ザ・ナンパ大作戦! ID:107973

ザ・ナンパ大作戦!
落窪よしお
︻注意事項︼
このPDFファイルは﹁ハーメルン﹂で掲載中の作品を自動的にPDF化したもので
す。
小説の作者、
﹁ハーメルン﹂の運営者に無断でPDFファイル及び作品を引用の範囲を
超える形で転載・改変・再配布・販売することを禁じます。
︻あらすじ︼
クーラーの効かない部屋で酷暑を過ごす男二人。仕事の疲れも吹っ飛ばす名案とし
︻あらすじ︼
て 片 割 れ は ナ ン パ を し よ う と 言 い 出 す。そ れ は 一 夏 よ り も 更 に 短 い 出 会 い の 始 ま り
だった。
︻この作品について︼
本当は今年︵2016年︶の盆の間までには投稿したかった︵完成も投稿も歳末︶。
導入部を書いてから期間が空きすぎて、どういった発想でこの作品を書くに至ったか
忘れてしまいました。
よろしければ縦書きにてお読み下さい。
目 次 前篇 │││││││││││││
後篇 │││││││││││││
1
23
前篇
﹂
むし
﹁この状況は寧ろ貴重なんじゃないか
﹁は
﹂
?
﹁んもう、ゴムタイヤ﹂
て、出来るだけ体と畳との接触面を小さくしろ﹂
﹁言ってろ眼鏡ヤロー。それと寝転がらないでくれる
?
て永久に労働から解放されたのであった。
た。しかし稼働期間二十五年というそれは、一週間前、プスンという最後の一言を残し
男共が居る六畳一間、本来ならそこは文明の利器で快適空間と化している場所であっ
馬鹿な男二人がいた。
汗を畳に染み込ませるなら座っ
﹁いや、普通なら見向きもされないものにこそビジネスチャンスが⋮⋮﹂
﹁稀少なことと価値があることはイコールじゃない﹂
ラーの冷気がない夏ってのは却って稀少だと思う﹂
﹁つ ま り だ。社 会 の あ ら ゆ る 側 面 を 物 質 主 義 が 支 配 す る こ の 現 代 日 本 に お い て、ク ー
?
﹁それを言うなら御無体な﹂
前篇
1
歩いているだけで己の汗でシャワーが浴びられる数日である。クーラー無きこの部
お
屋も当然殺人的な高温多湿にあった。しかし馬鹿で哀れな男二人である。男共はこの
部屋を措いて時を過ごすべき場所を知らなかった。
二人に役者不足な期待を託された扇風機が羽根を鳴らしながら全力で熱気を掻き混
ぜる。
てな論理よ﹂
理由もあるだろ。学校が長期休暇になる季節、その分青少年が遊ぶ季節、青春の季節っ
男はパソコンの画面を見ながら続ける。﹁それに学校制度が始まってからは文化的な
﹁むう﹂
る⋮この候が青春に非ずしていつが青春であるというのか﹂
あら
であっても生命の象徴、その太陽が長く空に燃える季節。誰も彼もが薄着で道を闊歩す
てやる。﹁これだけ太陽が照ってりゃ自然と青春を連想するだろう。太陽は何処の土地
﹁そりゃあお前⋮⋮﹂窓に向かってパソコンを操作していた男が振り向いて一瞥をくれ
女が立っていた。
を見ろとばかりにヒラヒラと振る。表紙には青い空を背景に白いワンピースを来た少
て⋮なんでこの国では夏って青春と結び付けられるんだよ﹂男は読んでいた漫画をこれ
﹁大体よう﹂眼鏡ヤローと罵倒された、寝転がって漫画を読んでいる男が言った。﹁夏っ
2
﹁全く嫌なモンだね﹂
えぐ
﹁お前の読んでいるその漫画、何か心を抉る描写でもあったのか
むと﹂
﹂
﹂漫画男はキモい笑いを浮かべた。
でもお前の言わんとすることも分からんでもない。切なくなるよな⋮そういう漫画読
﹁まあ王道なストーリーだし⋮自然に一定程度集まっちゃうんだろ、そういうのは。ま、
物語ばっかでよう。お前ン家にある漫画そんなんばっかじゃねえか﹂
﹁この漫画に特有って話じゃないんだが、兎角夏に善男善女がイチャつき青春している
?
しか
いた。﹁気に入った作品は紙の本で置いとく主義なの﹂
ういうのはこっちに入ってんだよ﹂パソコン男こと伊藤は黄ばんだパソコンの本体を叩
﹁そんなことは分かっている。ちゃんと読みたくない漫画でも目を通しているって。そ
けも古典も流行も等しく集めろよ。じゃなきゃリサーチにならんだろうが﹂
﹁つうか伊藤、好きな作家の作品ばかり集めんじゃねえよ。満遍なく、少年向けも青年向
であった。
をリアルに妄想させるのは流石プロって感じだよな﹂暑苦しさを加速させる男らの笑顔
思わずパソコン男も身を翻した。﹁まことに然り。現実では経験したことのない事柄
﹁夏に限らず青春なんてしたことないのにな
!
﹁ケッ、懐古趣味を遥か千年遡って復古主義かよ﹂
前篇
3
﹂漫画男は体を起こした。﹁ところで伊藤、さっきからお前何やってんだよ﹂
﹁いつの時代何処の地域でも反文明的な人間はいるものだ﹂
﹁下らん
﹁⋮完全に固まってんなあ﹂
い
はらい
というか俺は俺としてお前の方は進んでんのかよお、日本近代小説史
次の期日落
!
﹁ま あ ま あ 真 面 目 な 伊 藤 ク ン。こ れ は 天 が 我 々 に 休 養 を 取 れ と 命 じ て い る に 違 い な い
片もないキメ顔でぬめりと質問を流した。
としたら飛ばされるぞ、お前﹂伊藤は腹癒せに川瀬を睨みつける。川瀬は爽やかさの欠
!
