地場証券界の歴史を聞く - 日本証券経済研究所

地場証券界の歴史を聞く
業務への注力、外資系、さわかみファンドとの販
創業者の経営理念が、地域密着路線の採用や債券
英敏氏のオーラルヒストリーである。前号では、
今号の証券史談は、前号に引き続き、ひろぎん
ウツミ屋証券の打海啓次氏、ウツミ屋証券の打海
立したものの、出資は証券会社と地方銀行が折半
会社の営業部門を会社分割により別会社化して設
の方が過半数以上を占める会社(五社)、③証券
別会社化して設立。そして、その出資比率は銀行
社(五社)、②証券会社の支店を会社分割により
―打海啓次氏、打海英敏氏証券史談(下)―
売提携を可能にさせたというお話を中心に掲載し
した会社(一社)、④銀行が全額出資して設立し
を買収し、完全子会社化もしくは子会社化した会
た。
地銀系証券一五社のうち、一四社は①、②、④
に分類され、これらの会社では、銀行が経営の主
た会社(四社)、に分類できる。
話題の中心となる。現在、地銀系証券は全国に一
導権を握っているところに特徴がある。他方、ひ
今号ではまず、平成二〇年に広島銀行との合弁
によって設立された「ひろぎんウツミ屋証券」が
五社存在する。この一五社は、①銀行が地場証券
― ―
132
た。また、第四の関心は、リテール証券ビジネス
が な い の か。 こ れ が 筆 者 ら の 第 三 の 関 心 で あ っ
ミ屋証券」であるからこそ、他社とは異なる課題
のか。そして、銀行主導ではない「ひろぎんウツ
で「ひろぎんウツミ屋証券」を設立するに至った
良とされたウツミ屋証券が、なぜ広島銀行と合弁
務的には優良な地場証券であった。財務的には優
も逼迫した状況には決してなかった。むしろ、財
来、連続して経常黒字を計上しており、財務的に
指摘したが、ウツミ屋証券は昭和四三年九月期以
ろぎんウツミ屋証券は③に分類される。前号でも
みについてもお聞きしている。
る。その他、証券恐慌以後の広島証券界の取り組
を画していたように思われる。それはなぜかであ
考えられるが、ウツミ屋証券は業界再編とは一線
中核になって、再編を主導することもできたかと
採っている。そうであるならば、そうした再編の
に 広 島、 山 口 を 中 心 に 集 中 的 に 出 店 す る 戦 略 を
また、後者では、ウツミ屋証券は、地域密着を旨
所の取り組みについて、お話をお聞きしている。
切ったわけだが、そこに至るまでの広島証券取引
成に入ってからの地方証券取引所再編の口火を
聞きしている。前者に関しては、この合併が、平
⑴ 地区別管理か、規模別管理か
――ちょっと時期が前後しますけれども、御社は
営業組織の管理手法の変遷
を「ひろぎんウツミ屋証券」に移管した後の、ウ
所との合併と、地場証券の再編を中心にお話をお
次に中国地方の証券業界の歴史についてお聞き
している。特に、広島証券取引所と東京証券取引
のかである。
ツミ屋証券はどのような商売をしようとしている
地場証券界の歴史を聞く ―打海啓次氏、打海英敏氏証券史談(下)―
― ―
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すか。
打海(啓) 対面とコールとネットということで
業網を三つに分けて管理されていますよね。
カンパニー制と対面営業に分けて、対面営業は営
か、「西のほうは西のほうで固めて管理しましょ
す ね。 そ う い う や り 方 を 止 め て、 地 区 制 と い う
り、福山に電話したりしなければいけないわけで
さかったとしますとね、責任者が山口に電話した
――それは専ら管理の仕方の面だけですか。
う」という考えでやっているんです。
は、店舗を三つのブロックに分けて管理されてい
ないんですか。
打海(啓) そうです。店 舗の規模に応じて A、
B、C、Dと分けていたんですね。ところが、例
担当者が銘柄を選んだり、商品を選んだりしてい
たり、銘柄も違います。本部制ですから、そこの
― ―
134
――そうです。それで、しかも、対面営業のほう
ますよね。それはどういう考えで始められたんで
しょう。つまり、対面営業を東部、広島、西部と
いうふうに分けておられますけれども…。
打海(啓) 昔は規模ごとに分けていたんですよ。
えば山口県に五店舗あったとしますよね。そのう
ますからね。
打海(啓)
それは違ってもいいんですよ。西部
地区なら西部地区で、自分の好きな投信を販売し
ちの二店舗は規模が大きくて、三店舗の規模が小
――お店の規模でですね。そうですか。
――取り扱う商品が違うとか、そういうことでは
打 海( 啓 ) そ う で す ね。 そ れ は、 経 営 戦 略、 営
業戦略の面もありますよ。
証券レビュー 第56巻第1号
打海(啓)
人事もそうですね。支店長から地区
本部長へ上げて、それを営業本部でよく検討、判
――人事権も含めてですか。
打海(啓) 権限はかなり強いです。
――じゃあ、地区本部長の権限は…。
打 海( 啓 ) そ う な ん で す。 西 は 西 で 固 ま っ て
やってくださいと…。
――地区制のほうが管理しやすい。
よいということで…。
思っていたんですけれども、結局、地区制の方が
⑵ ディーリングの積極化とカンパニー制の導入
――ネット取引を始められた前後に、カンパニー
――先ほどおっしゃっていた規模に応じて分ける
対面営業とか…。
打海(英)
そういうことは、どこの証券会社も
やっていたんじゃないですか。
というやり方は、御社が初めてされたと聞いたん
打海(啓) それは給与体系の面ですよね。ディー
リングでうちはかなり稼ぎましたけれども、給与
制を採られますよね。つまり、ネット、コール、
ですけれども、それは理由は…。
ディーラーが引き抜かれますから。
――それでカンパニー制。
体 系 を 普 通 の 営 業 マ ン と 同 じ に し て い た ら、
打海(啓) やっぱり規模が同じだと共通点があ
りますよね。例えば呉と福山と徳山とかというの
は、大体人数も同じぐらいの店舗なんですね。だ
か ら、 商 品 も 同 じ よ う に な る ん じ ゃ な い か な と
― ―
135
断をしていくことにしております。
地場証券界の歴史を聞く ―打海啓次氏、打海英敏氏証券史談(下)―
打海(啓)
それが一番の理由ですね。ディーリ
ングカンパニーが稼いだら、その分だけ返してや
――ああ、なるほど。先物と…。
――それでディーリングが。
打海(啓) 先物と現物の…。
ニーで物を考えて、その中で返していこうと…。
打海(啓) それでディーリングがかなり大きく
なってきて、それでその後のロングショートがあ
ら な い と い け ま せ ん か ら ね。 だ か ら、 各 カ ン パ
――なるほど。ディーリングのビジネスが大きく
りましたでしょ。
料自由化をにらんでということですか。
打海(啓)
カンパニー制を敷いて、ディーラー
の給料を上げたと…。そうでなかったら、引き抜
――ディーリングの面で…。
打海(啓) それは関係ないです。
関係なくて…。
――そうすると、必ずしもネット取引の開始とは
なったというのは、いつぐらいからなんですか。
打海(啓) 平成になってからですね。
――御社としては、ディーリングに力を入れられ
打海(啓)
それもありましたけれども、当時は
単純な裁定取引、要するに、先物と現物の裁定が
かれますから。
たり、カンパニー制を採られたりしたのは、手数
すごく儲かった時代で…。
― ―
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バブル経済が終わってからですか。
証券レビュー 第56巻第1号
ですね。
いました。それはそういう配分をされたからなん
社長さんよりも給料が多かったという記事が出て
ていたんですが、そうすると三二歳の社員の方が
――ああ、そうですか。事前に御社のことを調べ
きのカンパニー制とは全然違います。
うことで、事業分野を分けた方がよかろうという
