大阪証券界の重鎮に聞く 和田市で発祥した、大阪南部に地盤をもつ地場証 井証券の歴史を振り返れば、岩井証券は大阪の岸 た、大阪を代表する老舗中堅証券会社である。岩 証券よりも規模が大きかったコスモ証券を買収し 平成二二年には野村徳七商店に起源をもち、岩井 一〇〇周年を迎えた老舗証券会社である。また、 は、旧岩井証券誕生の創業から数えて、昨年創業 今号の証券史談にご登場いただくのは、岩井コ スモ証券の沖津嘉昭社長である。岩井コスモ証券 て活かされていることはあるのか。あるとすれば 代に得た知見が、岩井コスモ証券の経営にあたっ 異色の経営者であるが、モーターボート競走会時 はモーターボート競走会から証券界に転身された 今回のインタビューにあたり、筆者らは次のよ うな関心をもって臨んだ。一点目として、沖津氏 盤を拡大してきた。 駆け、非対面取引に注力し、それによって顧客基 かれる。こうした逆風下で、岩井証券は他社に先 ―沖津嘉昭氏証券史談(上)― 券であったが、昭和五〇年代には地場証券からの それは何かである。第二点目として、沖津氏の経 バブル経済が崩壊すると、証券会社は逆風下に置 脱皮に向けた拡大路線を採っていく。ところが、 ― ― 88 は非対面営業を核に据えた事業展開をされていた わけだが、なぜ対面営業を主力とするコスモ証券 を買収されたのかが、第三点目の筆者らの関心で ある。 一回目の今号では、沖津氏が社長に就任される ま で の お 話 を 収 録 し て い る。 沖 津 氏 の モ ー タ ー 営手法は、まず無駄を排除した上で、非対面取引 なった東京支店勤務時代のお話を中心にお聞きし 教 訓、 ま た、 沖 津 氏 の 証 券 界 で の 生 活 で 転 機 と ボート競走会時代のお話から始まり、そこで得た への注力により効率的に営業収益の向上を目指し 大卒社員の採用と経営の近代化 ている。 証券会社が、非対面販売チャネルを開設すると、 チャネル間のコンフリクトが散見される。それで も敢えて、沖津氏はコールセンターを支店内に開 任担当者をつけるといった一般的な非対面営業の てされてきたことをお聞きいたしますので、お話 本日は社長様に岩井証券への入社以降、年を追っ ――本日は、お忙しい中ありがとうございます。 手法とは異なる戦略を採られた。これがなぜかで しいただければと思います。 設したり、非対面販売チャネルでありながら、専 ある。次に、コスモ証券の買収である。岩井証券 ― ― 89 沖津嘉昭 氏 たところに特徴がある。対面営業を主として来た 大阪証券界の重鎮に聞く ―沖津嘉昭氏証券史談(上)― 証券レビュー 第56巻第11号 さっそくですが、御社にヒアリングに参ります にあたり、『ホンマにおおきに!岩井コスモ証券 一〇〇年物語』という本を拝見させていただきま し た。 最 初 に、 社 長 様 が 入 社 さ れ る 前 の こ と か ら、お聞かせ頂ければと思います。まず、この本 では昭和三七年ごろから、大卒社員を採用され、 歩合外務員から社員セールスへの転換が図られた との記述がありますけれども、それはどういうお 考えから、転換を図られたのか、お聞かせいただ けますでしょうか。 沖津 私はそのことについて、詳しいことは分か りませんが、私が入社いたしました昭和五九年時 点でも、歩合外務員はたくさんいました。 ――ああ、そうですか。 沖津 本店にも第一営業、第二営業という部署が ありまして、第一営業は社員営業で、第二営業は ― ― 90 大阪証券界の重鎮に聞く ―沖津嘉昭氏証券史談(上)― 歩合外務員でした。人数も記憶があいまいな部分 も あ り ま す が、 二 〇 人 ぐ ら い は い た か と 思 い ま す。それ以前は、各支店にも歩合外務員がおりま したから、昭和三七年に歩合外務員から社員営業 へと脱却したということはないと思います。おそ ら く 当 時 は、 ほ ぼ す べ て の 営 業 員 が 歩 合 外 務 員 だったと思います。といっても、半ば社員みたい なもので、お給料だけが歩合で支払われていたと 思います。ですから、昭和三七年ごろに、お給料 の支払い形態を歩合制から、定額の給料を支払う ように変えていったのだと思います。 もともと岩井辰之助さんが、旧岩井証券を設立 されたときには、歩合外務員制度でやっておられ ました。しかし、加藤〔孝明〕さんという私の前 の社長は、岸和田産業高校を卒業されて、当社に 入社されたわけですが、この方は社員として採用 されたと思います。というのも、加藤さんは高校 ― ― 91 りましたよね。 場電を聞かれていたということが、本に書いてあ からスタートし、北浜へと異動されて、北浜では を卒業して、当社に入社されると、玄関の水まき 支店、堺鳳支店、泉佐野支店と、どんどん支店を 沖津 はい。そうであろうと思います。もともと 当社は岸和田で創業した後、春木支店、和泉府中 ――なるほど。そういうことですか。 ちろん、加藤さんが入社されたのは昭和三七年以 は、社員として入社しておられたと思います。も 沖津 北浜で場電を聞かれた後、住吉支店で営業 を し て お ら れ ま し た。 だ か ら、 た ぶ ん 加 藤 さ ん ――そうでしたね。書いてありました。 た。それらのうち阿倍野、水間、貝塚以外の営業 井、府中、春木、阿倍野、泉佐野、水間に開設し る と と も に、 出 張 所 を 泉 大 津、 大 阪、 貝 塚、 樽 代末までに、営業所を鳳、岸和田、住吉に開設す の営業体制を歩合の方を中心としたものにして 出していきましたが、この支店の出し方が、当社 前のことですから、昭和三七年以前から社員もい 所は、後に支店、営業所へ昇格している〕。 昭和三七年にお給料の支払い形態を変えて、歩合 ――そうですか。 ― ― 92 いったのだと思います〔岩井証券は、昭和三〇年 たと思います。