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NAOSITE: Nagasaki University's Academic Output SITE
Title
被爆者の自分史・私たちの自分史
Author(s)
栗原, 淑江
Citation
架橋, 3, pp.185-214; 2002
Issue Date
2002-03-20
URL
http://hdl.handle.net/10069/25501
Right
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http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp
被爆者 の自分史 ・私たち の自分史
1 はじめに
l 被爆者問題との出合い
皆さんこんにち喝 ご紹介いただきました栗原です。今日の特別講演会は'安部先生から'豪
君 のお話を学生さんたち に聞 かせてい
て'今年もこれから浅野茂義さんと小峰秀孝さんのお話を夢 中でとりあげる。ついてはお前 かその前座をつとめない
か、というお話があり
∫
ました。どうし妄 つかと 一
瞬迷ったわけですが'私は長陣 htちょうど二I
十
歳 になっ
た大学三年生の頃からほとんど毎年のように被爆者調李な
どで通ってきて、それ以来三十数年、被爆者の皆さんのお話をうかがいながら'右も左も分からない子どものような時代からこんなおばさんに
なるまで、いろいろなことを教わっ
てきました。それを何らかの形でお返ししていかなければいけないなあと思いへ今日はお伺いさせていただきま
した。
もともと話すことが商売ではありませんので'上手な話はできませんが、三十年前には 1人の学生だっ
た私が、私自身の自分史と重ね合わせ
ながら'被爆者と関わりをもちつづけてきた三十年の問に教えられてきき 」
とを、今の若い方 々に何らかの形で橋渡しをする役割を果たせれ
ばよいのではないかと考えてお伺いした次第です。
今日のタイトルは「
被爆者の自分史・
私たちの自分史」
とつけていただきましたので、はじめに'私自身の自分史ということで'皆さんにお配り
した資料の最後のページに簡単な年表をつけておきましたoこれは真ん中の列が、いわば被爆者問題というか核問題の年表です。そして左側は世
の中全般の動きや大きな出来事。右側には私自身の生まれてからの歩みを簡単に記したも のです 。こんな 人生を 生き てきた者と して'
戦筆 墨尻に生心
裏 只に育 った私が、なぜそもそ姦 署に、それも長崎 の被爆者に出会 ったかという、被富
農との出合いを簡単にお
186
が施行されたのがこの年の五月でした。ですから、私は日本華
れたのは 1九四七年 (
宥和二十二年)です。私が生キト
れたE︻
月 一日の前日には葦
話しておきましょうO
私要
公布された平和憲法、今の日妻
と兄弟みたいなもの'同じ頃に生
が公布されています.そして'菌年に
まれたというわけです。戦争か終わ って間もない頃でしたからへ世の{庄 戦争の苦しさから抜け出した人たちの開放感でいっぱいでした。
児の羊ともたちとかが、町の中に見られる晴代でした。それで何となく子
代に、私はそれを空気の妄 つに吸 って大きくな ってきたわけです。私が幼い頃はまだ'戦争で手足が
軍人の方とか、あるい比寮を失った慧
平和と民主主義が当たり前の主 義
不自由にな壷
そんな私が戦争そのもの一
考 えるき つになったのは、中学 ・
せ
尊
間に戦争を描いた様々な
什ビ 読んだいろいろな本をつうじてのことでした。特にロマン ・ロラ
どもの頃から戦争は悪いものというイメージ昧もっていたのですがへ獣挙がどれほどひどいものかは、日産的にはほとんど知りませんでし
た。
ンが大好きでした。それとマルタン ニアユ・ガールの ﹃
チポー豪の人々﹄など、第 1
次と第二次の二つ蓋
っ
ヨーロッパ茎
皆 qqがあ豊 すが、そういうものに触れる中で戦争というものを考える妄 つにな った妄 毒 気がします。中でも、まだ子
どもだ った私の心に警 残 たのは、世の中が平和な陣は、みな平和が大切だという顔をしていますが'世の中が戦争 へ戦争 へと傾斜して
いくにつれ、今までは空型壷 我者だ、あるいは社A
至童撃雷にと言っていた人たちま でが、どんどん戦争巷曇天に変わ っていく そういう場面
が小説の中にたくさん出てきました。そうした状艶下での人間の変わh
之様というのが、子ども心に非常に恐ろしく思えたのです。そして∼
作品中の、戦争に抗いながら生きた人間の姿に感動しながらも、いざ戦争というときに、私は本当にそれに反対していくことができるのだ
え、戦争それ 畏
か
をこれから選
砦刀
の簸間の二つが微妙に らエ
香り
ノ
あいながら'存在していたのではな
戦争というものはど ついA
フ廿のなのかという巌間レY も っ1つは、こういう世の中で、私がb
J
,
ついー
轟
るつかということが不安でした。そういう意味では、その文芸 皆関の中に、人間はどの妄つに生きていかねばならないのか'人間らしい生
き方とはどういうものなのか、というこ とを探し求めていたのでしょう。そのころの私の中には、まだ明確な形 をとっていなかったとはい
んでいくのか、どの妄 つに生きていったらよいのかという青春冨
187
空事っのは'大学に入って三年生になる時のこと、ゼミナールを選ばなければいけませんでした。私娃社A
璽
いかと、今から思えばそんな気がいたします。
いよいよ被讐
教
査をしている石田 思先王 (一
橋
且ロいをもてる妄 つな什事や蟹 がしたいと思 っていました。難しい古典な量 SS)
のはどちらかというと嫌い、様々
=当時)のゼミナールに入ることにな ったわけです。
な人間の旦在的な問題にぶつかれる妄 つなゼミナールはないかなあと思っていましたので 長崎妻
育とか'人間と等
大義
を通じて全国の箸
掌p
の全国組織である日本原萱
墓
。をもつ、そして'三つ目に、その中から暑
査奮 迅じて被 爆者とつなが った。次の十重間は、今墓
協)の事
H
身 のライフワークという と大
石(
日憲
そして l九六八年の夏反側の要
した。暑い夏のさなかでしたが、仲間と 一
緒にテープレコーダをかつい壷 箸の家を訪
問していった.そこか姦 著とのつながれ呑 始ま ったということでi
㌔ そして今ではもう二千 二年にな豊 すがへその最初の十年間は、
慧
の
務局 貝として そ 葦
通
組みだ っ
著から、
いろいろな警
げさですが、自分自身が被爆者から何を受けとめていくことができるか薯 えた時に、始めたのが 慮 爆者の曇
とい,
垂
たのです。大畠て その三つの番目に分かれるのですが、三つのそれぞれの時期にそって 魯 H
H
昇 の人生の中で出会 って
嘉
二
(
原爆)は人間 に何を した のか
l 調査 で語 ってくれた被爆者たち
体に勤める,
I
Oつにな ってかも
は人間に何をしたのか'ということを語 っていただきました。
工仝ナ
に勤めて助手をしていたころの陪代、そし垂
)
いA
重
どんなことを学んできたかということをお話していきたいと思います.
重
じて被爆者の皆さんから、毎
188
① ゼミナールでの長崎被爆者の生活史調査
初め壷
訪れて 被爆者の方々のところ嘉 菅つかが っ蒔
重 昂からぽ っと来て何も知らない私たちに'被爆者たちは 「
思い出す
のがつらい」「
本当珪話したくない」と言い、誓 ほろほろと流しながらd 「
あのロトのことやその後のこ主 星 雪 てくれました。私たち
ですか' 一九四五年八月九日の 「あのロ亡、どんなことがあ ったの
には初めて聞くような話ばかりでした。分厚い調査表をもってまわるの
嘉 話看聞くので精 1
1
硬 途中で次の質問に移ることもできずに、ただ聞
くだけでしたが、なぜこの方たちは兄も知らない私たちにこ ほど熱心に語 ってくれるのだる つということが、ある意味ではとても不思議
れ
かを フかが ってい ると話は止まらなくな ってし暮 つ。こち竃
た
忘
ち、中には思い出せばっちくて体の具合が寒くなるという万もいらしたのですが、
それにもかかわらずへ若い私たちに話してくだきろつとする。被爆者が抜放を話すということは、やはりつらいことなのですね。だから
でした。あの時のことを コ思い出したくない」とい,
轟
れたい、思い出したくない。だけどもも っ一
方で 産 着にと ってこのことは、忘れを つとしても忘れられるものではないし、忘れられ
らまた同じことが繰り返される'何とかして分かってほしい、伝 えたい、伝 えなければならない。そういう二つの気持ちが被爆者の中には
いつも働いているということ考 今ふり返 ってみて私は思います。そうい,
つ葛藤の中で、私たちがお話を聞かせてくださいと頼めば、語 っ
てくだき ったのだろ つと思います。
ん
石田先生のもとで行 った初めての調査で たくさんの雲
間L.)
