聖 書 ヨハネ11:28~37 (第64講) 題 「主を敬う信仰を失いかけたマリヤ」 * * * * (序) 前回の所で、マルタは悲しみの中にあって、何をする 気も起こらない無力感、脱力感を感じさせられている 時に、イエス様がおいでになったということを聞いて、 主を敬う信仰の思いが起こされ、奮い立ち、村はずれ までイエス様を迎えに行ったことを見ました。 しかし、一方マリヤの方は、イエス様がおいでになっ たことを聞いたと思われるのに、立ち上がる気力さえ も起こされず、姉マルタに任せたまま動こうとしなか ったのです。こういう状況にあって、信仰の思いより も、つらい感情の方に支配されてしまって、動く気さ え起こらなかったのでしょう。 ここに、危機状況における信仰の違いが出ているのが 見えます。ヨハネによる福音書では、マルタ、マリヤ、 ラザロともイエス様との間に親しい交わりを持って いたことは伝えられていますが、それがどのような信 仰姿勢を表しているものであったか、その詳細は分か りません。 ルカによる福音書の方では、村の名前は記されてはい ませんが、ある村に立ち寄られた時、家に迎え入れた のがマルタ、マリヤの家であって、その時初めてお迎 えしたのか、それまで何度もお迎えしたことがあった のかさえ分かりませんが、温かくもてなそうと必死に なっているマルタと、他方ではイエス様の許を動こう ともせず、話される御言葉を聞き漏らさないように聞 1 * * * * * き入っているマリヤの姿が記されています。(ルカ 10:38~42) その時には、マルタの方が、必死にもてなそうとして いたのに、手伝おうともしないで、自分だけイエス様 の許にいたマリヤに対する不満をイエス様にぶっつ けている姿が描かれており、マリヤは、仕えるよりも、 御言葉に聞き入りたいという思いの方が強く、霊の耳 をそばだてることを何よりも大事にしたいという信 仰の姿が描かれているのです。 著者ヨハネは、弟子の一人として、その時の様子を見 ていたことでしょう。その時に語られたイエス様のお 言葉は、もてなそうとする思いで心を騒がせてはなら ない。真のもてなしは、私の言葉に聞き入ることであ って、マリヤはその方を選び取ったのだと言われたの です。 そのマルタとマリヤの信仰姿勢を知っていたヨハネ は、肉親から死者が出るという厳しい局面において、 マルタとマリヤはどのような信仰姿勢を現したか、そ れをここに描き出そうとしたので、その辺りの状況を 詳しく記していると思われるのです。 これは、観客席でのその一部始終を目撃するように導 かれた弟子の一人としてヨハネは、その様子から、病 気と死に向き合う信仰姿勢のあり方を、マルタとマリ ヤの信仰的向かい方を示しているものとして見てい たのでしょう。 前回は、マルタの姿から、どのような状況であれ、そ こに主が深くかかわって下さっている事柄として受 けとめ、主に対する敬意を表す大事さを示しているこ 2 とから学びました。それではマリヤはどうだったのか、 そのことを学び、それに対するイエス様の言動から御 心を学び取っていくことにしましょう。 (1) イエス様が来られたことを聞いたと思われるのに、マリヤ はなぜ動こうとしなかったのでしょうか。ルカによる福音 書に描かれているマリヤの信仰深い姿から見れば、考えら れません。イエス様の対して敬意を払う思いが起こされな いほど悲しみの中に沈んでしまっていたかのように見えま す。 この後、姉マルタから、イエス様があなたを読んでおられ ますよと聞いてやっと立ち上がり、しぶしぶということは ないにしても、積極的に行ったようには感じられないので す。 イエス様はなぜか村の中には言ってこられずに、村の入り 口で待っておられたのです。どれ位の距離であったか分か りませんが、そこをどのような思いでマリヤは言ったので しょうか。マリヤの思いまでは記されてはいません。イエ ス様の許に行った時語った言葉は、姉マルタと同じ言葉で ありました。 