ただ、それはごく一部で、ほとん 戻しから定額のお給料を支払うようになった、と いうことだと思います。 は、営業員に小さな店を持たせて、そこで営業員 沖津 つまり、当社は創業後、大阪の泉州地域に 支店を出していったわけですが、当時の営業体制 どの人が歩合の外務員だったと思います。それを 証券レビュー 第56巻第11号 わけですが、そのころに歩合外務員中心の営業ス ろうと思います。そういう営業体制が続いていた らっしゃった営業の方が、歩合外務員だったのだ ですから、役員になられた支店長は、当時は親 父さんという感じで、その支店長の下で働いてい 店というふうに支店にしていきました。 とともに、それぞれのお店を、春木支店や和泉支 て、そういう人たちを全部取り込んで役員にする 文を岩井証券につないでいただくわけです。そし は電話で営業をしていました。そして、受けた注 も、それまで定年制はありませんでした。 員の方に対する七〇歳定年制を作りましたけれど きました。私が社長になりましてから、歩合外務 かれて、徐々に社員営業への置き換えが進んでい お渡しください」ということでお辞めになってい 配になら れて、「もう歳をとった ので、私、隠居 て、残っていた歩合外務員の方も、だんだんと年 す一方で、営業社員を採用していきました。そし の支払い方を変えたり、歩合外務員の採用を減ら わけではありません。しかし、それ以後は、給料 ――歩合外務員から社員営業への転換の意図とし ― ― 93 します。私のお客さんの営業資産は、誰々さんに タイルから、社員営業に変えていかねばならない ら大学卒の営業社員を採用して、経営の近代化が 沖津 そういったこともあったのかもしれません が、それはよく分かりません。 ていたということはなかったのでしょうか。 て、そのころから、募集営業に力を入れようとし 合外務員の方がまったくいらっしゃらなくなった ただ、最初にもお話しましたが、私が入社した ときも歩合の方はおられましたから、その後も歩 開始されました。 と考えたと思います。そして、昭和三〇年半ばか 大阪証券界の重鎮に聞く ―沖津嘉昭氏証券史談(上)― 社の役員になられたわけですが、間もなく創業者 が急逝されたので、岩井誠さんが当社の社長に就 長に就任されたが、昭和四二年五月には退任され 笹川家による株式保有の経緯 ――次に、岩井証券の株主構成に関するお尋ねを ている〕。 任されました〔岩井誠氏は、昭和四〇年一月に社 しますが、この一五年くらい前まで、笹川家が大 生をしておられたわけですが、岩井辰之助さんの 沖津 創業家には、岩井誠さんという娘婿さんが いらっしゃいました。この方はもともと学校の先 たのでしょうか。 ――なぜ笹川家が岩井証券の株をお持ちになられ 沖津 はい。 登場していた〕。 笹川家が二〇~三〇%超を保有する大株主として 分の保有する〕株を全部誰かに売却したいと頼ま 時、北浜で名を馳せていた畠中平八さんに、〔自 場 じ ゃ な い と 思 わ れ た の で し ょ う ね。 そ れ で 当 の父親もいなくなったので、自分はこういう会社 なかったのではないかと思います。その上に義理 沖津 これは私の憶測ですが、もともとインテリ タイプの方ですから、当時の株屋の雰囲気が合わ ましたね。 ――昭和四二年に社長を退任されたと書かれてい ― ― 94 株主でしたね〔岩井証券は平成一五年ごろまで、 娘 さ ん と 結 婚 さ れ て、 岩 井 家 に 婿 入 り さ れ ま し れたのです。 で働きたくない。生涯、命をかけて働くような職 た。その後、学校の先生をお辞めになられて、当 証券レビュー 第56巻第11号 畠中さんは、金田証券の場立ちからスタートさ れて、社長も務められた方ですが、証券恐慌のと ませんが、商品取引の会社も一時的に経営されて ところが、金田証券は昭和四〇年に自主廃業した で頭角を現し、昭和三五年に社長に就任された。 界に入り、戦後は昭和二二年に入社した金田証券 昭和一〇年の佐藤株式商店への入店によって証券 務員をされていたと記憶しています〔畠中氏は、 須々木証券〔現在のライブスター証券〕で歩合外 ね。 た よ う で す か ら、 買 収 を 即 決 さ れ た み た い で す たようですし、そういうことに関心をお持ちだっ ます。笹川会長は比較的、投資活動はお好きだっ 沖津 経営はほとんど人任せですけれども、笹川 会長は三品の会社をやっていらっしゃったと思い ――三品の会社ですか。 いました。 ため、昭和四三年から須々木証券の顧問(歩合外 ― ― 95 き に 会 社 を 自 主 的 に 廃 業 さ れ て、 そ の 当 時 は、 務員)を務めていた〕。 社の経営もしておられましたので、「じゃあ、経 そ し て、 誰 を 経 営 者 に す る か と い う こ と に な り、畠中さんは北浜では名物男でもあり、証券会 そのころに笹川〔良一〕会長と面識があったの か、誰かを通じて紹介してもらわれたのかは定か 営を任されたわけです。 営は君がやるか」とおっしゃって、畠中さんに経 れ以前に、そう積極的に関係されたわけではあり 笹川会長も買収を即断されました。笹川会長はそ か」と笹川会長に話をされたようです。そして、 ではありませんが、「岩井証券の株を買いません 大阪証券界の重鎮に聞く ―沖津嘉昭氏証券史談(上)― 川会長とご縁ができまして、モーターボート競走 会へ入りました。 沖津 私の妻は、笹川会長の妹さんの一人娘なの です。笹川会長は四人兄弟で、一番下が大阪日日 ――それはまたどういった経緯で…。 沖津 はい。 れていたかと思いますが…。 社される前に、モーターボート競走会にご勤務さ に、話題は変わりますが、沖津様は岩井証券に入 の 株 を 持 た れ た わ け で す ね。 分 か り ま し た。 次 ――なるほど。そういった経緯で、笹川家が御社 ん行っていました。