たなかで 今でも忘れられない何人もの顔が浮かびま す 。佐 相ワカ
さんとい,
去 ばあさんがいました。普段はとても陽気で'原爆病院に入院してい電
いろいろ冗警 言っては同室雪辱菅たちをけらけ
ら笑わせているおばあちゃんでしたご J
の方は原爆で、自分の娘さんと同居していた甥や姪を亡くしていました。そのワカさ に蓋 を聞
いたときのことでした。毎年八月九日になると、あちこちから墓 舛いの人たちがたくさん病室にや ってくる.あの路は歪 だこうだとい
って 書 盈舛
を持 ってたくさんの人が訪ねてくる。「
そっいう時は、私やふとんかぶ って寝とる」と言いながら'ほろほろと涙が流れてく
るO輩もそうして来てくれる人がいないわけです。
189
その方は辛苦へ 敬虚なカトリックでした。八月九日の夜になるA
r 浦上天童 義
行列をしていました.おばあちゃんも 一腎 癌明行
列に参加してみろと1
1
T
l
呂 れてタイマツを持たされた。それに次々に火をつけていく。自分のも っていたタイマツに火をつけられたらボーッ
二十但 望馴 (
当時)にフラッシュバックしてし享 フというか、八月九
と替え上が った。「
そうしたら私はそのタイマツを持 っておりきれませんとき」
、バッとはなして 「
ああへあん時はこうじやった」そう患
牽
ったら持 っていられなか ったというのです。その時のこと
けです。
を わずら ってず っと原爆病院に入院したり、退院した姦
草
ということでした。 l
度お宅に
義 っていかなければならない人ですか、はやくから
n
ノ
返していま
歩 どれほ
日そのものに戻 ってし妾 つのです。そして私は、普段は陽気にいろいろと話してくださる桧尾ワカさんの心の中に、あの八月九口
それ・
レ
・
r
pつl人柱'熊上竹蔵さんとい皇 万です。聾
ど深い悲しみをも ってひそんでいるのかということを饗 えられたわ
吋
甲
丁歳にならないそらいですから、本来なら 1家の警 手として要
著とな って入通院していたものですかた1
'ほとんど家族にとっ毒
フかが った時に、眉 介物はいない曝つがまし」だく 家族の重 叫 とても話しにくそうに、ぽろ っともらされたのです。
わずらい原爆症の票
した。聾
聾
お郊発して馨
つかが った確 聞蓋
上さんは亡くなられました。後にその記警
とめた本を持 ってご遺族をたずねたところ'奥さ
家族としては入院していてくれたほ うがいい。葦 んは、ご主人が働けな いものですから'自分が日雇いに出たりカ仕重を して 何とか家
何回か小
菅
族を食べさせていくために髪ふり みたして働いていたんですね。
嘗込んで肇 笠やよ
んは、そのときもどこか遠くを見る妄 つな目で 働けずに家でごろごろしているのを見盲 分がイライラしてしま って冷たくあた ってしま
つ
ったtと何とも らそうに語 ってくださったのです。 それを聞いたときに、原爆ほ覆爆者本人だけでなく 窒
ぽしている、という ことを知りました。
け
このように 1人 一人にいろいろな思い出があるのですが'まずそんなところから私の被爆者との出会いは始ま っていったわ です。
② NGO被爆問烏シンポジウム
190
が主催
石
が作られ義 挙 p
の調査に腎 組んで いったわけでて その中で北義道 でも鴬嬢 でも
際シンポジウムを開くことになりました。垂 r
S
'広員 長崎で開催されるシンポジウムに先駆けて 全国的な複爆
そして 一
九七七年、原爆から二千 二年経 った年に、私はまだ大学に勤めていたのですが、国連のもとにあるNGO (
W
して 初めて被醤
音調査がおこなわれましたo各都道府県に墓
至るところでこういうことがでてきまし た。八月六日 ・
九日の嚢
外
の中で、水をくれといA
孟
けられずに'あるいは助けてくれと
手をさしのべる人をふりはら って逃げたといA
壷 言が無数に出てきたのです。このときは全国で 1万人以上の詞責をし、それ以上の葡査貝
たちの思いが初め
のある町にたずねていきました。平塚シゲさんとい主 力です。平塚さ
をつうじて 三十何年間も苦しみながら心の中に秘めてきた肇
私は石田先生と t
緒に、答 えてくれた中の l人轟
荏制を組んで行 った、そ つい^
垂
て表に出てきたわけです。
が各地で璽
その苅
華
ん昧唇尋.J原爆にあい、ビカツと光 ったとたんに家がつぶれた。家族汁等)
主人と女の子二人の四人だ ったのですが、皆豪の下敷きにな って
しまいました。r
i
やかあさん'助けて」という娘の声が聞こえる。和子きんという 長女が、足がぬけない、早く助けてよ皇 t
l
口っている。何
(
ノ
とするのですか、そのうち星 芥から火がついてきた。それが自分の
「
私は、死ぬのはいやた ったのです。生
遣 い出て 壁土や木警
口
わせて ﹃
和ちゃん、ごめんなさい。悪い
とか助けを つと思 って l
生筆
口
わせました。重
後ろ髪引かれる思いで」逃げて行 った、という話をし
菜ないのです。火がこ
方に吹きつけてきた。そしたら熱くて苦しくて我慢できない。そして死の恐ろしさにおそわ驚
きながら焼かれていくことは出来なか った」
。それで自分は 「
子どもに妄
-
ふ峯
お母さんだけれど許して下さい.和ちゃんも死にたくないでしょ,
亘 ⋮
く お母さんも勇気がなくて 死ぬこ轟
垂
わいのです。和ちゃん、許してね'許してね﹄とj
m
貫をがら、ふ
てくれました。
蓬 から二千 二年目のシンポジウムの調査では、子どもを助けられなか ったとい、
嘉
た
ち
が訪ね
を初めて語 ったのですが、その翌年に私
と分
た時に平塚さんは、「
華 子どもを捨てて逃げました」と証言したのです。嘉 が自分の子どもが焼けて死ぬのを捨てて逃げた 自 の言
葉で冒つことがどれくらいつらいことか、私は自分の子どもはいませんが、そうい皇 帝を聞いたときに'人間としてのつらきというか、悲
191
しきというのが初めて分かった妄毒 気がしました。自分の子ど塞
ったところから、平塚さんの人生がまた変わ っていくわけです。
て妻
したと、その行為轟
t
{ は っき りと百分の1
1
1
1
真 で語
同じ調査の中で やはり母親で同じ被爆状況にあ った方が、四国のある県におられました。自分はその時とっしたのか分からなか った、
たぶん子どもはその中で死んだのだろつ。とにかくそのことがあって、自(
富 ばちがあたって今こんなに体が悪くてずっと苦しんでいる、
ず っと苦しみつづけている、と証言
D
,
j
た方がありました。平塚さんももちろん、被爆後しばらく は呆けた妄 つに、ぽかーんと子どものこと
だけが頭に浮かんでいた時期もあったといいますが、次第々々にその時自分が何をした のか、子どもを助けないで逃げたということから目
をそらさすに見つめて行く中で 今度は容子さんら二人の娘たち、直後に亡くなられたご主人なり
ヽ そのとき亡くな った人たち への太当 の
見 つけ出し生きていく
妄つにするしかないのだということを、自ら実践していく
が語られる妄 つにな ったのですか、その時私は、被爆後二千
ようになるわけです。学校で話をしたり、平和の集会で話をしたり'そうする中で や った 日分自身の生きる聾
供養となるのは、自分がそのことを語 って二度とこの妄 つ
を戦争を起こさせない
ことができるようにな った、と語 ってくださいました。
平塚さんだけではなく シンポジウムの調査では全国各地でこの妄 つ
壷
二年間も誰に皇 二
Dえずに自分の心の中に秘めておかねばならなかった 「
心の他
野 というものは、どれほど深いものかを知りました。そして
一度心に受けた傷は、その傷を直視して 再びその苦しみ産 れ
ノ
返さないといA
畠 に自らが上
蓋
ることによ ってしか克服することが
できない。平塚さんは、毎日仏壇にご飯とお水番 えて子ともに妄 [
あせている、といっていました。死ぬまでそうするだろフち そう
いA
轟 ちを持ちながd 自らが再び戦争を起こさないためにできることをすることが'子ともたちの本当の供養になるだるつと言ってい
ました。原爆のひき起こした地獄が人間の心にどれほど深い傷を残すのかということ考 この雷峯を通じて教えられました。
③ r
被 団協 辞 査 」の語 る も の- 原爆 のも た ら した 死と 生
その後、蔑 協に入ってから 1九八五年にも大きな調査が行われ声 し
.