ツミ屋証券はどういうふうに経営していくかとい
打海(英)
それは、現在のウツミ屋証券のこと
ですね。ひろぎんウツミ屋証券を作るときに、ウ
打海(啓) それは今のウツミ屋証券のほうです。
ことで、そのように分けたわけですから、このと
打 海( 啓 ) そ う で す。 だ か ら、 ボ ー ナ ス な ど、
けっこう出しておりました。しかし、それはやっ
ね。
――平成二〇年にひろぎんウツミ屋証券が作られ
他の地銀系証券とは異なる
成り立ちのひろぎんウツミ屋証券
もネットもという形で…。
て、営業部門をそちらへ移されますよね。そもそ
――それがあるんで、じゃあ、対面営業もコール
打海(啓) そうです。
――金融カンパニーとか、不動産カンパニーとか
十分やっていけたと思いますけれども…。
も広島銀行と組まれたのはなぜですか。単独でも
は…。
打海(啓)
地元の銀行と地元の証券が、どうお
客様にサービスが出来るか。お客様のニーズに対
打海(英) それは違いますね。
― ―
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ぱりカンパニー制度にしないと出せませんので
地場証券界の歴史を聞く ―打海啓次氏、打海英敏氏証券史談(下)―
円もっていないと、将来、無理だなということが
やっぱり、証券金融業としては預かり資産を一兆
ということを考えた地域証券のチャレンジです。
を「銀証」として特色のある提案ができないか、
いう大きな枠組みの中で、自分の財産の活かし方
のは、大きなテーマです。でも、お客様に金融と
券銀行」の文化をいかにして作り上げるかという
それぞれの「文化」の違いもありますから、「証
きか、銀行はどうあるべきかを考えたんですね。
応していけるか。そのために証券はいかにあるべ
て…。
とっては一番便利で、いいんじゃないかなと思っ
株 も 資 産 運 用 も で き る と い う の が、 お 客 さ ん に
とが、まず頭にあったんですよね。そうすると、
トップサービスを提供すべきじゃないかというこ
ら れ る の か と い う こ と と、 金 融 自 由 化 で ワ ン ス
じゃあ、うちだけでそれだけの預かり資産を集め
打海(啓)
証券業としては、預かり資産一兆円
が や っ ぱ り ミ ニ マ ム の 数 字 だ と 思 う ん で す ね。
――預かり資産が一兆円は欲しいと…。
――じゃあ、預かり資産を一兆円ぐらい集めるた
――当時、たしか預かり資産が六、〇〇〇億円ぐ
すね。
めには、銀行顧客の紹介をとりたいということで
らいですよね。
ども…。
打海(啓)
今は七、四三二億円ぐらいですけれ
打海(啓) そうですね。 それも、一つの方法で
すからね。
いうことも考えた結果なんです。
頭にありまして、客層をいかに増やしていくかと
証券レビュー 第56巻第1号
― ―
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――ひろぎんウツミ屋証券にウツミ屋証券から移
打海(啓) そうですね。
の現物出資ですね。
――ひろぎんの方は金銭出資ですね。
されたのは、コールとネットと対面営業の三つと
打海(啓) ええ。
打海(啓) そうです。
――これは全国的に見ましても、地銀系証券の中
――さっきお話した金融部門とか不動産部門は、
ウツミ屋証券本体にあるわけですね。
ではかなり特異な会社の成り立ちだと思うんです
――御社の場合は違いますよね。
打海(啓) それは救済型ですね。
ね。大体地銀が上に立って、証券が…。
打海(英) あとディーリングですね。
――あっ、ディーリングですね。なるほど。ひろ
五〇%ということですが、御社が出された五〇%
ぎんウツミ屋証券に対する両社の出資は五〇%、
は現物出資と考えていいんですか。
――地域で強大化するということですね。
一緒になったわけですから…。
打海(啓) 別に救済される必要のない財務内容
でしたからね。むしろ、夢を追いかけるために、
打海(啓) そうです。現 物出資です。営業権 や
人材などですね。
――人材出資ですか。なるほど。じゃあ、営業権
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考えていいですか。
地場証券界の歴史を聞く ―打海啓次氏、打海英敏氏証券史談(下)―
ないわけですか。
打 海( 啓 ) そ れ は な い で す ね。 使 っ て い る の
は、ウツミ屋証券の不動産を支店に使っています
打海(啓)
そうですね。強大化にするとかじゃ
なくて、お客様のニーズがあってのことです。ど
ち ら に 行 っ て も、 何 で も 買 え る 方 が 便 利 で す よ
けれども…。
――不動産ね。
ね。投信はリスク追求と低リスクで、今は分けて
いますけれども、株の注文はひろぎんウツミ屋証
券を使ってもらいたいということですね。
は、ウツミ屋証券がやっていらっしゃるわけです
ミ 屋 証 券 が で き た と き、 広 島 銀 行 に も 地 域 の 中
打海(英) ですから、ウ ツミ屋証券は、大家 さ
んでもあるんですね。平成二〇年にひろぎんウツ
打海(啓) はい。
ね。
たいということがあったのではないでしょうか。
で、お客様のニーズと、それから、お客様を広げ
打海(啓) はい。ウツミ 屋証券が、東証の会 員
権を持っておりますから。
を集めていたじゃないですか。ですから、両社が
当社も地域密着を経営理念として、地域でお客様
――一〇〇%されているわけですね。
手を取り合えば、理想的なものになると考えたわ
んです。
けです。他の地銀系証券と違うのはそこだと思う
打海(英) もちろん、そうです。
――ほかに大手の支店などは使っていらっしゃら
― ―
140
――もちろん、ひろぎんウツミ屋証券の株の発注
証券レビュー 第56巻第1号
て、「信用第 一、親切第一」をモッ トーに、産業
いるんですね。ですから、地域経済の発展を願っ
当社は地元に貢献することこそが使命だと考えて
証券銀行ということを考えていました。つまり、
域で金融サービスを提供するかという…。先代も
けれども、これは、何回も言うように、当社が
地域密着を経営理念としていて、どうしてこの地
は独特のパターンだと思うんですね。
つかのパターンに分かれていますけれども、当社
ね。地銀系証券というのは、そういうふうにいく
ら中国銀行と津山証券のような救済型があります
んで作ったりしている会社もありますし、それか
地銀系証券の中には、東海東京のように、もと
もと証券会社の支店があったところへ、地銀と組
くなったものですか。
ウツミ屋証券を作られてからは、投信は売りやす
すけれども、御社でも広島銀行と合弁でひろぎん
が始まってから、投信の販売が伸びたと言われま
――分かりました。他方で、よく銀行で投信窓販
す。
〇%のひろぎんウツミ屋証券を作るに至るわけで
考 え ま し て、 広 島 銀 行 五 〇 % と ウ ツ ミ 屋 証 券 五
窓口を多く持っている方がお客様のためになると
も、銀行に比べれば比較になりません。それで、
中心に店舗網を充実させてきていましたけれど
社はそうではありませんね。当社も広島、山口を
― ―
141
が、銀行はたくさん店舗をもっています。証券会
資金の調達とお客様の財産形成をお手伝いしてき
打海(啓) やっぱり銀行からの紹介客が来まし
たから…。
当社も地域密着ということでやってきたんです
たわけです。
地場証券界の歴史を聞く ―打海啓次氏、打海英敏氏証券史談(下)―
す。
打海(啓) 最初は同行して紹介してもらうこと
が多いですが、商品説明は当社の社員が行ないま
緒に行って…。
いうのは、銀行の営業マンと証券の営業マンが一
――銀行からお客さんを紹介していただくときと
に変わっているんじゃないかと思うんですね。だ
打海(啓)
そうですね。それは紹介型仲介の場
合はですね。今はほとんどのところは仲介型仲介
最初は銀行さんと一緒に行かれるんですね。
