ついている。子どもは遊ぶことによって「自己超越」的に発達の危機を乗り越え
て成長していく。言い換えれば、
「遊び」は現実に起きた「本当のこと」と「作り事」を行っ
たり来たりと振幅する。
「内在」と「超越」の状態を自分の心の中に固有化して、発達の危機
を乗り越えて成長していくのである。
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2.大人の「遊び」の持つ意味
子どもの遊びと違って、大人にとっての遊びはレクリエーション、気晴らしといった仕事以
外のことを意味している場合がほとんどである。しかし、エリクソンは「遊びは仕事ではない
24
という事実で定義される論拠」 を否定している。先述したように、
「成人の重大関心事の中
核部」でも、遊びが果たす役割は生起しうると指摘している。そうであれば、大人にとっても
25
「遊びは神の与えた贈り物」 であるはずである。大人であっても、
「遊びとは仮構によって現
26
実を解きほぐしていくこと」 に違いないはずである。
27
しかし、エリクソンは、大人の遊びには「遊びが人を騙してしまう危険性がある」 とも指
摘している。アルコールやドラッグがその例として挙げられている。遊びが遊びとして成り立
28
つには「境界線」が必要である。
「現実(事実的現実)による制約があってこそ」 遊びはそ
の機能を果たすのである。先行研究で、西平は「プレイは、現実を軽やかに超越しながら、再
び現実に舞い戻り現実そのものを生き生きさせることもあれば、むしろ、作り事が人の手を離
29
れて実体化してしまって、逆に作り主をだましてしまうことにもなる」 と述べている。実際、
「
『遊び』という言葉はまた、現実を超越するよりはそれを否認するごまかしとか見せかけの意
30
味でも用いられている」 と、
エリクソンも指摘している。
「幼児期は全て遊びと仮構(メイク・
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ビリーヴ)に充ち充ちている」 が、
「成人は完全に遊ぼうと(しばしば努力して)決意した
32
時以外は常に真剣で現実的」 なのが一般的である。しかし、気を付けないと「われわれは、
遊戯的に『∼のふり』をし、
『あたかも∼であるかのように』振舞うことができるが、
同時に『役
33
割を演ずる』うちに自らそれに騙されてしまうこともある」 のが実情である。人間は簡単に
錯覚に陥ったり、遊びが遊びとして成り立つための「自由」と「制約」の境界を見失ってしま
うこともある。そうなれば、もう遊びは終わってしまうことになる。
儀式化は、皮肉にもこの遊びの境界を維持し、守ることに貢献している。乳幼児がほとんど
無意識的に他者に対して攻撃的な行動をすることに対しても、その子どもの所属する共同体が
持っている儀式化によってコントロールされるようになっていく。同様に、スポーツやゲーム
34
も「幼児期以来一貫して劇化され形式化されてきたもの」 である。
「遊びの持つ攻撃的な側面」
35
は「儀式化」によって「時間と空間の中に規則正しく置かれた」 状態になっていく。換言す
36
れば「個人的自我の時空と社会の世界観」 が繋がれた状態を維持できるということである。
儀式化された枠の中の安定があるからこそ、
「精神分析の関心は内部諸事象に集中し、
『内的機
関』とか、
『内的機構』と称されるものの間を相互交渉(例えば超自我に対する自我)を把握
37
しようとする」 ことであるが、それが可能になる。その「相互交渉」は、
「外的機構」とし
ての現実の生活に戻った時に、相補的に投影される。そして、その力こそが現状を打破し、飛
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ライフサイクル論における遊びと超越に関する一考察―E.H. エリクソンの理論に基づいて
躍していく超越的なエネルギーの源であるはずである。遊び心が現実の窮地を脱出させるヒン
トとなるのもその例の一つである。
3.遊びと「遊戯」と超越について
エリクソンは、シラー (F.Schiller,1759-1805) の「人間はまったく文字通り、人間であるとき