ただ、当時、そのことが世間 沖津 そうです。モーターボート競走会は、あま り知られていませんでしたが、いいことをたくさ ――えぇ。朝の番組ですね。 という番組がありましたでしょう。 門で働いていました。例えば、「ズームイン朝」 社会福祉事業的な行事の担当とか、寄附をする部 沖 津 い ろ い ろ や り ま し た よ。 私 は 総 務 課 長 と か、事業課長とかをしまして、どちらかというと をしておられたのですか。 モーターボート競走会から 岩井証券へ 新聞の社主をされていた笹川了平さんで、三番目 に全然知られていませんでした。例えば、兵庫県 ――モーターボート競走会ではどのようなお仕事 に笹川ヨシコという方がいます。その一人娘が妻 の高室池にあった研修センターへ身寄りのない子 ― ― 96 です。そういう関係から、昭和四〇年代後半に笹 証券レビュー 第56巻第11号 協賛して下さっていましたので、宝塚の女優さん いて、水泳を教えていただいたり、宝塚歌劇団が のアスレチックセンターから指導者に来ていただ 乗って、一緒に遊ぶこともいたしましたし、八尾 あります。そこで、競艇選手がそのゴムボートに 高 室 池 の 研 修 セ ン タ ー に は、 七 コ ー ス の 公 認 プールと池があって、池にはゴムボートが置いて しました。 のだということを知っていただくために、一工夫 ターボート競走会は、こういうこともやっている 知っていただけなかったわけです。そこで、モー も、 そ う い う こ と を し て い る こ と を、 な か な か を招き、レクレーションなどをしていました。で とした通訳兼秘書、それからカメラマンに護衛役 また、時には、笹川会長が海外にいらっしゃる ときには、よく随行しまして、荷物持ち、ちょっ 加えたわけです。 のマスコミで取り上げていただけるよう、一工夫 ことは重要だと思います。ですので、テレビなど いことをしているわけですから、知っていただく 毎年、いろんなテレビ局が来るようになり、取り たが、私が担当するようになってからは、毎年、 た。それまで一切こういうことはありませんでし そうしましたら、「ズームイン朝」やNHKの ニュースが中継してくれまして、話題になりまし た。 ただいた中学生たちに楽しんでもらえるように、 したりもしました。こういうふうに、参加してい らず、一般の職員に対しても、そばでじっと立っ 「いろんな経験をしろ」という方でして、私に限 と、一人で五役くらいしていました。笹川会長は ― ― 97 上げていただけるようになりました。せっかくい と一緒にボートへ乗って遊んだり、一緒に水泳を 毎 年、 さ ま ざ ま な 企 画 を 一 生 懸 命 考 え て い ま し 大阪証券界の重鎮に聞く ―沖津嘉昭氏証券史談(上)― いろいろなことを学びました。 ているようなことは絶対許しませんでしたから、 は、政治経済のみならず世の中で起きたあらゆる ら、半官半民みたいな組織ですが、株価というの ―― モ ー タ ー ボ ー ト 競 走 会 に は い つ ま で い ら っ んな世界で働いてみたいなと思うようになりまし 先端を行く世界でしょう。ですから、私もぜひそ ことを反映しますし、証券業というのは時代の最 しゃったのですか。 た。 けれども、あるときに、笹川会長が岩井証券の実 ナーであることを存じ上げておりませんでした。 が、私は最初、笹川会長が岩井証券の実質的オー 沖津 先ほど笹川会長が海外にいらっしゃるとき に、私がお供をしていたことを少しお話しました どういった理由からなのでしょうか。 から岩井証券に移られるわけですね。それはまた ――そして、昭和五九年にモーターボート競走会 ませんでしょうか」と申し上げました。そうしま が、できましたらそちらで一度働かせていただけ は、 会 長 が 関 係 し て お ら れ る と お 聞 き し ま し た か」とおっしゃるので、私は「岩井証券というの しました。そうしますと、会長が「そうか、そう ので、「あります。ぜひ時代の最先端を行く世界 と、会長が「株に興味があるのか」とおっしゃる たまたま笹川会長とご一緒することがありまし た の で、 そ の と き に 笹 川 会 長 に 株 の 話 を し ま す ― ― 98 沖津 昭和五九年まで在籍しておりました。 質的オーナーだということを知りました。私が勤 すと、会長は「ああ、そうか、そうか。ふん、ふ で働いてみたいと思っています」という話をいた めていたモーターボート競走会は社団法人ですか 証券レビュー 第56巻第11号 おりますでしょうか」と聞きますと、笹川会長は 話に電話しまして、「会長、あの話はどうなって す。当時は携帯電話がありませんから、自動車電 ましたら、「今、車で移動中です」と言うわけで それで、今から思えば、よくやったなと思いま すが、秘書室に電話をかけて、「会長は」と聞き けですが、全然そうはならないわけですよ。 ので、私は近々、岩井証券に移れるなと思ったわ ん、ふん。分かった、分かった」とおっしゃった す。 やく岩井証券への転職を認めて下さったわけで たし、大阪へ来られたときもお話しまして、よう た。それでも諦めずに、会長へお電話いたしまし る け れ ど も、 そ れ 以 上 の 返 事 が あ り ま せ ん で し た。そのときも会長は「ふん、ふん」とおっしゃ で勉強させていただきたいので、岩井証券に行か 思っていますし、できましたら、一度、民間企業 ら、私も「いや、会長、私は証券業で働きたいと 会長は「ああ、あの話ね。君はモーターボート競 たときがあったので、笹川会長にお話しますと、 ら、大阪へ来られたときに、たまたま二人になれ 電話しました。それでも話が進みませんでしたか ら、笹川会長が移動中の自動車電話に、十何回も 券〕外務員試験を受けなさい」と言われました。 た。そして、入社すると、いきなり会社から「〔証 沖津 そうです。