ひたちの大地に 56号 粘板岩(3)江戸以後(PDF形式 277

ふるさと散歩
№ 56
H28.9.20
日立市郷土博物館
《石シリーズ10
■
粘板岩③―助川砥石 》
近世・近代の砥石
かつて、大工さんは作業の途中でも刃物の切れ味が悪くなると砥石で研ぎ、夕方はノミやカンナの刃
を研いで一日を終えていました。また、鎌を扱う農民は腰に砥石を下げて作業をし、切れなくなるとす
ぐに鎌の刃を研いでいました。どちらに従事する人も砥石を大事に扱っていました。刃物を扱う人にと
って、砥石は貴重品であり、消耗品でした。
現在、一般の人が使うカンナは替え刃式になり、砥石を使って研ぐことも少なくなりました。技術が
ない人が研げば、かえって切れ味を悪くすることが多く、かつての大工さんも研ぎが一人前になるのに、
10 年近くを要したとも聞いています。現在市販されている砥石の多くは人造砥石であり、天然砥石は
生産が少なく高価なものとなりました。
★江戸時代…水戸藩内の産物をまとめた小宮山楓軒著『水府志料』物産編(文化 4 年・1807)
には、金、銅、鉛・・・石炭に混じって、
「砥(と)」として、
「金沢、大久保、木葉下等処々に産す」と載
っています。同書村落編には、「助川村 散野(山野)之内所々より出す。四方にひさぎ、助川砥と称
す」、
「大久保村 砥石 羽黒澤の奥ヌクトヤと云処より出す。宮田、助川、会瀬、諏訪、大久保、金沢、
瀬谷(常陸太田市)七カ村にてほりとる。先年多くは会(相)賀砥と称し、諸方にひさぐ。」とあります。
このように多賀山地で採られて製品化された砥石は各地に売られてい
ました。このことによって日立地方の農民は田畑での生産にのみ携わっ
ていたわけではなく、商品経済にも関係していたこともわかります。
当時、有力な農民は藩に税を納めて砥石を採っていたことがわかって
います。
『大田村御用留』
(宝暦 4 年・1754)によると、毎年、金 243 両
余りを藩に納めていました。
砥石には、その目の粗さから粗目(荒砥)、中目(中砥)、細目(仕上
げ砥)があります。多賀山地の砥石はその中の中砥にあたり、包丁や鎌を
研ぐのに適していたようです。特に、大久保村のものは産出地が砥沢(戸
助川青砥(産出地や運び出さ
れる港の名がつくことも)
沢)と呼ばれたように良質のものとされました。
★助川青砥の名前が広まる…金沢村から助川村にかけて
産出した良質の砥石は近代までにほとんど掘りつくされたようです。しかし、
諏訪の堂平国有林内にたくさんの原石があることが発見され、明治 41 年
(1908)
、地元諏訪の人が 8 人で法人会社「常陸青砥製造所」を設立して、砥
石採掘、販売が始まりました。大正 2 年(1913)には、年間 300 トンもの生産
があり、製品は北海道、東北地方から南は山梨まで、時には台湾・朝鮮まで
出荷され、助川青砥は愛用されました。
★戦後の助川青砥…戦前は 200 人ほどが青砥製造・販売に従事し
ていました。戦後も多くの人が従事していましたが、人造砥石の出現により、
助川青砥のラベル
需要が徐々に減り、平成 10 年(1998)を最後に「助川青砥」の採掘は終了し
てしまいました。
★助川青砥生産のビデオ…助川青砥生産の様子を記録したビデオがあります。市の視聴
覚センターが平成 2 年に制作したもので、最近では視聴覚センターがユーチューブにアップしたものを
見ることができます。http://youtu.be/utBraP3aYhg
参考文献:『ふるさと探訪―日立の再発見―』
(1999)
『子や子孫に語りつぐ成沢のあゆみ』(1995)
お問い合わせ先: 日立市郷土博物館
℡(23)3231
『新修
日立市史』
(1994)
『日立市鮎川流域の調査報告書』
(1973)
Fax(23)3230
歴史資料調査員
綿引 逸雄