だけ遊んでいるので、人間は遊んでいるときだけ真の人間なのです」ということばを、著書、
『玩
具と理性』の中に引用している。その見解は、エリクソンが携わってきた精神分析の治療の一
環でもある「遊戯療法」にも生かされている。
他方で、エリクソンは「遊び」に関しては、ホイジンガの見解を援用している。ホイジンガ
は、
「人間の一切の文化活動、つまり、芸術、哲学、裁判、祭礼、競技、戦争といった諸活動
38
が元来は遊びにおいて遊びとして成立、発展してきた」 ものだと指摘している。しかしなが
ら、
ホイジンガは
「遊戯の領域の中では、
日常生活の掟や慣習はもはや何の効力も持たない。我々
39
は<別の存在になっている>」 とも捉えている。収穫祭や謝肉祭を例に挙げて、
「<本気で
40
そうしている>のではないものの」
、 言い換えれば、それは日常生活の外にあるものだと認
識しながらも、
「遊戯者の心の底まですっかり捉えてしまうことも可能な一つの自由な活動で
41
ある」 と論じている。
ホイジンガは、著書、
『ホモ・ルーデンス』において日本の「遊び」についても言及している。
「茶の湯」や「武士道」を例にあげて、ホイジンガは日本語の「遊び」には「何かを徹底的に
42
行ずるという意味もある」 と指摘している。広辞苑を紐解くと、
「遊び」の項目の第 1 に、
「日
常的な生活から心身を開放し、別天地に身をゆだねる意」と記されている。神楽や神仏祭祀で
43
奉納される音楽からは、
「日常性から離れ、心身を開放して神仏と一体化する境地」 を想起
できる。
ライフサイクル論に戻ると、
「老年期」の課題は、
「統合 (integrity)」と「絶望 (despair)」と
の葛藤から「英知 (wisdom)」という「基本的な強さ」を得ることである。
「統合」とは、一言
すれば、これまでの自分の人生を「全体として受けとめ、過去の自分史を統合することのでき
44
る能力」 である。これまでの七つの心理 ‐ 社会的発達課題を織り戻すと、
「あらゆる過去の
特質が新しい価値を」おびてくる。アイデンティティは「実存的アイデンティティ」として「人
45
生の全体性における私 (I)」 を支えることが求められる。当然、
「死」を受け入れる必要性も
46
生じてくる。エリクソンに依拠すれば、
「英知」は、
「残された未来を行きぬく」 強さを持つ
47
ことと、
「無限の歴史的継続の中で、自分の場所を受け入れる」 ことを可能にする。
「繰り返
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される評価と修正の過程の中から」 、人は自己受容して、
「老いることの固有の意味と評価を
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ありのままの存在自体に見出す」 ことができるようになるのだと考量できる。
J.M. エリクソンは、エリクソンの死後に超高齢期を対象として「第九段階」を付け加えた。
そこでの課題は「老年的超越」である。J.M. エリクソンは老年的超越を「宇宙の精神であり、
50
時間、空間、人生、そして死の再評価であり、自分自身の再評価」 であると定義している。
「老
年期」の課題解決によって、死は「同調的」なものとなった。しかし、さらにそれを超えて、
「よ
り宇宙的で超越的な見方へ移ることであり、通常の人生の満足感が増加することによっておこ
51
る幅広い意向を意味する言葉である」 と説明している。J.M. エリクソンに依拠すれば、
「老
年的超越に達している個人は、宇宙の精神との神秘的交信という新しい感情、時間と空間と生
52
と死の再定義、そして自己の再定義を体験している」 状態である。J.M. エリクソンはこの見
解を仏教思想や、ホスピスに入院している末期癌患者の穏やかで深い微笑みにヒントを得たと
記している。
さらに、この「老年的超越」についての新たな発見を、J.M. エリクソンは自らの体験と共に
記している。すなわち、
「超越が活性化されて、トランセンダンス (transcendence) になれば、
『超
53
越』はまさに息づき始める」 のであり、