訪問は両方で行くというんですよね。御社でも、
うなニーズを持っているかを情報共有し、最初の
れ ど も …。 仲 介 型 仲 介 に な る と 銀 行 完 結 で す か
打海(啓)
紹介型仲介というのはそうです。今
は紹介型仲介と仲介型仲介と両方やっていますけ
――最初はやっぱり一緒に行かれるわけですか。
が半々ということですか。
――ということは、今のところは仲介型と紹介型
かなと考えています。
ると、まず社内で両社の担当者とマネージャーで
ンチでバンカメからの顧客紹介の仕方を聞いてい
打海(啓)
そうです。銀行のほうがいいんです。
んですか。
――仲介型仲介だと、手数料も銀行のほうがいい
― ―
142
けども、うちはとりあえず両建てでやっていこう
ら、うちは行く必要はないんですけれども…。
ミーティングをして、どんなお客さんで、どのよ
――一昨年、アメリカに行ったときに、メリルリ
打海(啓)
いや、もう今となっては仲介型仲介
のほうが多くなりました。
証券レビュー 第56巻第1号
――最初の入り口のところは紹介型仲介で始めら
れて、だんだん仲介型仲介に変えていらっしゃる
打海(啓) はい。仲介型 仲介は、お客様のニ ー
ズに基づいて、銀行が直接商品説明して販売でき
券は、どのようなビジネスモデルをお考えなので
――他方で、主力部分を分割した後のウツミ屋証
新たに生まれた
ウツミ屋証券のビジネスモデル
ます。
打海(英) 今度はウツミ屋証券のお話になりま
すね。ウツミ屋証券は、ディーリング部門と、取
しょうか。
だから、銀行も自分のところで完結しようと思え
り次ぎ部門、金融部門、この三つの部門がありま
要するに、紹介型仲介だったら、銀行は営業で
きませんから。でも、売りたいわけですからね。
ば、仲介型仲介のほうが営業できますから。
ちにとっては紹介型のほうがいいんですよね。お
打海(啓) でも、仲介型 仲介のお客さんは、 う
ちのほうではコントロールがききませんから、う
――なるほどね。
――金融部門は、信用取引と考えていいですね。
事業部、投資事業部、新エネルギー事業部です。
れから三つの事業部があります。それは、不動産
す。この三部門が証券にかかわる部分ですね。そ
客さんのところに行けますのでね。
打海(英)
そうです。ウツミ屋証券が制度信用
を担当しています。
― ―
143
と…。
地場証券界の歴史を聞く ―打海啓次氏、打海英敏氏証券史談(下)―
ね。
―― 会 員 権 を 持 っ て い ら っ し ゃ る わ け で す か ら
打海(英)
広島日興ビルですね。ここは新たな
投資先として、投資した物件ですね。
うのは…。
ルも持ちビルとしてあります。それから、ひろぎ
打海(英)
このビル〔ひろぎんウツミ屋証券本
社ビル〕と広島日興ビル、紙屋町ウツミ屋証券ビ
――店舗賃貸ですね。
動産…。
ね。そういうことから、三事業部ということで不
広島銀行、西川ゴムなど、地域の上場株、未上場
〇%も入っています。それから、東証株をはじめ
す。 こ の 中 に は ひ ろ ぎ ん ウ ツ ミ 屋 さ ん の 株 の 五
打海(英) そうです。不 動産事業ですね。ウツ
ミ屋証券にとっては、不動産事業の収入が大きい
されていると…。
――じゃあ、自己資金を使って、そういうことも
そ れ と 新 エ ネ ル ギ ー 事 業 部 が あ り ま す。 つ ま
り、ウツミ屋証券というのは、不動産事業、投資
― ―
144
打海(英) そうです。し かし、それだけでは ウ
ツ ミ 屋 証 券 は、 や っ て い け な い と い う こ と で す
んウツミ屋証券の支店など、ウツミ屋証券時代の
株あわせ六、七〇銘柄は、あるのではないでしょ
ですね。投資事業部というのは、投資有価証券で
店舗を賃貸していますから…。
もともとウツミ屋証券の支店だったんだろうと思
事業、それに新エネルギーの三事業部で構成され
うか。
いますが、先ほどおっしゃった広島日興ビルとい
――ひろぎんウツミ屋さんに貸されているのは、
証券レビュー 第56巻第1号
ぎ部門、金融部門で構成されています。
しました、三つの部門はディーリング部門と取次
でもあるということですね。それから先程、お話
ています。ですから、証券会社であり、投資会社
ろぎんウツミ屋証券とは業態が違ってきています
思っています。というのは、ウツミ屋証券は、ひ
築 し て「 一 〇 〇 年 企 業 」 を め ざ し て い き た い と
す。七〇周年までにしっかりとした経営基盤を構
いですし…。
きないのではないでしょうか。不動産は非常に高
く東京では、今、お話になったことはなかなかで
力を非常によく活用された経営方針ですね。恐ら
――ちょうど広島市の経済規模というか、経済の
あ り ま す の で、 証 券 分 野 以 外 の 部 分 の 三 事 業 部
も、ウツミ屋証券に証券分野から入る利益という
くしてバランスをとることもできるんですけれど
例えば、ひろぎんウツミ屋証券さんだと、相場
が悪くなっても、投資信託を売って信託報酬を厚
場に左右されますからね。
――つまり、不動産部門で安定的な収益を稼ぎな
― ―
145
し、どうしても証券三部門というのは、非常に相
打海(英)
でも、この前東京にも買ったんです
よ。今、ウツミ屋証券は、三部門、三事業部とい
で、どれぐらい土台を固められるかが一つの大事
ん で す よ。 今 期 が 三 カ 年 計 画 の 最 終 年 度 な ん で
がら、ディーリングで上積みを求めていくという
のは、相場次第で大きくマイナスになる可能性も
う構成になっています。しかし、まだまだこれか
なテーマだというふうに考えています。
す。 そ れ か ら、 次 の 三 カ 年 で 七 〇 周 年 に な り ま
三カ年計画を樹立しました。うち二年が終わった
らです。六五周年を起点に第二の創業宣言をし、
地場証券界の歴史を聞く ―打海啓次氏、打海英敏氏証券史談(下)―
ね。
ディーリング、金融という、この三つでいいです
――証券部門というのは、証券売買の取り次ぎと
打海(英) 今は相場がいいですからね。
理解ですね。
ちょっと相場に左右される部分ではありますけれ
屋 証 券 に 対 す る 五 〇 % の 投 資 で す よ ね。 そ こ も
銘柄は持っています。それから、ひろぎんウツミ
など、上場株、未上場株など、六〇銘柄から七〇
打海(英)
先程、お話した地元企業への投資有
価証券ですね。広島銀行の株をはじめ、西川ゴム
――昔から。
ども、安定的に配当がもらえる銘柄であれば、あ
――ああ、東証の株。
― ―
146
打海(英) はい。
る程度の利益は、見込める部分もありますから。
―― 投 資 有 価 証 券 と い う の は、 投 資 事 業 の 中 に
入っているわけですね。
ら…。
打海(英)
これが一番大きい。
打海(英)
はい。東証株もありますよ。
打海(英)
いや、それは分かれる前から持って
いた投資有価証券です。
うのは、ひろぎんウツミ屋証券と分かれられてか
――新エネルギー。なるほど。この投資事業とい
打海(英) 新エネルギー。
と…。
――そして、三事業というのが不動産賃貸と投資
証券レビュー 第56巻第1号
打海(英) まだですね。
――まだお売りになっていないわけですね。
打海(啓) それは考えました。
会社となった〕。
――やはりそうですか。御社は地域密着で、集中
的に出店しておられますよね。広島と山口に集中
社が中核になって、再編を主導するということも
ずいぶん業界再編がありましたよね。例えば、御
――なるほど。近年、中国地方の地場証券では、
打海(啓)
まぁ、八幡さんはうちと重複する店
舗が多いんですよ。やっぱり重複する店が多いと
のではないかと思うんですが…。
にもっと店舗を増やすということも、考えられた
地場証券業界の再編と
ウツミ屋証券
できたかと思うんですけれども、そういうことは
いうことは、どこかを閉めないといけないじゃな