しした。﹁川瀬、テメーがウチに来るのもパソコンが使えなくなるのも全部暑いのが悪
﹁ちょい前に保存はしたし強制的に落としちまえ﹂伊藤は投げ遣りに電源ボタンを長押
﹁コンピュータも糞暑い時は働きたくないんだな⋮﹂
だ﹂
﹁熱だな。パソコン自体が旧いってのはモチロン大きいが、それに輪を掛けてこの環境
﹁熱か﹂
ら五分おきにこれだぜ。一応復帰はするんだがこれじゃあ作業にならん﹂
﹁畜生、駄目だこりゃ﹂伊藤は白旗を揚げる代わりに両手で頭を掻き毟った。﹁さっきか
むし
課長へのレポートを書いているんだが⋮⋮うっ﹂男は青ざめた。漫画男がパソ
?
コンのディスプレイを覗く。
﹁これ
!
4
よ﹂
﹁休むべきなのは俺一人だ
こん
お前はもう二日もゴロゴロしっ放しだろうが
﹂
!
を癒やすにも最適なのだぜ﹂
きらりと川瀬の眼鏡が光った。
﹁何﹂
﹁貴様の自動車免許と中古車は何の為にある
子を誘って車内で良い事する為であろう﹂
?
﹁そう、ナンパだ﹂
﹁我々の為すべきは﹂
﹁ここから導かれる結論﹂
二人は互いの目を見る。真剣な表情である。
し付けた。
﹁更に今は夏だ。夏と言えば青春の季節なのだ﹂川瀬は読んでいた漫画を伊藤の胸に押
﹁ちげーよ﹂
﹂声を低くして言う。﹁無論、道行く女の
﹁伊藤、俺には案があるぜ。この糞暑い中を愉しく過ごす案が。きっと根詰まったお前
!
﹁あの二人組とかどうだ。大変可愛いが﹂
前篇
5
﹁駄目だ。人を説得する時は相手に心理的圧力を加えるのが必須だが、この場で取り得
るのは人数で圧倒するという方法だけ││であるから、対象は一人でなくてはならぬ﹂
⋮⋮あっ、居た﹂
﹁ケバいのも駄目だ﹂
﹁選べる立場か﹂
た。古本屋における漫画の一般的な立ち読みのそれである。
の少女の読み方は目についた本を冷やかすなんてものではなく、随分熱心なものであっ
少女と並んでページを捲ること十数分。伊藤は来なかった。川瀬はふと気が付く、こ
マウンティングの積りである。
つも
がれている流行の本であった。俺はお前さんより難しい本が読めるんだぜ││という
みする少女の傍らに立ち、これ見よがしに経済学の分厚い本を手にした。ここ数年来騒
た折その気に食わぬ光景に出くわした川瀬は、おちょくる心積で、マルクス本を立ち読
この平成の世にマルクスの解説書を手に取るガキであれば尚更である。女を探してい
制服を着て社会科学書コーナーに立つ高校生など大抵ませてていけ好かない。特に、
﹁本屋が入っているのは六階だっけか。川瀬、往こう﹂
い
﹁こ の 時 間 帯 に こ の 場 所 だ と、な か な か 一 人 で ぶ ら つ い て い る 小 娘 な ど い な い だ ろ う
6
一つの章を読み終わったらしいところで少女は初めて川瀬の方をちらりと見た。川
瀬はこの間、立ち読みに見せ掛けてずっと少女を観察していたのだが、いよいよキタキ
﹂その時である。川瀬に衝撃が走った。川瀬が読んでいる風を装っている本を少
タとばかりに張り切って高尚な雰囲気が出る様努めた。
﹁
女が覗こうとしたのだ。マウンティングの好機である。
!
﹂
れる様じゃ科学としての経済学もまだまだって感じかなあ││君、この本は知ってる
結論が細部の良さとは似ても似つかぬものになっているっていうか。こんな本が騒が
論理展開が雑すぎるかな。一つ一つの論証は極めて堅実なのにそこから引き出される
﹁いやーこの本、大学の教授が読めって言うからさあ⋮。話題の本らしいけどちょっと
前篇
7
まにはそういう文献もいいよね、経済学の古代を訪ねてみるというのも全く意味が無い
くとも恥じることは全くないよ。君が手にしているのは解説書⋮かな、マルクスの。た
でもないんだがね。まあそれでも君は年端も行かぬ高校生、崇高で緻密な論文が解せな
難しいかも知れないな。一般宇宙経済論や心理歴史学の初歩が理解出来ていればそう
川瀬は幸せな顔をした。﹁いや∼やっぱりそうか。確かに高校生にこの本はちょっと
も見るかの如き視線である。
少女はぎょっとして体を強張らせ、たじろいで小さく言った。﹁いえ⋮﹂まるで魔物で
?
時間の使い方じゃない﹂
最初はきょとんとしてたが何をされているのか徐々に検討がついた様で、少女はムッ
とした。﹁わ⋮私、この本買います﹂そうして川瀬の持つ本に手を掛ける。﹁私、このビ
﹂
ルの近くに良い喫茶店を知っているんです。そこでこの本の崇高さなり緻密さなりに
ついてご講釈願えませんこと
バレエのレッスンがあって⋮﹂
の皮が剥がれる予感がする。﹁いやあそうしたいのはやまやまなんだが、実はこれから
少女の挑む目には自信の色があった。川瀬は不意を突かれた。二三分も話せば化け
?
見知らぬ青年二人からの、心地良い空間と美味しいひと時の贈り物ってことで﹂用意
あ君、俺は伊藤、このニキビ眼鏡は川瀬って言うんだけど、これから俺達とお茶しない
﹁ウホッ、女の子捕まえられたのか川瀬﹂後ろからニコニコして伊藤がやってきた。﹁や
8
が、ともかくもそういう運びとなった。
﹁ああ、君と同席して喫茶だなんて嬉しいよ⋮ ﹂攻撃的な少女の口調に伊藤は困惑した
ですよね。私はちょっと用事があるので、五分後に一階の入り口で集合ということで﹂
ちの⋮川瀬さんにお話を伺いたいところですし。喫茶店は私の知っているお店で良い
バツが悪いと川瀬は苦い顔をし、少女はじっと二人を睨んだ。﹁では遠慮なく。そっ
していたのか、気持ちの悪い台詞を吐く伊藤であった。
?
