開啟檔案

今の日本の教育は、身体・知的にハンディキャップのある子供の特
別な教育には熱心ですが、身体・知的に標準より高い能力のある
子供の救済には積極的ではありません。
現今的日本教育,對於身心障礙兒童的教育非常重視,但是卻
忽略了高智能兒童的教育。
しかし、能力が高すぎる子供は、極端な言い方をしてしまえば、知
的・身体的な「特殊状況」という意味合いで規格外ということができ
ますし、本人にあった教育をうける環境を作るのはとても大事なこと
だと思います。
但是,學習能力高的孩子,假如用比較極端一點的說法來解釋
的話,也可以說他們是「狀況特殊」例外的一種,因此我認為
針對不同的人來實施不同的教育環境的這件事非常重要。
ハンディキャップ 身體障害
アメリカで飛び級をして大学に入学した9歳の子供の親父が、「うちの
子は日本の教育をそのまま受け続けていたら、心身ともにつぶされて
いたとおもう」というようなことを言っていたのが印象的でした。
在美國年僅九歲就跳級進入大學就讀的孩子父親說過這樣的一段話
讓我至今仍然印象深刻「如果繼續讓我的孩子在日本接受教育的話,
對於她的身心發展總有一天會崩潰的」。
なので、私は飛び級には賛成です。
因此,我贊成跳級制度。
(古草伊代)
例え教科ができても、精神的肉体的に同年代の子供と同じとは
限りません。なので、飛び級をした年の幼い子供が疎外された
り無視されたりなどの特別扱いをされる危険性もまた、生じま
す。
就算(這些孩子的)成績非常好,但也未必就能斷言說(這些孩子)在
精神和肉體上(的發展狀況)就和(其他)同年齡的孩子有不一樣。因
為這樣,使得年幼跳級讀書的孩子們,受到歧視和排擠等的特別
對待的風險產生了。
なにより、賛成か反対かではなく、「全部の教科を同じ教室で
みなが一緒に授業を受ける」という方式に問題が大有りです。
而真要歸咎責任的話,最大的問題並不在於是否支持或反對跳級
學制,而是出在於「所有學生都在同一個教室同一領域一起學習」
的教學方式上。
疎外 (そがい) 疏遠、排擠
大有り(おおあり) 很多
人により得意不得意、才能の有無は教科によってまったく違いま
す。得意な教科では標準よりはるかに進み、不得手な教科では標
準よりゆっくり教える、というような個人にあわせて教えるのが
当然だと思われます。そうしないと、できる教科も伸びす、でき
ない教科も無理を強いられるので、個人的才能の開花には程遠い
と思われます。
因為每個人科目的拿手和不拿手、天分的有無也不一樣。拿手的科
目就超前學習,不拿手的科目就慢慢的學習,像這樣依個人的情況
來作教學的事是被認為理所當然的。如果制度不改的話,不但個人
的拿手科目沒有辦法有很大進步,不拿手的科目也被迫一直學習,
像這樣的教學方式是無法開發個人的才能的。
なので、現行教育を根本から変えない限り、この問題はどち
らにしても解決しないと思われます。
因此,如果現今的教育制度不改變的話,這樣的問題是不會有
得到解決的一天。
(大場加奈子)
AとB両方に共通する見方はどれか。
1.飛び級にはどちらかというと賛成である。
2.飛び級には問題点もある。
3.能力のある子供が先を学習できないのは惜しい。
4.日本の教育には賛成しない。
Bはどうして現行教育そのものに反対なのか。
1.子供は勉強しすぎだと思うから。
2.子供が飛び級できないから。
3.飛び級しても子供がいじめられるから。
4.生徒の才能を開発できない方式だと思うから。
Bのいう根本的問題を解決するためには、最適と思われる
策はどれか。
1.どんどん飛び級制度を進める。
2.できない子供は義務教育でも留年させる。
3.すべての個人に合わせて教学の進度や内容を変える。
4.できる子供には特別授業を設ける。