――店舗整理が…。
― ―
147
的に出店するのであれば、再編の軸になって地域
あまり考えられなかったんですか。例えば八幡証
いですか。
券、平成二五年一月には北田証券が大山日ノ丸証
打海(啓)
ほとんど重複していますから。
国銀行が津山証券を完全子会社化した。また、平
成二五年五月には、八幡証券が藍澤証券の完全子
――例えば、津山証券は岡山ですよね。例えば、
券に事業譲渡して統合し、平成二一年五月には中
編 さ れ ま し た が …〔 平 成 二 一 年 五 月 に カ ド ヤ 証
券とか北田証券、津山証券、カドヤ証券とかが再
地場証券界の歴史を聞く ―打海啓次氏、打海英敏氏証券史談(下)―
きたんではないかとちょっと思ったんですが…。
もう少し出店範囲を東に広げる、という考えもで
するという考えもあったんじゃないかなとちょっ
しょう。財務内容では、御社の方が大山日ノ丸よ
――大山日ノ丸は、カドヤ証券も統合しましたで
と思ったもので、お聞きしたんですが…。
りも相当いいので、再編の軸になって再編を主導
打海(啓) そこはあまり考えなかったんですけ
れども、北田証券とかね。
――倉敷の。
打海(啓) まぁ、当社の 場合は、昭和四〇年 代
に芦屋証券を府中支店にしていますし、備南証券
――そうですね。ちょうどいいんじゃないかと思
ないんですよ。
りして、まったく再編に関わっていないわけでも
を尾道支店にしたり、小野証券を宇部支店にした
いましたけれども、大山日ノ丸と…。
―― 八 幡 証 券 は 東 洋 証 券 と 合 併 す る ん じ ゃ な い
か、という話もありましたよね。
打海(啓) 大山日ノ丸が統合しましたからね。
――大山日ノ丸は三店舗ぐらいですかね。倉敷と
――だけど、店舗の整理がうまいこといかないか
打海(英) ああ。
打海(啓) いやいや五、 六店舗ありますよ〔 大
山日の丸証券は、鳥取、倉吉、米子、豊岡、倉敷
ら、その話が消えて、藍澤さんに子会社化された
米子と鳥取と。
の五店舗展開している〕。
― ―
148
打海(啓) 岡山でうちは一店舗ですしね。
証券レビュー 第56巻第1号
打海(啓)
そう言えば、そんな話もありました
というような話を聞いたことがあるんですが…。
――藍澤さんに全部つないでいらっしゃる。
――あっ、そうですか。海外株にも熱心にやって
瀬戸内経済圏の特徴
打海(啓)
ええ。アメリカ株は野村さんにつな
いでいますよ。
――東京に行きましたけれども、今でも東洋証券
洋証券は中国株に物すごく力を入れていますよ
いらっしゃるということですね。次に、広島証券
が、広島での営業では一番強いと思いますが、東
ね。
証券恐慌以前の広島証券界の事情については、野
界のことについてお聞きしたいんですけれども、
打海(啓)
そうです。今はアメリカ株の方が多
いらしいですけれども…。
扱っていますけれども、御社は海外株には興味が
洋 証 券 以 外 に、 藍 澤 証 券 と か、 内 藤 証 券 も 取 り
――中国株があんなふうになって…。中国株は東
おりませんので、そこでちょっとお聞きしようと
降の広島証券界については、誰からもお聞きして
料』戦後編第四巻に収録〕。しかし、証券恐慌以
お り ま す〔 日 本 証 券 経 済 研 究 所『 日 本 証 券 史 資
島証券の野島〔健吾〕さんから以前、お聞きして
ないんですか。
ほかの市場と比べて特徴があればお聞きしたいと
思います。証券恐慌以降の広島証券界について、
打海(啓)
いや、中国株は藍澤さんにつないで
いますよ。
― ―
149
ね。
地場証券界の歴史を聞く ―打海啓次氏、打海英敏氏証券史談(下)―
ね。広島にはマツダの下請け会社がたくさんあり
打海(啓)
他の市場と違うのは、やっぱり広島
はマツダを中心とした経済圏だということです
思います。何かお気づきのことはありませんか。
われていますからね。今はさらに増えているんで
そのうち一〇万人はマツダにかかわっていると言
打海(英)
今、広島市は人口が大体一一八万人
になって、政令指定都市になっているんですが、
全然違うと思います。
しょうけれども…。
ますから、マツダの業績に…。
――左右されたわけですね。
とってのトヨタみたいな感じですか。
――広島にとってのマツダというのは、名古屋に
打海(啓) そのくらいになるんじゃないですか
ね。でも、広島での上場会社は、広島銀行、西川
打海(英)
そのような感じですかね。
いはマツダ関係という感じですか。
― ―
150
――戦前は、呉のあたりの軍需工場が中心だった
んでしょうか。
打海(啓)
そうですね。
打海(啓)
そこまで大きくないにしても、やは
り下請けが万とありますからね。マツダ次第で、
ゴム、フマキラー、広島ガス、ソルコム、広電、
――じゃあ、感覚としては、広島経済の二割ぐら
広島の飲み屋の景気も違いますよ。街全体がもう
打海(啓) 下請けももう絶好調ですよ。
――今は絶好調でしょう。
打海(啓) 左右されました。
証券レビュー 第56巻第1号
あじかん、研創、イズミ、中国電力、中電工、大
福留ハム、ウッドワン、エディオン、戸田工業、
ド、北川精機、エフピコ、アヲハタとか…。
石 井 表 記、 ヤ ス ハ ラ ケ ミ カ ル、 自 重 堂、 ア シ ー
れども、広島以外のブロックの経済はいかがです
したけれども、広島はマツダって分かるんですけ
――先ほど三つにブロックを分けられておられま
次々と出店され、元気がいいです。
らっしゃいますよ。特にイズミなどは、大型店を
すか。
――山口のほうはいかがですか。徳山曹達とかで
打海(啓) 起業家が多い環境ですね。
――青山商事ね。
ら、長府製作所とか秋川牧園など。
打 海( 英 )
宇 部 か ら 上 場 し ま し た ね。 今、 グ
ローバル企業として大きくなりましたね。それか
――ユニクロ。
ね。
打海(啓) そうですね。 ただ、既存の上場会 社
が多くて、新しいところはそんなに出てないです
か。
打海(啓)
東部というのは、結構上場企業が多
いんですよ。
――なるほど。福山とかですか。
打海(啓)
福山。あと府中とかあの辺りが結構
そうです。 北川〔鉄工〕、リョービ、あ と大きい
ところで 言うと、福通〔福山通運 〕、青山商事、
― ―
151
和重工などがあって、いずれの会社も活躍してい
地場証券界の歴史を聞く ―打海啓次氏、打海英敏氏証券史談(下)―
取引所上場銘柄は二〇四社であり、そのうち単独
打海(啓) 広島証券取引所で二〇四社上場して
いたと思います〔平成一〇年末時点で、広島証券
――長府製作所がありますね。
東京証券取引所に吸収された〕。
すからね〔広島証券取引所は、平成一二年三月に
島の景気がよくなるということを考えてのことで
ことで、東証と合併しますけれども、東証と合併
するときも、広島の上場会社が大きくなれば、広
上場銘柄は一二社であった〕。ただ、単独上場銘
柄は少ししかないんですね。しかし、これがない
に、商工会議所をはじめとする財界も含めて運動
で す。 そ の 都 度、 単 独 上 場 銘 柄 を 獲 得 す る た め
のかと…〔神戸証券取引所は昭和四二年一〇月に
戸証券取引所が解散したときに、広島はどうする
打海(啓) 広島証券取引所をなくそうという話
は、昭和四〇年代から三、四回あるんですよ。神
― ―
152
と広島証券取引所の商いがないということがあっ
――広島証券取引所は、東証と合併いたしました
広島証券取引所と
東京証券取引所の合併
いんで、随分あちこち回りましたよ。
しているんですね。
解散し、上場企業は大阪証券取引所に引き継がれ
けれども、その間の経緯みたいなことをお聞かせ
いただけないでしょうか。
結局は平成一二年に、もうやむを得ないという
いましたからね。その後も三、四回は出ているん
そもそも四〇年も前から取引所をどうするかと
いう議論や、取引所の合併という話がかなり出て
したんですよ。私どもも幹事に入らなきゃいけな
て、一時、財界も一緒になっていろいろな運動を