た。これは詳しくご説明はできませんが'皆さんにお配りした資料
192
対
象
1
り を
︻
あ の日の
あるいは 1 二言'皆さんが
言
集の最初の方に'この調査か重
きしてあ毒
舌 協の墨
意三 万三千人香
にして老嬢後四十年の年に誓
四十年たってもあの日の 感 r嘉 る言葉 には'本当に鮮烈なものがあ里 †
C た。その 茎
介してあ蔓
ことで今も亡少
れられないこ
Ar 心に残 っていることはどんなことか」という問いに対して 雷雲昔お 一驚
てれ
柔 がム間か、乞 いった思い
答 え く 童 嚢 からの抜粋です。 一
言笠 弓 てしまえば、原爆がひき起こしたの辻'人間の世にあ重 美 き,
「
仙
意 rと恕 言い古 つのな
い素 だったということ考 それぞれが口々に語 ってい葺 人間の牢 畠 言えない、まさにモノの妄言卜
扱われた死 (
「
モノとしての死」
)
の苦 が寧 品 てい卓葺 こんな葬 義 があっていいのか、生 最 獄そのもの考 あるいは、これが人等
考 産 から甲 T
壷縫 った時点で それぞれの吾妻 でつづ ってくれました。
同時に、
先ほどの平塚さんの妄 つに、
助けてくれと書芸 れても助けることができない'
水をくれ皇 戸われても水轟 ることもできない'
それどころか、「
あれは人の世ではなかった、あの世の菅
の著 ソ
にした妄つに思い葺 だのに何を見ても'何畳聞いても何も感じ
という言い方下せ零 て
リた
し
-、異常な基 心
の中で昧人間は人間でなくなるJ
'
き っいうこと雀 l
口
っている人がたくさんい考
ない。警
棒してしまっていた ・
量蜜 恐いと思っていても、だんだん何も感 じなくなる。ふつうならム翼
親が子昏 たり」子が嘗
霊
りするわけですが、それが杢可能になるくらい豊 恵をひき起こしたのが原爆たったのです。定からこそ 産
いたと罫 っのです。被団協の調査 で吐、そのことをいろいろな形で皆さんが蔓 二
日
してください+ました。
「
あのmJの畳 についてだけでなくて それか壷 等 が生きてきた人生昧どうだったのかということも 雲 の中に比表れてい号
これも 1
言で幸平あ 主 要 は、これは長崎の詩人 墓
琴十
きんが F
・
蔓 表エ
きて雷 といえ )
自身の伝験をもとに書かれ迄作
品か
らの引用です。
がにじむよ・
義 怖である。いく姦 し
「
身体の調子が狂 之 )
とに原隼征が出たのではないかAJ
.不安が常 につきまとう.それ垂
・
・・
蜜 するか妻
壷伯
が苦し
ても絶対に治ることはないのだA
J
'被爆者の心の恩捲くにやりきれな い確信の古壷 ものがある。・
くなる。そこで無理して働く'たおれる。こうしたまるで蟻地獄のような救いのない生活がつづくのである。
」
193
彼客 はこれを 「
産 着の夢
書かれた古 壷
と言い、生きる軍
苦しさ蓋
ヽ
■
l.
I
J
・
1'
' 、、
えながd たくさんの菅 上
菅いておられます。この妄 つに福田さんが
星
しだとか、いっそあの路死んでいた替 届 よか っ七と思 ったことが星
か」
、三ベL,
ソから四ペ
ージにグラフや表で爪
き れています。轡
..
な '岳気がある'不安がある'それからあや日の体験
軍 としての様々な 「つ
らさ」が重なっていくと人はぎ 名 急 とい、 室
たた
が心の傷として残 っている。そうい,
義
めi
1
'こんな苦しみを 存 るくらいなd 死んだ曝 委
壷
署の肇
とい
うの吐、不安や苦しみ義
之た人
に対し'そついA
2気持ちを持っ巷 ふ
とがあ考 、
奄るい昧今で皇 て
う
万の四人に 一人にものぼりまLAP.
要するに、生きていること日豊 書
な い、こうい
」笹 皇弓 てい亨
しC
にまで追いこまれて 暮 1
.そうい,
轟
という問いl J
れを 房吉 る意欲 の葵
思 っている
と答えた方は、覇重に答え蔓
A
7全豪 ら死んだ万がましだとい,
盛
-の
生だ ったということがこの習査で明らかになりまし毛
._ ∼
ー
_ i .1 1 を
t
_- .
i
そのことを端的にまとめたのが 1九五・
( ジ 左下に軋る r
総括表」 です。 これは私 の先生で
ある石 田忠 先 生が被団協調査に答えてくれ
た証言をもとにつくられた統計表です。 一番左の硬筆層というのは'被害者としてのいろいろな苦しみから析出した七つの被害を指標にし
て'それがたくさんある人と少ない人とを上から下へ'多い方から少ない方 へと並べてみたものです。そうすると'その中で生きる意欲の
喪失体験の為る者 ・ない者を見ていきますと'被害の重く深い人ほど'生きているよりは死んだ方がましだと思う人が圧倒的に多いのです。
被害の大き主に比例して'そういうつらさを味わってきたいということが分かると思います。このように'調査を通じて被爆者は様々な形
で原爆のもとらした死と生を証言してくださいました。
194
1
披春
総
2
赦
層
3
4
生きる意
の凍失体` .
層
問の兼任を
うている
頼
のある者
A.8
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額 型
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O
17
30 、 ー37
47
息r
原爆休戦の思想化- r
被団協調査j ・分析- 1
.
より
(
注)故事膚 ‥庶建社寺の塞 き ・深さを表す (
教が大きくなるほど重 く深い)
類型 ^I
B:r
生きる支えJとして、反原爆 (
表 6の1
0
.
1
2
.
