凡例 19年度6月10日から7月10日までを開催期間とする企画展「絵図に見 ○この図録は、平成 ○この図録は、平成19年度6月10日から7月10日までを開催期間とする企画展「絵図に見 る八潮の歴史展」の展示図録である。 ○この図録の図版番号は、展示番号と一致する。ただし展示の順序は、番号順とは限ら ない。 ○本書には、展示資料の全てを掲載していない。 ○会期中一部展示替えを行う。 ○資料の寸法はセンチメートル(たて×よこ)であらわした。 ○企画、資料解説は当館文書保存専門員内田鉄平が担当し、資料館職員等が協力して 行った。 ○本書の編集は、当館文書保存専門員の水野裕史が担当した。 1 ごあいさつ 今回の展示は、江戸時代に作成され、八潮市域に残された 絵図を主に展示しました。 絵図は、絵画的表現が用いられ、作成された目的が色濃く 反映し、地域の特徴が見てとれる貴重な資料であります。 絵図を見て、当時の地域の様子や、変容に関心をもってい ただけたら幸いに存じます。 資料館に、これらの資料の提供をいただいた小澤正直様をは じめ、資料を寄託された方々に心より厚く感謝申し上げます。 八潮市教育委員会 教育長 石黒 貢 1 武蔵国絵図 文化17年3月 小澤正直氏所蔵 2 開催の趣旨 今回、「絵図で見る八潮の歴史展」において展示した絵図類は八條領西 袋村(現八潮市西袋地区)の名主であった小澤豊功が収集したものである。 絵図のほかにも普請関係や法令などを書き写した文書など様々あり、それ ら収集した書類を「綾瀬館文庫」と名付け保管していた。その莫大な文書 群が現在にまで伝存されている。 では、その小澤豊功とは一体どんな人物なのであろうか。小澤豊功【天 明 6 年 (1 7 8 6) ∼ 安 政 2 年 (1 8 5 5) 】 は 西 袋 村 小 澤 家 の 9 代 目 当 主 を 務 め 、 さらに八條領(註:中世の八條郷の領域であった八條領35か村は、行政 的なまとまりではなく、用排水管理のために地域社会がひとつの組織とし てまとまったものである。)を統治する大惣代(註:文政改革の一環とし て治安維持などを行うために、八條領は八條領寄場組合として幕府によっ て組織された。その寄場組合を統治する役職名である。)として役目を果 たしている。 豊 功 は 寛 政 8 年 (1 7 9 6) か ら 寛 政1 1年 (1 7 9 9) ま で 江 戸 に 遊 学 す る 。 そ の間、書法や算法、漢学といった名主としての職務に必要な学問・教養を 身につけたものと思われる。 江戸から戻ると、すぐに寺子屋として尚古堂を開設する。尚古堂では近 隣の村役人の子弟に往来物や教訓書などを教授した。 今回の「絵図に見る八潮の歴史展」では西袋地区を中心に八潮市域に残 された絵図を主に展示する。絵図に残されている村名は現在の字名(地 名)とほぼ一致している。絵図を通して八潮の地域の歴史の様子や変容を 見ていただきたい。 展示は、四つのコーナーに分かれている。①のコーナーは、今回の展示 の中心である歴史資料としての「絵図」が作成される背景と、八潮市域の 景観として特徴のある河川が絵図においてどのような意図で描かれている のかを示すものである。②のコーナー「絵図から見る村の歴史」では、近 世初期から明治期まで残存している西袋村の絵図を通して、地域の変容を 見る。③のコーナーでは、「巡見使と八條領の村々」として、天保9年に 巡見使が来訪した際に、巡見使を案内する側の様子を見ていく。最後、④ のコーナーでは「絵図から地図へ」では、明治期をむかえ、税制度の変化 により、土地そのものに税金がかかるようになり、土地に対し正確な面積 や場所を計測することが必要となり、やがて絵図から地図に移行すること になる。その地籍調査のために作成された地引絵図や関連する史料を展示 する。 11 《国絵図》 (八條領村絵図) 天保7年8月 小澤正直氏所蔵 3 なぜ絵図は作られたか 絵図は地域の様子を絵や記号で現したものであり、地図とは異なり縮尺 が正確ではない場合が多い。また、絵画的な技法が用いられており、この ような近世期以前の図を「絵図」と呼ぶ。つまり、絵図はある目的を持っ て作成されることが多いので、作成する人物の意図するところが大きいの である。 