?
﹁川瀬、お前気が付いていたか
ばれている某校のだぞ﹂
彼女の制服、ありゃここいらでも指折りの優秀校って呼
﹁何だか伝統ある面持ちだね﹂それは所謂オブラートに包んだ表現であった。
外れにその店はあった。
駅近くの巨大商業ビルから徒歩数分、男二人を先導した少女は足を止めた。ビル林の
﹁お二人、ここです﹂
﹁ほう﹂
﹁果たしてどうかな﹂
﹁俺はああいう落ち着いた娘が好きでね﹂
﹁ガキは浮ついているべきって考えもあるがね﹂
﹁彼女、最近の高校生にしちゃ浮ついた雰囲気が無くて、好感が持てるな﹂
﹁ちょっとね。巧く切り抜けてみせるさ﹂
﹁なんかあったの﹂
﹁通りでねえ。秀才ガールでなきゃ今時の高校生がマルクスなんて読む訳はない﹂
?
入り口の扉を開けようとして少女は一瞬躊躇した。どうしたんだいと川瀬が問うと、
﹁お気に入りなんです﹂
前篇
9
一歩身を引いて﹁扉、開けて下さらない ﹂と言った。レディファーストは自分から求
﹁私、コーヒーで﹂
﹁甘味はいいのかい﹂
﹁お二人が奢ってくれる⋮つもりなのでしょ
あんまり頼むのは⋮﹂
ちくはなく、ちょっと暗めの調度には長居したくなる雰囲気がある。
肌寒い程に冷気の満ちた店内には、共に香ばしさが漂っていた。内装は外見程ボロっ
たが、いざそういう状況になると邪な考えは薄まった。
よこしま
に座った。当初の作戦ではナンパした女の隣に一方が座って退路を断つつもりであっ
頭にも影響があったのか、二人席に案内されそうになったところを注文を付けて四人席
めるものではないんだが││と川瀬は思いながら望むままにしてやる。暑さで店員の
?
た。
﹁じゃあ⋮このワッフルで。これで充分です﹂
﹁ならば俺達も同じものを頼もう。いいな、伊藤
?
⋮⋮﹂
川瀬が給仕に注文している間、少女が呟いた。﹁音楽が流れていないのね、レコードが
﹁そうしよう﹂
﹂
﹁奢らせてくれよ﹂伊藤と川瀬それぞれが、勘定は相手のするものと幸せな想定をしてい
?
10
﹁レコード
﹂
?
変なことを言う小娘だ。勿論伊藤はおくびに出さなかった。
こめかみ
﹂何のことかと伊藤も川瀬に尋ねた。川瀬は頬を引きつらせながら﹁ああ、
?
︶が川瀬の考えを鋭く彫刻しようとしていることは分かる。少女は川瀬の発
?
なだ
コーヒーとワッフルを前にして少女は明らかに嬉しそうだった。それを見た川瀬が
足りない様子であった。
様にして﹁さあ一服といこう﹂と伊藤が声を掛ける。川瀬はほっとし、少女はまだ言い
いよいよ川瀬の分が悪くなったというところで注文が運ばれてきた。少女を宥める
そして川瀬の言が意味を成していない時にはそれと明言して切り伏せた。
言のどの部分が件の本に対する川瀬の理解を検証する上で最も重要であるかを理解し、
問︵尋問
だと理解した。伊藤は議論となっている本がどんなものかは知らなかったが、少女の質
伊藤は二人の遣り取りを見ながら、少女は着ている制服に相応しい物言いが出来るの
に、きっと確かな口調でハッタリを述べ始めた。
勿論だ。どこから説明したものかな﹂と人差し指で蟀谷を掻いた。そして意を決した様
いませんか
?
先程の御本のことですが、まずは著者の主張を簡潔にお教え下さ
喫茶店でレコードだと
けど⋮辞めちゃったのかしら﹂
﹁ええ、以前私がよく通っていた時は、このお店には沢山のレコードがあって評判だった
?
﹁ところで、川瀬さん
前篇
11
おそれ
追撃の虞も忘れて口を開いた。﹁常連なんだっけ、この店﹂
﹁こりゃ一本取られた﹂
﹁それは失礼。でも類は友を呼ぶということもありますよ﹂
つだけだろう。僕までそんな風に見られちゃ堪らんね﹂
﹁手厳しいね。阿呆であると、君が実際にコミュニケーションして分かった相手はこい
セリフに甘さはなかった。
﹁川瀬さんが不勉強なんです。お二人は││大学生ですか。モラトリウム満喫の﹂その
﹁君は中々の秀才と見える﹂川瀬はリスの様にワッフルを頬張った。
﹁佳奈江です。福田佳奈江﹂
﹁そういえば名前を聞いていなかったね﹂伊藤は何気なく言った。
だ。伊藤もまた、何方かといえば川瀬の如き作法を習慣としていた。
にコーヒーを吸い込み、ワッフルを食べると同時にフォークとナイフでリズムを刻ん
方川瀬は││伊藤自身が隣にいたということもあるが││はっきりと聞こえる音で口
少女は静かにカップに口を付け、フォークとナイフで慣れた風にワッフルを切る。一
﹁では頂きますね、お二方﹂少女はカップを手に取った。
耳打ちした。﹁さっきとは別人の愛嬌だね﹂
﹁というよりお気に入り、です。ああ、この香り、とっても懐かしいです﹂川瀬は伊藤に
12
まさ
川瀬が言う。﹁まあ大体君の言う様な通りだな。厳密には違うけど。緩い時間の流れ
の中で文物のリサーチをやっているのさ﹂
かぶり
佳奈江は意外だという表情をしてワッフルを一口喰らった。﹁じゃあ││学者
か﹂
川瀬が頭を振る。﹁そんな訳がない﹂
﹁何でそんなこと言えるんですか﹂
て全然問題ないだろうぜ﹂
﹁おいおい伊藤、馬鹿なこと言うなよ。佳奈江ちゃん位になると学校なんかいなくたっ
﹁それは失礼﹂
佳奈江は大きな目をちょっと伏せた。﹁高校生にそんなこと聞くなんて不粋だわ﹂
を見据えて言った。
﹁佳奈江ちゃん、君はどうなんだい。今日は学校ある日だろ﹂伊藤は正面から佳奈江の目
?