1
3
の1
.っ以上)葺択
類型 EIF:r
生きる支え」は 「とくにない」またはま 6r
J7-1
3
以外のみ選択
石田
195
策
動の中姦
署と l
緒に済勢したい,
昌 心って日本被団協の義 局に入呈 した。その中で 今度は、
争点 は 「
基 本懇」 と 「
基 本要求」に
三 被爆者 のね が いと国 の碧
私は 一
九八〇年に大学をやめ、萱
署の願い、垂
法案のための要撃
といA
妻
と
ノ
ました。そして'
蔀 自らの原爆体験に基づいて願っていることと、国の薫
窪 署が何を
頗 い葺 をつづけてきているのか、それに対して日本のS静は どの古 壷 対策で応えてきたのか、応えてこなか った のか、と
いったことを 日の当た-にしてきました。それ蓋
1
九七二年に 「
〟
懲蔓
の堅 止点'争点が 1体どこにあるのかということをは っきれと示してくれました。
まず、私がまだ大学にいたころですが、警
っ
づ
案要綱の去 つなものをまとめました。それぞれ意見が導 っ政党の原琶
被爆者の雲 水を t
番根 っこにして 富 里ハ
同の援護
自分たちの要求はこれこれこういうものです、これに基 い嚢
として作 ってくださいと各政党に要請しましち 当時の野党
は社A
莞 公望 へ零
共莞
この四つしかなか たのですか、その四党すべてがこれに辱 t
{ 自分の栄としてはこ,
萎 えるという
葦
法案という形に卓か
とめていくということにな豊 した。私は運動の壇 特
をず っと見てきて 被爆者の要求自体が、太尭異なる政党の意見を
策の基本的茎
ともいうべき コ
墓姦 r意見というの
蔀から教わ豊 したO
結束させて 1つの葦
ノ
'国会に上程させる、これが民‡主義ということだと分かった妄 毒 気がしました。葦
コ
然それぞれの意
見をもっているわけで そこから始まるのではなくて葦
原岨W
被害にあ って苦しんでいるその問題の担い手白身が'自分たちの要
求を中心に政治を変 えていくという'文字どおり民主主義の運動の基毒
① r
基本憩」
意見
- 戦争の犠牲は「受忍」せよ
の に入ったその年 (一九八〇
年)に、聖の萱
そして 轟 に被団協 藁
が出されました。
196
毒
の正 式 名称は 蜜
藁
について ど 萎
J えているか。葦
して国が言 ったの吐こういうことでした。
戸 とい
^
呈 43量 刑で、厚生大臣の墓
閑として訊
降り
られました。国昧被
原振被害に対して国として償ってほしい、国家裾旧をしてほしい、と求めている。それに対
基本葦
の
くされたとしても、それは'国をあげての戦争による ﹃1
般の廷 臣 として す
広島・長崎の撃
は「
人類未曾有の簸 声 だと述べて 「人間の油
管 絶した地獄を現出した」という。肇
言 っていたことと'
ここまでは同じこと皇 ニ
ロっています。ところが、「
およそ戦争という国の存亡をかけての童
心
のもとにおいては'国民がその生命身 体・
財産等について その戦争によ って何らか 犠笹 重
言仕など法律り
上の責任を追及して
恵 のもとにおい蓬 ・
・
・
・
J
tですからこれ
べての国民がひとしく受忍しなければならない」(
我慢しなければならない)のであって 国の不重
それを見たときに私は本当にびっくり
しました。「およそ戦争という国の存亡をかけての重
救済を求める遭娃開かれていないのだと、こういう意見を、「
基本憩」は提出したのですC
は、決して l
九E]
五年に終わったあの戦
争ではないのです。これから蔚嘗 る箸 も含めて およそ戦争とい皇国の存 亡がかか っ童
心
のもとでは、国正
仇
が命を失ったり'体にケガを負ったり'財産を失ったりしても'それは国をあげての戦争なのだか ら我慢しろと言われて
潜云現の要求というのは被爆者の要求なのだろつか'いやそうではな
いるわけですね。これは窪 者にとってはもちろん大変な意見だったのですが
へこういう政治の仕組みの中に塾 R身が生きている、これは
私たち国民に対して言われたことだと気づいたとたんに、被爆垂
放射線で後々病気 になった
地獄の中で死んだことも、被爆者としてつらい人生を生きなければならなか ったことも
私が被団協にいたそれからの十 一
年間というのは、まきに、この撃 丁
の犠牲は 「
受忍」せよ、原爆の琶
い'これは私たち自身の課題でもあるわけだtということが身につまされて太当に分かったのです。
人はみてあげるけれども その他の琴
- みな我慢しろと国空 弓 ていることに対して 被爆者が、いや「.
そうではない、原爆の犠拝は人間として我慢できることではないのだ
ということ姦
しながら'国の要
義冬見ていくための寧 恵 み重ねていった貯期でした。私はその真 っ只中に飛び込んだとい
うわけです。
197
け4
号 ' 国民法廷 (
聾
隼 の形で萱
局で
)
た1
九八五年の調査をしたり、あるいは国会で毎月の妄 つに請願の
套任の相良 について国民に番 える様々な運動を展開しましたO私蓋
② 被 爆者 要 求 調査 から r原 薄 被等 者 の基 本 要 求 」へ
警
その#'憂
意見をはねかえすためにへ先は葬
行薫
意見をのh麺 えようと被印協が小さな詔蓑をしたときでした。これは、「
被爆垂
とい
︰
歪 等 の行動を支える仕事をしなから、全国か毎 月の妄 つに土 居Lで
∼ る藍 等 たちが、六十蔵以上の人がほとんどというかなり雪 向
齢
で身体も丈夫であるとはいえないにもかかわらず、このような エネルギーがどこから出てくるのだる フ
と不思議でならなか ったのです。
そのわけがよく分かったのは、憂
う、大学ノート 1ページ位の t
枚の紙にわず空 ハ
項目の
電 萱でした。冶爆してから 7番つらか ったことは何ですかなどと聞いているのに対
世界中のだれにも
のここかしこに'それぞれ思い思いの言葉で書き込んでいたのです。集計しなが・
S
(一
して それぞれ自由に記入する。八割 九割の人が'「
こんJ
止苦 しみは十・
台猛りでたくさんだ」「
子どもや孫にはもち毛
絶対に味わわせたくない」
'そういう虚 い嚢
(
ふ 、被爆者のこち エネルギーというのは'ふたたび被爆者をつく ってはいけないへという広
枚1
枚全部目を通していV うちに、あ卑 そ,
くて深い願いから発しているの考 それやえに被爆者は頑張って集ることができたのだ、ということが 一
枚一
枚の調査宵
罫 ら伝わ ってきま
した。
その後で大規模に行なった蘭萱が先ほどの !
九八五年の 憂
F でした。「
基本憩」轟
しのh適 えるために、萱
調
査に基づいて 1つの文書を摩n
ソ上げました。それが I
九八四年十 一
月に笈 足した コ
原繰被害者の基本案 r です。ここにi
g 点 線は、人
き
間として死ぬことも、人間らしく生 ることも許しません。核兵許はも.
uI
7
)
轟
け轟
とした狂気の一
義 です。人間 として辞めるこ
とのできない襲 悪の兵器なの言 といま
, つに、被爆者たちの自らの隻 に葺つけ喝 壕蓋 はいかなる条件の下でも絶対に謬
岬のるこ
おこすな、穆套
くせ」
、それく 「
萱
法
とができないものだということ考 まず ったっています。そして 婁 首の何よりの願いは'その去 (
ノ
な「
為仙
rの苦しみを二唇 と誰にも
味わわせたくない、ということであり'その願いを実現するために昼 肇
198
の制定を今すくに」という二つの要蓋
くことが自分たちに残された
等ノ
ることに
に
、盛 れば戦争とい・
つ畠の行為によ ってもたき コ
)
れたもの」である。そして その妄 つな讐 轟薯について 「
戦争遂行主体で
得するための裁判があり、その白
雪同
そしても っ1つは原錐被害に対する国塞備債です。原聾
冒せておかないで'それを償
法の制定は、国が萱
ソ
返さないための土ム
量
等ノ
ることが必要であること ■)そうしてこそはじめて、被爆者たちは 「
平和の礎」として生きて
萱暑虐語法とはどういうも のかというと、「
虜憲
いくことがでd 死者たちは安らかに眠ることができる。二度と再び同 じ憲
使命なのだ、ということを コ垂木要求」で吐うたったわけです。
そして、被爆者の求める宴
したが って、轟 音のl天 要求というのは、まずは、核兵器の葦
ょ って 感 争整亨を拒否する権利﹄を つち立 てるもの」
、感 警 最 害 (
核兵器のもたらした苦んみ)を署
うことで国民の 「
核戦争を拒否する軽利」を つも立 てていくものだ、と意味づけたわけです。
原誓
対する国家補償とはど ついうことかについては、孫提斗さんとい.