今 回 、 展 示 さ れ た 絵 図 の ほ と ん ど が 村 絵 図 で あ る 。 で は 、 村 絵 図 と は ど のような絵図なのか。村絵図とは近世の村の景観を平面的に描いた絵図で ある。村には自村の様子を文字で綴った文書が数多く残されているなかで、 代官や領主は文字で書かれたものだけではなく、村の様子を一目瞭然で確 認できる絵図を作成させた。それは、新たな領主が村を治める場合には村 の様子を知らなければならない。また、巡見使(幕府から地方視察のため には派遣される役人)が派遣されて自分の村を通る時に村明細帳などと一 緒に作成している。さらに、国絵図の作成の時分、各村からの村絵図をも とに作成するため提出を求めることがあった。そして、隣村との揉め事な どに際して、調停のために作成される場合などである。 絵 図 ( 村 絵 図 ) が 作 成 さ れ る 場 合 に お い て は 上 記 の よ う な 作 成 の 目 的 が 存在する。そこで、これから展示をご覧頂くうえで絵図をどのように見れ ばよいか基本的な見方を紹介する。多くの絵図では作成する場合において、 描き方に決められたことがある。まず、色彩的な決まり事をみていこう。 道路 赤(朱) 河 川(水 路 ) 青 田畑 黄 山 緑 一般的に、絵図で描かれる色 で、赤色の線は道路を示してい る。川や池、もしくは水路など 水と関連するものは青色で示し ている。田んぼや畑は黄色で塗 りつぶされ、山は緑色で描かれ ることが多い。 また、現在の地図と大きく異 なる点は、必ずしも縮尺が正確 ではないほか、絵図の上部が北 向きとは限らないのである。例 え ば 、 延 享2年 作 成 の 「 西 袋 村 絵 図」を例に挙げれば、赤い線は 「村道」「野道」と記され、青 い線は水路を示している。また、 家や神社の形を現した記号や、 村絵図として、隣村名も四隅に 書かれている。 7 《西袋村絵図》 延享2年5月 小澤正直氏所蔵 4 絵図に見る八潮と河川 今回の展示では絵図から八潮市の歴史を見るわけだが、八潮市はいうま でもなく市内には綾瀬川をはじめ中川などが流れ、いくつもの河川に囲ま れた地域である。そのことは近世期(江戸時代)も同様であり、近世期に は河川から用水路を引いたり、逆に排水のために利用したり、また物資を 船で運んだりと、現在よりも河川は生活に密着していたものと思われる。 そこで、このコーナーの後半では河川に囲まれた生活の一部を知っていた だくために綾瀬川に関わる絵図と史料を展示した。 ま ず 、 綾 瀬 川 に つ い て の 概 説 を 述 べ る こ と に す る 。 綾 瀬 川 は 中 川 水 系 の 支流であり、現在の流路は桶川市を水源として市内を南北に流れている。 その流路はさいたま市・越谷市を経て市域の浮塚・垳から東京都足立区に 流れ込み、墨田区で荒川放水路に合流する。 綾瀬川は古代より、流路の定まらない川として「あやしの川」、あるい は綾のように入り組んでいたので「綾瀬川」と呼ばれたなどという言い伝 えがあるように、大きく曲流していた。そのため、河川の氾濫・洪水など も頻繁に発生している。 徳川幕府は慶長年間に荒川の流れを元荒川(古墨田川・古利根川)の流 路に移し変えて、綾瀬川への流れを堰き止めた。そのため流路が細分化す ることになる。改修以後、特に越谷・八條付近及び市域の西袋などは低地 であって、流路が極端に蛇行していたため、たびたび氾濫に悩まされてい た。その後、幕府によって柳之宮村、西袋村、浮塚村では、寛永・延宝・ 享保年間に河川の改修を行い直流化させた。その時の西袋村の様子につい ては次のエリアにおいて説明していく。 また、綾瀬川は今も昔も多くの地域を流域としており、近世期の綾瀬川 の様子を知る資料として近世期において結成された「綾瀬川藻刈組合」に つ い て 紹 介 す る 。 藻 刈 組 合 と は 、 伊 奈 半 十 郎 忠 篤 時 代 の 延 宝 9 年 (1 6 8 1) に 当 初1 5 0村 で 組 織 さ れ た 。 綾 瀬 川 流 域 に お け る 橋 の 修 理 や 架 橋 、 用 水 路 ・ 悪水路の維持、管理は地域住民の負担であり、特定の村に負担がかたよる ことを避けたものであった。 