地場証券界の歴史を聞く - 日本証券経済研究所

地場証券界の歴史を聞く
―打海啓次氏、打海英敏氏証券史談(上)―
は ひ ろ ぎ ん ウ ツ ミ 屋 証 券 社 長 の 打 海 啓 次 氏、 ま
口県を本拠とするウツミ屋証券の創業家で、現在
載してきた。そして今号と次号では、広島県、山
京都を本拠とする丸近証券の勝見昭氏のお話を掲
氏、名古屋を本拠とする安藤証券の安藤正敏氏、
以 降、 石 川 県 を 本 拠 と す る 今 村 証 券 の 今 村 九 治
オーラルヒストリーを掲載してきた。今年四月号
てアプローチをしたのか」というところにある。
な富裕層がいたのか。一体どういう顧客層に対し
滅的打撃からの復興過程で、証券投資を行うよう
ず、ここで筆者らの第一の関心は、「街全体が壊
ミ 屋 証 券 の 歴 史 は 昭 和 二 四 年 五 月 に 始 ま る。 ま
投下により、壊滅的打撃を受けたわけだが、ウツ
である。広島の街は、昭和二〇年八月六日の原爆
ウツミ屋証券はご存じのとおり、広島、山口を
中心に営業を展開される中国地方随一の地場証券
る。
た、ウツミ屋証券社長の打海英敏氏、そして同社
ま た、 ウ ツ ミ 屋 証 券 の 特 徴 と し て、「 信 用 第
「証券レビュー」では二〇一二年三月号以来、
証券史談と題して戦後証券史を彩ってきた方々の
特別顧問の岡田亨氏にお聞きしたお話を掲載す
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はいるが、逆はいない」との訓示からも、そのこ
とが窺えよう。
こうしてウツミ屋証券は、昭和四三年九月期以
来、経常黒字を四三期連続で計上された。これは
市況に依存するがゆえに、浮沈の激しい証券業で
は珍しいことと言えよう。連続して経常黒字を計
上し、会社の体力も強化できたところで、昭和五
債券販売への注力を通じて、営業組織の強化が図
めとする債券営業の強化が目指された。こうした
れ、「債券のウツミ屋」を標榜し、金融債をはじ
証券としては比較的早くから、債券業務に注力さ
てこられたことが挙げられよう。それゆえ、地場
を避けるため、創業以来、社員営業を中心に据え
一、親切第一」を経営哲学に、顧客との利益相反
として、地域密着路線を歩まれたのか、といった
にあったのか。一方で、なぜ「偉大なる田舎者」
証会員権を取得されたのか、その目的は一体どこ
可能にさせたのであった。これに関して、なぜ東
勢が、外資系やさわかみファンドとの販売提携を
る田舎者」を志向される。こうした地域密着の姿
たものの、全国展開するわけではなく、「偉大な
得される。しかし一方では、東京に支店は出され
九年には政治問題にまで発展した東証会員権を取
られたものと思われる。二代目社長の「株式営業
点が筆者らの第二の関心であった。
― ―
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打海啓次 氏
で成果を出せても、債券営業で成果を出せない人
証券レビュー 第55巻第12号
ネスモデルについてお聞きいたしまして、後半で
は、広島県、または中国地方の証券業界全体の特
徴なりをお聞きしたいと思っております。まず第
一の論点であります御社の歴史からお聞きしたい
と思います。
御社は昭和二四年五月に設立されますけれど
も、広島は原爆が投下されました。御社を創立さ
れた当時は、広島の街が壊滅状態からの復興過程
今 号 で は、 ウ ツ ミ 屋 証 券 創 業 の お 話 か ら 始 ま
る。そして、「 債券のウツミ屋」を 標榜し、債券
れますね〔呉営業所は昭和二四年、福山営業所は
り間をおかずに呉や福山に営業所を開設しておら
だったと思います。一方で、御社は創業後、あま
業務に注力されたお話、東証会員権取得とその目
ですけれども、いかがでしたでしょうか。
されていたのか、ということからお聞きしたいん
ども、どういったお客さんを相手にしてお商売を
層がいたとは、なかなか想像できないんですけれ
からの復興過程で、それほど株式投資をする富裕
昭和二五年開設〕。私どもからすると、壊滅状態
きしている。
復興下での創業
――本日は、前半に御社の歴史とか、特徴、ビジ
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打海英敏 氏
的、創業者の経営理念などについて、お話をお聞
地場証券界の歴史を聞く ―打海啓次氏、打海英敏氏証券史談(上)―
証券レビュー 第55巻第12号
打 海( 啓 ) 創 業 者〔 打 海 繁 氏 〕 は、 戦 前、 地 場
証券の中でも大きかった鎌田証券で支配人や常務
を務めておりました。しかし、戦局が極度に悪化
した第二次大戦末期に、証券市場は空襲により機
能麻痺に陥ったため、創業者は鎌田証券を去るこ
とにしたようです。そこで、会社に出資したんで
すね〔打海繁氏は、広島鍛造という航空機部品の
下請け工場に五万円を出資し、取締役総務部長に
就任していた〕。その会社は、市外の向洋という
ところに工場がありました。
原爆投下の日までに、新工場増設工事も半ばに
差し掛かっていました。当時、午前中は猿楽橋の
本社で執務、午後は市外の向洋の工場にいるのが
常であったとのことですが、八月六日はたまたま
自転車がパンクしていたため、出汐町の自宅から
直接向洋の工場へ出かけたそうです。それで工場
での被爆となり、硝子の破片による軽微な裂傷だ
― ―
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地場証券界の歴史を聞く ―打海啓次氏、打海英敏氏証券史談(上)―
けですんだとのことです。仮に爆心地に近い本社
に い た と す れ ば、 即 死 は 間 違 い な か っ た は ず で
す。自転車が命の恩人となったわけですから、人
間、何が幸いするかわかりません。
原爆により広島では、一四万人の方々が亡くな
られました。もちろん取引所も焼失し、職員の方
も多数尊い犠牲となられました。敗戦直後は皆さ
んご承知のとおり、食べるものも満足にない本当
にひどい状態であったと聞いております。壊滅状
態の広島は特にそうです。その時、創業者はまず
食べるものだと思ったらしく食堂を開いたようで