重 囲の慈 箸が萱
裁の判決がこう述べています (一
九七八年三月三十日)
。
こ
と裏
な
、この間にあるわ
要田
は受忍しスと いうことなのか。いやそつではなく、それを二度と繰り返さないために、等
まさに 轟
あ った回が自らの責任にト
溝ノ
その警
かき こAr それが国喬 ということだと'書 ㈲
或は判決の中で明確に述べているわけです。
蓬 者が求めているのは、そ ついう意味での国の償いなのです。そして この二つの萎 島表現することが、自分たちの歴罵 な責任で
あり、使命であるというですO
、警
ここに明らかなさつに、被爆者の佐験から出た願いと国の政策との 7番の対一
義
けです。放戦争の誓
「
被爆者の自分史」運動
くし、国の戦争責任に葺 つく償いをするのか、こ にあらわれているということを、私は被団協の運動を通じて学んできました。
四
199
1
1人 1人の人生の軌跡を 1人 1人のことばで
そんな事務局の仕事をしなから(塞 四十五周年を廻えました.この時轟
担 ってきた方たちが相次いで亡くなっていかれました。四十五冨
丁さんとか、被爆者運動の初期の頃か
大きな運動に取り組んだのですか'その頃までに、例
T
える頃から(私の知 っている金歯 各地の被爆者た義 次々
えば長崎でいえば、今の山口仙二さんの前の代表書貝であ った小佐々r
益 きん、あるいは、山口葦
ら寧
まとめあげた、いわ犠 昏e肇
のといいますか、肇
体のつくを
基本寸書ですが、その
に亡くな っていくとい.
轟 を目の当たりにして 二十年考 警
らいろいろなことを学んできた人間として'1
体自分はこれか尭
J
畠和
介し
何ができるのか'何をしたらよいのかtということをいやでも考えざるをえなくなりました。それで'私なりに考えた時に'先はI
た「
基本要求」は、葦
他の仕事をしながd できるだけたくさんの時芸
者の 「
垂
、人生
背景には t人 一人の'様々な顔をLAy 様々な原爆体験と人生をもっ・壷 署がいるわけですPその人たちの 「
核兵器なくせ」コ
原堤被害
に夢
亡とい う願いは共通ではあるけれども、そこにたどりつく遭というのは、人それぞれに導 っ。そのこと考 一人 1人の被爆者
の言葉で残していく 仕事ができないだろ つかと
考えたわけです。
それで'被団協重義局の仕事はやめさせてもらい、曇
善くということには、
書いてみませんか」という呼びかけにつなが っていったわけです。最初
ら嘉を聞いていくとしても、 I
体何人の人に聞けるのだるつ'だから自
なぜ 「
自分史し
な のか
の記鐘を集めまとめ上げていく仕事にかか ったわけですo
① r
甚 爆音 の自分史」
運動のよぴ かけ-
書
これが、 i九九二年も暮れになってからの、被爆者に 「
は正直言って 私が全軍
n
ノ
'昔やっていった妄 つに警
に
取
分で書いていただければ手っ取nノ
早いなとい,
孟 持ちもあ差 した。でも、それだけではなくて、被爆者が婁
本当にいろいろな意味が含まれているということが、実際
り組わ,.
中 で分か ってきました。
200
側
持
て
見
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す
で
わ
い
が
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け
を
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い
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に
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り
のま
姓と っいうことだったのか、書いている本人も見直していくことになる。あるい娃 甲んでいる方にも'それは伝わってき 告 ノ
。まるごとの .
歴史 に沿って明らかにさi'豪
ぎ れていくとい,
r
(そういったところに 「
量
の特徴があると思います。
人生を書く中ではじめて 戦争中の自分と戦争との関わり、それが戦争中あるいは戦後を通して 1佳何が変わって何が変わっていないのか、
を見直すことにつなが っていく あらためてその中で、自分が<原爆>にとのを つに立ち向かって生きてきたのか、あるいは、避けて生き
てきたのか、そうい嘉
〃 行してきました。書いて
くだきっている方の作品 (
自分史の断
百発
ヲ\
人・
読中人の交流紙」として出してきたわけです。いま'全
表
昇 れています。書いて
署で あとの半分がそれを誰
甲∼で下さる 1
鮫の方たち'様々な形で 「
被爆者の
可
せていただいたりしながd
② r
自 分史 」を 暮 く被 姓 者 た ち
それ以垂
まで 「
自分史つうしん ヒバクシャ」といl
垂
片)を紹介したり、読んだ万々の警
国で大体血豪 十人が読んでくださっています。壷
して下さる方たちです。
九二年の終わりから、もう八年そらいになるのですが、実仲
野に積み重ねてくる中で 様々墓
自分申r運霊
この撃
田
くことの意味について、自分史量 目
いてい象
他
者の中からどうい垂
ー
かめる。その 7
番いい例は'これ
が出てきたかに着日しながら見てみまし
い盛 者の数は正常にはわからないのですか、「つうしん」に萱
昔 て下さ った方で、も っ百二+人くらいにはなるかと思います。
その他に長崎や福岡など各地に掌
グループがありますから'そこで書いている万たち貴 めますと、さらにプラスになることと
思います 。
は、室
そ れで
よー
つ。
「
書く」
ことによって、たしかめる
まず'書くということは様々な意味で薩かめることにつながるへということを感じます。墓
202
から皆きんが話を聞かれる小峰秀孝さんの山
里ロ
です。小峰さんは被爆‡
芋 隼に長崎牽 協で山
腹 した ﹃
いのちの藍 とい う証1
1
1
展 に、原稿
用紙十数枚の短い自分量 目
いた直後から'今度は 一
気にも っと詳しく自分の人生を若き出していった。そして 自費出 版した本の 「
あと
がき」を紹介しましょう。どんな思いで書かれていったのかがよくわかります。
﹃
壷
い
よくこんげ包阜えてお っとね﹄ と言われたが、安穏と生きることを許されなかった私には、右れ去 つにも忘れられ
「
心の誓 えそり出すような思いで ﹃
原爆﹄を思い出し書いていった。
兄からは
。
育けるとは思ってもいなか ったので 自分ながら驚いた。俺に誓
ソ
たくな った。
し
いバ
ないこ とばかりだ。重量 が 重
り
泣いた。溝
等T
も知らな の壷 墨 引き引き書いていくのだが'それが次第 に楽しくな った。自分の
中にわだかま っていたものが形にな って表されていくのがうれしか った
とうと つ百八十枚余りにもな ってしま った。文章なんか曇
イタリティーがあるんだと、何だか自信がついたような気がして、自分に拍手暮
この妄 つに、苦
た時の自分の思いを正直に書いておられるわけです。これは、自分でも驚くほどのバイタリティーを持 って書き上
もう 一つ、書i 別は t
度も二度も死んだ命だからいつ死んでもいいや畠 心っていたがへま畳 んでいくうちに、冗談じゃないへこんなに
苦労して生きてきたのだから 一日も長く生きつづけねばと田
やつの心の変化にビックリした。
」
身
げた、その自分自 に感動して書いている文章です。書く ことによ って'自分が見えてきたとい う典型的な 1つの例です。
対
当然のことながら、制度と被爆者との開 Ph
リ
、社会の仕組みとの関 わりも確かめられていきます。その例が
ってヮ-スミさんの襲 甲J という東京の実害壬房子さんという懲爆音の車かれた短い作品です。これは、今度、被軍
自分史を書く中では畏
n
F
撃
章
蘭をしていて助かったのです。遺族ではある 「
原爆被空夢 ですが、自分は被爆者壬帳をも
んの知hA口いのスミさん (
仮名)という万は'被爆者ではあちません。広島の原爆で祖父母と両親と二人の兄と三人の姉へA
