「操山学区史蹟めぐりの旅」 【宇野小学校区】 (作成:笑顔あふれる操山委員会) りゅう し ょ う じ 1 龍 翔寺 しんごんしゅう あんじゅういん け い 地蔵菩薩を本尊とする真言宗安住院 系 の寺でしたが、現在は廃寺となっています。名工・ ひ だ じ ん ご ろ う さく 飛騨甚五郎作と伝えられる古い山門が残っています。また、宇野学区は、明治・大正から昭和 じょうとうぐん う の そ ん 6 年(1931 年)の岡山市編入まで「上道郡宇野村」でしたが、その村役場はここに置かれてい ました。 おしまじんじゃ 2 小島神社 や は た お し ま じ ん じ ゃ おしまじんじゃ 参道入口の鳥居の額に「八幡雄島神社/小島神社」とあるように、2 つの神社が合祀されてい ます。どちらも室町時代には既に存在していたという古い神社です。 お し ま この辺りは昔、旭川の流れのただ中で、ここは川の中の小島でした。そこにいつしか神社が うきすのみや 祀られ、 「浮州宮」または「小島神社」と呼ばれていました。 一方、現在の操山は、大昔は旭川河口の海に突き出た島で、それ自体が御神体として崇めら お しま あんじゅういん みか い や ま れ「雄島」と呼ばれていました。そして、安住院のある瓶井山の境内に「八幡雄島神社」とし て祀られていましたが、江戸時代、池田光政の時に寺から切り離されてここに移されました。 き ど う や は た 岡山城の東北に位置するため、 「鬼道八幡」とも呼ばれています。古い記録では、備前一宮の吉 にのみや あ に じんじゃ 備津彦神社や二宮の安仁神社よりも格上の神社として扱われており、かつては備前国屈指の有 力な神社であったことがうかがえます。 う の しょうがっこう 3 宇野小学校 じょうとうぐん だ い ば ん が っ く じんじょう お し ま 宇野小学校は、明治 20 年(1887 年)に上道郡第1番学区尋常雄島小学校として開校しまし た。 校門の外にある「楠」がこの学校では一番古いものです。 この地域は、岡山市の野菜の供給地としてよく肥えた土地を持つ純農兼エリア(地帯)でし たが、近年の都市化とともに、岡山市のベッドタウンとして発展し、児童数も年々増えていま す。 児童数が増えたので、 昭和 52 年(1977 年)に旭竜小学校に分かれました。 昭和 61 年(1986 年)には北校舎が増え、昭和 63 年(1988 年)に新しいプールが北門の外にできました。また、平 成 2 年(1990 年)には体育館も新しくなりました。 「考える子ども」「助け合う子ども」 「たくましい子ども」を学校教育目標にして、みんなで なかよく元気に運動したり、勉強したりしています。 とう れ ん じ あと 4 藤蓮寺跡 とう れ ん じ ふ じ ゅ ふ せ は ここにはかつて、藤蓮寺という日蓮宗の寺がありました。不受不施派(日蓮宗の一派で、江 戸幕府の禁教令のもとキリシタンと同様に弾圧された)の系統であったため、江戸時代、池田 光政の宗教政策により廃寺となりました。東川原公会堂の裏庭に残る 4 基の石塔(宝塔)がその せきとう 名残りで、地元の人々からは「石塔さま」と呼ばれています。 だ い り ん じ 5 大林寺 戦国時代に、岡山城主・宇喜多直家が自分の信仰する帝釈天像をここに祀ったのが始まりと にちれんしゅう ほ ん ざ ん き ょ う と みょう か く じ かんじゅ 伝えられています。日蓮宗本山京都 妙 覚寺の貫首(一宗派のトップの僧)を務めた岡山出身の にちでん ほ う しょうざん だ い り ん じ 名僧・日典を開祖に迎え、文禄元年(1592 年) 法昌山大林寺として正式に開山しました。 