す。それは、人気店となり、繁盛していたようで
す。それから四年の時が経ったころ、昭和二四年
五月に東京、大阪、名古屋に取引所が再開され、
七月には広島証券取引所再開の予定と聞くにおよ
び、 創 業 者 の 関 心 は 再 び 証 券 業 に 強 く ひ か れ て
いったとのことです。創業者は「これからの国の
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証券レビュー 第55巻第12号
復興のためには産業資金調達の担い手として、永
年にわたる過去の経験を活かし証券会社を創立し
て祖国の復興に寄与しよう」と決心し、あっさり
食堂を廃業して、アメリカ式の投資家保護の合理
的精神に則った新しい証券業に専念することにな
りました。先ず、六名の友人達を発起人とし、昭
和二四年五月一〇日資本金三〇〇万円でウツミ屋
証券を設立、銀山町に木造平屋建の店舗を設け、
満五〇歳の誕生日である五月二五日を期して営業
を開始しました。社長以下男子五名、女子二名の
世帯が会社誕生の姿でありました。
――御社の創業は昭和二四年五月ですが、創業後
早くから営業拠点を次々に開設されていますね。
打海(啓)
そうですね。創業してまもなくの昭
和二四年から支店を作っています。昭和二四年に
呉営業所、昭和二五年には福山営業所、昭和二六
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年には北浦営業所、防府営業所、竹原営業所、浜
和三五年に光営業所、そして昭和三六年には庄原
年に長門営業所、昭和三一年には三次営業所、昭
因島営業所を開設し、昭和三〇年代には昭和三〇
営業所、昭和二八年に岩国営業所、別府営業所、
かね。
さんを求めて支店を作られたということなんです
島の中でも、市内じゃなくて周りの都市に、お客
れていて、市内だけではダメだということで、広
――しかし、市内のお客さんは方々の会社に取ら
よね。これは、昔から…。
営業所を開設しました。その後も、松江支店、五
たかと思いますが、どういったお客さんを相手に
勃発しますよね。その後、新しい資産家が出てき
は、 昭 和 二 八 年 三 月 五 日 に、 旧 ソ 連 の 指 導 者 ス
タ ー リ ン 暴 落 が あ り ま し た ね〔 ス タ ー リ ン 暴 落
――そうして朝鮮動乱が終わりますと、今後はス
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田営業所の四営業所、そして昭和二七年には徳山
日市支店、可部支店、東広島支店などを開設して
います。
お商売していらっしゃったのでしょうか。
その後に共栄証券金融を設立されたとありますけ
――呉に営業所を開設された翌年には朝鮮動乱が
打海(啓)
それは、証券民主化運動ということ
がありましたし、それと、やっぱり株の好きな人
れども、その目的は何ですか。
ターリンの死去を契機として起きた株価暴落〕。
というのは、いつの時代にもいらっしゃるんです
を急いだと思います。
打海(啓) そうですね。それと、お客様の「もっ
と、近くに」をモットーにしていたようで、出店
地場証券界の歴史を聞く ―打海啓次氏、打海英敏氏証券史談(上)―
ということなんでしょうかね。お客様へのサービ
ませんが、月賦販売したり、金融をつけたりした
だけでしたでしょ。だから、これは定かではあり
転が幸いして三年間で倍増となりましたが、その
昭和四五年から四八年にかけて、予想外の市況好
しろ証券恐慌以後ですね。それは、株式売買高は
打海(啓) 特化した時代もあったんですけれど
も…。「債券のウツミ屋」が本格化したのは、む
債券に力を入れておられたと…。
スということもあったのか、よく分かりません。
〇年九月期は五年前の水準に逆戻りします。一方
打海(啓)
要するに、投資家にお金を貸したん
じゃないですか。戦後の証券取引法は、現物取引
打海(英) 創業者に先見性があったと思います
よ。お客様に株式投資がしやすいように考えたの
で債券部門は、昭和四八年より、新発債売出募集
ら、順調に拡大していくわけですが、昭和四〇年
は、比較的早くに債券業務に参入されたなという
―― あ っ、 そ う で す か。 地 方 の 証 券 会 社 と し て
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後の総需要抑制政策による不況の影響で、昭和五
でしょう。
高は過去五年間のそれと比較して三・三倍、年率
二 七 % の 増 大、 ま た 既 発 債 の 売 買 高 も 七・ 五 倍
増、年率五〇%増大しました。ここに「債券のウ
の証券恐慌では、証券界は非常に大きな不況に陥
印象があったんですけれども…。
ツミ屋証券」と称する所以がありました。
りますけれども、その前からウツミ屋証券は割と
――ウツミ屋証券は、山一証券を母店にされなが
「債券のウツミ屋」として
債券業務に注力
証券レビュー 第55巻第12号
電電債も普通の事業債も取扱いしておりました。
打海(啓) そうです ね。金融債というか、ワ リ
コーには力を入れたと聞いています。もちろん、
から…。
打海(啓)
それはそうなんでしょうけれども、
そんな大規模な入れ替えとかはありませんでした
が非常に重要になってくるかと思うんですけれど
国債の入れ替えとかがあって、コンピュータ投資
とになると、法人相手のお商売になりますので、
――そうですか。債券販売に注力されるというこ
係の会社があったとお聞きしたんですけれども
係の業務では大和証券の系列以外でも、友好な関
昭和四〇年代から五〇年代初期にかけて、債券関
券の奥本〔英一朗〕さんからお話を伺った際に、
ターセンターと提携されますよね。以前、大和証
――そうですか。御社の場合は、山一コンピュー
も、それはあまり…。
打海(啓) もちろん大和さんや岡三さんとも親
しくしていただいたと思います。要するに、うち
…。
案もしていたと思うんですけれども、当時はコン
は手持ちがありませんから、玉を引っ張ってこな
打海(啓)
当時は手計算でやっていましたね。
もちろん、債券部もありましたし、入れ替えの提
ピュータではなく、みんな手計算でしたね。
―― し か し、 そ れ で は 追 い つ か な く な り ま せ ん