私が岩井証券に移ったのが四三 歳で、そのときにいただいた肩書が総務部付でし れたとお聞きしましたが…。 ――岩井証券では最初、総務部付からスタートさ ― ― 99 せていただけませんでしょうか」と申し上げまし 「おう、おう、考えとく、考えとく」とおっしゃっ 走会にいなさい」とおっしゃるわけです。ですか てくださいますが、全然話が進みません。ですか 大阪証券界の重鎮に聞く ―沖津嘉昭氏証券史談(上)― た。翌日、試 験日を聞かされたわ けですが、「一 ていなかったと言っても過言ではない状況でし は、社員の人柄はいいけれども、会社の体をなし おいてきちんとしていましたが、当時の岩井証券 おっしゃるわけです。ボートの世界は、すべてに す か 」 と 聞 き ま し た ら、「 調 べ て 答 え ま す 」 と 私が試験日を知らなかったので、「試験はいつで 運転手で、証券レディーに言われた場所まで連れ ディーが団地や各家庭にポスティングへ行く際の あ り ま し た が、 仕 事 は 二 つ で、 一 つ は 証 券 レ 沖津 そうです。次に、債券売買課の係長になり ました。ただ、債券売買課の係長という肩書では 課に移られたとお聞きしておりますが…。 されたのですね。試験に合格された後、債券売買 ――一週間ですか。それはまた、大変なご苦労を ― ― 100 週間後」とおっしゃるわけですね。 マンという安売りの文房具屋がありましたが、そ て行くだけです。もう一つは、当時、本町にイケ ――外務員試験が…。 と思うのですが…。 ――そのころ、東京営業所を支店へと昇格された 転機となった東京支店への転勤 こへ文房具を買いに行くことや、会社でコピーを 取ることなどをして二年間過ごしていました。 したが、満点近い成績で合格できましてね…。 本を四冊ほど一週間で丸暗記して、試験に臨みま 裁判権以外の一切の権限を有し…」とか、分厚い 券外務員の定義とは何か」とか、「外務員とは、 沖津 はい。今はパソコンで受けるそうですけれ ども、当時の外務員試験は記述式でしてね。「証 証券レビュー 第56巻第11号 兼務されたわけですが、加藤さんの他に東京支店 初から賛同しておられた加藤さんが、債券部長と ことになりました。東京支店長は、支店開設に最 たこともあり、最後は鶴の一声で東京支店を作る も、東京にも支店が必要じゃないかとお考えだっ 反 対 し て い ま し た が、 そ も そ も 前 川 さ ん ご 自 身 ました。前川さんは大蔵省OBの方で、みんなが おられるので、東京に支店を作ろうと言い出され で、歴史のある会社はみんな東京にお店を持って 沖津 そうですね。当時、取締役だった加藤さん が、当時の前川〔憲一〕社長の意思を代弁する形 だ入社から二年しか経っていない。しかし、当時 言われました。私は年齢こそ四四、五ですが、ま その後も加藤さんは、債券部の人にも「行って くれませんか」とおっしゃっていました。私にも というものはないのかなとさえ思いました。 るわけです。これを見て、私はこの会社には辞令 しゃるのですが、みんな聞こえないふりをしてい ら、誰か、行ってくれる者はいないかな」とおっ の自分の席でも、「誰も東京へ行く者がいないか ん」と言って、聞き入れない。加藤さんは債券部 くれるなら考えますが、そうでないなら行きませ 渉されますが、「私はムリです」とか、「私は行け 券会社に入った限りは、営業をしなければ、とい ました。それに、東京へ行くと営業ができる。証 ― ― 101 と同じくらいの広さのマンションを会社が借りて へ行く人がおりません。 をやっていてもしようがないなという思いもあり ませんよ」とか、誰もまったく相手にしませんで う思いもある。そこで、ちょっと考えてから、加 していた仕事を考えると、いつまでもこんなこと で す か ら、 加 藤 さ ん は 本 店 を グ ル ー ッ と 回 っ て、「あなた、東京へ行きませんか」と個々に交 した。私と 同い年の課長は、「今、住ん でいるの 大阪証券界の重鎮に聞く ―沖津嘉昭氏証券史談(上)― ら、「行ってくれますか」とおっしゃって…。 藤 さ ん に「 私 が 行 き ま し ょ う か 」 と 言 い ま し た 客を紹介してもらうために雇用した顧問の合計八 う現地で雇った女性二人と、債券ディーラー、顧 ました。先ほども言いましたように、加藤さんが と、もう一人、若い男性の三人で東京支店へ行き のつながっている人で、今でも梅田支店にいる人 沖津 そうです。当時、信州大学を卒業して、入 社したての岩井〔弥之〕君という、岩井一族と血 ね。 行って、その二年間の鬱憤を晴らすというか、た 常 に 悔 し い 思 い も し ま し た。 で す か ら、 東 京 へ きたのだろう」とか、こういう見方をされて、非 ちょっと格好悪いということで、こっちへ連れて ト の 世 界 に 在 籍 さ せ て お い た ら、 良 一 さ ん も とにかく大阪での二年間は、「あの男はボート で使い物にならないから、捨て扶持をこの会社で 人で、東京支店がスタートしたのです。 東京支店長でしたが、取締役債券部長との兼務で まっていたフラストレーションを仕事にぶつけま ――それで東京へ行かれることになったわけです すから、月の半分しか東京にはいらっしゃらない した。 ら、支店長に課長代理の私、それから大阪から一 と 名 乗 れ る よ う に し て い た だ き ま し た。 で す か の会員権を取得したのは、昭和六三年二月のこと いなかったですよね〔岩井証券が東京証券取引所 ――しかし、当時、御社は東証の会員権を持って ― ― 102 一生もらって過ごしていくのだろう」とか、「ボー わけです。だから、私が課長代理でしたが、それ 緒に東京へ来た二名の男性、そして営業事務を行 では恰好がつかないので、対外的には支店長代理 証券レビュー 第56巻第11号 沖津 当時、会員権は持っていませんでした。 