ふ じ ゅ ふ せ ところが、日典が不受不施の系統に連なる人物であったため、江戸時代、池田光政の宗教改革 れんじょうじ の際、大林寺は不受不施派として弾圧を受け、廃寺となりました。が、その約 20 年後に、蓮昌寺 (現・岡山市田町)からの願い出で再興されました。 たいしゃくどう かのえさる し ん こ う かわはら かのえさる 帝釈天を祀る帝釈堂は特に庚申信仰の場として有名で、古くから「河原の庚申 」の名で知ら れています。庚申信仰とは、60 日ごとに廻ってくる「かのえさる」の日に集って、来福長寿 を神仏に祈るという民間信仰で、江戸時代に庶民の間で広まりました。大林寺も、戦前までは 「かのえさる」の日に盛大な縁日が立ち、多くの参拝者で賑わったそうです。 ほんどう たいしゃくどう く り さんじゅうばん し ん ど う さんもん また、本堂・帝釈堂・庫裏・三十番神堂・山門など敷地内の建物のほとんどが、江戸時代初 期から後期の建造で、文化財としても貴重な寺院です。 ふじもとてっせきせいたんひ 6 藤本鉄石生誕碑 ふじもとてっせき 藤本鉄石(1816 年∼1863 年)は、幕末の勤皇の志士(江戸幕府に反対し、朝廷を支持し て活動した一派)で、画家としても知られた人物です。下級武士の子としてここ東川原に生ま れ、藩の小役人を勤めるかたわら絵画を学びましたが、25 歳の時、突然岡山を飛び出し、京 都を拠点に様々な学問を修めました。また、近畿地方の他、関東・北陸・四国・九州の各地を 画を売りながら歴遊し、見聞交友を広めました。そんな中で尊皇攘夷思想に共鳴して、47 歳 てんちゅうぐみ の時、同士 30 余名と共に「天誅組」を結成、総裁に推されました。天誅組は 現在の奈良県で で武装蜂起し、一時は 1500 名もの仲間を得て気勢を上げましたが、幕府の討伐軍の攻撃を受 けて吉野山中で孤立し、鉄石をはじめ全員が壮絶な最期を遂げました。 画家としての鉄石の作品は、岡山県立美術館で見ることができます。 《藤本鉄石生誕碑の北側にある、連なった大きな家々》 東砂山の集落 この辺りは、 「東砂山」と呼ばれており、砂山に設けられた集落です。洪水等で、川の流れ が変化し、水が運ぶ土砂によって大きな自然堤防ができたものと思われます。 当時の人は、経験に基づき洪水の被害を避けるため、小高いところや自然堤防に家を建てて いました。百間川側は、竹林で崩壊を防ぐ工夫を凝らし、反対側は、石垣で防御しており、さ らに榎の大木をそれぞれの家に植え、増水時の緊急避難場所としていました。また、お互いの 家々を往来できるなど、団結して水に対処する工夫もされています。 ぎ お ん よ う すい 7 祇園用水 祇園用水は、岡山藩の重臣で、後楽園や閑谷学校を造営した、津田永忠によってつくられた 用水路です。旭川の水を竜ノ口西側で取り入れたものと玉柏旭川合同堰で取り入れた水の一部 を合流させ、祇園大樋で5つの用水に分水したものの1つです。祇園用水は、サイホン法式で 百間川の下を通り、原尾島、国富、門田、平井、三蟠を経由し、これらの各地を農業用水とし て流れ潤し、桑野付近にまで至っています。 ひゃっけん が わ 8 百間川 岡山城下を洪水の被害から守るために、池田光政が津田永忠に作らせた旭川の放水路です。 いち あ ら て 旭川が増水すると、分岐点に設けられた堰「一の荒手」を水が越えて、百間川に流れ込むよう に あら て になっています。さらに、中島竹田橋のあたりに「二の荒手」が、現在の宇野小学校北(祇園 用水と交わる辺り)に「三の荒手」が設けられていました。