レートを乗せて、お客様に販売していたわけです
和さんや岡三さんの手持ちをいただいて、それに
いとお客さんのニーズに応えられませんので、大
か。
― ―
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その他既発債の売買など…。
地場証券界の歴史を聞く ―打海啓次氏、打海英敏氏証券史談(上)―
で、株式と債券を二本柱とする証券会社として、
いたのでしょう。
から…。
――じゃあ、取り次ぎみたいなものですか…。
――今のお話で、債券の仕入れ先として大和証券
債券というリスクをとろうという経営判断をして
打海(啓)
はい。取り次ぎみたいなものだと思
いますね。
――山一は、債券関係はあまり強くなかったと思
…。
店 で は な い で す よ ね。 大 和 と の 関 係 と い う の は
いうようなところで、商品がなければということ
打海(啓)
大和さんもありましたし、岡三さん
もあったり、ワリコーは興銀でしたからね。そう
お持ちではなかったですよね。
ですが、その当時はまだ、御社は東証の会員権を
――こうして「債券のウツミ屋」と称されたわけ
― ―
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の名前が出てきたのですけれども、大和証券は母
うんですけれども、山一からも玉を仕入れて…。
打海(啓) 債券だけです。
―― あ り ま し た か。 じ ゃ あ、 債 券 の 玉 の 仕 入 れ
で山一だけでなく、複数の会社から商品を仕入れ
打海(啓) まだ持っていないですね。
は、大体山一からと考えて…。
ていました。結局、株だけではダメだということ
政治問題にまでなった
東証会員権の取得
打海(啓) 山一もありましたよ。
証券レビュー 第55巻第12号
――その辺が多かったということですね。
とか…。
打海(啓)
それは山一さんです。あと岡三さん
ほうに出されていたんですか。山一ですか。
――その当時は、株の発注は主として、どちらの
一さんの方から「どうですか」という話が来たわ
打海(啓) どこまで言っていいのかちょっとよ
く分からないんですけれども、実はあの話は、山
が競り負けたわけですけれども…。
を挙げましたけれども、結果的にはメリルリンチ
はいかがだったんでしょうか。メリルリンチも手
けですね。山一さんの系列証券が合併して、会員
権があまりましたから。
ね。それで会員権があまったわけですね〔昭和五
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113
打海(啓) 量的には山一さんが一番多かったん
じゃないですか。当時は山一さんが母店でしたか
――御社は昭和五九年に東証の会員権を取得され
九年に山一証券系列の小柳証券が大福証券、山一
――小柳証券と大福証券と、山一投信販売でした
ますが、あのときは東証会員権の取得が国際的な
投資信託販売を吸収合併して、太平洋証券を設立
打海(啓)
あまったわけですね。それでメリル
リンチが手を挙げる前に、山一さんの方から「ど
大問題になりましたね。
――御社が東証の会員権を取得されたときに、い
うですか」と打診があったんです。だから、メリ
した〕。
ろいろなご苦労もあったかと思うのですが、それ
打海(啓) ええ、メリルリンチですね。
らね。
地場証券界の歴史を聞く ―打海啓次氏、打海英敏氏証券史談(上)―
ルリンチは最初じゃなかったんですね。
ちの五%ぐらいの株を持っておられた株主でした
とが根底にあったわけですか。例えば、先ほども
一は、かなり親密な関係にありましたね。そのこ
り提携関係も深めていたということですか。
親密な間柄にあって、それがゆえに早くからかな
――ということは、山一にとっても御社はかなり
から…。
話題に出ましたシステムも、御社は山一のシステ
――それというのは、もともとウツミ屋さんと山
ムを導入しておられましたね。
打海(啓) 昔は十三会という集まりがありまし
て、山一グループの会社は、全部山一さんのシス
ですが、内外〔現在の東海東京証券〕さんだった
内藤さん、あともう一社、昔、御三家と言ったん
― ―
114
打海(啓)
山一さんの系列証券の中では、やっ
ぱりメインは中央〔現在のちばぎん証券〕さん、
テ ム を 使 っ て い た わ け で す ね。 う ち も そ の メ ン
かな。
もらったと…。
打海(啓)
この三社は、十三会の中でも御三家
と言われていましたし、保有株の比率も全然違い
――山一とあそこまで深くシステムを提携してい
たのは、系列、友好証券の中でも、御社はかなり
ましたから。
打海(啓) いや、どう ですかね。山一さんは う
早かったんじゃないでしょうか。
――内外証券。
バーの一つでしたから、同じシステムを提供して
証券レビュー 第55巻第12号
打海(啓)
当時の内藤さんはそうでしたかね。
ほとんどの系列証券が会員権を持っていなかった
東証会員権を取得している〕。
ですけれども…〔内藤証券は、昭和六三年五月に
――当時は内藤証券なんかがそうだったと思うん
打海(啓) はい。
くつかありましたよね。
の中でも、会員権を持っていなかったところもい
――しかし、山一が親密証券というか、系列証券
券、岡徳証券〔現在のアーク証券〕など国内証券
ツ ミ 屋 証 券 の ほ か に も、 メ リ ル リ ン チ、 岡 地 証
年一二月にウツミ屋証券は、東証会員権を一六億
らいだったんじゃなかったでしょうか〔昭和五九
――かなり高かったですよね。たしか一六億円く
たよね。値段も分かりませんから。
んですよ。しかし、あのときは唐突感がありまし
きに、うちの父に「どうですか」と打診があった
うんですが、植谷さんから証券大会かなんかのと
三、九四二万円で取得した。ただし、このときウ
と思いますよ。
――そうすると、山一系列で会員権を持っていな
権の外資への開放は、外交問題にもなっていた〕。
金融市場開放が政治課題となっており、東証会員
七社が取得を希望していた。一方で当時、日本の
い会社も、会員権を欲しかったと思うんですけれ
結果的には、私どもの方が会員権を手に入れまし
ども、そのあたりはいかがだったんでしょうか。
打海(啓)