これはラザロが病気になり、死んでしまったとき、マルタ とマリヤの間で、もしイエス様がいて下去っていたら、ラ ザロは死なずに済み、病気も治っていたと思うと話し合っ ていたからでしょう。 描かれている姿を見ますと。マルタよりもマリヤのほうが 数段落ち込んでいた様子が分かります。それを見ていた親 しい弔問客たちは、マリヤのことを気遣い、慰めるように 3 願っていましたが、マリヤが急に立ち上がって出て行くの で、これは墓の所に泣きに行くのだと思ってついて行った のです。 たびたびそのような行動を取っていたのでしょう。 マリヤは、マルタと違って、このときは弟の死の現実に押 しつぶされ、 悲しみの中に飲み込まれてしまっていたので、 イエス様に対して、 「もしここにいて下さっていたら、ラザ ロは助かっていたでしょう」といったが、これは同じ言葉 でも敬う思いからと言うよりも、絶望の涙を流しながら、 このようにいったように感じられます。 同じ言葉であっても、主に対して敬意を払う思いから語っ た言葉と、今きて下さっても手遅れですとの絶望の思いを もって語る言葉との間には大きな違いがあります。一方は 揺れてはいても、信仰の思いから出ているが、他方は信仰 の思いがふさがれた絶望の思いから出たものだからです。 ルカ福音書に描かれているマリヤの信仰は、何よりも主の お言葉に飢え渇いていた、御心信仰に立っていた姿が表さ れているのに、ヨハネ福音書に描かれているマリヤの信仰 は、 全く別人のように、 目は主のほうを見上げてはおらず、 世の現実に目を奪われ、死別の悲しみの中に飲み込まれて しまっており、信仰の輝きが見えなくなってしまっていま す。これはどうしてでしょうか。 考えられることは、信仰深い生き方を表してきた者であっ ても、その信仰者の一番の弱点をつかれると、その信仰深 さが嘘のように消されてしまい、その状況に飲み込まれて しまうという現実があるということです。 マリヤにとって、御言葉に生きようとする信仰が形成され ていたこれまでの生き方の中で、肉親の死という現実は、 死に対する勝利者としての信仰を確立していなかったこと 4 が明らかにされ、弱点を引き出される事によって、その現 実の前に信仰の思いがふさがれてしまい、肉的悲しみの中 に埋没させられてしまったのでしょう。 このマリヤの姿に見られる信仰者に対する揺さぶりは、す べての信仰者にも起こり得ることであることを知っていな ければならないでしょう。特に、病気と死という事柄にお ける揺さぶりは激しく、自分のことであれ、肉親のことで あれ、それに対する勝利を得ていないと、大きな揺さぶり となり、信仰の思いをふさぐほどのものとなることがある のです。 罪に対する勝利の信仰、死に対する勝利の信仰、これを持 たせようとして、イエス様は、マルタに対して、 「私がよみ がえりの素であり、 いのちの素である」 と教えられました。 キリストを仰ぐことが、よみがえりの素、いのちの素を頂 いた者として、霊が大きく変化し、揺さぶりに動じない信 仰になるのです。 (2) 大きな揺さぶりに、信仰の思いが飲み込まれてしまってい たマリヤは、それでも主が呼んでおられると聞いて、力を 振り絞るようにして村の入り口まで行ったのです。イエス 様がここでとどまっておられたのは、力を振り絞ってここ に来るまでの間に、信仰の思いが回復するきっかけになる ようにとの思いだったと考えられます。 イエス様の許に来ても、主を見上げる思いよりも、悲しみ の思いのほうが勝り、泣き続けているマリヤの姿をご覧に なって、イエス様は心に騒ぎを覚えられたのです。口語訳 では激しく感動し、また心を騒がせられたと訳して、いか 5 にもマリヤの涙を御手、もらい泣きされたかのように心を 揺さぶられた様子を描いていますが、これは翻訳者の受け とめ方により、見当違いによってそのように訳されたので しょう。 ここで遣われている言葉は、不快、憤りなどの思いを表す 語で、霊においてひどく憤慨された様子を伝えています。 もう一つの言葉は、心を乱す、いらいらさせるという意味 を持っていて、この時のイエス様の思いは、どうしてこの ようになるのかと怒りや苛立ちの思いを表されたことを表 現しています。 