「我々の真の成長や向上に過酷な負担をかけて、我々
54
を成長と向上に向かわせないように働くものを乗り越えるという課題に『超越』を挑ませる」
のが「老年的超越」の実相である。そうであれば、この「老年的超越」の境地は一種の「悟り」
である。
「トランセンダンス (transcendence)」と、この「老年的超越」が息づくのは、遊び心
なくして到達できるとは考えられない。広辞苑の「遊び」の説明には、
「心のおもむくままに
事をする。遊び慰む」という項目がある。
「遊ぶということが、自由に心をはたらかせて、人
55
間が心身ともに別世界に入ってもいいんだ」 と解釈すれば、
この「老年的超越」の境地も「遊
び」の角度から見ることができる。
仏教には、
「遊戯」や「遊行」ということばがある。遊戯はもともと無邪気に遊び戯れてい
る様子を指している。遊戯や遊行は「心のままに振舞って何ものにもとらわれない自由な行動」
である。
「仏や菩薩が何ものにもとらわれない自由自在の境地、悟りの境地を、
『心のままに遊
56
戯す』として『遊戯三昧』という。
」 仏、菩薩が何ものにもとらわれずに自由自在であるこ
とを指していて、悟りを開いて無邪気に戯れている様子を示している。遊戯・神通とは遊び戯
れるがごとくに救済を楽しむということで、悟りの世界に遊ぶという意味もある。
「もっと自
由自在になりなさい。肩の力を抜いて楽になって遊ぶのです。目的も手段も本来はないのです。
あなたの立ち居振る舞いがそのまま仏行であり目的に他なりません」というメッセージが込め
られている。
57
悟りをひらくというのは、
仏教では「自己の内に超越をみる内的超越」 である。仏教は「人
間をして、日常的自己から脱離し、超越させ、もって、本来的・根源的にあるべき自己に回帰
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せしめるもの」 である。また、仏教は「神なき無神論的宗教であって、絶対他者を認めない」
宗教である。仏教の因縁という考え方は、原因があって結果があるという、科学的方法論のよ
60
「一
うな捉え方である。その「内的超越」は、
「主体の心のうちに自覚される」 ものであり、
61
切の時間的・空間的限定を超越」 したものである。そこに着目すれば、
「遊び」もまた、
「生
62
活を超越するのではなく、生活の中に内在しながら、生活から分離した自空間をつくる」 も
のであるなら、これもまた、
「一切の時間的・空間的限定を超越」していると言えるのではな
いだろうか。別言すれば、遊ぶことは「過去、現在、未来を結合し、つまり、時間と空間を圧
63
縮する」 ことでもあるのだから。
おわりに
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本稿では、
「遊戯性という要因そのものによってその事象が生まれ変わる」 という事を、
「超
越」の問題と関連づけて論じることを試みた。言い換えれば、
「遊び」を通して現実の問題が
精神分析的に昇華され、結果として自我を一層の高みへと引き上げ成長することを、仏教の「内
的な超越」と関連させて論じることを試みた。
「統合」の問題は「生死一如」の超越の問題に
も関わっている。すなわち、生の終わりに死があるのではなく、日常の中に、生死は「表裏一
体」として存在しているということの自覚によって、人が一層、生き生きと生きていくことが
できる。これらに関することをもう少し詳細に論じるべきであるし、仏教との関連ももう少し
丁寧な説明を加えたい。しかし、もうすでに紙幅もつきたので、次の機会の課題としたい。
注
1 E.H.Erikson,Childhood and Society.W.W.Norton,1950,p.266.
(E.H. エリクソン著、仁科弥生訳、
『幼児期と社会 1』
、みすず書房、1977 年、p.206)
2 E.H.Erikson,Toys and Reasons,W.W.Norton,1977,p.12.
(E.H. エリクソン著、近藤邦夫訳、
『玩具と理性』
、みすず書房、1981 年、p.12)
3 同。
4 栗田勇著、
『日本文化のキーワード』
、祥伝社、2010 年、p.51.