であった〕。 でしたが、そういう話があるというのは、耳にし し、まだ入社したばかりなのでよく分かりません らっしゃったのだろうと思いますけれども、確証 たことがあります。たぶん、誰かが旗を振ってい ――どちらにつないでいらっしゃったのですか。 はありません。 ませんでしたね〔昭和五九年末に大阪の中堅証券 という話があったかと思いますが、あれは実現し 堅証券会社九社で、共同出資して会員権をとろう ――会員権をお持ちでなかったときに、大阪の中 りませんでした。海外へ行ったときに、隣のベッ 沖津 笹川会長は大変厳しい人でしたから、身内 だからという理由で特別な待遇をされることはあ うことはなかったのですか。 時代に笹川さんが何らかのサポートをされるとい ね。 九社(岩井、永和、須々木、大華、塚本、中井、 ド で 寝 た こ と も 良 く あ り ま す が、 そ の と き に、 ――不遇と言ってよいのか分かりませんが、大阪 中野、光、山源)で、共同出資して会社を作り、 「一本の木があるとする。風がまったく吹かない ところで育った木は、台風が来たら、すぐポロン そこに会員権を取得させて売買を取り次ぐ構想が あった〕。 えている木は、倒れないように根を張っていく。 と倒れるけれども、絶えず強風が吹くところに生 沖 津 結 局、 あ れ は 立 ち 消 え に な っ た と 思 い ま す。私はそのころ、経営者ではありませんでした ― ― 103 沖 津 丸 三 証 券、 丸 國 証 券、 協 立 証 券 と か で す 大阪証券界の重鎮に聞く ―沖津嘉昭氏証券史談(上)― 悔しかったら、這い上がってきなさいというお考 は、その人はそこまでの人間、という考えです。 まダメになってしまった場合、笹川会長のお考え たときに、そこでへこたれてしまったり、そのま と言われたこともあります。もし、何かで失敗し える。そういう人間にならなければならないよ」 だから、大きい台風が来ても、ちゃんと持ちこた けていました。ですから、東京にいましたけれど 勧誘したり、名古屋にも営業へ行って、注文を受 くて困りました。最初は大阪にいた友人に投資を らいでした。ですから、本当にお客様のアテがな 然、東京ではボート関係の人を一部知っているく 沖津 東京には私もボートの仕事のときに、何度 か 出 張 で 来 た こ と が あ る く ら い で し た か ら、 当 の開拓をされたのでしょうか。 わけですから、東京に進出しても当然顧客はいな が、岩井証券は泉州地域を主たる地盤としていた ―― な る ほ ど。 東 京 に い ら っ し ゃ っ た わ け で す 強するところがある。そこを紹介するので、一度 ら、民間の会社で、中小企業の経営者を集めて勉 た い と 相 談 し ま し た。 そ う し ま す と、 そ の 方 か しかし、これでは東京でのお客さんの開拓には つながりませんから、ある人に、お客さんを作り ― ― 104 えでしたからね。 も、ほとんどは東京以外のお客さんからの遠隔地 かったと思います。しかし、沖津様は東京へ異動 行ってごらんと薦めてくださいました。それで、 取引でした。 後、しばらくすると営業成績トップを連続して取 そこへ電話をしていただいて、代表の方に「東京 営業トップとなった顧客開拓方法 られたと聞いております。どのようにして、顧客 証券レビュー 第56巻第11号 位、三位と続き、一二月以降、平成三年一〇月ま 翌月以降、東京支店の営業成績は五位、三位、五 所は、昭和六一年七月に東京支店へ昇格したが、 八月に、東京支店が五位になりました〔東京営業 こ う し て お 客 様 作 り に 励 ん だ こ と も あ り、 当 時、当社には一四店舗ありましたが、昭和六一年 きました。 にちは、こんにちは」と、一生懸命食い込んでい いい」とおっしゃっていただいて、必死に「こん 制度があるから、ゲストとして会合に出てきたら ら、「会員にはできないけれども、ゲストという に お 客 さ ん も い ま せ ん の で …」 と お 話 し ま し た く さ せ て い た だ く よ う に な り ま し た。 加 瀬 さ ん その会合があるたびに、ゲストで参加させてい ただくうちに、外交評論家の加瀬英明さんと親し 由にさせてもらいました。 外へ出たら戦場で戦うという考えでしたので、自 銭的なことをグチグチ言うタイプではなく、男は 方でしたので、腹を決めて参加していました。大 とを言うのは、男としてのプライドがという考え 社はお金を出してくれません。でも、そういうこ ところが、参加するには参加費が必要ですが、会 サークルがあり、その会合へ始終出席しました。 何百人もいて、株式投資研究会とか、いろいろな ――その会合というのは、同友会やロータリーク 交えて、夜の食事もよく一緒に行くようになりま が、この会合を主催していた団体の代表者の方を ― ― 105 した預貯金もありませんでしたけれども、妻は金 で一位を維持したとされる〕。 ラブみたいなものとは違うのですか。 し た。 そ ん な こ と が あ っ て、 仲 よ く な っ た 段 階 は、あまりお酒をお飲みになる方じゃありません 沖津 民間の会社でした。その会合には、会員が 大阪証券界の重鎮に聞く ―沖津嘉昭氏証券史談(上)― さんを知っているか」とおっしゃるので、「存じ 度は地産の竹井さんが、「武富士の武井〔保雄〕 注文下さいますし、それだけじゃないのです。今 す。何十万株単位、ときには一〇〇万株単位でご だ く よ う に な り ま し た が、 ロ ッ ト が 全 然 違 い ま いうご縁で竹井さんと親しくなって、注文をいた します」と言って、ご紹介いただきました。