た。
せん。試験で測れることなんて所詮まやかしです﹂佳奈江の視線はテーブルに向いてい
佳奈江は肺の奥から空気を絞り出す様に重く言った。﹁制服なんて何も証明してはいま
暫し沈黙があった。川瀬は瞬間に自分が何かおかしなことを言ったことに気がつく。
しば
﹁だって制服が証明してるだろ﹂
前篇
13
﹁なんでそう思うんだい﹂伊藤が問うた。
﹂と川瀬。
?
﹁普段はもっと軽い本も読みますよ。例えば││﹂
﹁君はどんな本を読むのかな││さっきみたいに学術書ばかり読むのかい﹂
﹁ええ﹂
﹁喫茶店で読書かい
て﹂そう言って白く細い指でコーヒーカップを擦った。
良いし、前は良いレコードがいつも掛かっていましたから何時までいたくなっちゃっ
﹁昔はよく友達と来たんです、学校帰りに。そのうち一人でも来る様になって⋮椅子も
﹁君は良い店を知っているんだね﹂伊藤は一口コーヒーを啜った。
らない味で││余計に色々付けない風味が良いですよね﹂
﹁そうらしいですよ。以前にマスターから伺いました﹂佳奈江はすかさず答える。﹁変わ
﹁それはそうと、ここのワッフルは随分美味しいな。自家製なんだろうか﹂
た。佳奈江が俯いたままであるのを見て川瀬が口を開く。
伊藤は返事に窮して﹁そうか﹂とのみ返した。気不味い空気になったと三人共が感じ
繰り返してきた言葉を今一度口にした様だと川瀬は思った。
す﹂その声は力強くはなかったが、佳奈江はきっぱりと断言した。まるでこれまで散々
﹁何故なら人間の本質は学校の勉強では磨かれず、また試験によっては測れないからで
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喫茶店を出ると視界は眩さに満たされた。太陽がまともに照らす道路は暫し我慢比
ほか
べの時間である。
思いの外会話は弾んだ。佳奈江は読書の話題となると俄然良く口が回った。その様
は流行のファッションについて談義する普通の女子高校生と変わらない。川瀬は先の
攻撃的な態度を内心恥じた。
喫茶店を出て取り敢えず三人は歩を駅前の日光で輝くビル街に向けた。﹁ちょっと川
瀬、いいか﹂振り返って伊藤。川瀬は伊藤と肩を並べた。伊藤は抑えた声で言う。﹁この
先どうするね﹂
﹁適当なところでお開きか﹂
﹁ケータイの番号くらい聞いてもバチは当たらないだろう﹂
﹁んだんだ﹂
﹂
ありがとう。楽しい時間だったよ。なあ川瀬﹂
﹁よし││﹂くるりと身を翻して伊藤が言う。﹁佳奈江ちゃん、今日は付き合ってくれて
﹁勿論
﹂
﹁ついては││﹂伊藤が二の句を継ごうとした時、佳奈江は落胆にも似た調子で言った。
!
﹁え、もうお別れですか⋮
?
前篇
15
16
せりふ
眠 く な る 空 気 の 中 に 立 ち 止 ま っ た 川 瀬 と 伊 藤 は 刹 那 幻 聴 を 聞 い た の で は な い か と
疑った。しかしその科白は脳に幾度も反響する。もうお別れですか││
まどろ
佳奈江の表情を見る。唇をきゅっと結んで二人を見つめるそれは数年来、ひょっとす
ると十数年来二人が目にしたことのないものであった。
一瞬で全身を駆け巡る興奮と歓喜を二人は感じた。熱さで微睡みかけた瞳がかっと
開かれる。川瀬は佳奈江の手を取ってはしゃいだ。﹁きっ、君さえ良ければいつまでも
﹂
きびす
た。佳奈江が喋ると共によく動く両の手の白い指を見て、伊藤は美しいと思った。
た。佳奈江が実に生き生きと喋るのである。まるで人との会話に餓えていた様であっ
かつ
もう二時間は歩いただろう。汗を拭うことも脚の疲れも忘れて三人は話し込んでい
から明白であった。
に川瀬と伊藤が罵ったそれであることは、街を行く別の川瀬と伊藤が舌打ちをしたこと
気怠さも熱さも忘れて三人は踵を返しビル街を離れていった。その様子は数時間前
人はにやけた。
佳奈江はにっこりと笑った。﹁行きたい場所というか、まだまだお話していたくて﹂二
伊藤も急いて言う。﹁そうだぜ、どっか行きたい場所はあるのかい﹂
!
﹁でですねー、私はそれを読んだ時は雷に打たれた思いでしたよ。過去の時代、親の世代
がおかした過ちを乗り越えて、我々が真の民主国家日本を作らなきゃならないんだって
﹂
﹂
?
﹂
ら何も口にしていない。川瀬がベンチから立った。﹁自販機で何か買ってくるよ。佳奈
しかし歩き詰めであったから流石にくらりと来るものがある。三人は喫茶店を出てか
神社には夏の参拝者に安らぎを与える大樹があるのであって、三人はその日陰にいた。
あって、それでいて清らかな空間を今に残す立派な神社である。そして無論、そうした
三 人 は こ の 地 域 で は 有 名 な 神 社 で 休 憩 し て い た。都 市 部 か ら そ う 遠 く な い 位 置 に
二人して笑う。
﹁どうやら我々は佳奈江ちゃんの口癖を増やしてしまった様だぞ、川瀬﹂佳奈江を挟んで
﹁そんなんじゃ駄目ですよ、良い本を読んで勉強しないと﹂
﹁同じく﹂
﹁伊藤さんは
﹁いいや、ないね﹂
﹁川瀬さんは読んだことありますかっ﹂ぐいと佳奈江は川瀬の顔を覗き込んだ。
﹁随分な意気込みだね﹂川瀬も佳奈江も赤い顔をしていた。
!