上21 《八條領村絵図 古利根川添》(上馬場村) 天保9年3月 小澤正直氏所蔵 右19 《八條領村絵図 古利根川添》(鶴ヶ曽根村) 天保9年3月 小澤正直氏所蔵 5 絵図に見る村の歴史 ―西袋村について― 先 ほ ど は 綾 瀬 川 の 改 修 に つ い て 触れたが、このエリアでは現在の 八潮市西袋地区、近世期(江戸時 代)では武蔵国埼玉郡西袋村につ いて、絵図のなかから村の歴史を 覗いてみたい。近世期の西袋村の 名主は代々小澤家であって、「綾 瀬館文庫」に絵図等々を収蔵・管 理 し た 小 澤 豊 功 は 西 袋 村 の9代 目 名主であった。 そこで、このコーナーでは近世 初期から近世後期、さらには現代 に近い昭和におけるまで、西袋村 がどのように変化していたのか、 各年代の絵図を比較しながら見て いこう。 西袋村における綾瀬川 の改修 か つ て 荒 川 の 本 流 で あ っ た と さ れる綾瀬川は八條領地域では大き く蛇行していた。そのため、川水 が滞留してしばしば流域一帯に水 害をもたらした。そこで、徳川幕 府はたびたび曲った流路を直流に 改修する工事を行った。 寛 永 7 (1 6 3 0) 年 に は 、 八 條 領 蒲生村(越谷市)から同領西袋村 までを直流にする改修工事を行っ た 。 ま た 、 享 保1 2(1 7 2 7) 年 に は 幕府勘定所によって八條領西袋村 から同領の浮塚村までを直流にす る改修工事が行われた。 1、 寛文年間「西袋村絵図」 寛 文 年 間 (1 6 6 1−1 6 7 3) に お け る西袋村の絵図である。新綾瀬川 (①)とあるのは現在の伝右川で あり、古川(②)とあるのは、寛 永期以前の綾瀬川の流路である。 また、絵図中央の綾瀬川の両端が 黒く書かれているのは土手堤が あったためである。 2、 享保6年「西袋村絵図」 享 保6年 (1 7 2 1) の 西 袋 村 の 絵 図 である。西袋村では絵図中央の綾 瀬 川 の 曲 流 部 分 を 享 保1 2年 に 改 修 することになる。それ以前におい ては、このように曲流していた。 その後の絵図と比較してほしい。 『生活の中の用水∼合同葛西用水展』 (八潮市立資料館、2001年)より 6 3、 延享2年「西袋村絵図」 延 享 2 年 (1 7 4 5) の 西 袋 村 の 絵 図 で あ る 。 享 保1 2年 の 綾 瀬川改修で直流化した様子が 確認できる。また、絵図には 旧流も古綾瀬川と記載され、 同じ色で描かれており、この 時点では、旧流も存在して あった。 4、 明和9年「西袋村絵図」 明 和 9 年 (1 7 7 2) の 西 袋 村 の絵図である。延享2年の絵 図にあった綾瀬川の旧流は、 ここでは埋め立てられ、「古 綾瀬川新田」となっている。 4 《西袋村絵図》 寛文年間 小澤正直氏所蔵 5 、 文 化1 1年 「 西 袋 村 絵 図 」 こ の 絵 図 は 、 西 袋 村 の 耕 地 を一筆(ひとつの田畑)ごと に詳細に書き上げたものであ る。絵図というより、地図に 近いものであり、このような 絵図作成の技術も会得してい たようである。 6、 天保7年「西袋村絵図」 天 保 7 年 (1 8 3 6) の 西 袋 村 の絵図である。天保7年にお いては、「古綾瀬川新田」と の記載もなくなっている。た だし、黒い線が描かれた土手 堤が絵図中央の綾瀬川ととも に、左右の田んぼの周囲にも 引かれている。この土手こそ 旧綾瀬川の流路であったもの と思われる。 8 《 西 袋 村 絵 図 》 明 和 9 年 4 月 小 澤 正 直 氏 所蔵 7 、 昭 和2 2年 八 潮 市 域 航 空 写 真 戦後、まもなくGHQに よって撮影された航空写真で ある。注目したいのは集落が 昔の河川に沿って建てられて いることである。綾瀬川は近 世期(江戸時代)以前には 現・越谷市や八潮市西袋地区 において大きく曲流していた がその跡がわかる写真である。 10 《西袋村絵図》 天保7年8月 小澤正直氏所蔵 7 巡見使と八條の村々 巡 見 使 と は 徳 川 幕 府 の 将 軍 の 代 替 わ り ご と に 全 国 の 御 料 ( 天 領 ) や 大 名 領に治世視察のための使者を派遣することである。 