こう 「紹介しましょうか」とおっしゃるので、「お願い で、「いや、存 じ上げません」と答 えましたら、 そのうち加瀬さんが、「沖津さん、地産の竹井 〔博友〕さんを知っているか」とおっしゃるの 取引をしてくださるようになりました。 取引ではありませんでしたが、お付き合い程度に に高い成績を上げることができたと思います。 わいがっていただけたからこそ、東京支店は非常 し、加瀬さんをはじめとする皆さんと出会い、か バブル経済という追い風も吹いていました。しか もちろん、自分自身も一生懸命努力しましたし、 ら、今日ここまでは来られなかったと思います。 た。もし、私が大阪の営業店に配属されていたな 的 な 差 を つ け て、 ず っ と 一 位 を 維 持 し て い ま し が東京支店から大阪へ戻るまで、二位以下に圧倒 全店で一位になり、それから平成三年一〇月に私 引いただいた結果、昭和六一年末には営業成績が したが、バブル期ですから、発注のロットももの そこから、たくさんの実業家の方と知り合いま した。当時は、どの会社も株式投資をされていま で、ちょっと私もということで、そんなに大きな 上げません」と申しましたら、「ご紹介しましょ ― ― 106 すごく大きいわけですよ。こうして、活発にお取 うか」とおっしゃって下さって、武井さんをご紹 しかし、当時の岩井証券の社員は最初、笹川会 長に注文を流してもらっているのだろうというふ 介下さいました。 証券レビュー 第56巻第11号 ていきました。 れるようになって、いつの間にかそんな噂は消え 川会長の支援などは受けていないようだと評価さ すだけです。そうして、社内の噂もだんだんと笹 かっていますから、お願いに行っても信用をなく 人前になれないとお考えになっているのはよく分 な工夫をして顧客を開拓するくらいでないと、一 泥水を飲みながらでも、町を歩きながら、いろん ちらも笹川会長が、自分で苦しんで、苦しんで、 甘い男だったのか」と判断されてしまいます。こ 行っても、 その時点で、「依頼心が ある、こんな 一株もありません。もし、私が笹川会長に頼みに うに見ていたようですが、もちろんそんな注文は かったので、社長にとっては「おお、こんな社員 の こ と で す が、 そ れ が 他 の 支 店 で は で き て い な どうぞ」とお迎えしていました。これは当たり前 せんでしたので、ビックリいたしました。さぁ、 ませ。社長がいらっしゃることを全然存じ上げま ようです。ところが、東京支店は「いらっしゃい あ、社長かあ」という感じで、挨拶もしなかった じ で す し、 社 長 が 来 て い る と 分 か っ て も、「 あ 長が支店へ行っても、誰か来てるのかなという感 う言葉を作られました。というのは、当時は、社 いらっしゃったのですが、この方が東京留学とい 省のキャリア組の方で、名古屋税関長から当社に 治〕さんが社長に就任されました。この方も大蔵 うですね。 ――当時、東京留学という言葉が社内にあったよ 東京支店の見学を命じられました。そのことを東 三洋証券のディーリングルームの見学とともに、 京へ行って、勉強しなさい」と言って、取引所や もいるのだな」と感じられて、「支店長は全員東 沖 津 当 時、 前 川 さ ん の 後 任 社 長 に、 山 田〔 久 大阪証券界の重鎮に聞く ―沖津嘉昭氏証券史談(上)― ― ― 107 京留学とおっしゃっていました。以来、たくさん は選挙が終わったところですし、国会も会期中で スプリングスへ行かれました。そのとき、海部さん なときに行くのかなと思っていましたので、どう 体も疲れていたと思います。だから、どうしてこん の支店長が東京支店の見学に来ました。 バブルの人為的崩壊と感じた異変 議院議員総選挙〕がありましたが、その選挙で自 に総選挙〔平成二年二月一八日実施の第三九回衆 しいと思いました。海部総理が就任されて、翌年 うどそのころ、私は株価の動きが異常だと、おか 沖津 日経平均〔株価〕が平成元年の一二月に頂 点を打ち、平成二年から下落に転じますが、ちょ とがあったという話をお聞きしましたが…。 題は変わりますが、バブル経済に異変を感じたこ り、アメリカと日本は日米貿易摩擦など、経済面 い う こ と だ ろ う と 仮 説 を 立 て て み ま し た。 つ ま ちょっと考えて、ブッシュさんの言い分は、こう こ れ は 本 旨 で は な い と 思 い ま し た。 そ れ で、 とが書いてあるのみでした。私はこれを読んで、 の問題も、「お互いの立場を尊重する」と同じこ 衡問題については、「お互いの立場を尊重して解 当時、日米間の貿易不均衡が問題になっていた わけですが、発表された共同声明には、貿易不均 いう共同声明が出るかを楽しみにしていました。 民 党 が 大 勝 し ま し た。 そ し て、 選 挙 に 大 勝 し た で課題を抱えているけれども、アメリカは日本の ― ― 108 ――なるほど。そういうことだったのですね。話 後、国会の会期中であるにもかかわらず、海部さ 選挙期間中、選挙への影響を避けるため、日米構 決に当たる」と書かれていました。そして、為替 んはパパブッシュと会談するため、週末にパーム 証券レビュー 第56巻第11号 が高まっている。しかし、日本の地価や株価の上 まで買収したので、アメリカの日本に対する不満 フェラーセンタービルやMGM、コロンビア映画 フランシスコやロスの高層ビル、さらにはロック 方、ジャパンマネーが、ハワイのホテルや、サン 造 協 議 や 為 替 の 問 題 を 一 切 口 に し な か っ た。 一 対する脅威が高まった〕。 た。これに対し、アメリカではジャパンマネーに 映画を、平成二年には松下電器がMCAを買収し 購入した。また、平成元年にソニーがコロンビア ンター、ゴルフ場、ホテルなどを記録的な価格で ホテルやカリフォルニアのビルやショッピングセ 不動産会社による派手な金融取引や、不動産取引 〔バブル経済真っ只中のころ、日本の金融機関や て、ハンマーで叩き壊したりしていたでしょう。 