このような状況で、イエス様がそのようなおっ者をあらわ されるはずがないと多くの人は思ってきたので、マリヤの 涙に感動された姿として見ようとしたのですが、著者ヨハ ネがイエス様のお姿に見たものは、マリヤに対する碇、憤 りではなく、兄弟の死を用いて、マリヤの信仰を押しつぶ そうと働きかけている背後のサタンに対するものだと分か ったのです。 人は、導きを受けて信仰の思いがあふれ、喜びと感謝に満 ちて生きるようになり、決して信仰からはなれることはな いと思えるほど主を敬い、 主によりすがって歩んでいても、 その人がまだ勝利していない弱点をつくことに長けている サタンは、機会を狙い、一気に攻めてくるのです。 あれほど主のお言葉に心酔し、御言葉に生き、主を敬い、 主に愛されている喜びにあふれて生きていたマリヤが、単 に気が動転しているというだけではなく、肉親の死が受入 れられず、どうして神は助けて下さらなかったのかとの主 への不満の思いで心が囚われ、信仰がふさがれてしまうと いうようなことがあるのか。 6 イエス様は、マリヤの弱さというより、サタンの巧みさの 方を思われ、マリヤの背後でほくそえんでいるサタンに対 する激しい憤りと、ご自身のものとなっていた者が、左端 に取り戻されようとしているのに、苛立ちを覚えられたと いうのが、この表現であったことが分かります。 これは、すべての信仰者の背後にいつも忍び寄って、基に 取り戻そうと働き続けている左端が射るという事実に目を 向けさせようとされるイエス様の怒りの様子であったと言 えるでしょう。 なぜ信仰の素晴らしさに気づき、神の導きと助けと力とを 味わいながら、生きることの幸いを覚えて歩むようになっ た者が、再び左端の働き掛けに落とされてしまい、信仰が ふさがれるというようなことがあるのでしょうか。 お s れは、救われた人間の中に、なおもサタンが王として 戻ることができる古い城跡が残っているからです。信仰に よって一つ一つ勝利していけば、その影響力を排除してい くことができるのですが、勝利していない部分を残してい ると、そこにサタンは巧みに働きかけてくるのです。 神はヨシュアを通して、カナン入りした出エジプトの民に 対してこう言わせられました。残っている異邦の民の影響 を受けて、偶像を拝していた人々に、 「異なる神々を除き去 り、イスラエルの神、主に、心を傾けなさい」(ヨシュア 24:23) 。 どんな状況であろうと、主を敬う思いが失われたら、信仰 による勝利を望むことができません。サタンの巧みな働き 掛けに落とされないためには、特に病気と死に対する勝利 者としての位置を信仰によって獲得していなければ、そこ にサタンが激しくつけ込んでくることは間違いないでしょ 7 う。 (3) マリヤの信仰を回復させようとされるあわれみのみわざと して、イエス様はラザロを生き返らせようと考えておられ るのです。マルタの場合は、神への期待を表させるように された上で、ラザロを生き返らせ、悲しみの中にありつつ も、ぐっと踏みとどまったその信仰の思いをもう一段引き 上げようとされたのですが、他方マリヤの場合は落ちかけ た者を助け上げるあわれみのみわざとして示そうとされた のです。 墓の場所を聞き、その墓の前に立たれた時、聖書の中でも っとも短い説だといわれる 35 節で、イエス様はぽろっと 涙を流されたのです。人々はそれをどう勘違いしたのか、 ラザロを死の力に奪い取られてなすすべもなく、涙を流さ れたと思ったのです。 これからラザロをよみがえらせようとされていたイエス様 が、ラザロの墓の前で、なぜ涙を流されたのでしょうか。 非常に不思議な一句です。死に飲み込まれ、霊は視野の国 へ、体は墓の中で口抵抗としている信仰者ラザロが、自ら の死に対して勝利していないことを思い、死者となった今 の彼の思いに立って、彼に代わって涙を流されたのではな いでしょうか。断定はできませんが、そう思わされるので す。 