さ ら に 詳 し く 述 べ る と 、 幕 府 の 巡 見 使 は 将 軍 の 代 替 わ り な ど に 派 遣 さ れ 「諸国巡見使」と呼ばれるものや、幕府直轄領(天領)の村々を廻る 「国々御料所村々巡見使」とが存在した。巡見使は3人一組(旗本の使番、 小姓組番、書院番)で廻村するが、1人に100人程度のお供がおり、 村々の負担と迎える不安は想像できないほどであった。 小 澤 豊 功 が 大 惣 代 を 務 め て い た 天 保 9 (1 8 3 8) 年 3 月 に も 幕 府 は 全 国 に 巡見使を派遣して各地を廻村している。八條領内の村々に幕府の派遣した 巡見使の廻村が行われる。 13《 御巡見八條ニ付村々より差出明細帳控》 天保9年 小澤正直氏所蔵 巡 見 使(じ ゅ ん け ん し)が や っ て 来 る 巡 見 使 を 迎 え る 側 の 代 官 や 名 主 な ど は 何 か あ っ て は い け な い と 心 配 し た 。 巡見使が百姓に質問をして返答次第で自分たちに罪が及ぶかもしれない。 そこで各地において、巡見使と百姓とのやり取りの逸話が残されている。 (例えば、名主などから渡された想定問答集に書かれてないことを聞かれ ると、「一向に存じ申さず候」、私たちは何も知りません。としか答えな かったなど) そのような状況下、巡見使より、以前こちらの村を廻村した時の道順を 教えてほしいとの達しが大惣代であった小澤豊功にあった。天保9年の以 前とは、天明期の頃である。そのため、小澤豊功は天明期において、どの ような道順で巡見使が来訪し、どの村で休息、どの村に泊まったのかを明 記した絵図を作成している。また、同時に豊功の担当した八條領の御料 (天領)の村々における村絵図を作成し、巡見使に提出したものと思われ る。その控えが現在残っている。今回はその絵図を展示している。 8 24 《八條領村絵図 葛西堀添》(松ノ木 村) 天保9年3月 小澤正直氏所蔵 絵図から地図へ 近世期(江戸時代)を通して作成された絵図は絵画的な技法が用いられ、 作成にあたっては絵図の正確性よりも目的が反映されていた。そのなかで 明治期になると、縮尺や方位が正確な地図が作成され、急激に地図が全国 へと広がっていく。 それは、税金の制度が近世期(江戸時代)と大きく変わったことがその 背景にある。明治新政府は、これまで租税の主であった年貢(田畑からの 収穫量)から地代(土地の値段の3%)へと税制制度を変えてきた。その ため土地の価格を決定するにあたり、土地の位置や正確な面積を測量する 必要があった。 地 引(じ び き)絵 図(え ず) 明 治 6 年 (1 8 7 3) に 地 租 改 正 が 公 布 さ れ る と 、 全 国 で 地 籍 調 査 が 実 施 さ れ た 。 埼 玉 県 で は 、 明 治8年 に 土 地 面 積 と 土 地 所 有 者 を 確 定 さ せ る 調 査 が は じめられる。 展示した「地引番地全図 上馬場村」には多くの色彩が使用されている。 道路は赤、水路は青、宅地は橙、寺社地は桃色などで表わされていた。ま た、田んぼは白色であるが、黄色に塗られた田は隣村の小作田村の入会地 であり、その土地の所有は小作田村にあった。このように、絵図から地図 へと変わりつつあるなかで、近世期(江戸時代)の制度である入会地も未 だ現存していたのである。 また、同時に地引帳と呼ばれる土地台帳も作成され、その帳面には土地 の面積や所有者名などが記載されている。今回の展示では、地租改正の進 捗状況を示した史料を併せて展示する。 9 図版リスト 泊 別 別 参考文献 八 潮 市 立 資 料 館 協 議 会 編 『 八 潮 の ふ る さ と 新 書 1 小 澤 豊 功 』 八 潮 市 、2 0 0 1年 八潮市立資料館協議会編『八潮のふるさと新書2八潮の地域史事典』八潮市、 2 0 0 3年 『 八 潮 市 史 通 史 編 Ⅰ 』1 9 8 9年 『 八 潮 市 史 通 史 編 Ⅱ 』1 9 8 9年 平 成1 9年6月1 0日 発 行 編 集/発 集/発 行/印 行/印 刷 八 潮 市 立 資 料 館 八 潮 市 南 後 谷7 6 3 - 5 0 ℡0 4 8 - 9 9 7 - 6 6 6 6 10
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