里馴
して国が作 った 寧
対する援護に関すゑ 葎Lとい
う長 い皇 別の法律があるのですが、これがと っいうものかということを「非
常にわかりやすく書かれた例 です。
九人の家族が犠牲にな って'自分 一
人が蓋
203
に
い
て
はhま
で
亡
。
す
井きんに電話してきた。そのー時の
見
せん。その方が、窪 票 ができて艮かったねAr真砂
あ
っていませんかd 法得上の 虚 像著
ことが エピソード風に綴られていま
Y これでや
i
くした自分は九十万円もさ えるか4
人に つき十万円が出ると聞いた。九人重
スミさんは、今度の法律で 死んだ人 1
度の法律はそうではなかった。それ接衝爆者であり、同時に
っと家族の苦 作ってあげられる、と喜んで電話してきたのです。しかし、今
んの去 つに、
亡という手当事由 す。それなのに、自分自身が被爆者手帳を持たないスミさ
萎
人十万円の 「
漬族である人 は l
人 一人を弔つ国の弔慰金ではなく
鉾も出ない。これ姓原爆で命を奪われた死没者 1
亡くしてしま った人には 1
て家憲
学童森閑し
ことを語 っています。
て、生存している暮 者に対するなにがしかの手当にすぎないのだ、という
れぬ苦労をしてきた。人毒 す以外は
Dつに舌呂 r
l
をたらいまわしにされ、とにかくn
スミさんは、家警 蔀亡くしたために'葦
で業者建てた。その葺参
人自分の力でや っと生きてきたと言います。国から裏切られたスミさん昧目力
悪いことでも何でもしながら'女 一
、そして裏の方には亡くなった家族九人す
無」
言「
表には 一
りに妻 井さんは呼ばれて行きました。茎に睦何と書いて あ ったかというと、
ます。
べての名前と年齢、その 一番豪 にスミさんの名前が刻まれてあ ったといい
です。こ
姦 伴なのかということ考 きわめて端的に聖 和ってい魯 紺
とは原爆の被害者にとってど っい,
援護に関す轟
これは、「
人にもそれを伝えてくれます。
うして書くことによ って、自ら法律の意味を確かめると同時に、読む1
雷く」ことによって、つながる
「
あの月」のこ
窪 著同士は 「
被爆者同士がつなが量
次に、白倉 茅童ヲ\ことによってつながるということです。まず、寮いている
のかはお互いに知らないことが多い。書いてみて初めて 「ヘ
とはお互いに知 っています。だけど意外にその人がどういう 人望を送 ってきた
で知 っていた人が、より身近に感じられる妄つになったとい
-、あんたはこういうつらさを味わってきたんだ」ということを知って 今ま
う感想も寄せられています。
204
なた
て t人 一人のことを今詳しく書いておられます。それは、
同時にへここにいら っしゃる松尾雪十きんは、たくさん亡くされた嚢 につい
にしている'
とめなが魯 皿
り
ためてその人たちの霊
書くことによ って 原錐によ って奪い去 られた食を 1人 l人呼び戻して あら
そのことを つうじて亡く っ 者たちとつながる、ということでしょう。
じいちゃん'その足ど
己います。﹃
か った皇 一
q 娘さんは、自分史を親が書いてくれたことによ って、初めて親のことがわ
小峰きんの場A
たら涙がぼ
甲ル
.
じいちゃん'この本娃堺なくして読めんね。1
「
んげんしたと﹄という本にまとめられた自分史蓋 況んだ小峰さんの長女は、
と別れて子とも三人を育てていたころの、子どもの日から見
ろぼろ出っとき」と話してくれた。小峰さんは娘のこの善書 聞いて、婁きん
2菅 を持 ったわけで
もら えたとい1
えた自分白身がどんな思いで子どもたちを育ててきたか、初めて娘に分かって
ればぐうた童
身の人生を伝えることができる。そ
めて子どもたちに暑
す。そのとき書いて良か ったと思 ったと語 っています。書くことによ って 初
が生まれてきたのです。
して親と子の新たなつながhノ
聞かれる浅野茂叢さんの例で
嵐 れておきたいのは'来週皆さんが蔓
1
1
7
も っ一つ'自分史を書くことでたしかめられる'とい主甲で 1I
す。
尽垂に
と遷して 賃 紙 で二百枚以上申R
全垂
を「
浅野さんは被爆五十年の年に、ご自身が蓋 貫として生きてこられた歴史
た時のこと虫自分史の -つのエピソードとして書いておられるのです
書かれました。その中で、原爆翌日の八月九日、爆心地を通 って逃げY
その時と った自分の行動が夢にまで出てきて罪の意義に苦しめられる。書く
が、自書 轟 いたことによ って原爆直後の地獄の蔓
吋の体験に、自
の中で今まで心の底に押し込めてき垂
ことによって苦しみと直面せざるを得なくな ったのです。 一義 命に働く人生
である 「つたの会」
ソ
な折'自書 書 く長崎の被爆者の隻手n
分量 ヲ∼ことであらためて直面1 苦しみ轟 えてしまったわけです.そん
したり、
茅︼
返さないために、整 験 の証言
ノ
をと って体が悪い被 爆者たちが、二度と再びこういうことを韓n
に出てみると'自重
この妄 つに苦しめつづける原操について苦くことによ って 原爆のむご
る肇に触れ、五十年経 ってを
様々な活動をしてがんば ってい
ての葦 万を つかんでいかれた。浅野さんはその後も様々な場
さを人々に知らせていくことができるのだと、ご自身の今からの被爆者とし
205
で'蓮 著としての苦しみから日をそむけずに、それを虫h,
ことによ って 亡くな った
生万々への責 任を果たしつづけておられます。虫B
vこ
とによって被爆者としての生き方を見つけ出してこられ'そして実践しておられる方です。
本当のことが寿 げる。
き出してくれるのだと
身が感じておられるOそれがとても印象的です。
に受け止めてくれる若者から(
「
自分史つうしん」の 一〇〇号には、養 育の皆さんの声を寄せていただいた r声 唾芦 を組みました。そこに、浅野さんはこ,
量目
い
てくださいました。
日
書いた警
r
qB
vことによって若い人たちに番をするとd 産 が血
書 にな ったよー
毒 気がし暮す。
私たちの芸
」
かえ って励まされ、勇気を与えられる今 この頃です。
書いたことによ って世鬼か変わるとでもいう'そういう体琴
そして墓
に一言えば、皆さんの妄 つな若い方や、あるいは原質 巌のない方たちとつながる中でこそ、警
若い人から質問がきたりいろいろな反響が返ってくることが、書いている被爆者たちを励まし、さらに真実の士
篭
思います。
「
自分史を書く」
ことは、「
人生を深く生きる」
こと
ある複爆音が、量
わ
よく牛きることなんですね」と言われましたが、私は本当にそのとお
目
くということは 「
残り少ない人生をま
とい
りだとB
・)つのです。自分史を書くということは、人生を深く生きる うことです。被爆者にか蔓
日
置 若い人た量
目
き
ますが'それは自分の人生をどの妄 つに見つめ、どの妄 つにとらえて壮言 るかということに繋がるわけですから、人生を深く生きることだ
と思います。そして、被爆者たち琴 原爆体験の前からまるごとの-筈 ふり返れる がらその人生を統括し'それを次の世代につなげて
いく。エッセンスだけしかお話できないのが残念ですが、そういったいろいろ棄
慮 爆音の量
の取旦組みの中から生まれてき
ているということです。
206
被塩者 の 「
自 分史 」と私たち の課題
五 被爆 五十年 から 二 一世紀 へ
l
被爆五十年を退き原爆から辛世紀以上の歳月が経って いよいよ二 二日
短 を迎えました。最後に、被爆者の自分史から私たちがどの妄 つ
に学び、何を受け継いでいけばよいのかという今後 の課題について入 っていきます。
箸に対する援護に関す轟
という名の湊 が制定されました。これは被
① 蓬 五十年 ・
戦 後 五十 年が 提起 し た も の
まず窪 五十年という歴寅 な節目の年に、 1
体どういう問題があ ったのでしょうか。
五十年に入る直 叫 1
九九四年の十二月に、「
墓
究
榎兵器をなくせ'今す
廃絶」とい皇 二
葉 が二回も使われてい葺
そこに、警