他社のことは分かりませんが、当時
の山一の会長さん、植谷〔久三〕さんだったと思
打 海( 啓 ) メ リ ル リ ン チ と 競 り 合 い で す か ら
ね。「メリルリンチ有利」との下馬評でしたが、
地場証券界の歴史を聞く ―打海啓次氏、打海英敏氏証券史談(上)―
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打海(啓) うちですか。
も、そのあたりはいかがだったんでしょうか。
シャーもあったんじゃないかと思うんですけれど
御 社 が 会 員 権 を 取 得 さ れ る に は、 相 当 な プ レ ッ
放は、外交問題にもなりましたよね。ですから、
――そうですか。当時、東証会員権の外資への開
いうことを聞いたことがあります。
い会社に会員権が渡るなんて」と嘆いていた、と
た。メリルリンチが、「うちの一支店にも満たな
きという考えと、高い譲渡価格を提示し、山一と
を拡充させるためにも、大蔵省の意向を考慮すべ
しょうしね〔当時、山一証券社内でも、国際業務
メリルリンチの方がよいという考えもあったで
ね。やっぱり山一さんが海外展開をされる上で、
打海(啓)
それはもちろん証券界にも、また山
一証券の中にもそういう考えはあったでしょう
んじゃないかと言う人たちもいましたよね。
ていたわけですから、外資系に開放した方がいい
――当時、東証会員権の開放が外交問題にもなっ
もつながりの深い系列証券に会員権を譲渡すべき
という考えがあったとされる〕。
かったですね。むしろ、ニュースになってコマー
しいとお考えだったんだと思いますが、その目的
――一方で御社としては、どうしても会員権が欲
東京支店開設とその営業内容
シャルベースに乗ったんじゃないかと…。
打海(啓)
うちとしては入札で、競り勝ったわ
け で す か ら、 と く に プ レ ッ シ ャ ー と い う の は な
か。
―― え え。 あ ま り プ レ ッ シ ャ ー は な か っ た で す
証券レビュー 第55巻第12号
― ―
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といいましょうか…。
うではなかったわけですか。
けて、営業拠点として東京でもお客さんを作ろう
とした会社もありますけれども、御社はあまりそ
打海(啓)
もう、東京進出というのがうちの夢
でしたから。
――ということは、東京の支店はあくまでも執行
打海(啓) むしろほとんどが広島出身の…。
だん東京へ行っていたので、そっち側で仕事をし
機能だけを担っていたと考えてよろしいのでしょ
打海(啓) いや、法人部もありましたし、個人
営業部もありましたけれども、個人のお客さんの
うか。
た方が…。
打海(啓) いや、それ はないです。やっぱり 東
京に自支店を出したいということと、場立ちも育
成して、つなぎ手数料を…。
東証上場銘柄の取引を行っており、その手数料を
屋証券は、東証会員権取得前には母店を通じて、
払っておられたと聞いたことがあります〔ウツミ
打海(啓)
個人はそうですけれども、法人は広
島企業に限らず商売をしていましたね、どこでも
…。
――ということは、営業体の戦略はこちらの方で
大半は、広島出身のお客さんでしたからね。
約七億円支払っていたとされる〕。東京に進出し
入っていけるところは入っていったと…。
――つなぎの手数料として、当時七億円くらい支
ていく証券会社の中には、東京支店に営業部を設
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――それは当時、広島企業の財務部とかが、だん
地場証券界の歴史を聞く ―打海啓次氏、打海英敏氏証券史談(上)―
――そうすると、東京は法人関係にも力を入れて
おられたということですね。その際の販売商品と
いうのは、主に債券ですか。
打海(啓) いや、そうじゃないですよ。
――株もある。
「奉仕と対話」と
「儲けるな。しかし損はするな」、
「ゆっくり急げ」
かったわけですね。なるほど。ちょうど、この時
絡みの問題に巻き込まれるということはなかった
――そうすると、今度はバブルのときに法人営業
事故からの教訓だということですね。
があったとお聞きしているのですけれども、その
すよね。それはそのときに何か非常に大きな事故
― ―
118
―― じ ゃ あ、 営 業 特 金 に 伴 う 問 題 と い う の は な
打 海( 啓 ) え え。 債 券 は や っ ぱ り 大 手 証 券 に
レート負けしますでしょう。法人営業なんかでは
期に先代の社長さんが、「儲けるな。しかし損は
ん で す か。 例 え ば 営 業 特 金 だ と か い っ た 問 題 に
うか。
――それは、それほど大きな事件だったんでしょ
打海(啓) そうですね。
打海(啓)
いや、特金営業はほとんどやってい
なかったですから。
…。
するな」という非常に有名な訓示をしておられま
特に。ですから、ほとんどが株式です。
証券レビュー 第55巻第12号
か け て き た わ け で す が、 や は り、「 清 濁 併 せ 呑
第一」の心で営業しようと、それまでも掛け声を
来、顧客に向いた営業をしよう、信用第一、親切
が社長に就任したのは昭和五五年ですが、それ以
たのか」という苦い思いが残ったと思います。父
は、「営業員をそこまで向かわせたものは何だっ
わ れ た 支 店 長 が、 会 社 を 去 っ た わ け で す。 父 に
たんですね。それで、この営業員と監督責任を問
り返して営業成績を水増ししていたことが発覚し
録していたある支店の営業員が、架空の売買を繰
膨れ上がる直前の頃、社内でトップセールスを記
で突き詰めて考えるようになったのは、バブルが
打海(啓) それは、金 額にしたらもう…、大 き
い事件です。父が「儲けるな」というところにま
あとは社員営業でした。そして、その考えで今日
も、向こうから特に頼まれた人だけを採用して、
か ら、 歩 合 外 務 員 は、 い て も 少 人 数 で す。 そ れ
いう青写真を描いていたんだと思うんですね。だ
すよね。創業時に、証券民主化とあわせて、そう
のところの社員で営業するという考えだったんで
念である「信用第一、親切第一」があって、自分