一瞬涙を流された後、イエス様はご自身の立場に戻られ、 驚くべきあわれみのみわざをなそうとされる者として、墓 の近くにいた者に、石の蓋を取り除けなさいと命じられた のです。 8 この当たりの様子については次回学ぶことにしましょう。 ここまでの所で、マリヤが肉親の死というサタンの最強手 段の手にかかり落とされかかっても、主は何とかしてその 信仰の思いを取り戻させようとして働いて下さるお方であ ることが、この記事によく表されています。 イエス様がマリヤの状態を見て憤られたのは、マリヤに対 してではなく、マリヤの背後に働いているサタンに対して であったと先ほど考えました。主を信じ続ける、主を喜び 続けるという継続の歩みがいかに難しいことか、これは私 たち自身の歩みを思っても分かります。 それほど、この地上のける御国を望みつつ生きる天国人人 生は、信仰を危うくさせ、引き落とそうとする働き掛けに 満ちており、背後にあってサタンが爪を研いで、今にも襲 い掛かろうとしている獅子の如く、待ち構えている恐ろし い世において生きているのですから、大変なのは言うまで もないでしょう。 弟子ペテロが、人間的な思いでイエス様の御言葉をいさめ た時にも、ペテロに対してというよりも、ペテロの背後に あって働きかけているサタンを見て、 「サタンよ引き下がれ、 わたしの邪魔をする者だ」 (マタイ 16:23)と言われま した。 これは、 ペテロの不信仰をしかられたというよりも、 その思いはサタンの導きを受けて思ったことだと知りなさ いと教えられるためであったのです。 私たちの思い、口、目、耳、手足を用いて神に逆らわせよ うと働きかけているサタンに気付いて、思いを落とされな いよう西、信仰の思いを起こさせようとあわれみを持って 働きかけて、御言葉の力を味わわせて進ませようとして下 さっている主を思って、信頼を寄せていること。これが信 9 仰を支えようとして下さっている主の働き掛けを無駄にし ない歩みだと言えるでしょう。 (まとめ) 信仰者であっても、受入れ難い現実の前に置かれると、こ んなにも信仰がふさがれてしまうのかとマリヤの姿を見て 思わされましたが、 マリヤの信仰が弱かったというよりも、 サタンの最強の武器である病気と死を持って迫られると、 人間は、誰しも崩されやすいと言えるでしょう。 信仰者は、罪に対する勝利者である確信だけではなく、病 気と死に対する勝利者としての信仰に立つように、このラ ザロのよみがえりの記事を通して訴え続けていることは言 うまでもないでしょう。 そのことは、義人といわれたヨブでさえ、受けたその苦し みの前に信仰がつぶされそうになり、彼の場合は、生殺し の苦しみよりも、死を望んだという違いはありますが、自 分の背後にサタンが働いているということに気付かないで、 自己正当化し、神のなさり方のほうが間違っているという ようになってしまったのです。 違いは多くありますが、共通している点は、自分の背後に サタンが働いて、思いを神の方から自分の方に向けさせ、 信仰の思いをつぶそうと働きかけている事実に気付いてい ないという点です。 パウロは、サタンの怖さを自覚している人でありました。 それ故、この地上における天国人人生において忘れてはな らない戦いがあることをはっきりと言っています。 「わたし たちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支 配と、権威とやみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に 10 対する戦いである」と。 (エペソ 6:12) 自分の思い、自分の言葉、自分の行動が、サタンが導き、 与えようとしたものか、それとも、神が導き、与えようと して下さったものか見分けて歩むようにしないと、左端は 神の導きのように見せかけて働いてこようとする巧みな所 があるから、注意しなければならないのです。 (Ⅱコリント 11:14) 11
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