爆者の国家葡旧を求める長い運動に対する国側の 1つの回答だったので,
㌔ その淳 はどついうも のなのかというと (
資料五ページにある
っ
廃絶せよと言 ているわけですが、それに対してこの法律の前文では、聾 器 の 「
京
「
射油州
声 を詳しくは後で見ていただきたいのですか)
'この法律には コ馴さ がついてい葺
そ
このよ
欝 に娃廉
緯しなければならないというのは'その究極に至る前任核兵器の存雷 やむを得ない、核兵器も役に立 っているのだということ
最近では 「
究
で 言わば核妻
等ノ
る上
り
壕につなが っているわけです。そういえ 別
注のもと董
律だというこ と が分か蔓
開
極的な廃絶」とLA
n言い方は評判が悪いため使われていないのですか、核兵器の存在そのものを聾 否定している被爆者の」
撃
うな国の立場には大きな きがあります。
呈 口っているかというく 前文 には、国 璽宮仕において 琴 十疲弊の投下の結果として
では、国真 贋をしろといー
嚢 に対してはb
J
A
生じた警
す重
苦が他の霊
草とは異なる特殊の被害であるこ とにかんがみ ・
・
-、保嘩 医療及び福祉にわたる整 聖
207
援護対欝を講じ-・
・
・
るため、この萱
制定するJ。国の責任において これこれの珪護対策を講じる。国家の湊 とは、全て国の責任で
基呼
のれば' I
聾
者との均衡上の問題が生じる恐れがあるから、これは適当ではない、と
肇 講じるものです。何で 盛夏宥僧r圭 一
呂 Jb'番 えて r
国の責任で」
・
とい皇 一
書 馴文の中に入れたかというわけは、里 方
で厚生大
臣が明確に答弁してい葺
盛 夏補償という鼻 血
を用いるA
r 国の撃 甲責任に基づく補慣を意薩するものと受け取られる可能性がある」
からだというt
.被爆者に対して国の葦
ハ
年には、核兵器の使用 ・
威嚇は 「一
船筒に娃 葉
畠中p、
のて原爆の被
言 っているわけです。その前提には、先ほど 「
基太憩」宙覚 のところで.額介し4
{ 戦争の犠牲は国民 1
人 l人に我慢してもう つしかないの
だ、といA
考 え方があるということです。
仙川
でも問われました。五十周年の翌 l
墓
以上の去 つに、この新しい淳 は、基太的には核兵器の存定は、条件付きであ っても認めるものであれ
ソ
'国の葦
害を噂 っとい1
2U
壕はとらない、そういi v
壕に貫かれたものだということなのです。
核兵器の謹活性については、芸
である」といA
轟 口
が出されました。ところがこれに先上
音 、広島・
長崎の当時の市長が核兵器は国際法に遵反するという証tl
n
茅J
Lさ っと
したときに、わが国の盆 管 の代表が、広島・
長崎両市長の看 つことは[
蓋 府の立場とは導 つということをわざわざ述べてそれを否定し
易仕の問愚が謹
空調
きれました。その年'産経新聞や ﹃
文聾春秋﹄で
いわゆる八月十五日に昭和天皇が読み上げた詔書にある、ということでし
五十周年の年に仏
瞥 芝y 様々な形でヒロシマ ガサキと日本の警
・
ナ
たのです。藻 国日本の政府が国際法違反と言わ恵か ったことは、固相
牒
的にも恥ずかしいことです。
盛んに議蒸されたのは、日本の戦後の出発点は戦争終結の撃
繋ぎ にな っているわけです。
げると民族の滅亡につながるから
戦争を止めるのだ、と言 っているのです。これはつ士官リ、敵が原爆を
た。大事なところだけ額介しますと、日太か 「
米英二閣二宮戟 セル所以モ亦実二帝蘭ノ自存卜東亜ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他園 ノ主権ヲ
排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕力志ニアラス」
。つ妄 り'太平洋戦争辻'日本が他国に停略しよゝ
フこして行 った戦争ではないのだという
ことを言っている。またその少しあとでは、「
蔽 ハ新二残虐ナル爆弾ヲ仕
笛用シテ叛二無季ヲ殺傷シ惨等ノ及フ所員二測ルへカラサル二至ル
・
・
・・
・
Jと言って'この士憂
使 ったからへアメリカが原爆を投下したから、戦争を止めるのだ。原堤が終戦を早めた、という 「
嚢
208
この問題については、被爆者のなかでこうい,
基盤粥がされ たことが奉 ります。被爆者の国家 伸
債 の葦
墨
要求に対して 先ほどの「
基
僧をしスと い う答申をま
太療」の意見が出される折のことでした.ある広島の学者ガ へ 肇
打になぜ国家補慣をするかという時に、原爆が落ちて戦争が終わっ
たのだからへそこにひっかけて 被爆者はいわば コ
平和の礎」にな ったのだから'特別に国 家補償をすれば良いではないか,
く 毒
い、ということになる、こんな墨
は被爆者とし轟
に受け
である被団協ではど ついうこと姦 し合ったのでしょうか。もしも そんな理屈
の審議の中で述べたことがあ ったのです。原爆が終戦を早めた、終戦を導いた、だから被爆者には零
う
、
とめたらど かとい,
義 明があった時に'全国の蓋
を認めたら 戦争を終わらせるためには原爆を使 ってもやむー
奪
諾rを述べている。これが苦
事実かというと、これはまた皆 さんが勉強していただけ
のです。
入れられない。仮に 要 丁
を終わらせるため」であろユが、∂宗貰卓歪仇
ずるため」である つ
歩、「
百国の防衛のため」であるつが、原榛の
それに対して 終戦の詔書の中では 褒
使用はいかなる名目でも認められない、というのが被爆者の核兵幕 旦否定の」
善
た
う
め
る
れば分かることですか、原爆が落ち から終戦になったと瞳1
1
I
D
えない。日本の軍部や政府首脳部の、当時の動きがと,
つ
走 ったのかという問
題が lつと、その同じ時に'政富 丁
人に対し妻
わらせる理由をど っ言 ったかとい と、ソ連が巷戦してきたから戦争を止め る の
だと言っているわけです。 1
般国民に対しては、原爆の去 つな残虐な兵器が使われたから止
のだと言いながら、宣人たちに対しては別
同や ﹃
套
否定し、警
遂行した国はその責任で原爆の被害
戦後の姶琴 がここにあると言 ってい
箸は、萱
原爆が戦争を終わらせたとい,
尋 責
た ったのですが、それに対し壷
白 的とするものではないといA
垂
のことを言っている。そういう使い 分けをしているわけです (
八月十七日 「
陸曹 早人に腎 たる整 R
J
)
。
あの董
たの壷
L
争
この年、ヒロシマ・ナガサキと日本の戦争責任について様々な議
簸鯛があった中で 非常に印象深かった 1つ聖貫料券虚介しましょう.フ
意
を償 ってくれと言 ったのです。終戦の詔書の先はどの上
巻 とは真っ向か基 =
芋ノ
る。そうではなくて 日杢凶憲法にうたわれL
y「
政府の
行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決
L云々︰・・
・
、というところに、被爆者の章
はあるわけで雪
対
ィリピンの 「マニラ ・スタンダード」紙の計まが、日本の里 零があげ方戦後五十年決議に して 次の妄 つに論じました.日本の蕃
209
の責任を唆昧にした決議 について批判しながら、最後の方で
死といったものへの寧
ではなV'第二蓋
げ
の誓
じめとする国民の様々墓
を国とし三 唱っこともせず、あるいは日本がやった行為について藁 に向き合
星口
著が日本人に謝罪するまでにならないかぎh
ソ
、アジア諸国 に審 非
する妄 つにはならないだそつと母 っ。日本の政
「
しかし、私たちは日太から真の警 要求しさ っとは思わない。それは薗罪など不必要レ
考 えているからではなく もっとほかに必要
とするものがあると信じているからである。
私たちは日本の墓
治指蒸着は国民が耐 えなければならなかった苦喝 等
うことを戦後の歴代政府が巧みに避けてきたことに対しても謝罪すべきである。
つ妄 り
へ原警
」
日本はまず、日本国民に畜罪すべきである。そうなったときの み、われわれは日本からの真の謝罪を期待することができる。