す。やっぱり創業者の経営哲学というか、経営理
も、たぶん、歩合外務員は少数だったかと思いま
と思いますね。その昔はよくは知りませんけれど
打海(啓) うちはほとんど歩合外務員を使って
いないですね。いたとしても一人か、二人だった
んありましたけれども、御社はあんまり…。
券には歩合外務員に大きく依存する会社がたくさ
― ―
119
――大阪でも東京でもそうですけれども、地場証
む」と言うか、昔の株屋の雰囲気が残っていたの
までずっとやってきたということになりますね。
打海(英)
一人か二人と言いましても、諸事情
かと…。
地場証券界の歴史を聞く ―打海啓次氏、打海英敏氏証券史談(上)―
れてうちの歩合外務員になってもらったとか、そ
が、証券営業を続けていきたいというので、頼ま
ているんだけれども、もう定年を迎えるという人
たと聞いております。ですから、お客さんを持っ
極的に歩合外務員を採用したということはなかっ
があって採用した歩合外務員ですから、うちが積
完全子会社に…。
せんでしたけれども、その八幡さんも藍澤証券の
国展開しましたから、八幡さんくらいしかありま
だったと思います。広島といっても東洋さんは全
打海(啓)
今となっては、みんな一緒になって
い る と 思 う ん で す け れ ど も、 当 時 の う ち は 例 外
例外的だったんでしょうか。
― ―
120
れくらいじゃないでしょうかね。
「偉大なる田舎者」を
選択した理由とは
さんは昔、廣島証券と言って、高井証券と一緒に
――今、東洋証券の話が出ましたけれども、東洋
――広島の会社は、大体そんなものですか。
か〔昭和四二年三月に廣島証券は高井証券と合併
そういう道を選択されなかったのはなぜでしょう
なって全国展開されましたけれども、御社として
もそういう道もあったかと思うんですけれども、
――ということは、御社が広島の同業者の中では
打海(啓)
うちはほとんどが正社員です。全部
と言っても言い過ぎではないと思います。
ちょっとあったぐらいでしょうね。
雇うというのがほとんどでしたから、そのときに
そ れ と、 会 社 を 創 業 し た と き は、 ま だ 各 社 と
も、戦前にやっておられた人を歩合外務員として
証券レビュー 第55巻第12号
転した〕。
して廣島高井証券と社名変更し、本店を東京に移
も、今ある広島中心に広島、山口地域の中で店舗
出ていますからね。人の問題もありますし、中途
者の経営哲学というか経営理念としてはっきりと
半端に他のエリアに行って他社と食い合うより
打海(啓)
そもそも出しても東京、大阪くらい
としか考えていなかったですから。
選択をする会社が、身近にあったわけですけれど
――なるほど。東洋証券のように全国展開という
員 数 は、 平 成 三 年 三 月 期 に 記 録 し た 五 〇 四 人 で
らね〔ウツミ屋証券の歴史の中で、最も多い役職
それでも社員の数が五〇四名までいっていますか
か。
た 理 由 は、 ど う い う と こ ろ に あ っ た の で し ょ う
あったかと思うんですが、御社が前者を選択され
ていくという方法と、全国展開するという方法が
というときに、今言ったように、地域で手を広げ
免許制導入を受けて、新たな経営の段階へ進もう
とですか。それだけのマーケットがあったんです
賄えるだけの商いがこの広島にはあったというこ
てコストが割高になりますよね。しかし、それを
く必要になってきますよね。つまり、他社に比べ
社員営業ですよね。そうすると、固定費が物すご
で支店をたくさん出されていますね。営業マンも
――お話をお聞きしていますと、御社は早い段階
― ―
121
を展開するという方がよかったと思うんですね。
も、採らなかったという理由というのはどういう
あった〕。
打海(英) いや、「地域密着」というのが、創業
の広島、山口への店舗展開は非常に稠密ですね。
ところにあったのでしょうか。また一方で、御社
地場証券界の歴史を聞く ―打海啓次氏、打海英敏氏証券史談(上)―
えていたと思いますね。たしかにコストの問題も
る証券会社として何ができるか、ということを考
おりましたから、地域のお客様にとって身近にあ
打海(啓) マーケットがあるかないかではなく
て、お客様の「もっと近くに」をモットーとして
か。
平成一六年から二六年にかけて(平成一九年を除
八、〇〇〇株の買い入れ消却を行い、その他にも
四 〇 一 万 四、 〇 〇 〇 株、 平 成 一 九 年 に 四 七 八 万
なっております〔ウツミ屋証券は、平成一五年に
が、 平 成 二 七 年 三 月 期 は 四、 六 九 一 円 二 八 銭 に
社分割している〕。また、一株あたりの純財産は
平 成 二 年 三 月 期 に は 一、 三 二 七 円 五 〇 銭 で し た
あります。しかし、それは経営努力で解決するし
く )、 二 七 七 万 七、 〇 〇 〇 株 の 買 い 入 れ 消 却 を
一九四億三、六〇〇万円でしたが、平成一九年三
持たない外資系証券から見れば、御社や四国の香
――なるほどね。そうすると、日本国内に支店を
― ―
122
かありません。
行っている〕。いずれにせよ、地域密着を選択し
たのは、正解だったと思いますね。
月期の時点では三一五億五〇〇万円になっていま
川証券といった地域に密着している証券会社は、
外資系証券や
さわかみ投信との提携
す〔ウツミ屋証券は、平成二〇年一月一日付で会
打海(英) はい、四三 期連続経常黒字です ね。
それから、純財産はバブル期の平成二年三月期は
て経常黒字を継続していた〕。
屋証券は、昭和四三年九月期以来、四三期連続し
――過去ずっと連続して黒字でしたよね〔ウツミ
証券レビュー 第55巻第12号
した。
打海(啓)
欲しかったでしょうね。話はありま
かなり魅力的だったでしょうね。
んですか。他にもあったんですか。
は、ドイツ証券とモルガン・グレンフェルだけな
――仕組債とかですか。そういった他社との提携
申し出て来たというふうにお聞きしているんです
ン・グレンフェルといった外資系証券が、提携を
打海(啓) いや、それは全く考えなかったです。
せんよね。
――そうですか。しかし、販売提携はされていま
打海(啓) そうですね。SBIなども…。
けれども、地域に密着した営業マンをお持ちです