江ちゃんは何がいい
?
前篇
17
﹂と注文し
!
いてよく知っている模様云々。
達と態々過ごしやすくもない環境の中で談に花を咲かせる程に。駅近くの喫茶店につ
わざわざ
かの如きである。ちょっと意外だがかなりのお喋り好き││それもナンパしてきた男
が古い。それも五年十年の古さでは利かない。まるで丸々一世代前の本を好いている
いるから尚更である︶。趣味は読書。学術書も嗜むが小説も読む。但し読書遍歴や好み
させずにはいられない︵しかもこの熱さがただでさえ軽装である少女をより曝け出して
さら
潔白な少女の肉体的な健全さを声高に主張しており、近くに居る者をして心拍数を上げ
的で細いということも太いということもない。額を、頬を、首筋を落ちる汗がこの清廉
チのところで切っている。大きな目を更に強調するかの様に長い睫毛。肉付きは健康
いうに裾が膝の高さよりやや下になる様着ている。傍目に滑らかな黒髪を肩上三セン
すべ
秀と名高い某校の夏服に身を包んだ女子高校生。スカートは生真面目に校外であると
セミの鳴声を聞きながら伊藤は隣に座るこの少女のことを考えた。福田佳奈江。優
た。
いた。この時間帯は親子連れが多いらしい。広い境内を楽しげに幼子が駆け回ってい
川瀬を待つ間、二人は喋らなかった。舌休めである。佳奈江は神社の参拝者らを見て
た。
﹁では││﹂佳奈江は少し躊躇するかの様な顔をした後に﹁では、コーラで
18
﹂
﹁なあ佳奈江ちゃん﹂
﹁はい
川瀬から缶を受け取った佳奈江はそれをまじまじと観察した。﹁これがコーラですか
﹁佳奈江ちゃんに合わせて俺達もコーラだ。はい、これ佳奈江ちゃんの分﹂
た。振り返るとそこには三つのコーラを持った川瀬がいた。
その瞬間である。佳奈江の瞳が動いたと思ったら伊藤の背筋には冷たい衝撃が走っ
した。
伊藤は佳奈江の目を見つめた。その奥は何処までも深く、それ故惹きつけられる気が
﹁⋮⋮⋮﹂
てくれて⋮矛盾する様で捉え所がない﹂
物だって気がする、志向というか考え方がね。だけど学校サボって俺達と一緒に過ごし
﹁君って何だか不思議だよ。話を聞いていると││誤解しないでほしいが││まるで堅
?
コーラは茶色だぜ﹂ほれと川瀬は自分の手の平に少量のコーラを溢した。それを見
こぼ
⋮﹂プルトップを開けてもいきな飲もうとせずに小さい穴から中の様子を伺う。
?
少し飲んだだけで佳奈江は口から缶を離した。﹁変な味です﹂
口にそっと缶を当て手を傾ける。
た佳奈江はなるほどと興味深げに頷いた。そして姿勢を正したかと思うとその小さな
﹁
前篇
19
﹁佳奈江ちゃん、コーラ初めてかよ﹂川瀬は驚いて言った。
伊藤は益々不可思議だと
佳奈江はまた一口、恐る恐る飲んだ。﹁喉への刺激が強すぎます﹂
﹁初々しい反応だね﹂と伊藤。
そもそも炭酸飲料が初体験なのか││今日日の高校生が
感じた。
ことをしよう。
?
﹁私は図書室の司書さんと仲が良くって、よく本をリクエストしていました。だって既
尻目に三人は歩いた。
社から実はそう遠くないのだ。自分達とは反対方向へ騒ぎながら去っていく高校生を
二人は知っていたが敢えて口に出さなかった。佳奈江の母校は三人が立ち寄った神
﹁ねえ、お二方
﹂やおら佳奈江は立つ。﹁私の母校を見にいきませんか﹂
れが吉日であれ厄日であれ。転機は外からやってきた。ならば、今度は私からおかしな
佳奈江は思う。こんなことはこれまでなかった。今日は滅多無い特別な日だ││そ
﹁随分お喋りしていたみたいだな﹂伊藤は空になった缶を意味もなく振る。
江ちゃん││が歩いているのを見たぜ﹂川瀬が言う。
﹁そういえばもう中高生の下校時間みたいだな。制服を着たガキ共││おっと失礼佳奈
?