してきたこと。それが
十年の枠組みに 1番根
的
し、アメリカの
いきちんと伝 えるこ・
ま)
しない。そうい,
壷 仇のもとでの謝罪などはロ山
背 拝 のものに過ぎない。自分たちの求めている謝罪とはそんなも
のではない、ということを非常に明快に述べているのです。これ姦 んだとき、私は本当に恥ずかしく思いました。そして そつい,
(
一
由の
あh方 自体を日本の国民が変 えるとい うことなくしては、アジアの国々、墓 が侵略葦
ほした国々の人たちと本当に豊 DZ
いうことは舞しいのではないかということを教えられました。
② 被 爆者 が 自 ら の体 俵 か ら 生 み出し てき た 思想 ・
生 き 方 から 学ぶ
ここで批判されている去 つに、戦後五十年にいたる日本の戦後の枠組みはどこにあったかといえば、まず'核曇
「
核の傘」の中に日本白身 がすっぽり入ってきました。そのことAY白 つの行な った戦争の責任はま ったく不買
いま、様々に矛盾をきたしていると思いますが、そこで私たちが肇
がら愛息 とすれば、患 者はこういA
垂
元のところから異を唱 えてきたということです。核兵器はどんな理由があるつとも使 ってはいけないということ への藍
を様々な
形で私たちに示してくれたoそして 寅の警
任皇問うとはどういうことかといえば、「
お国のため」には命を失っても我慢しろと言わ
O
l
2
こんな雪害 聞きました。「
死没者 1人 t人に対して国が噂 えといっている要求は、決して慧
ざれたか皇 昌
れていることに対して いや'そんなことはできない。原爆の地獄のもとで人間はどんな誉 れ方をしたか'こんな人間の殺され方があ っ
ていいはずはない。これは人間の死ではない、と言いつづけてきた。
ある窪 者か轟
警
ず っと主張してきた爪
り
だる フと思います。
いということです。嘉 国 爪
り
ため」よりも 一
人 l人の人間を優先させるという 「
人間Gq
u
相
野、
っているわけではない。あれ蛙原爆のキノコ雲の下で地獄農 奴LAJ
'わしら自身の要求なんだ」
。あんな人間の死に方が誉 れてしま い'
もし、塵 )
されるなd また同じ妄 つに人間が殺されるのではないかと言っているのです。それは、人間 一
人の命が 「
お国のため」とい
うこと三間早に踏みにじられること誓
人間の価値を優先させるとい,
ヱ聾
これは当然のことながら、東 蒙 の行為としての繋 ぎ を再定するということです。戦径 、日本の再軍備がすすむ中で 日本国憲法なん
て理相省に
よと言われてもきましたが、今世紀の平和運動の到達点として オランダのハーグで閲か萱
完議 (1九九九年五月)
二1
た、歴史に対して個人がどのよう臣貢仕をとるのかということを私たちに教 えてくれました。「
ふたたび薮爆者をつくらない」
においては' 世紀に向けて公蔓
作っていくための基本原則として 真っ先に 「
垂 愛育は、日本国憲法第九菜の去 つな、
政府が戦争をすることt
基平止す童
択すべきである」と フたったわけです。決してこれは日本たけのことではなく 世界中の平和運
動が日本国憲法と共通する」
葦
始めているということに、私たちは大きな希望を持つことができるのではないでしょうか。
撃
というのは、単に、自分たちが原爆の犠牲者になりたくないということではないので雪 これは、核戦争の聾 者にも加害者にもならない、
して この国の仕組み妻
ノ
等 ることのない仕組みに変 えていころと してきたわけです。歴史に対する人間の責任のとり方
という疲握著の誓 空拳わす言葉だと思い葺 そのために、明らかに如
懲争の竃
であった日本の国民でもあった警
どの去 つに責
任をとっていくのか。先ほどのマニラ ・スタ ンダード紙の社説蓋 きれていた妄つ
を撃
被爆者はそれよりも早くから 一
貫して主張
も
漠がでて 国が控計
藁
するということがありました。その直後に、元ハンセン病
ということについても、私たちは被爆者から っとも っと学んでいけるのではないかと思います。
ついこの間へハンセン病国家腰慣訴訟の熊本著
211
患者の原告の方が、こんな手記を寄せているのを読みました。
「
私はハンセン病を病み、苦しんできました。その上に、この国に生まれた蓋
ら
言
にし得ているでしょうか。こういうことも もっと考えて
の仕組みのもとに生
ら私の先生が聞かれた、
験 してきましち もうこんな苦労はたくさんです。
二一
世紀にこんな苦しみを残したくありません。そのために、この裁 判をたたか ってきたんです。
」
これ真 野んで私は、ほとんど被爆者と同じ気持ちだなと患いました。そして覇萱のはじめの頃に出会った警
こんな言葉を思い出しました。
「
金のないのは我慢でき宏す。病気だって我慢できます。我慢できないのは情けのないことです。
」
に「
情け」のあ重
こ皇 ニ
ロった葱爆音がいたのです。情けのないこと、倒 えば、さっきのL「
こういう国に生まれた歪 亡、こういA
轟
きている不幸、私た垂
に対して この社A
葦
いく必要があるなと思いました。
③ 原資 験の継 子 一同時代に生きる人間どうしの"
協動″のしごと
藁
決し て終わっていないわけです。私たちは、原爆伎験を警 するとい皇二
葦 よく使いま すが、これは決して 警
今」という時代を生
私たちが 1方的に教 えてもさ っとか、受けとめるとか、受け身の警 粗みで吐ないのだと私は思 っていま す。まきに 「
仕
きる人間どうしの"協節 の 事として、原爆抜放 の継東の驚 粗みというのはすすめていく必要があると思います。
間
自分史の取り組みを始めて間もない頃だったのですか、ここにおられる甘
薯
工
が、「
す分量 は
いてい姦
署たちは喜 エ
きし
ていますね」とお っしゃいました。それは、自分史の中ではみんな自分景 主人公になれるからなのです。そして同時に'主人公である
のは'自重
可
く被爆者だけではあ坑
ソません。私たち鼻 も自らの人重 き阜王人公であるわけです。同掌
る人生の主人公同
ら学ぶ時には、私は私の自分史を重ね三 甲ルでいく。受けとめる私た
Dつ。こう私は思います。
士がきちんと結び合う時に、そこに人 と人間との関係が生まれ'人間から人間 へと心が通いA
被爆音圧私の人生の先輩であるわけですから(先輩たち曇
212
人萱
て 様々な重 石
的存体験をして 人生霊
。
起 こしていけばいく旺ど、麓 者の白茶史から蔑み取
ちの側がどれだけ今 の社昔や歴史に関わn
ノ
を持 って生きているか。それによ って 被爆者の自分史から読み取れることの量も質もどんどん
変わってい蔓
ら直接に話を聞くチャンスに恵まれた曇 の世代と言 ってよいでしょ,
て ですから(皆さんにはこれをきっか
れることの中身が深く大きなものにな っていくと思います.私は安藤 に自分白身の体験を通してもそう患います。
若い皆さん方は、警
けにぜひ'被爆者の方たちに直接援しなからいろいろなことを字びとりr
L白
ぢ の課夢 を見つけ出していただきたいということが'私の最後
に言いたいことです。そのために、今日の話が小さな架け橋になればうれしく思い葺
どうもあ打がと,
之)
ざいました。
書える。 1
九九二竿 二月 「
被爆者の{
星
重
歪に参加。 一
九七〇
H
) 姦 局員と
し事務局垂
の発足 に参加
著
宝 1
年 二月から ﹃
自分史つうしん ヒバクシ
︽蚕
江(
くりはら ・よしえ)さんのプロフィール ︾
1
九四七年乗 掌 れ。 1
九六八年 l
寧 査壬聾丁
甲転 生妻 ゼミナールの喪習で、長崎の蓬 者の生霊
年から同大墓 石
学部助手として蔓
一
九八〇鑑か ら九 一
年まで日本杏 協 (
目蓋
して夜燥者の運動 ・誓
ャ﹄(
月刊)義 行し琴 いたる。 1
九華
二月ワークショップ 墓
書に ﹃
被爆者たちの戦後五〇年﹄.
(
岩琴 ノックレット 二 九九五年)
。
※ この講演は二〇〇 1年五月1
1
.
十日に長崎大学で行われた・
(
テープ担当 深堀 桧等