打海(啓)
彼らの商品を売れば、それは喜びま
すけれども、澤上〔篤人〕さんと販売提携されて
――他方、さわかみ投信は直販を基本としていま
から…。
すよね。
商品だったんでしょうか。
――外資系が持ってきた商品というのは、どんな
打 海( 英 ) そ れ は、 父 が 昭 和 五 〇 年 代 後 半 に
「儲けるな。しかし、損はするな」と儲けない経
でしょうか。
すが、それはまたいったいどういう理由からなん
いますよね。これは、御社だけだと聞いておりま
打海(啓) それは、仕 組債や外債など、その 辺
の商品ですよね、当時は。
営をという話が先程出ましたね。その理解者が中
― ―
123
―― そ う で す か。 御 社 に は ド イ ツ 証 券、 モ ル ガ
地場証券界の歴史を聞く ―打海啓次氏、打海英敏氏証券史談(上)―
長期の資産運用を目的とした投資信託を提唱する
「さわかみ投信」の澤上篤人社長でした。勉強会
に澤上社長をお呼びしたのが二人の最初の出会い
めには、社員一人ひとりが運用能力を身につけな
うです。会社ではなくお客様に儲けていただくた
そかにすれば、何も残らないと気付いたことだそ
でしたが、東京だ、海外だと浮かれて地元をおろ
致したのは、当時、「猫も杓子も総合化」の流れ
道」は何か、を話し合った時、意見がぴたりと一
文受付から開始している。その後、平成一〇年一
ネット取引は、平成九年一一月に営業時間外の注
打海(啓)
早いです。松井さんと一緒ぐらいの
ときに始めたんですよ〔ウツミ屋証券のインター
取引もされていますね。
他方で、御社はかなり早くからインターネットの
――なるほど。そうやって来られたわけですね。
早期のネット取引への参入と
ネット取引の位置づけ
ければならないというので、その後、数年をかけ
〇月からネットでの注文受付を二四時間化してい
― ―
124
のようです。「地場の証券会社が生き残っていく
て澤上さんには、ウツミ屋の全店を回って社員教
る〕。
打海(啓)
松井さんもそのぐらいですよね〔松
井証券は、平成一〇年四月からインターネット取
――そうですね。平成九年ですね。
育の手伝いをしていただきました。こうしたご縁
ファンドを取扱せてもらっていました。
が あ っ て、 ウ ツ ミ 屋 証 券 は「 さ わ か み 投 信 」 の
証券レビュー 第55巻第12号
――そうですね。
あった〕。
トで取引可能にしたのは、日本で初めてのことで
能で、信用取引やオプション取引をインターネッ
は、現物株および信用取引、オプション取引が可
引 に 進 出 し た。 松 井 証 券 の イ ン タ ー ネ ッ ト 取 引
が起こるとか、そういうことを各社の経営者の方
――対面営業をなさっている会社が、ネット取引
打海(啓) そうですね。
京証券〕、丸八証券がネット取引を開始していた〕。
券、ウツミ屋証券、東海丸万証券〔現在の東海東
券〕、今川証券〔現在のリテラクレア証券〕、豊証
始するまでに、日興証券〔現在のSMBC日興証
んじゃないでしょうか〔平成八年四月に大和証券
り遅れずに御社もネット取引を開始しておられた
――大和、日興が松井より前に始めていて、あま
で、どうせネット証券に逃げるんだったら、うち
打海(啓) やっぱりありましたよ。しかし、大
口のお客さんが他社へ逃げていったりしましたん
がだったんですか。
― ―
125
を始められると、営業マンとの間でコンフリクト
打海(啓) たしか、二、 三カ月か半年違いだ と
思うんですね。
がインターネットを経由した取引を開始したこと
でネット取引をやってもらった方がいいよねと、
がおっしゃるんですけれども、御社の場合、いか
を嚆矢に、ネット取引に参入する証券会社は増え
そういう考えでしたね。
後、松井証券が本格的なインターネット取引を開
続 け て い く。 大 和 証 券 が ネ ッ ト 取 引 を 開 始 し た
地場証券界の歴史を聞く ―打海啓次氏、打海英敏氏証券史談(上)―
ね。
時間が夕方の五時から翌朝三時までだけでしたよ
――ネットを始められたころは、ネットでの受付
打海(啓) そうですね。ただ、専業大手五社ぐ
らいで八割を占めているのではないですか。
るんですが…。
いらっしゃるのは、証券界全体で六〇社ぐらいあ
の は、 営 業 員 と の 関 係 を 考 え て と い う こ と で す
けですが、最初、時間を夕方から晩に限っていた
――そして、その後、二四時間化していかれるわ
ですか。
やると、手数料の水準はどのぐらい違ってくるん
――そうです、そうです。やっぱりネット取引を
――システムの問題が大きかった。
打海(啓) 取引高は、もうほとんど一緒です。
すか。
― ―
126
打海(啓) 昔はそうでした。
か。
打海(啓) 十分の一ぐらいになるんじゃないで
すか。もっとも、売買金額によって違います。
――差し支えなければ、御社の注文のうち、どの
打海(啓) ええ。
――半々ぐらい。
ぐらいが対面で、どのぐらいがネット取引なんで
――あっ、そうですか。今、ネット取引をやって
んです、当時は。
打海(啓)
それも考えましたけれども、むしろ
システムが追いつかなかったんじゃないかと思う
証券レビュー 第55巻第12号
やってくださいというところからスタートしてい
く ん だ っ た ら、 う ち に も あ り ま す か ら、 う ち で
また、囲い込みの一つのツールとして、よそに行
でも個人のお客さんへのサービスの一つとして、
打 海( 英 ) そ う い う 時 代 に な っ て い る ん で す
ね。うちの場合、ネット取引というのは、あくま
打海(啓)
そうですね、五分五分というところ
ですかね。
う発想ですよ。だから、その一つの方法として、
ができるか、お客さんのために何ができるかとい
というのは、当社の場合、お客さん目線で考え
ますから。つまり、お客さんにどういうサービス
証券とは違うんですよ。
スタートしたものですから、ちょっとネット専業
いというお客さんへのサービスと囲い込む一つの
ら、うちにもありますから、うちでやってくださ
るんですね。
す。
びてきたわけですが、うちの立ち位置は、ちょっ
でいらっしゃいましたし、またそういう手法で伸
動かせばいいか、どういうふうにしたらつながる
