日本最古の灌漑用コンクリート造重力式ダム ﹁ 日 本 最 古 の 灌 漑 用 コ ン ク リ ー ト 造 重 力 式 ダ じ す ム﹂ 。 ﹁国の登録有形文化財﹂ 。 え ばた 江 畑 溜 池 へ と 足 を 向 け る に は、 こ の 二 つ の キャッチフレーズで充分だった。江畑溜池のある あ 耕地課長・武富憲時によって刻まれ 緯はつきとめられなかったが、武富 憲時の名は、建設の中心となった県 技師として残されている 山口市阿知須江畑溜池堰堤 ライター 石井 里津子 山口県山口市︵旧阿知須町︶へ向かう。 ている。県耕地課長による揮毫の経 ぶりながら美しい曲線を描いている。 欄干に触れてみる。角の取れた小さな石粒の触 感 が、 ﹁コンクリートは冷たい﹂というイメージ とは異なるあたたかみを指先から伝えてきた。 あっという間に渡り終えた。堤長六十八・八m。 天端幅二・五m。堤高は十四・四m。竣工は、昭和 五︵一九三〇︶年十二月。昭和三年二月に国庫補 助が確定し、総工費九万五千五四八円余をかけ、 を潤す達者者である。これも、高い技術と 県事業で完成した。八十五年経った現在も水田約 三十 。 三十四歳であった。 池を新築したことにはじまる。このとき、徳田は であった万年池水系の水不足を解消せんと江畑溜 ︵ 一 八 五 五 年 生 ︶ が 総 代 と な り、 村 の 米 作 り の 軸 年、 当 時、 井 関 村 村 会 議 員 で あ っ た 徳 田 譲 甫 じょうすけ そこに一人の男の執念があった。舞台は、阿知 須町となる前の、井関村。明治二十二︵一八八九︶ 当時の村長・徳田譲甫の執念 物語は、明治半ばまでさかのぼる。 のだろうか ︱ 溜 池 に、 早 期 に 立 派 な 堰 堤 が で き た の は な ぜ な も 数 あ る 溜 池 の な か、 決 し て 大 き く は な い 江 畑 な み に 山 口 県 の 溜 池 の 数 は、 全 国 四 位。 県 内 で ︱ なぜ、この地に﹁日本最古﹂の灌漑用コンクリー ト造重力式の堰堤ができたのだろうか 。ち 今日までの管理がなせる技だろう。 ha 田んぼや民家を横目に小高い山の中へと入って 行く。瀬戸内海周防灘までほんの数キロという場 所である。 江畑溜池の周囲はゴルフ場が開発され、 車は難なく坂道を上がっていった。 ほどなくして、高さ三∼四mほどの石碑が目に 飛び込んできた。駐車場や遊歩道はなく、木々に 囲まれた﹁溜池竣功記念碑﹂と山口市教育委員会 による看板が建つのみだ。秋の行楽日和だという のに人影はなく、とても静かだった。 奥に進むと視界が開けた。いぶし銀のような深 い灰色をした堰堤が向こう岸︵左岸︶へ伸びてい る。天端の欄干は、ぽってりと丸みを帯び、側面 の装飾は蒲鉾型と愛らしい。堰堤中央部の取水塔 も半円形だ。花崗岩の張石で組まれた堤体も、小 昭和9年建立の竣功記念碑は山口県 忘 れられた大 地 の 物 語 を 求めて 江畑溜池堰堤 (山口県山口市阿知須) 39 土地改良 288号 2015.1 ● 明治二十二年十二月に完成したものの、翌年、 豪雨で決壊。谷筋の被害は甚大で広範囲に及んだ ため、地区住民の怒りの矛先は徳田に向かった。 その状況に徳田は密かに村を脱出し、事態が収ま るまで村を離れたほどだったという。 それでも徳田は、江畑溜池の再建の夢を捨てな かった。明治二十四年、 村長に就任するやいなや、 江畑溜池再建計画を打ち出す。六千二百円の予算 のうち千円は、溜池決壊賠償金とした。当然のご とく谷筋からの反対が強く、計画は頓挫。だが徳 田は、 災害補償だけは身銭を切って実施している。 江畑溜池が完成すれば、この地の歴年に及ぶ水 不足問題は解消する。ゆえに徳田は、再建にこだ わり続けた。徳田家の跡継ぎ・文作を東京大学工 学部土木工学科に進ませるほどの力の入れよう だった。その結果、柔らかい土質の江畑谷では一 般的な溜池工法では決壊を免れないことが明らか 昭和六年十一月、江畑溜池の水が大地を潤した その秋。七十六歳の徳田翁は他界した。 徳田の執念ともいうべき情熱を声高に語る者 は、今やい ない。だが、その思いに 触れたとき、 建造物や景観が雄弁に語りはじめる。多くの人に その声を聴いてほしいと願うものの、現在の江畑 溜池堰堤は、個人的な訪問者が時折あるぐらいだ という。山口市教育委員会にたずねた。 ﹁ 駐 車 ス ペ ー ス も 狭 い で し ょ う。 残 念 な が ら、 遠 足 な ど で 小 学 校 も 行 っ て い ま せ ん し、 見 学 ツ アーなどの利用もされていないのが現状です﹂ 農業水利施設は、より積極的に文化・教育施設や 観光資源としてとらえ直すことで多くの人に浸透 し共有化される。堰堤美を愛でるのも良し。農業 水利や土木技術を学ぶのも良し。築造に奔走した 人物の生き様を知るならば、個人と地域とのかか わりや、苦境を乗り越える精神なども知りうるこ とができるだろう。 人の熱意が込めら れたコンクリート は、あたたかい。次 世代を生きる子ども たちが江畑溜池堰堤 を手がかりに、そん な発見をしてくれれ ば、うれしい限りで 貯水側に降りると、 半円形の美しい取水塔も眺められる になる。こうして徳田は、新たな工法を取り入れ んと国や県へ働きかけていったのである。 同 時 期、 徳 田 は 山 口 県 会 議 員 に 当 選 し、 明 治 二十三∼三十六年まで務めている。村長職も明治 三十二年まで務め、その後、明治四十一∼四十五 年は衆議院議員として活躍の場を国政へと広げて いる。その第一のねらいが、江畑溜池再建にあっ たかどうか定かではないが、当時、県政や国政に 通じえた徳田の存在が、日本最古の灌漑用コンク ある。 ● 土地改良 288号 2015.1 40 リート造重力式ダムをこの地にもたらしたと考え るのが自然だろう。 少し離れた下流側から江畑溜池堰堤を望む。 小さくともヨーロッパの古城のような風情が 漂う。平成13年10月、文化庁登録有形文化財 (建造物)に登録 長さは68.8m。堤体積17,100㎥、貯水量450,000㎥。 満水面積10ha、流域面積115ha。管理は万年溜池水 利組合
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