5 エリクソンは儀式化を、
「擬似 - 種族化」という、自分自身の「種族」と他の「種族」との間に根
底的な差異があるという種族特有の感覚によってもたらされる、民族、国家、階級、イデオロギー
の違い、あるいは子育てや生活習慣の違い等に対するある種の排他的な感情や慣習的な相違を指
す用語として用いている。
6 E.H.Erikson,Toys and Reasons,op.cit.,pp77-78.(邦訳、p.85)
京都精華大学紀要 第四十四号
7 Ibid.,p.77.(同。
)
8 E.H.Erikson,Childhood and Society.op.cit.,p.220.(邦訳、p.282)
9 Ibid.,p.221. ( 同書、p.283)
10 同。
11 同。
12 Ibid.,p.215.(同書、P.274)
13 西平直著、
『エリクソンの人間学』
、東京大学出版会、1993 年、P.169。
14 Ibid.,p.214.(同書、P.273)
15 J.Huizinga,Homo Ludens,The Beacon Press,1950,p.9.
(ヨハン・ホイジンガ著、高橋英夫訳、
『ホモ・ルーデンス』
、中央公論社、1971 年、p.23)
16 同。
17 同。
18 E.H.Erikson,Childhood and Society.op.cit.,p.214.(邦訳、p.273)
19 Ibid.,p.211. ( 邦訳、p.269)
20 Ibid.,p.222.
21 Ibid.,p.221.(同書、P.283)
22 同。
23 同。
24 Ibid.,p.237.(同書、P.304)
25 E.H.Erikson,Toys and Reasons,op.cit.,p.41.(邦訳、p.40)
26 西平直著、
『エリクソンの人間学』
、p.172。
27 同。
28 同書、p.171。
29 同書、p.173。
30 E.H.Erikson,Toys and Reasons,op.cit.,p.18.(邦訳、p.12)
31 Ibid.,p.55.(邦訳、p.56)
32 同。
33 Ibid.,p.56.(邦訳、p.57)
34 Ibid.,p.71.(邦訳、p.76)
35 Ibid.,p.79.
(邦訳、p.87)
36 bid.,p.71.(邦訳、p.76)
37 Ibid.,pp.135-136.(邦訳、p.156)
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ライフサイクル論における遊びと超越に関する一考察―E.H. エリクソンの理論に基づいて
38 尾関周二著、
『遊びと生活の哲学』
、大月書店、1992 年、p.43。
39 J.Huizinnga,Homo Ludenns,op.cit.,p.19. ( 邦訳、p.31)
40 Ibid.,p.19.(邦訳、p.32)
41 同。
42 栗田勇著、
『日本文化のキーワード』
、p.50。
43 同書、p.54。
44 村田孝次著、
『生涯発達心理学の課題』
、培風館、1989 年、pp.191-192。
45 E.H.Erikson,J.M.Erikson,H.Q.Kivnick,Vital Involvement in Old Age,W.W.Norton,1986,p.64.
(E.H. エリクソン、J.M. エリクソン、H.Q. キヴニック著、朝長正徳、朝長梨枝子訳、
『老年期』
、み
すず書房、1997 年、p.70)
46 同。
47 同。
48 Ibid.,p.140.(邦訳、p.148)
49 工藤真由美著、
「人間の生涯と教育に関する一考察」
、関西教育学会第 48 回大会
発表資料、1996 年。
50 E.H.Erikson,J.M.Erikson,The Life Cycle Completed.Extended Version, W.W.Norton,1997,p.124.
51 Ibid.,p.204.
52 Ibid.,pp.181-182.
(E.H. エリクソン、J.M. エリクソン著、村瀬孝雄、近藤邦夫訳、
『ライフサイクル、その完結』
、みすず書房、2001 年、p.182)
53 Ibid.,p.127.(邦訳、p.187)
54 同。
55 栗田勇著、
『日本文化のキーワード』
、p.57。
56 同書、p.51。
57 竹内明著、
「真実の自己形成 - 一遍教学における超越の問題 -」
、
『佛教大学研究紀要 58』
、
1974 年、p.33.
58 同 .
59 同。
60 同書、p.37。
61 同。
62 尾関周二著、
『遊びと生活の哲学』
、p.182。
63 D.W. ウィニコット著、橋本雅雄訳、
『遊ぶことと現実』
、岩崎学術出版社、1979 年、p.154.