ですか。だ から、昔はお客さんは、「ど うやって
打海(啓)
コールのお客さんにしても、ネット
のお客さんにしても、支店が近くにあるじゃない
ネット取引もありますよということで始めたんで
とそことは違っていたんです。早くから始めては
の か 」 を 聞 き に、 支 店 に 来 ら れ て い る ん で す よ
― ―
127
受け皿として、ネットもありますよということで
ですから、ネットに特化しているネット証券、
松井さんとか、マネックスさんとかは、スタート
いたんですけれども、ネット証券で生きますよと
ね。今は大分違いますけれども。
時点で、かなりシステムに大きなお金をつぎ込ん
い う こ と で は な く て、 他 社 へ 行 か れ る ん だ っ た
地場証券界の歴史を聞く ―打海啓次氏、打海英敏氏証券史談(上)―
――つまり、ネットでやりたいけれども、パソコ
打海(啓) ネットと対面の間ですよね。
でしょうか。
社の場合は、コールはどういう位置づけになるん
――コール取引の位置づけなんですけれども、御
打海(啓) ええ。
――お客さんに担当者をつけて…。
打海(啓) そうなっています。
すか。
がついているんですけれども、御社もそうなんで
――そうですね。岩井のコールは、顧客に担当者
――ということは、お客さんからアクセスが来る
― ―
128
ンを操作するのは面倒くさいとかいう人ですか。
打海(啓)
面倒くさいし、ちょっとは銘柄のア
ドバイスもしてほしいというお客さんへの対応で
打海(啓) アドバイスしないお客さんもいらっ
いお客さんもあるんですか。
――アドバイスをされるお客さんもあれば、しな
打海(啓)
アドバイスもするお客さんと、アド
バイスしないお客さんを分けています。
ね。
と、担当者が出て、アドバイスをされるわけです
打海(啓)
そうですね。岩井さんは全国展開し
ていますよね。
…。
えば岩井証券〔現在の岩井コスモ証券〕なんかは
ころが、他社でも幾つかあるんですけれども、例
――コール、ネット、対面の三つをやっていると
すね。
証券レビュー 第55巻第12号
しゃいます。
――そうすると、コールの手数料水準とネットの
ね。
手数料水準は、やっぱりちょっと違うわけですよ
――それはどういうふうに…。
ネットもそうですけれども、相場次第ですね。今
打 海( 啓 ) こ れ は も う 相 場 次 第 で す。 う ち の
コールはあまり募集物が強くないので、もちろん
――コールの手応えってどうなんでしょうか。
打海(啓) それは、違います。
…。
――じゃあ、手数料も分けていらっしゃるわけで
すね。
打海(啓) 手数料は一緒です。
――でも、それをやると人件費がかかってくるわ
打海(英) これも、お 客さんのことを考え、 ま
た、利便性を考えて始めたことですね。
けれども、バブルの崩壊以後、提案外交とポート
――なるほどね。時期がちょっと前後いたします
ユニークな研修制度である
「株の達人コンテスト」
の相場だと、両方ともいいんですけれども…。
けでしょう。
フォリオ営業の強力な推進を謳うとともに、人材
――一緒ですか。
打海(啓) ええ。
― ―
129
打海(啓)
それは入り口で、どうされますかと
地場証券界の歴史を聞く ―打海啓次氏、打海英敏氏証券史談(上)―
ていただきました。そういうところへどんどん勉
それから、先ほど話が出ました十三会にも勉強
会がありましたし、岡三さんにも色々と勉強させ
研修も結構おこなっていました。
打海(啓) これは一般的にどこもやっているこ
とは、当社でも強力にやってきております。海外
います。
はどんなものか、ちょっとお聞かせ願えればと思
ますけれども、具体的な人材の育成方法というの
なり力を入れていらっしゃったように拝見いたし
こそが企業の根幹だということで、人材育成にか
レゼンをしていくわけですから…。
いですか。だけど、それぞれの強みを生かしたプ
わけですね。基本的に相場観って十人十色じゃな
て、商品やら相場の説明をしていくわけです。プ
いて、二〇分の持ち時間でプロジェクターを使っ
を実施するのです。時には、審査員は顧客の方に
域の選考で勝ちあがった人を集めて、本社で本選
われ、「株の達人」を目指して立ち上がり、各地
しています。毎年、各支店、各本部で予備選が行
む具体策として、「株の達人コンテスト」を開催
――銘柄のプレゼンテーションは、今でもやって
ロとして説明の腕比べ、説得力など真剣勝負する
て、通常の研修ではなかなか身につかないのは、
いらっしゃるんですか。
― ―
130
お願いすることもあり、株式の見通しや銘柄につ
強に行って知識をつけさせるということは、もち
お客様相手に商品をどういうふうに説明するかと
打海(啓) はい。株の達人コンテストをね。
場観、銘柄観に於いて、プロとして常に研鑽に励
いうことですよね。世界の金融、証券の動きや相
ろんやっていました。他方、ユニークな研修とし
証券レビュー 第55巻第12号
ますね。なかなか大変そうです。
――達人コンテストね。それはなかなか力がつき
ないですか。
けですけれども、山一が破綻しましたよね。その
ンのシステムも、山一のものを入れておられたわ
後というのは、やはり困ったことがあったんじゃ
打海(啓)
ほかのことは、みんなどこもやって
いるような研修ですが、株の達人コンテストは、
打海(啓)
それはシステムが一番困りました。
山一のシステムは、メリルリンチが購入したんで
ユニークな研修じゃないかと思いますね。それと
座禅を組むというのもありました。
――メリルリンチから、使わないでくれと…。
すよね。だから、早めに出ていってくれというこ
とで…。
な っ て、 そ こ へ 行 っ て 座 禅 を 組 む と い う こ と を
由だったかは忘れましたけれども、なぜか懇意に
やっていましたね。ユニークな研修としては、そ
打海(啓)
そうです。期限はかなりありました
けれども…。それでシステム探しをしました。N
んなところですかね。
RI〔野村総合研究所〕さん、大和さん、JIP
〔日本電子計算〕さんとか何社かのシステムを比
ん で す よ。 そ れ で、 そ の 中 か ら よ く 検 討 し た 結
山一証券の破綻とその影響
――ちょっと先ほど話題に出てきたんですけれど