20
にあった本だけじゃ満足出来なかったんですもの。私だけじゃないわ。同級の子も先
輩も、皆知識を求めていたんです﹂
三人は佳奈江の母校の南から少しの、ちょっとした丘の上にある公園に来た。そこか
らは高校のグラウンドがよく見えた。双眼鏡があれば窓から教室の様子も覗けるだろ
う。陽は橙色を帯びつつあり高校全体を照らしていた。遊び場を求める子供達や散歩
に訪れた爺さん婆さんに紛れて、三人は最もよく高校が見えるベンチに陣取った。グラ
ウンドではサッカー部が練習をしている。雄叫びにも似た声がここまで聞こえてきた。
﹁このクソ暑い中、よくもまあ殊勝なもんだね﹂川瀬が言った。
﹁俺達とは鍛え方が違う。彼らにとっちゃ天候の良し悪しなど気にするに足らぬのだろ
う﹂事実、生徒のものと思われる複数の叫び声が常に聞こえてくる。熱中症対策に煩い
昨今、彼らは体を酷使することでその風潮に対するアンチテーゼを体現しようとしてい
るに違いなかった。
きことです﹂
﹁高校生が元気なのは良いことです。それも部活で元気だなんて称賛され推奨されるべ
﹁⋮⋮⋮﹂
しょう、高校生なんて⋮⋮難しいことを考えるのは高校を卒業してからだって全然遅く
﹁私 達 が こ こ か ら 見 え る の は 健 康 な 高 校 生 達 で す。部 活 に 勉 強 に │ │ そ う あ る べ き で
前篇
21
はないんです。解決出来ないことに思い悩んだって無意味なんです、だって何も為すこ
とが出来ないのだから。その点、彼らは極めて理に適った生き方をしています。彼らか
らしたら色々悩みの多い日常でしょうけど⋮本当に、彼らは健やかです﹂
佳奈江が目の前に見える光景だけを見ているのではないことは明らかだった。
がありまして﹂
﹁聞かれなかったので敢えて言うことはしませんでしたが││実は秘密にしていたこと
﹁では││﹂佳奈江の視線は依然、学校に注がれていた。
川瀬は肩を竦めた。﹁ここまで来たんだ。話してくれよ﹂
すく
ことがあるんです。出会って数時間で変かも知れないですけど﹂
﹁こんなに人と喋ったのは本当に久し振りで││だから最後にもう一つだけお話したい
﹁それはこちらの科白だ﹂伊藤が言う。
﹁お二人共、今日は付き合ってくれてありがとうございました﹂
22
後篇
昭和四十四年、高校は燃えていた。振り返れば最後の盛上がりを見せていた当時の学
生運動が、大学生程には親からも学校からも自由でなかった高校生にまで波及したので
ある。地域でも進学校と目された学校の、全国的に名の知られた学校の高校生が、束縛
からの疎外からの解放を求めて闘った。バリケード封鎖だってしたし火炎瓶が投げら
れたこともあった。当時の高校生にとって教師は敵だった。往時、教員は大卒者という
だけで一目置かれた時代に教員免許を取得した者達である。その教員を高校生は支配
機構の手先として敵視し軽蔑した。本来は反抗がありながらも信頼で結ばれるべき教
師と生徒とは不信と憎悪とによって引き裂かれた。高校生は親も教師も大人全体が大
嫌いで、大人からしたら子供が手の付け様も無い程に兇暴野蛮となってしまった。今で
は想像することも難しい、辛い時代であった。
に臨んだんですから。マルクスもレーニンも読みましたよ。皆で集まって勉強会もし
り屋とは一緒にしないで下さいよ。今日沢山お話した様に、私はちゃんと勉強して闘争
争に参加する様になりました。デモに参加したり教師を詰ったりするだけの、騒ぎたが
なじ
﹁私は三年の先輩に誘われてデモに参加したんです。それが始まりで、私はどんどん闘
後篇
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て⋮それでよく分かりました。教育システムによって私達の人間性は抑圧され疎外さ
れて社会に送り出されるんだって││まるでオートメーション工場から出荷される個
性の欠片もない大量生産品の様に。私達は政府の、産業の道具じゃありません。そんな
扱いを受けるなんて一人の人間として我慢ならない。だから私は人間疎外と闘ったん
です﹂
熱 狂 に 包 ま れ な が ら 高 校 生 は 闘 っ た。自 分 達 な ら ば 何 か を 変 え ら れ る 気 が し た。
だってそうだろう、これまでだって大学生や労働者が幾度も大きな運動をやっている、
きっと自分達にだって出来る。それに自分達が先導すれば地域の他の高校生達も立ち
上がってくれるに違いない、その為には今、我々が行動しなくてはならない││
いんだって﹂
﹁私、商業高校に進学した中学の頃の友達に言ったんです。どうしてあなた達は闘わな
もつかないのは体は成長してもまだ抜け切らない幼さ故であった。
た。だから彼女は諸々相手の事情を勘案すべきだったかも知れない、しかしそれを思い
こともあった。佳奈江は地元の公立中の出身であって、その生徒らの進路は多様であっ
その純粋さ││初││故に福田佳奈江は運動にかける熱意を中学時代の友人に話す
うぶ
何だって出来たんです﹂
﹁私達は陶酔していたのかも知れません。大地を駆けることも空を飛ぶことも、望めば
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その一言に進学校の生徒とそうでない高校の生徒との隔絶があった。進学校でない
学校の生徒にとって﹁闘争﹂なんてものをしない理由は至極単純、それが空虚だからで
むし
ある。今、教師に反抗している進学校の生徒は外人の作った立派なお題目を掲げてはい
るが、そんなものを振り回して教師や学校が変わるというのか。それも彼らは寧ろこれ
から体制側の人間となって自分達を支配する側に回るというに、デモだの団交だのやっ
ている連中はまるでそんなことは口にしない、自己批判していないのだ。そんな無頓着
な人間の言っていることに賛同出来る道理などない、第一、我々が何か主張して大人が
まともに聞いてくれると思っているのか、勉強が出来るアンタらとは訳が違うんだ。
来ない。この世の人間疎外は現在の支配体制が維持しているものと理解しながら、正に
まさ
旧友の言葉は深く佳奈江の心に根を下ろした。一度思考が始まると止めることは出
いた。
れもないブルジョア、富裕、金持ち。九つにして佳奈江の自室には冷暖房が完備されて
の父は開業医である。佳奈江は幼い頃から不自由もストレスもない環境で育った。紛
福田家の男は医者か弁護士か学者になるのが昭和この方の習わしであった。佳奈江
言われました。私、何も言い返せなくて││﹂
ち私らを搾取する人間になる。そのあんたが私らにそんなことを説くのは漫画だって
﹁あんたはブルジョアジーで、ブルジョアは労働者を搾取する。だからあんたもそのう
後篇
25
つい
その支配体制の申し子である自分自身。佳奈江は思想と出自との矛盾に苦悩した、その
身が引き裂かれる程に。そして憔悴し切った終に佳奈江は体制存続に与するよりもそ
れに打撃を加える道を選んだ。
﹂
?