証券レビュー 第56巻第1号
〔中国〕財務局、〔広島〕県財界、広証などのトッ
けれども、神戸証券取引所の解散を契機に、切
実 な 問 題 に な っ て き て、 そ の と き は 地 元 財 界 と
たんですよ。
よくなれば、大したことないよという意見もあっ
り上げられても、広島のほうは、そのうち相場が
んだ〕。それまでは、地方取引所の存廃問題が取
証へ出すようになり、広証の地盤沈下が一気に進
員であった高井証券と合併したために、注文を東
から六〇%を占めていた廣島証券が、東証の正会
員の中で最大手であり、広共証券の取扱高の五〇
広証と略記〕自身の問題として、昭和四二年に会
上に上っていた。また、広島証券取引所〔以下、
問題は、昭和三〇年代末から証券取引審議会で俎
げられてはいるんですね〔地方証券取引所の廃止
た〕。もちろん広島でも切実な問題として取り上
しかし、東京への注文の流出を止めることはで
〇年には〇・六八%まで低下していた〕。
一%、さらに昭和五五年には〇・七七%、昭和六
証、名証以外の地方証券取引所の売買高シェアは
考えたこともあります〔昭和四〇年には東証、大
場予備軍が上場したいと思うような魅力づくりを
力づくり委員会」という委員会を立ち上げて、上
営にも関与していただき、平成九年には「広証魅
には地元大手企業の役員を参与として、広証の運
向けた運動を行いました。さらには、昭和五三年
一体となって存続のために単独上場銘柄の獲得に
す。その後、昭和五二年には、地元財界と広証が
て、 上 場 促 進 に 向 け た 企 業 へ の 接 触 も し て い ま
て、「 市 場 振 興 対 策 特 別 委 員 会 」 が 立 ち 上 が っ
昭和四七年には、私どもの創業者が委員長になっ
すしかないという結論になったんですね。また、
三・ 二 四 % あ っ た が、 昭 和 五 〇 年 に は 一・ 一
プが集まって、単独上場銘柄を増やして特色を出
地場証券界の歴史を聞く ―打海啓次氏、打海英敏氏証券史談(下)―
― ―
153
中国電力の多田〔公煕〕さんも賛成され、父も売
八幡証券の浜田〔逸郎〕さんや中国経済連合会の
当時は橋口〔収〕さんでしたが橋口さんも賛成、
は経済界も賛成しましてね。商工会議所の会頭、
きず、本当にどうしようもなくなってきて、最後
い。
打海(啓)
いやいや、広島の場合は東証しかな
よね。
あったかと思うんですね。例えば大証もあります
―― 東 証 と の 合 併 の と き に、 い ろ ん な 選 択 肢 が
厳しい。合併すれば合理化になりますから、やむ
――初めから東証しか考えていなかったですか。
ければならないというので、ウツミ屋証券として
に至るまでの間、本当に単独上場銘柄を増やさな
打海(英) 上場企業が東証へシフトするわけで
すから、東京しか考えられなかったですよ。大証
――東京しかない。
のマーケットへ早い時期に行かれますからね。そ
ね。
―― 結 局 は 東 証 と 大 証 は 一 緒 に な り ま し た か ら
― ―
154
買手数料の自由化で、どの証券会社も収益環境が
を得ず賛成したということですね。
も幹事に入っていこうと一生懸命やっていまし
という選択肢は、あのときはなかったですね。
ういうことの繰り返しなんですよ。
ら。ただ、単独上場銘柄をとっても、結局、東京
た。 単 独 上 場 銘 柄 を 増 や す し か な い わ け で す か
平成一四年の広島の出来高のシェアというの
は、全国の中で〇・〇二%ですよ。しかし、合併
打 海( 啓 ) や っ ぱ り 東 証 し か 合 併 し て く れ な
かったというふうに聞いています。
証券レビュー 第56巻第1号
打海(英) そうそう。だ から、東証と合併し た
のは正解だったと思いますよ。
も一緒にならなきゃいけないということもあった
んですけれども、そのときも、マーケットがよく
――先ほど神戸の取引所が、昭和四二年に解散し
わけではなかったんですけれども、いや、そうは
引所が大証と合併したときも、そういう話がない
なってきているわけですね。だから、神戸証券取
て大証と合併した話が出てきましたが…。
いってもマーケットがよくなればと…。そのよう
――元証券局長の坂野〔常和〕さんが、昭和五〇
に聞いています。
ですか。
年ごろに、もう地方の証券取引所は要らないので
――そのときから広証も身売りを考えていたわけ
打海(英) いやいや、そうじゃないですよ。
しています。それから、そのうちマーケットがよ
打海(英)
広証は身売りどころか、前にも話し
ましたように、存続できるようにいろいろと努力
――そうじゃないですか。
継がれ議論された〕。
し、その後、この問題は全国取引所協議会に引き
月に証券研究会で「全国証券取引所構想」を提起
け れ ど も、 そ の と き の 広 島 証 券 界 の 反 応 は ど う
はないか、ということをおっしゃっているんです
くなれば、ある程度は問題ないだろうと、そんな
打海(啓) 記憶にないのですが。
だったんでしょうか〔坂野氏は、昭和五三年一二
には危機感はなかったと聞いています。その前に
― ―
155
打海(英) 早かったですね、あれは。
地場証券界の歴史を聞く ―打海啓次氏、打海英敏氏証券史談(下)―
な地方で総スカンを食らったんです。
告書を出されたのですね。それがもう、いろいろ
が一つあればいいのではないか、というような報
士の山麓に大きなコンピュータで処理する取引所
は要らない。東京を残すかどうかは別として、富
を作られて、日本全国にこんなにたくさん取引所
――坂野さんが、証券研究会という私的な研究会
していた〕。
六年七月に、ほかにも、平成七年九月にはベネッ
広島ですからね〔ファーストリテイリングは平成
ありますし…。ファーストリテイリングも最初は
掘をしましたよ。今でも活躍している上場会社が
したよ。全員が一緒になって、単独上場銘柄の発
なってきたわけですね。それまでは健闘していま
ですか。だから、地方の証券取引所は、必要なく
――そうすると、やはり手数料自由化あたりから
取引所が非常に近間にあるのに比べて、広島には
――ユニクロですね。京都、大阪、神戸は三つの
――なるほど。
打 海( 啓 ) そ う で す。 危 機 は 何 回 か あ り ま し
ていたということですね。
― ―
156
セコーポレーションも広島証券取引所に単独上場
打海(啓)
けれども、広島証券取引所というの
は、当時はそれほど考えていなかったですね。
ですか、真剣に考えだされたのは。
たわけですね。だから、十分に広証を盛り立てよ
打海(啓) 全部コンピュータになったじゃない
うという機運が、長い間、関係者の間でも持たれ
ちゃんと単独の経済圏、経済基盤がある程度あっ
打 海( 啓 )
そ の 時 の 広 証 の 売 買 高 は、 〇・ 〇
二%ですから、限界ですよ。
証券レビュー 第56巻第1号
た。しかし、それを広島経済界も一体となって、
乗り越えていったということですね、おっしゃる
話もあったらしいですね。
―― 名 古 屋 ね。 一 方 の 広 島 は そ う い う 話 が 出 て
ものはなかったんですか〔新潟証券取引所は平成
ましたよね。新潟と広島で何か話し合いみたいな
島は商工会議所をはじめとする経済界も一緒に
ボルだったんですよ。ですから、本当にあれで広
打海(啓) 今はもうそんなことはあまりないと
思いますけれども、地方では取引所は一つのシン
も、経済界と一体となって…。
一二年三月に、東証に吸収された〕。
なって、単独上場銘柄の獲得をやろうとしました
――ちょうど同じ時期に新潟も東証と一緒になり
打海(啓) 全くないのではないですか。
――全く、個別にですか。たまたま同時期に一緒
の業績が悪かったときに、マツダを励まして、マ
島東洋カープの応援とか、それから、一時マツダ
よね。経済界が一体となったことというのは、広
になったということですか。
打海(英)
