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昭和初期ピオニール運動の組織と教育
増山, 均
人文学報. 教育学(11): 91-138
1976-03-31
http://hdl.handle.net/10748/2949
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Departmental Bulletin Paper
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http://www.tmu.ac.jp/
首都大学東京 機関リポジトリ
昭和初期ピオニール運動の組織と教育
序
増 山 均
大正末から昭和初年にかけての労働運動・農民運動の高揚の中で、ほんの短期間ではあったがピオニール
︵労農少年団︶が全国的規模で組織された事実は、戦後の教育史研究によって明らかにされている。しかし、ピ
オニール運動の中身の発掘と、それのもつ教育的意義の解明は必ずしも前進しているとはい、之ない。ピオニール
に関する戦後の研究状況を簡単にふりかえってみよう。
戦後、ピオニール運動の遺産への注目は、すでに﹁日本民主主義教育協会﹂︵﹁民教協﹂︶の少年組織研究部会
緕l九年十二月︶発足による戦後子ども会活動の実践と研究の中ではじめられていた。﹁民教協﹂は、発足と
同時に七つの研究部会のひとつとして少年組織研究部会を設け、積極的に活動を展開した。敗戦直後、焼け跡から
の復興をめざして全国各地で急速に組織されはじめた子ども会の実践研究にとりくんだのである。会の中心メン
バーの中に、戦前からピオニール運動に直接かかわってきた菅忠道・川崎大治氏らがいたことによって、戦前の
運動の経験が直接に伝えられた。部会の活動成果をもとに、一九四九年﹃子ども会 指導者のために ﹄︵ナウ
カ社︶が発行されたが、その中で﹁日本における子どもの解放運動﹂として戦前日本のピオニール運動の経験にも
91
(一
注目がむけられていた。
しかし、藝目史研究の分野から本格的な注目がはじまるまでには、かなり時を経ねばならなかった・小川太郎9
編﹃日本教育の遺産﹄︵明治図書講座﹃学校教育﹄第二巻、一九五七年五月︶が、最初の本格的なとりくみであろう。
同書は、﹁民主、王義教育を否定して過去の国家主義の教育へ逆行しようとする動きが目立ってきた、まさにその時
占⋮に宝て、量主義の立場から過去の量義の教育の伝統をふりかえり、これを踏まえこれを発展させよう
とする﹂意欲に満ちたものであった。戦前のピオニール運動は、同書所収の駒林邦男論文﹁プロレタリア教育運
動﹂の中でふれられている。﹃日本教育の遺産﹄に前後して、この時期教育史研究の分野から戦前のプロレタリア
教育運動への注目がすすみ、その中でピオ〒ル運動の歴史的性格への評価が書かれるように三勺︶
ところが、この時期の研究におけるピオニールへの評価に共通している特徴は、まずきびしい弾圧の中でとり
くまれた運動の意義は重要なものとして認めつつも、運動の性格については﹁政治主義的﹂、﹁公式的﹂と否定的・
ヨ 清算的に描き出す傾向がつよかったことである。それらの評価は、研究の第一次資料ともいうべき運動当事者の
証言や、出版物.ビラなどが十分に発掘されていない条件の下で、もっぱら支配権力側の調査資料の記述を有力
な根拠としてなされたものであった。当時の研究条件に強く規定されていたとはいえ、貴重な運動の遺産をくみ
とる際に、その段階で運動全体の性格に右のような規定を与えることが妥当であったかどうか改めて検討されね
ばなるまい。その際注目すべきは、戦前のピオニール運動について﹁政治主義的﹂、﹁公式的﹂といいあらわされた
現象が、運動上あるいは教育上の問題としてどのような矛盾をかかえていたのかを分析することにあるだろう。
運動の当時者の手によって作られた第一次資料の発掘によって、戦前日本のプロレタリア教育運動の全体像を