なりました。私に言わせればそれって幸福なことです。そして実際に街を行く高校生
ど、この国は最早高校生が闘争なんて身に余る思想に溺れる必要のない満ち足りた国に
発展一筋で⋮そしてそれはこの国全体に言えることです。色々なことがありましたけ
の街の変化を五十年間見てきました。幸いにこの街は大きな災害を経験することなく
﹁正直、どうでもよくなっちゃいました﹂その調子はあっけらかんとしていた。﹁私はこ
言葉をぼかした。ただその意味するところははっきりとしている。
﹁なあ佳奈江ちゃん、今は││どうなんだい﹂古傷が古傷でない可能性もあるから川瀬は
﹁⋮⋮ああ、腰を抜かしそうだ﹂伊藤がやっとの思いで呟いた。
とこうして化けて出ている訳です。驚きました
﹁そして、決意して身を投げたつもりがこの世に未練たらたらで、毎年お盆の季節になる
今もそのままである。
したから﹂そう告白した佳奈江の顔に涙はなかった。約半世紀前に心の泉は枯れ果てて
に負けた後の景色が綺麗だったなんておかしいですけど⋮神経の落ち着かない日々で
﹁最後に校舎の屋上から見た夕焼けはとっても綺麗だったと、今も覚えています。闘争
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とげ
達が高校生らしい勉強や楽しみに興じているのを見て、もう心を棘つかせて色々考える
意味なんかないんだって思いました﹂
伊藤は佳奈江の無念を思った。彼女が青春││そして人生││を賭したものは、現代
﹁⋮⋮⋮⋮そうか﹂
のこの国で分かりやすい形では残っていない。佳奈江自身も急速に﹁運動の季節﹂が終
わりゆくのを目撃したはずである。一体自分は何の為に闘ったのかという落胆の果に
佳奈江は今の境地にいるのだ。明鏡止水。最早佳奈江の心は何にも揺さぶられはしな
いのではないか。この少女の姿にそれだけの悲哀が詰まっているとは││伊藤はただ
唇を噛んだ。
伊藤が俯き黙っていると川瀬が会話を繋いだ。﹁佳奈江ちゃん、君はこれからどうし
たい。俺達に出来ることならなんでも││﹂
﹁どうしましょうかね﹂佳奈江は力なく笑う。﹁今年もお盆が近づいています。私、お盆
になるとまたこの体が消えちゃうんです。だから⋮今年も何もないまま、出来ないまま
きっと消えていくでしょう﹂街は夕焼けの尾を引きながら夜を迎えようとしていた。
﹁あと何度これを繰り返せばいいやら⋮⋮﹂
だ終わってない、盆までにはまだ日があるだろう。俺達と遊ぼう、佳奈江ちゃん。今の
﹁まだ終わっちゃいない﹂伊藤は不意に佳奈江の手を引いて立ち上がった。﹁君の夏はま
後篇
27
高校生みたいにカラオケ行ったりゲーセンに行ったりしよう。もう、お堅い校則を気に
浮世の楽しみを味わおう﹂川瀬も佳奈江の肩を叩いた。
する必要はないんだから﹂その声は大きくはっきりとしていたが微かに震えていた。
﹁そうだぜ、佳奈江ちゃん
普通の人とは会話することが出来ない
なったが流石に間抜けと感じて慌てて手で抑える。それまでは気にならなかったはず
川 瀬 と 伊 藤 は 最 大 限 に 目 を 大 き く し て 顔 を 見 合 わ せ た。思 わ ず 顎 ま で 外 れ そ う に
?
も感謝しないといけませんね﹂
﹁うん
?
﹁はい﹂
﹂二人は声を合わせて問う。
が、どうい因果かお二人とは触れられもするし喋られる。お二人だけでなくこの奇跡に
出来なかったんです。なのであの時も何が起こったのか混乱してしまいました⋮です
れまでもずっと、夏の限られた間は物を手に取ることこそ出来すれ人と会話することは
さった時、何かの間違いかと思ったんです。生きている人に私の体は見えない様で、こ
﹁ありがとうございます﹂佳奈江はさっと頭を下げた。﹁川瀬さんが私に声をかけて下
と車で迎えに行くから行きたいところがあったら言ってくれ﹂
﹁よしっ、じゃあ明日から盆まで毎日君が好きだった喫茶店前で待ち合わせよう。川瀬
した。断る方が二人に悪いと思ったのだった。
﹁でも⋮⋮﹂迷惑ではないかと思い、ちらりと二人の顔を見て佳奈江は﹁はい﹂と返事を
!
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﹂
な の に 背 中 に 嫌 な 汗 が 流 れ る の を 感 じ た。伊 藤 は 先 程 と は 別 の 理 由 で 声 を 震 わ せ た。
﹁そ、そうかあ、俺達昔から霊感強いってよく言われてさ、なあ川瀬
あ伊藤
﹂
感なんてものが役に立つとはなあ、これのお陰で佳奈江ちゃんと出会えたんだから
な
ウインクを受けて川瀬も同意した。﹁そうなんだよ、佳奈江ちゃん。いやーしかし、霊
!
!
見えたかどうかは不明である。
!
!
﹁まあそういう訳で、明日九時、喫茶店前
﹂伊藤は力強く言う。
﹁ああ全くだ ﹂ガハハ││と二人は極自然に笑った。それが佳奈江にとっても自然に
!
服では派手すぎると言い、白のシャツに紺のスカートという極簡素な組み合わせを選
に他人には見える︶なんて通報されるのではないかと恐々としていた。佳奈江は流行の
二日目、佳奈江の服を買いに行く。正直、川瀬と伊藤は男二人で女ものの服を買う︵様
た。
たが中々に上手くて川瀬と伊藤は驚く。流石お嬢様と評すべし。喉が潰れるまで歌っ
一日目、カラオケに行く。佳奈江が歌ったのは唱歌や抒情歌など古いものばかりだっ
一人の若者が老人になる程の間止まっていた夏は数日を残して動き始めた。
﹁ええ﹂
後篇
29
30
ぶ。二人は薄い財布の気を遣わせたのではないかと心配になったが、新しい服を纏った
佳奈江は上機嫌そのもので安心する。その後には駅前の大きめのゲーセンに行き散財
する。佳奈江はゲーセンの音と光の騒ぎを﹁視覚のコーラ﹂と表現した。
くたび
三日目、一時間半車を走らせ海まで行く。佳奈江は生前、夏は決まって家族で沿岸各
うそぶ
所に旅行したと言う。何でも父親が海水浴好きだったとか。三人で草臥れるまで泳い
だ。
四日目、オープンキャンパスと嘯いて佳奈江が嘗て憧れていた大学へ行く。二人は佳
奈江の寂しそうな目元を見てそっと大学から古本街へと連れ出した。
五日目、映画館へ行く。四本も見たが何れにしろ迫力が昭和の頃とは段違いだと佳奈
もた
江は驚いていた。しかし長時間の視聴に流石に疲れた様で佳奈江は隣に座っていた川
瀬に凭れ掛かった。佳奈江の体温と柔らかさに意識を集中してしまい、映画の一部を見
そびれたと川瀬は言えなかった。
そして六日目、墓参りである。その寺は伊藤の借家から車で三十分という近距離に
あった。閑静な住宅街の外れにあるその寺は境内に石碑を点在させていた。読むと、刻
まれた元号の少なくないものが佳奈江でも分からなかった。大きくはなくとも鮮やか
な朱で仏堂は威容を誇っていた。
﹂伊藤が聞いた。
﹁お堂もお地蔵様も昔と何一つ変わってません。変わったのは周囲の風景だけです﹂佳
奈江は感慨深げだった。
﹁もしかして今まで一度も⋮
?