そうですね。マツダの車を買おうと
いう運動を一緒になってやりましたよ。それで郷
ツダの車を買おうと…。
――新潟のほうは、経済基盤が広島に比べてずい
心会ができたんです。
打海(啓) そうでしょうね。
ぶん沈んでいましたしね。
打海(啓)
新潟は一時、名古屋に行くかという
― ―
157
ように。
地場証券界の歴史を聞く ―打海啓次氏、打海英敏氏証券史談(下)―
…。
か ら、 今 は マ ツ ダ だ け じ ゃ な い で す よ。 郷 土 の
竹、廿日市の一四ケ所で組織されている〕。です
道、 府 中、 庄 原、 因 島、 竹 原、 安 芸、 三 原、 大
体。 現 在、 広 島、 呉、 東 広 島、 三 次、 福 山、 尾
会員交流を通じて地域経済の活性化を推進する団
製品の販売促進活動、マツダ車の拡販支援運動、
な良いものひろしま商品」を合言葉に、広島県内
一四部あるんですよ〔郷心会とは「選ぶなら身近
か、広島県に市が一四あるんで、広島郷心会とか
打海(啓)
最初は、マツダの車の購買を応援し
ようと。そこから始まって、今は廿日市郷心会と
――郷心会というのは。
めたそうです。そのとき、会員数は一三、〇〇〇
それ以来、球場の入口に二つの樽を置き、「タ
ル募金」を、そして後援会を組織して協賛金を集
いきさつがあります。
う」と説得されて、合併方針が撤回されたという
んが「ちょっと待って下さい。知恵を出しましょ
員会に出席した、当時の監督であった石本秀一さ
ことで合併が決まったらしいのですが、後から役
で役員の人が会合した結果、やむを得ないという
に吸収される直前までいっていました。天城旅館
打海(啓)
広島東洋カープも昭和二六年には、
当時下関市にチームがあった大洋〔ホエールズ〕
て、カネもヒトも出していたと…。
は消滅する寸前に、それを回避できたわけです。
人に達していたということです。それで、カープ
――郷土のね。
年には郷土の広島東洋カープが苦節三〇年ついに
それが、昭和五〇年にはリーグ優勝し、昭和五四
打海(英) そうですよ。 郷心会ですから。し か
し、できたときには、マツダが一生懸命軸になっ
証券レビュー 第56巻第1号
― ―
158
ドなんですね。
――マツダと広島東洋カープは、広島のキーワー
ところですね。
の日本一を達成しています。本当に広島っていい
は二年連続日本一、さらに昭和五九年には三度目
念願の日本一、全国制覇を成し遂げました。翌年
かいうことをしているんですね。そのときに必ず
人に参与という立場で、広証に参加してもらうと
対策特別委員会」を作ったり、それから、財界の
打 海( 啓 ) そ れ は 何 回 か あ り ま し た ね。 だ か
ら、その都度、創業者を委員長とする「企業振興
があったんですか。 うか、どうにかしなきゃいけないというような話
ンのころに、広島証券取引所の危機といいましょ
会社がかなり強硬に反対して、京都はなかなかで
論が燻っていたそうです。ところが、地場の証券
どん東京へ流出していって、そのころから再編議
り、オンライン化が進んだころから、取引がどん
や は り 京 都 も 昭 和 四 〇 年 代 の 終 わ り こ ろ、 つ ま
話があった、とおっしゃっていましたけれども、
――何回か広島証券取引所を合併しようかという
うのは、なくなってきたんだと思いますね。
点で、もう地方に分散していた取引所の意義とい
打海(英) なかなか広島に定着しないというこ
とがあって、マザーズやJASDAQができた時
んですね。
しかし、単独上場銘柄も、早い時期に東証へ行く
よ。これはずっと一貫して言われてきましたね。
して、努力を続けなきゃいけないということです
言われたのは、地場の単独上場銘柄の獲得を目指
打海(啓) そうです。
きずにいたそうですが、広島でも第一次オンライ
地場証券界の歴史を聞く ―打海啓次氏、打海英敏氏証券史談(下)―
― ―
159
そういう決まりなんですけれども、一旦上場して
かに、テリトリー制というのは、上場するときは
うテリトリー制というのがありましたよね。たし
は、まず近くの地場の取引所に上場しなさいとい
――昔、各地の取引所の近隣にある新規公開企業
わけですから、よかったんじゃないですかね。
業さんも、東証上場のほうがステータスが上がる
打海(啓) たしかに会費が要らなくなったから
楽にはなりましたよ。しかし、それよりも上場企
くなって、楽になったんでしょうか。
しまったら、あとはもう縛りはないですからね。
う。それも要らなくなったんです。結局、設備も
よって、広島の業者には何か特別な影響はあった
地には存在しなくなったわけですが、このことに
――結果として、証券取引所が合併して、この土
打海(英)
困ったこととしては、従業員の処遇
にないですね。
でしたから、こちらのほうの影響というのは、特
ども、上場企業さんも皆さんオーケーということ
― ―
160
――東証上場になりますしね。
――そうしたら、意味があるのは、本当に最初の
ITで直接つなぐようになったでしょう。ですか
打 海( 啓 ) 日 本 協 栄 証 券〔 現 在 の 証 券 ジ ャ パ
ン〕というつなぎ専門の証券会社があったでしょ
ところだけですからね。
ら、広島が合併するときというのは、もう必要な
んですか。何もないですか。むしろ会費が要らな
いということですから、証券会社もそうですけれ
打海(英) そうですね。
打海(啓)
もうご自由にでしたからね。早かっ
たですよ。東証へ出られるのが。
証券レビュー 第56巻第1号
の問題ですよね。それぐらいです。
――ああ。それはどこでもそうでしょう。ちなみ
れ る 事 例 も 多 く て、 I R の 雑 誌 も 作 っ て い ら っ
しゃいますよね。
――少数とはいえども…。
か。
打海(啓) 三〇人か四〇人ぐらいじゃないです
らっしゃったんですか。
のがありますからね。
く、地域の企業とも密着しなきゃいけないという
打 海( 啓 ) そ う で す か。 あ り が と う ご ざ い ま
す。 地 域 密 着 と い う の は 個 人 の お 客 様 だ け で な
派なものですね。
――あれ読ませていただいたんですけれども、立
打海(啓) はい。今も作っています。
打海(英) 退職金がね。
――退職金ね。そうか、会社都合だから…。
一一社の会員組織である
広島証券倶楽部
正会員協会がなくなった後にできましたよね。
打海(英) 退職金は出 ていきましたね。当 時、
半官半民みたいなところですから。
―― 広 証 で は 単 独 上 場 銘 柄 に 力 を 入 れ て い ら っ
打海(啓)
そうそう。広証正会員協会がなくな
――広島には、広島証券倶楽部というのが、広証
しゃったということでしたが、御社は幹事に入ら
― ―
161
に、 当 時、 広 証 の 職 員 と い う の は 何 人 ぐ ら い い
地場証券界の歴史を聞く ―打海啓次氏、打海英敏氏証券史談(下)―
的に活動を続けています。
島証券倶楽部をつくりまして、現在もこれは積極
りまして、何らかの会員組織をということで、広
早く地域の中にとけこむように、広島郷心会や護
年三、四回行っていますしね。その他、各社とも
てもらっています。広証会というゴルフコンペも
には、投資家向けと各証券会社の社員向けのIR
をしたり、法人営業の担当者で構成するIR部門
顧客とのトラブル防止など総務担当者が意見交換
門は、社員の法令遵守意識の向上を図ることや、
かね。IRもありますしね。コンプライアンス部
ち回りです。バスをチャーターして、工場見学と
長をずっと今も仰せつかっています。幹事は、持
打海(啓)
これを作るときには、当時のウツミ
屋証券が主導して作ったということもあって、会
――幹事を御社がやっていらっしゃいましたね。
証券倶楽部が中心になって行なっています。
けのIRのニーズが、上場会社にありますので、
いるのはいいことです。また、証券会社の社員向
になっています。現在もそれが継続して行われて
打海(啓)