荒手の間に一旦、水が溜まること により、土石が沈殿し、流れの勢いが緩められて、百間川下流域への水の被害を抑えるという 工夫がなされていました。一の荒手・二の荒手の遺構は、現在でも見ることができます。 ひゃっけん が わ けん 二の荒手の部分での川幅が約 100間(1 間:約1.8m)だったことから、百間川というの だそうです。現在では、整備されて常時「川」の形態ですが、建設当初から昭和 40 年代頃ま から では、平常時(洪水でない時)は空川の状態で田畑になっていて、道や用水が普通に通っていま した。昭和 50 年代からの大改修工事により、堤防が強化され、橋が架けられ、常時一定の水 を流して排水するなど、現在の形に生まれ変わりました。 原尾島遺跡 百間川改修工事の際に、中流域の4か所で遺跡が発見され、昭和 52 年(1977 年)から発 は ら お し ま い せ き さ わ だ い せ き かねもと いまだにいせき よ ね だ い せ き 掘調査が行われました。原尾島遺跡、沢田 遺跡 、兼基・今谷遺跡 、米田 遺跡 を総称して、 ひゃっけんがわいせき 百間川遺跡と呼んでいます。原尾島遺跡では、竪穴住居や倉庫跡、井戸の跡などが見つかり、 その周辺には水田跡が広がっています。弥生時代後期(約 1800 年前)を中心とした竪穴 式住居が約 120 軒も重なり合って見つかっているのが特徴です。これらの遺跡は、縄文時 代の後期から弥生時代、古墳時代、鎌倉から室町時代までの生活の跡が折り重なるように残 っています。 おかやまけいばじょうまええきあと 9 岡山競馬場前駅跡 岡山競馬場は、昭和 8 年(1933 年)に開設された、岡山初の本格的な常設競馬場です。敷 地は、現在の県営住宅から南は原尾島交差点(T 字路)あたり、東は旧国道 2 号線(現・国道 250 号線)をまたぐ広大なものでした。 競馬は、戦時中一時中断しましたが、戦後は進駐軍(イギリス-インド軍)の娯楽として再開 され、その後、県に所管が移されて地方競馬の場として賑わいました。すぐ脇を通る西大寺軽 便鉄道に、 「競馬場前」という駅(現原尾島二丁目)が新設されたほどの人気ぶりでした。しか し、昭和 28 年(1953 年) 、老朽化のため閉鎖され、競馬場は三蟠に移転しました。 原尾島の競馬場跡地は、再開発事業により県営住宅などに生まれ変わりました。 10 さ い だ い じ て つ ど う あと 西大寺鉄道跡 けいべんてつどう 明治末年から大正初めにかけて敷設された、岡山市街地と西大寺を結ぶ鉄道です。 「軽便鉄道」 という、小型で構造の簡単な方式の鉄道で、そこから「けえべん」の愛称で親しまれていまし た。岡山側の終着駅は、現在の「夢二郷土美術館」の所で、そこから一旦、南東に進路をとっ て「森下駅」 (現在の両備バス営業所)に至り、そこで北東に方向を転じて原尾島を縦断し、百 間川を渡って JR(旧国鉄) 「東岡山駅」に向かいました。ここから南東に進路を転じて芥子山 の山裾を廻り、西大寺(現在の「西大寺バスターミナル」 )に至るという経路でした。 マッチ箱のような小さな車両がカタコトと田園風景の中を走る様子は、微笑ましいものだっ さ い だ い じ かんのんいん え よう たそうです。普段は乗客もまばらでしたが、西大寺観音院の「会陽」 (はだか祭)の時だけは、 車両の屋根上まで鈴なりの人を乗せ、フル回転のダイヤでピストン輸送するという大盛況ぶり となりました。しかし、慢性的赤字は解消されず、昭和 37 年(1962 年) 、当時の国鉄(現 在の JR)赤穂線の開通に伴い廃線となりました。
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