た。というのは、当時、トヨタの車の屋根に乗っ う。 ま ぁ、 大 凡 こ う い う こ と だ っ た と 思 い ま し なっていました。当時、山手線の内側の土地代だ し た。 こ れ を 見 る と、 ロ ス の 中 心 地 が 真 っ 黒 に ネーが買収したビルに黒い丸印をつけた絵が出ま 沖津 あったでしょう。それに、当時、NHK特 集で見ましたが、ロスの中心地にあるジャパンマ ――デトロイトでね…。 れた雑誌も販売されるくらい、地価が高騰してい が世界的に話題となっていた。昭和六一年には第 平成元年には三菱地所がロックフェラーセンター たでしょう。それに、アメリカの有名雑誌でも、 けで、アメリカ全土が買えるという記事が掲載さ にあった一四棟のビルを買収し、このほかにも麻 太平洋戦争にアメリカは勝利したけれども、今の 一不動産がニューヨークのティファニービルを、 布建物や秀和、コスモワールドなどが、ハワイの ― ― 109 昇を抑えれば、ジャパンマネーを抑制できるだろ 大阪証券界の重鎮に聞く ―沖津嘉昭氏証券史談(上)― 三 重 野 日 銀 総 裁 を 呼 ん で、 金 融 引 き 締 め を 指 示 考えました。そして、海部首相は日本に帰国後、 そういう状況でしたので、海部首相とブッシュ 大統領の間で、日本の金融引き締めに合意したと いうような記事が出ていました。 日米経済戦争では、完全に日本に敗北していると です。こういうことを何回もやっていました。 な二二五に組み込まれている品薄の銘柄を買うの す。それで株価が急激に下がると、また同じよう 経平均先物が上がりますよね。そして、先物が上 先物で一斉に買い出したのです。そうすると、日 がると、今度は外資系が一斉に売りに転じたので し、大蔵省にも地価対策をするように指示したの した。というのは、その前の年の年末に日経平均 たのかと思いました。株価も異常だと思っていま 沖津 総量規制を入れたでしょう。そのときに、 あぁやっぱりこれが日米首脳会談の真の目的だっ ――総量規制を入れましたね。 し、証券各社は黒字でした。ところが、平成三年 売りとかがありますから、手数料も入ってきます わけです。平成二年度は、まだお客さんの投げの も株価も急激に下がり、バブルの崩壊が始まった た。 そ う し た ら、 金 融 引 き 締 め が さ れ た わ け で ― ― 110 私は異常だと思いました。そこで、この外資系 の動きは、一体どういう意味があるのかな、何か が史上最高値をつけましたが、そのときに外資系 度に入ると取引が止まって、証券会社はみんな赤 政策の転換があるのではないかと思って考えまし 証券が、横浜松坂屋、合同酒精、その他にも品薄 字だと大騒ぎし始めました。そのとき業界の皆さ す。総量規制と金融引き締めにより、不動産価格 な銘柄で、日経二二五に組み込まれている銘柄を ではないかと考えました。 証券レビュー 第56巻第11号 できるものではないということです。下手をする とは、これは普通の四年周期の景気循環論で解決 らよくなるよ」とも…。しかし、私が感じた異変 ら、今は苦しいけれども、あと二、三年頑張った の で す。 だ か ら、「 四 年 ぐ ら い で 周 期 が 来 る か んは、「これは景気循環の一環だ」とおっしゃる しながら、彼らの思っていることを聞き、私の考 ションを回って、ポケットマネーを出して食事を ことを全然知りませんので、業務本部内の各セク し、また業務本部の中の各セクションの人たちの ので、土日も出てきて経理などの勉強をしました 括するわけですね。ただ、私は営業しか知らない が、業務本部長は営業以外のほとんどの部署を統 え方を話しました。さらに、各支店でも同様のこ とをして、お互いに打ち解けて話ができる関係を 築いていきました。 ― ― 111 と、岩井証券は倒産すると思いました。 全員参加型経営と ディスクロージャー なものと思っていましたので、四年ほど我慢すれ 私は、先ほどお話したように、バブルの崩壊は 従来の景気循環論にもとづくものではなく人為的 ⑴ 部店別損益計算書の作成とその公開 ――なるほど。単なる景気循環ではなく、国際的 各部署との話し合いの場で、今度の不況は普通の ば解決するとは思えませんでした。そこで、私は じられたわけですね。 なの会社だ。私は全員参加型経営をやっていく。 不況と違う。この会社は誰の会社でもない。みん 沖津 そうです。私は、平成三年一〇月に大阪へ 戻りまして、常務取締役業務本部長になりました な経済摩擦などを背景にした人為的なものだと感 大阪証券界の重鎮に聞く ―沖津嘉昭氏証券史談(上)― 全員で考えなければならないと話しました。 全員参加型経営であるのだから、この不況対策も 員が「決算のときにしか、損益が分からないので が、企画部の社員にヒアリングした際に、ある社 ガラス張り経営をするためには、会社の財務内容 で、ガラス張り経営をする必要があるわけです。 な り ま せ ん。 そ の た め に は、 言 葉 だ け で は ダ メ は、社員全員に会社の内容を見てもらわなければ 沖津 そうです。まず、「 部店別損益計算 書」を 作 成 し た の で す が、 全 員 参 加 型 経 営 と い う こ と と思うのですが…。 益計算書の作成、公表に始まる全員参加型経営だ が、沖津様の経営手法の特徴の一つが、部店別損 したが、事前に御社について少し勉強したのです ――全員参加型経営というキーワードが出てきま 基準にしたがって、中科目ごとにすべてオープン は、役員報酬も、交際費なども証券業の統一経理 が、 そ れ は こ の 作 業 を し て い た わ け で す。 