さまよ
伊藤は年月の重みを感じようとして墓誌に刻まれた文字を指で擦った。﹁ここにはい
佳奈江も全身を固くして墓誌を覗く。﹁私、二人兄がいるんです﹂
すべき歳まで生きたと言えるだろう。
尾ではない。佳奈江の後ろには二人の名が刻まれていた。享年を見れば一般的に満足
伊藤は墓誌を見た。長く連なる名前の最後の方に佳奈江の名があった。しかし最後
は呆然として口を利けなかった。
墓には真新しい菊が活けられていた。香炉には僅かの灰があるのみである。佳奈江
た証明なのであった。
の前にある黒々と聳える石塔は、佳奈江が彷徨う間にも確かに家族の歴史が紡がれてい
そび
は決して短くもなければ人の運命を滅茶苦茶に出来ない長さでもない。故に三人の目
まる。あるいはそれ程驚くことではないのかも知れないが、しかし約五十年という時間
なければここら辺にあるはず││﹂はたと佳奈江の足が止まった。川瀬と伊藤も立ち止
大小も手入れの良し悪しも多様な墓があった。﹁この五十年間で福田家が没落してい
﹁ええ、何だか寄っちゃいけない気がして﹂
後篇
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ない様だね﹂
きわ
泉へ去る際の戯れなど。
﹂
?
﹁本心かしら
﹂
﹁勿論だとも。君はまるで二つめの太陽の様だ。眩しくて、暖かい﹂
﹁本当かしら
俺が君に声を掛けたのは君がべらぼうに可愛かったからさ﹂
川瀬は意を決して佳奈江を見つめると、平生の調子で明るく言った。﹁佳奈江ちゃん、
へいぜい
﹁お顔が怖いですよ、川瀬さん﹂佳奈江の冗談に川瀬は笑わなかった。笑えるものか、黄
る。川瀬が歩み出た。
暫し甘い科白を反芻していたかったが、こうした場面で時を置いての返答は男が廃
てみたいのです﹂そう言って佳奈江は伏せていた目をしっかりと二人に向けた。
﹁私ってば生娘でして﹂頬を紅潮させていた。﹁消えてしまう前に男の人からの愛を受け
きむすめ
うと、二人はその言葉を聞きたくなかった。
奈江が立っていた。﹁最後にお願いがあるんです。ぜひ聞いて頂きたくって﹂本音を言
これだけ長く祈ったことはないという程に合掌してから目を開けると、二人の前に佳
に併置されていた水子地蔵に捧げた。川瀬と伊藤は黙して手を合わせる。
﹁伊藤、お線香をあげよう﹂川瀬は用意していた線香に火を点け、一族の墓、そして傍ら
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?
﹁ああ当然さ
げに言った。
許されるならその愛しさの奥に何があるのか、もっとよく知りたいよ﹂
ひざまず
﹁それにしても、佳奈江ちゃんが他の人間には見えていなかったとは⋮⋮﹂伊藤は苦々し
﹁当分先だがきっと会えるだろう﹂そして川瀬は深く息を吐いた。
﹁また会えるだろうか﹂伊藤の呟きはその中に既に答えを含んでいた。
舌打ちをする。車のラジオはあと数日は酷暑の予想さることを伝えていた。
親しい者と連れ添って歩いていた。それを見て伊藤は佳奈江の浴衣姿を見そびれたと
夕暮れの景色は寂しさよりも活気を呈していた。何処かで夏祭りがあるだろう、共々
その笑顔は立ち昇る線香の白煙と共に空に溶けてやがて見えなくなった。
﹁まあ嬉しい﹂
佳奈江は赤らんだ顔でにっこりと笑い、頬に手を添えて言った。
﹁君は俺がこれまで見てきた何よりも美しい﹂
重ねられていた右手をそっと取り、その透けるような甲にそっと口づけした。
川瀬は笑顔がいつの間にか緊張していた佳奈江に近付き、 跪いた。そして体の前で
﹁言葉だけでは足りなくってよ﹂
!
﹁ああ、地球人の目では境次元線を捉えられないのだろう﹂
後篇
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﹁迂闊だった││減給の上に辺境惑星開拓なんてまっぴらだからな﹂
それを可能にする薬があるのだ﹂
﹁大丈夫
!
﹂川瀬はパチンと指を鳴した。
!
吸い込まれていった。
は驚異への道が開かれ、周囲の車輌が一つとして知覚出来ぬ間で二人を乗せた自動車は
ま
最早二人には一マイクロ秒だって惜しい。伊藤がシフトレバーを押し下すと前方に
﹁上等
﹁地球人にとっては﹂
﹂
﹁禁制品
?
﹁学生の頃だってそんな無茶はしたことがない﹂
﹁問題ない。不眠で丸三日やれば遅れなどすぐ取り戻せる﹂
﹁ところで伊藤、俺達は一週間業務を停止していた訳だが﹂
﹁そうだよなあ、地球人には見えないんだし﹂
のに﹂
﹁俺も肝が潰れるかと思ったよ。地球では上も人間と境次元体を区別してくれりゃいい
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