ふるさと散歩 № 31 H28.4.18 日立市郷土博物館 《道標シリーズ20 訪ね歩いてみませんか? ひたちの道標》 「日高町-栄蔵小屋道の道標」 ■日高町1丁目の道標…小木津駅の南西約 300m、県道 日立いわき線の傍ら、ひだか歯科クリニック入り口脇の歩道上に建てられ ていますが、40 年ほど前までは、現在地から駅へ 20~30mほど寄った分岐 点に建てられていました。右写真では、左端の部分に当たります。(話と写 40 年前の分岐点付近の風景 真提供は大森政美さん:田尻町在住) ★ 栄蔵小屋道の道標…道標は、大きさは高さ 120cm、最 大幅 70cm の三角形を呈した、泥質凝灰岩の自然石です。この泥質凝灰岩 は付近の崖にある日立層に含まれている石です。付近の崖から切り出し 県道日立いわき たか、海岸の転石を運んだものと考えられます。この石の特長は比較的 線の「黒磯」バス 柔らかいことです。そのため、風化に弱く、刻まれた文字もあまりよく 停 残っていません。ちょっと見た目では、何と刻まれているのか判断しか ねます。今回の調査で撮った写真では文字はよく判読できませんでした が、昭和 50 年代に撮影した写真や拓本からは、 「自是栄蔵小屋道」と判 読できます。建立年は、風化したのか、刻まなかったのか確認できませ んでした。あと数十年もすれば、読めなくなってしまうことでしょう。 ★「栄蔵小屋」とは?…江戸時代の前半、田尻村の海 岸には、栄蔵という名の法師が島に小屋を建てて修行をしたことか 40 年前の写真(大森さん提供) ら名づけられたとされる「栄蔵小屋」と呼ばれる小さな島があり ました。徳川光圀が陸地から島に橋を架けさせ、島に渡ったとい う話が伝わっています。 元禄 10 年(1697)に書かれた旅日記『ひたち帯』の中に、次 のように書かれています。「川尻の浜などを過ぎて栄蔵小屋とい ふ島山を見る。この島山むかしは田尻村の山につづきたりしが、 あらき波風にいつとなく崩れたへておのずから島となれりとぞ。 ~島はみないはほにして、まわりち七町もあるべき~」。 (栄蔵小 屋と周りの岩礁を合わせて、周囲が 7~800mもあったのでしょ う。 )また、元禄 15 年の『元禄常陸国絵図』の中にも、陸地と島 の間に橋が描かれています。(『新修 日立市史』(上巻P503))さら に、およそ 100 年後の『水府志料』では、栄蔵小屋について「東 西七間分、南北四間余り、高三条余り、海中に突出す~」とあり ます。この栄蔵小屋は海岸段丘が波や風雨の浸食により、陸地か ら離れて島状になったもので、この小島は、やがて浸食に耐えら れずに消えていきます。それにしても元禄 10 年ころには、小屋 「自是栄蔵小屋道」読めるでしょうか が建てられるほどの大きさのあった島が、明治時代末には浸食され海中に没してしまったというのです から、驚くべき浸食の早さです。 ★ 昨年、発見された「栄蔵小屋の描かれた屏風」…栄蔵小屋の 存在が描かれた「常陸国名所図屏風」が、昨年発見されました。島に渡る橋は欄干のついたもので、島 には松の木々が生い茂り、小屋が島の中央に描かれています。島の絶壁の上で酒宴を催す人々、島の周 囲の岩礁間を小舟で進む人々の様子など、遊山風景が描かれています。 (詳しくは、 『市民と博物館』116 号 参照) 参考文献: 『ひたちの野仏』第2集北部地区(1986) 『新修 お問い合わせ先 日立市史』 (1994) 『ふるさと探訪』 (1999) 日立市郷土博物館 ℡(23)3231 『茨城県歴史の道調査事業報告書』Ⅲ(2015) 『道中記にみる江戸時代の日立地方』 (2008) Fax(23)3230 歴史資料調査員 綿引 逸雄
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