母体はそうですね。今は一一社が加
入していて、その幹事や役員は持回りでやるよう
員協会を母体に作られたんですか。
――これは広島証券取引所がなくなった後、正会
います。
す。それから、広島観光特使にもなってもらって
― ―
162
国神社奉賛会のメンバーにも入ってもらっていま
ですね。ですから、コンプライアンス部門とIR
ていますが、証券倶楽部では非常に仲良くやらし
部門の二つの部門があります。営業では競争をし
証券レビュー 第56巻第1号
産を増やすとか、ラップ口座のことを言われてい
たりしておられましたね。また、証券銀行につい
ても言及しておられます。資料を読んでおりまし
打海(啓)
そうですね。それよりも預かり資産
を増やそうということですね。
用第一、親切第一に立脚しているんですか。
たのも非常に珍しいと思います。やはりそれも信
と思うのですけれども、それを圧縮しようとされ
てというのが、多くの証券会社のスタイルだった
は、どんどん回転させて、信用もどんどん供与し
を 打 ち 出 さ れ て い ま す よ ね。 あ の 当 時 と い う の
先代は回転商いを止めようとか、信用取引の圧縮
――最後になりますけれども、昭和四〇年代に、
打海(啓) ええ。だから、 やっぱり分母が大 き
いほど、相場の変動に強くなるということが、頭
――一%でね。
ないですか。
ね。一兆円あれば一%の回転でも一〇〇億円じゃ
ほ ど、 一 回 転 で 回 転 す る 金 額 が 大 き い で す か ら
打海(啓) 基本形は預かり資産を増やすことを
考えていたと思いますね。やっぱり分母が大きい
すか。
といいましょうか、思い出みたいなお話はありま
うのですけれども、何か先代の経営に対する印象
て、非常に先を見据えた経営をされていたかと思
――昭和五〇年代にされた先代の年頭挨拶を読ん
にあったんじゃないですかね。それから、「あな
― ―
163
チャレンジの歴史と
銀証文化の融合へ
でおりますと、たしかにそのころから、預かり資
地場証券界の歴史を聞く ―打海啓次氏、打海英敏氏証券史談(下)―
ろうと考えたんです。顧客第一の精神です。
に来ていただいて、取引をできるような出先を作
証券は非常に少なかったんです。だから、お客様
は、銀行にはいっぱい支店がありますけれども、
支 店 を ど ん ど ん 開 設 し て い っ た わ け で す。 そ れ
して、目線は常にお客様にありました。だから、
たもええ、わしもええ」という考えですね。一貫
上さんも時間があったからということもあります
長期投資という考え方で先代と意気が合って、澤
りは、非常に厳しかったと思いますよ。しかし、
長期投資ですからね。澤上さんも最初の立ち上が
のつながりを生んだんです。澤上さんのお考えは
を一貫して持っているんです。それが澤上さんと
けないということなんです。当社はこういう考え
ろいろなことにチャレンジして来たというのが大
レンジです。こういうふうに時代に合わせて、い
引所の会員権も買いましたし、これは一つのチャ
営はできませんからね。高いけれども東京証券取
至っていると思うんです。ただ、それだけでは経
だと思う。この創業者の経営哲学、経営理念を、
になって考えることが必要であり、それが、親切
もらえない。信用を得るためには、お客様の立場
るから、信用してもらわねば、お客様に利用して
のと同じように、我々も人の財産を預かるのであ
ですから、創業精神の信用第一、親切第一です
ね。信用は嘘をつかない。医者はからだを預かる
― ―
164
けれども、支店も歩いてもらったりしましたよ。
きいのではないかなと思います。
につながったと思うんですね。それに、それぞれ
一貫して脈々とつなげていくことが、会社の繁栄
だから、「儲けんでもええ」という言葉があり
ましたけれども、それはお客様に迷惑かけたらい
先代の社長にしても、創業者の経営哲学、経営
理 念 を 根 底 で 脈 々 と 受 け 継 が れ て き て、 現 在 に
証券レビュー 第56巻第1号
の賜物です。感謝ですね。
からお礼ですね。それから、社員の皆さんの努力
し、お客様のおかげです。本当にまずお客様に心
万 円 の 赤 字 が あ る ん で す ね。 残 念 で し た。 し か
の間に一回だけ、平成二三年三月期に三、一〇〇
続になるところだったんですけれども、四八年間
それが四三年間、経常利益が黒字で、配当も続
けてこられた要因だと思います。本当は四八年連
ますね。
たわけです。その結果が今日に至っていると思い
レンジして、新しい時代を作っていこうとしてき
の時代背景があって、一生懸命新たなことにチャ
を作り上げられるかが一番大きな課題なんです。
「証券の文化」をいかに融合させて、「銀証文化」
ち ょ っ と 違 う ん で す。 う ち は「 銀 行 の 文 化 」 と
〇 % ず つ 出 資 し て い て、 ほ か の 地 銀 系 証 券 と は
ま し た。 ひ ろ ぎ ん ウ ツ ミ 屋 証 券 は、 お 互 い が 五
現在、地場の証券会社はウツミ屋証券一社となり
打海(啓)
広島証券取引所ができたときに、地
場の証券会社が二六社あったんですね。それが、
せんよね。
かでずっと黒字という会社は、そんなにはありま
れるという特徴をもっているわけですが、そのな
――証券業界というのは、相場で業績が大きく振
ためになると考えているからなんです。
それは、そうすることが、地域の投資家の皆様の
――自己資本規制比率も極めて高いですね。
――お話を伺っていますと、昭和二〇年代の証券
民主化運動の非常によい面を脈々と受け継いでこ
打海(啓) うちですか。 うちは一、〇〇〇% を
超えていますのでね。
地場証券界の歴史を聞く ―打海啓次氏、打海英敏氏証券史談(下)―
― ―
165
れました。
承していこうとされていることが非常によく窺わ
を、御社は脈々と育ててこられて、これからも継
あ っ た わ け で す よ ね。 そ う い う の と は 違 う 考 え
りつけて、株価が落ちたら顧客を殺してきた面も
証券会社がしてきたことは、低資産層に株式を売
いう思想があったわけですね。けれども、実際に
る国民が株式を持って、資産を増やしていこうと
ことが叫ばれました。要するに、普通の働いてい
動の際、「ピープルズ・キャピタリズム」という
られたという感じがいたしますね。証券民主化運
す。
先、きっと証券と銀行のカルチャーの違いがいろ
ず 順 調 に 推 移 し て お り ま す。 で す が、 こ れ か ら
今までの間には、強い逆風もありましたが、今
はマーケットに助けられている面もあり、まずま
るでしょう。
券のあり方についても真剣に考えてみる必要があ
ルを確立することが、大きな課題です。銀行と証
模索中ですよね。ですから、銀証のビジネスモデ
ならないときが来ると指摘されている〕。今は、
るべきか、銀行はどうあるべきかを考え直さねば
歩むのではないか。そして、いずれ証券はどうあ
だと思い ます〔加藤氏は、「証券レ ビュー」二〇
うな中で、当社は昭和二四年五月二五日創業しま
今年は、原爆被害から七〇年です。向こう七〇
年は草木もはえないのではといわれてきたそのよ
んな局面で出てきて苦労することもあると思いま
打海(啓) 岡三証券の加藤〔精一〕さんが、「銀
証のビジネスモデルはまだ確立していない」こと
一二年一二月号での史談で、銀行と証券が同質化
した。創業者や先代のロマンが証券銀行を夢見て
をお話されていらっしゃったけれども、その通り
すると、存在意義がなくなってむしろ衰退の道を
証券レビュー 第56巻第1号
― ―
166
歩一歩力強く歩んでいく覚悟です。
良さを「銀証」において出していけると信じて一
「地元の銀行」「地元の証券」なんですから、その
越えていくには、相当の努力がいると思います。
屋証券は創業八年です。カルチャーの違いを乗り
い局面もあるでしょうが、まだ、ひろぎんウツミ
営」、これらを胸に、これからも確かにむずかし