果、大和さんのシステムを入れることにしたので
較したんですけれども、山一さんに比べたら高い
も、御社の場合は山一と非常に近くて、オンライ
― ―
131
打海(英) 昔はね。新 入社員がね。広島に座 禅
を組めるところがありまして、そことどういう理
地場証券界の歴史を聞く ―打海啓次氏、打海英敏氏証券史談(上)―
す。
――それでネットも大和のシステムを使われたわ
けですか。
打海(啓) そうです。 ですから、山一さんが 破
綻 し て 困 っ た の は、 シ ス テ ム の 問 題 が あ り ま す
持っていたので、それを買い入れ消却しないとい
けなかったんですね。
――買い入れ消却…。
じゃないですか。
打海(啓) 多分うちだけだと思うんですね。
――他社は非常に困っていましたよ。だから、自
社株をいろんなところに…。
打海(啓)
そうですね。うちは全部買い入れ消
却して…。
――そうですか。それはやっぱり蓄積があったか
ら。
打海(啓) まあそうですね。
打海(英) 財務体質がよかったので…。
り聞かないですね。
打海(啓) 会計士や税理士を通じて値段査定も
してもらって、全部買い入れ消却しましたね。
―― 山 一 に 株 式 を 持 っ て も ら っ て い た 中 小 証 券
打海(英) でも、今、考えても、正解でしたね。
――買い入れ消却して解決したというのは、あま
は、ほかにも何社かあったかと思うのですけれど
も、買い入れ消却をしたところは、他にはないん
― ―
132
ね。 そ れ と、 山 一 証 券 が う ち の 株 を 五 〇 〇 万 株
証券レビュー 第55巻第12号
――そうですね。
か。
――一五団体ぐらいあったんですか。ところが、
注 文 はそんなにたいし たことはな かった わ けで す
打海(啓)
よそに出すよりも、よかったんじゃ
ないかなと思いますよね。
打海(啓)
全然たいしたことない。飲み会みた
いなものですからね。
んですけれども、その状況はいかがですか。
なり熱心にやっておられるようにお聞きしている
――それが解決された後、投資クラブの設立もか
に密にやっていたということですね。これもお客
打海(英)
そうですね。もともとこれで儲けよ
うというふうなことで始めたわけではありません
は結びつかなかったということですか。
投資クラブの設立と
個人投資家育成
打海(英)
投資クラブというのは、最初の段階
は一生懸命やっていましたよ。投資クラブのチラ
さんのためにということですね。
― ―
133
――それじゃあ、あまり実際的なビジネスにまで
シを作って、配ったりしてですね。
ばいいんですけれども…。むしろ、皆さんの楽し
て、株を買うんだったら、クラブで決めてもらえ
から。しかし、当社はお客様との関係では、非常
打海(啓) 今はもうダメですよ。
たかな。
打海(英) 当時は、結構いったですね。
打海(啓)
一五クラブぐらいかな。もっとあっ
打海(啓) 月に一回でも仲間が集まるわけです
から。それで、うちの株式担当が相場観をお話し
地場証券界の歴史を聞く ―打海啓次氏、打海英敏氏証券史談(上)―
みはその後ですね。その後、皆さん一緒に食事を
せんでしたけれども、友達の輪は広がったんじゃ
が集まるわけですから、それほど注文は集まりま
ないですかね。
されたりしていましたから。
――なるほどね。あまり皆さんの投資を集めて長
期運用するというふうには、ならなかったという
※ 本稿は、ウツミ屋証券株式会社特別顧問岡田
亨氏にご同席頂き、二上季代司、小林和子、深
見泰孝が参加し、平成二七年五月二五日に実施
されたヒアリングの内容をまとめたものであ
る。文責は当研究所にある。
※ なお、括弧内は日本証券史資料編纂室が補足
した内容である。
― ―
134
ことですか。
たと思います。たしかに、あまり見知らぬ人たち
たちが、支店に口座を開いていくという流れだっ
意見がありますから、それを議論して、彼ら彼女
打海(啓)
支店長が話す銘柄情報を、小一時間
聞くわけですよ。その後、彼ら同士の中にも違う
よね。
す け れ ど も、 日 本 で は 個 人 個 人 で さ れ て い ま す
――アメリカではそれで結構よくやっているんで
打海(啓)
まあそうですね。そういうふうに考
えてもらっていいです。
証券レビュー 第55巻第12号
地場証券界の歴史を聞く ―打海啓次氏、打海英敏氏証券史談(上)―
打 海 啓 次 氏
略 歴
昭和31年11月9日 広島県出身
昭和55年3月 慶應義塾大学法学部卒業
昭和55年4月 山一証券株式会社入社
平成元年7月 同社シンジケート部課長(~平成4年3月)
平成4年4月 ウツミ屋証券株式会社入社
平成4年6月 同社常務取締役(~平成8年6月)
平成5年6月 同社東京本部長兼東京引受部長(~平成9年2月)
平成8年6月 同社専務取締役(~平成15年6月)
平成9年2月 同社東京総本部長(~平成13年2月)兼東京引受部長
(~平成10年12月)
平成10年12月 同社営業推進本部長(~平成18年4月)
平成15年6月 同社副社長(~平成18年4月)
平成18年4月 同社代表取締役社長(~平成20年1月)
平成20年1月 ひろぎんウツミ屋証券株式会社代表取締役社長(~現在)
平成20年1月 ウツミ屋証券株式会社取締役(~現在)
打 海 英 敏 氏
略 歴
昭和35年6月27日 広島県出身
昭和63年3月 明治学院大学法学部卒業
昭和63年4月 岡三証券株式会社入社
平成3年10月 ウツミ屋証券株式会社入社
平成4年3月 同社東京本部国際部長(~平成9年2月)
平成7年6月 同社取締役(~平成9年6月)
平成9年2月 同社東京総本部国際部長(~平成10年12月)
平成9年6月 同社常務取締役(~平成15年6月)
平成10年12月 同社営業推進本部ウツミ屋ネットサービスセンター長
(~平成12年10月)兼商品開発部長(~平成15年6月)
平成15年6月 同社専務取締役(~平成20年1月)兼コンプライアンス危機
管理室長(~平成18年6月)
平成20年1月 同社代表取締役社長(~現在)
平成21年6月 ひろぎんウツミ屋証券株式会社取締役(~現在)
― ―
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