費 用 て、 経 理 の 勉 強 を し て い た こ と を お 話 し ま し た 先ほど、業務本部長になってから、土日も出社し の月次決算の内容をすべてオープンにしました。 当時、ディスクロージャーという言葉がものす ごく流行っていましたから、これは絶対必要だと は「これだ」と思いました。 握できるような資料を作っていたようでした。私 ました。そして、彼は人知れず、部店別損益を把 にしました。また、取引所・協会費や支店ごとに ― ― 112 は、経営とは言えないのではないか」と言ってき を全部オープンにしなければなりません。 どんな費用を使ったかもすべてオープンにしまし 思いました。ですから、彼と二人で毎月、各部店 先ほど、業務本部長に就任後、各セクションの 社員からヒアリングをしたという話をしました 証券レビュー 第56巻第11号 と言うのは酷な話だから、みんなでコストを削減 日、毎日、株が暴落していく状況で、稼げ、稼げ がって、稼ぐことも大切だけれども、これだけ毎 その一方で、管理職会議が月一回ありますが、 その席でも、「これは普通の不況とは違う。した た。 縮した〕。 た結果、販売費、一般管理費を五年間で半額に圧 カットできたかも開示された。これらを積み重ね すべて開示され、その結果、どれだけのコストが もコスト削減策を募った。また、出された意見は 社の赤字額は大幅に減り始めていました〔岩井証 い」と言いまして、管理職手当も一〇%カットし ト し た の で す。 次 に、「 管 理 職 も 協 力 し て ほ し 要があるとお考えになったわけですね。 をオープンにして、会社の実情を知ってもらう必 ⑵ 取締役会社員傍聴制度の創設 ――ガラス張りの経営をするには、まず経理内容 券では、不況対策を考案するに当たり、社員から して、帳尻を合わせるべきだ」ということを主張 ま し た。 こ う し て、 経 営 ト ッ プ が 範 を 示 す 一 方 る一方で、経営トップも、役員報酬を五〇%カッ で、社員に様々なアイディアを出してもらい、そ 沖津 そうです。こうして全員参加型経営に向け た布石を打っていくわけですが、その過程で平成 はぐっと下がり、同業他社が赤字だ、「今度はい を第四次までやりました。これで、当社のコスト 長に就任しますと、全員参加型経営を標榜して、 成七年に五五歳で社長に就任します。そして、社 三年に常務、さらに平成五年に専務へ昇進し、平 れを一つ、一つ進めていきました。そういうこと つもの不況とは違う」と言い出したころには、当 ― ― 113 しました。そして、社員にもコスト削減策を求め 大阪証券界の重鎮に聞く ―沖津嘉昭氏証券史談(上)― ど、控え目に点数をつけますから、完全な自己採 と こ ろ が、 よ く 頑 張 っ て い る 自 分 に 厳 し い 人 ほ 次に、人事考課の「自己採点制度」を行いまし た。これは人事考課を各個人が自己採点します。 度ですが、相当話題になりました。 ました。これは、取締役会を社員に傍聴させる制 ということで、「取締役会社員傍聴制度」を設け ず、会社の意思決定プロセスをオープンにしよう さらにガラス張り経営を推進していきました。ま かく北浜の記事は、ほとんどが当社のものでした。 にも取り上げてもらいました。あのころは、とに 新聞記事に取り上げてもらいましたし、テレビ局 が、そうしたこともあって、これらの施策は全部 し た。 そ う し ま し た ら、 当 時、 デ ィ ス ク ロ ー スとか、人事考課をすべてオープンにしていきま えで部店別損益の可視化、最高意思決定のプロセ して社員にも経営に参加してもらう。こういう考 した。つまり、社員に情報をオープンにして、そ ※ 本稿は、二上季代司、小林和子、深見泰孝が 参加し、平成二八年三月四日に実施されたヒア リングの内容をまとめたものである。文責は当 研究所にある。 ※ なお、括弧内は日本証券史資料編纂室が補足 した内容である。 ― ― 114 ジャーという言葉が流行っていたとお話しました 点ではなく、自己採点を社員にさせる一方で、上 の三本柱、ガラス張り経営の三本柱と位置付けま 点を取り入れた人事考課制度を、全員参加型経営 今、お話しました三つの施策、つまり部店別損 益計算書の作成、取締役会社員傍聴制度、自己採 ました。 合って、最終的な評価を決めるという制度に改め 司もその職員の評価をして、お互いの評価を見せ 証券レビュー 第56巻第11号 大阪証券界の重鎮に聞く ―沖津嘉昭氏証券史談(上)― 沖 津 嘉 昭 氏 略 歴 昭和16年1月23日 大阪府出身 昭和48年3月 同志社大学大学院卒業 昭和59年8月 岩井証券株式会社入社 平成2年6月 同社取締役 平成3年6月 同社常務取締役 平成5年6月 同社専務取締役 平成7年6月 同社代表取締役社長 平成14年7月 日本証券業協会大阪地区評議員会評議員(~平成16年6月) 平成20年7月 同協会大阪地区協会会長(~平成24年6月) 平成20年7月 同協会地区評議会副議長(~平成21年6月) 平成20年7月 同協会金融・証券教育広報委員会委員(~平成23年6月) 平成20年7月 同協会証券戦略会議会員委員(~平成24年6月) 平成20年7月 同協会リテール証券評議会幹事会幹事(~平成24年6月) 平成21年7月 同協会地区評議会議長(~平成23年6月) 平成22年4月 コスモ証券株式会社取締役会長(~平成24年4月) 平成22年7月 日本証券業協会リテール証券評議会幹事(~現在) 平成24年5月 岩井コスモ証券株式会社代表取締役社長(~平成28年10月) 平成25年7月 日本証券業協会インターネット証券評議会委員(~平成26年6月) 平成28年11月 岩井コスモ証券株式会社代表取締役会長(~現在) <受章> 平成24年11月 旭日双光章 ― ― 115
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