話 」「 ゆ っ く り 急 げ 」「 地 域 に 生 き る 」「 全 員 経
え 」「 儲 け る な。 し か し 損 は す る な 」「 奉 仕 と 対
「信用第一、親切第一」「あんたもええ、わしもえ
ち を 融 合 さ せ る っ て、 す ご く 難 し い こ と な ん で
るかを考えますよね。この違う考えをもった人た
があるんだから、そのことを踏まえた上でどうす
うという文化じゃないですか。相場には浮き沈み
あ、それに備えて必要なものは持っておきましょ
は、今は悪くてもいいときがあるんだから、じゃ
方、証券の方はそうじゃないですよね。証券の方
ト ラ へ と い く ん だ と お っ し ゃ る ん で す よ ね。 他
になるんだそうですね。そうすると、すぐにリス
――達成しないと、なぜできないんだということ
―― い ろ い ろ な 社 長 様 に お 話 を 聞 い て お り ま す
しょうし…。
ら っ し ゃ れ ば、 証 券 出 身 の 方 も い ら っ し ゃ る で
し ょ う ね。 管 理 職 の 中 に も、 銀 行 出 身 の 方 も い
と、銀行というのはもうとにかく計画を大事にし
ごく理解していただけるんですよ。ですから、中
ある人たちがこっちに来ていただいたら、もうす
て…。
打海(啓)
そうですね、その計画を達成したら
一〇〇点ですね。
打海(啓)
銀行から来ていただいた方でも、中
に入っていただいたら分かるんですよ。代表権の
地場証券界の歴史を聞く ―打海啓次氏、打海英敏氏証券史談(下)―
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りますよね。相場次第のところが証券会社の場合
期経営計画、三年計画でも、侃々諤々と議論にな
で見たら、銀行はすごいですよ。コンプラ面はず
つ。これが一番大きなテーマですね。コンプラ面
合って、お客様に向かうしっかりとした理念を持
必要があります。銀行文化のいいところをどんど
相場次第にならないように早く体質を変えていく
すから、目標設定には苦労いたします。だから、
券の場合は相場次第というところがあります。で
次の年はこうでしょと計画が立てられますが、証
らっしゃったということがよく分かりました。
分たちも喜ぶ。そういう経営をずっと目指してい
して、お客さんに喜んでもらいながら、一方で自
には長期投資を推奨して、お客さんの資産を増や
――今日のお話をお聞きしていますと、お客さん
打海(啓) きっちりしています。
――きっちりしている。
いぶん変えていただきましたよ。
は多いですから。
――市況依存ですね。
打海(啓) ええ。そうで す。計画を立てる場 合
でも、銀行の文化だったら、今年このぐらい稼い
ん取り入れてね。ですから、銀行の文化のいいと
――預かり資産が重要という視点に立てば、さら
打海(啓)
そういう経営をしていくためには、
やっぱり預かり資産が大事だと思いますね。
ころと、証券の文化のいいところを合わせて新た
な銀証文化を作り上げる。それは、銀行と証券会
社の相互理解と相互信頼の土壌を形成し、信頼し
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だんだったら、次の年はこうでしょ。そしてその
証券レビュー 第56巻第1号
たな経営資源を導入した方が、御社の発展にとっ
に預かり資産を得るためには、広島銀行という新
す。
よく考えて銀証連携を促進していきたいと思いま
るのではないでしょうか。お互いにメリットがあ
おいていろいろとお客様のニーズにもこたえられ
打海(啓)
そうです。ひろぎんウツミ屋証券の
発展のためにも、広銀さんとしても、地域社会に
会社を作られたということですね。
ど で す よ ね。 東 海 東 京 が 地 銀 と 一 緒 に な っ て て
導権を持ちますから、社長も銀行出身者がほとん
じゃないでしょうかね。大体みんな銀行の方が主
い で し ょ う か。 あ と は 大 体 銀 行 か ら 来 ら れ た 方
―― 地 銀 系 証 券 の 中 で、 証 券 の 出 身 者 が 社 長 に
こうとされているということですね。
けれども、商品戦略については、お考えがあるの
――先ほど、先代が昭和五〇年代に、ラップ口座
打海(啓) 六対四ですからね。
も、持ち株比率は四割ですものね。
なっていらっしゃるというのは御社くらいではな
ると思います。
――それで広島や山口のお客さんに満足してもら
打海(啓) ビジネスモデルもまだ確立していま
せんけれども、お客様ごとの資産運用のニーズを
ですか。例えば最近ラップアカウントやら…。
えるような、新たな証券会社をこれから作ってい
踏まえた、例えば「富裕層」「若年層」「資産運用
打海(啓)
ラップはやりたいんですけれども、
などについて言及されていたという話も出ました
層」「資産管理型層」そして「株好き層」など、
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て意味があると考えられて、積極的な意味で合弁
地場証券界の歴史を聞く ―打海啓次氏、打海英敏氏証券史談(下)―
いっていますよね。あれがいいものだったら乗っ
ら …。 今 日 の 新 聞 で、 野 村 さ ん が 何 か や る と か
コストがかかるので、うち独自ではできませんか
られるとよく言っていますよね。
――ファンドラップは三〇〇万円ぐらいから始め
―― ラ ッ プ ア カ ウ ン ト 以 外 に は、 何 か お 考 え に
打海(啓) のむラップ・ ファンドみたいな。 小
さいのはできますけれども…。
かろうかなと…〔野村ホールディングスが、ラッ
プ口座を専門とする資産運用会社を設立し、地方
銀行など他の金融機関に提供するとされる〕。
なっていることはあるんですか。
いとペイしないそうですよ。
打海(啓) この前も協会でいろんな方からお話
を聞いたのですが、ラップ口座は、四〇〇億円な
打海(啓)
アジア株でもいいし、今はみんなア
メリカを向いていますから、中国ではないところ
――アジア株ですか。
もいいと思うのですが…。
打海(啓)
やっぱり外株ですよね。外株のパー
センテージを高めたい。別にアメリカじゃなくて
――残高がね。今、手数料はたしか二、三%ぐら
でどこか…。あとは、やっぱり投信の残高を増や
り一生懸命やっていますけれども…。
いですね。
すことですよね。うちの目標というのは、今、投
信の残高が一、七八六億円ぐらいなので、二、五
打海(啓) そうですね。
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――例えば中堅どころだったら、水戸さんがかな
証券レビュー 第56巻第1号
――じゃあ、預かり資産としては株のほうが多い
〇〇億円は、集めたいんですよね。
されたヒアリングの内容をまとめたものであ
見泰孝が参加し、平成二七年五月二五日に実施
本稿は、ウツミ屋証券株式会社特別顧問岡田
亨氏にご同席頂き、二上季代司、小林和子、深
※
んですね。
る。文責は当研究所にある。
※ なお、括弧内は日本証券史資料編纂室が補足
した内容である。
打海(啓) 今は株の方が多いです。
打海(啓) そうですね。 それと、若年層の獲 得
のためには、NISAもありますよね。
それから、来年から始まるジュニアNISAも
含めて、若い世代の人に長期資産形成の手助けを
したいですね。この地域での新しい証券投資家層
の育成拡大に努力して参りたいと思っています。
――どうも長い時間ありがとうございました。本
当に今日はお忙しい時間を割いていただきまして
ありがとうございました。
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――それをもう少し投資信託の比率を高めて…。
地場証券界の歴史を聞く ―打海啓次氏、打海英敏氏証券史談(下)―