明らかにし、その上で遺産を正しく評価していこうとする作業がはじまるのは、一九五九年﹁新教懇話会﹂︵のち﹁教
育運動史研究会L︶の発足によってであった。五〇年代後半の勤務評定反対闘争から六〇年の安保闘争を体験した
︵4︶
教師たちの﹁日本の民主教育・国民教育の思想の系譜と、教育運動の実践に根ざした歴史的遺産﹂を知りたいと
いう渇望にこたえ、会による発掘・研究の新しい成果をとり入れて出版された﹃日本教育運動史﹄全三巻︵井野
川潔・川合章他編、一九六〇年︶所収の二論文 菅忠道﹁東大セツル児童部と労農少年団の思い出﹂︵第一巻︶、
中内敏夫﹁ピオニールの成立と性格﹂︵第二巻︶ は、後のピオニール発掘・研究の基礎となるものであった。
その後﹁教育運動史研究会﹂の努力により、運動の第一次資料となる﹃ピオニールトクホン﹄の発掘、雑誌﹃新
興教育﹄の復製、あるいは運動当事者の証言の収集がなされ、現在ピオニール研究の資料的前進が整えられつつ
︵5︶ ︵6︶
ある。また、そうした作業を基礎にして、当局側資料の批判的検討にもとりくまれ、従来の評価に対する再検討
が な さ れ てきている。
その後、六〇年代にすすめられた資料的前提の整理と実証的研究の前進を背景に、戦前日本のピオニールに焦
点をあわせた本格的な研究が始められた。そのひとつは、中村拡三﹁少年運動と﹃新教.教労﹄ ピオニール
運動に焦点をあわせて ﹂︵﹃教育運動史研究﹄第十号、一九六八年九月︶であり、もうひとつは、土屋基規
﹁新しい教育の形態としての労農少年団﹂︵﹃教育﹄一九七〇年六月号︶である。前者は部落子ども会に脈々と生
︵ 8 ︶
きつづけるピオニールの伝統を発見し、それを掘り起こすことによって、戦前の水平運動と深くかかわるピオニ
ールの全体像を歴史的に明らかにしようとした最初のピオニール史研究といえよう。後者はそれまでの教育運動
史研究の成果をもとに、ピオニール運動のもつ教育的意義の解明へ研究を一歩前進させようと試みたものであった。
︵9︶
ピオニールの組織と活動がもつ教育的役割への注目は、すでにソビエトにおけるピオネールの紹介の影響を受
︵10︶ 93
けて、集団主義教育を追求する立場から訓育的機能への注目が向けられてはいたが、いずれにしろ、昭和初期の
ピオニール運動が内包していた教育的意義の解明は着手されたばかりであり、遺産の批判的検討と民主主義的伝
統の摂取は十分に果たされているとはいえない。
その原因は、第一にピオニールに関する資料の発掘や聞きとりの作業が系統的に進められておらず、運動の全
般的状況および個々の活動内容・方法が十分明らかにされていないことにあろう。そして第二には、ピオニ
ールをも含めて戦前・戦後にとりくまれた校外子ども組織の歴史と系譜を全体として明らかにし、そこに流れる
進歩的伝統を正しく受けついでいく課題を切実に求める実践母体が育っていなかったことを示すものでもある。
現在、校外の少年少女組織とその教育をめぐる問題の解明は切実であると同時に複雑である。一九六〇年代から
七〇年代にかけての﹁高度経済成長﹂政策に起因する子どもの生活と教育の破壊の実態は、学校教育への改革の要
請とともに、校外における少年少女組織のあり方と方向についての歴史的検討を求めている。この小論は、以上
の研究.実践状況をふまえ、貴重な遺産をひめた昭和初期のピオニール運動から教訓をひき出すために、まず資
料を検討.整理して組織と活動の状況を明らかにし、その上で運動のもつ教育的意義を解明しようとするささや
かな試みである。
94
コ和初期のピオニール運動の概観
戦後のピオニール運動史研究において第一の手がかりにされた資料は、﹃新興教育﹄一九三一︵昭和六︶年七月
号︿ピオニール特輯﹀の田部久︵北村孫盛︶論文﹁日本に於ける無産少年運動の発展﹂である。田部は、前年創
立された﹁新興教育研究所︵新教︶﹂に設けられた十二の研究会のひとつ﹁ピオニール研究会﹂の責任者であった。
戦前におけるピオニール研究の第一人者であった彼は、すでに前掲論文を発表した年の五月に、わが国のピオニ
ールに関する唯一の歴史書﹃無産少年運動﹄︵白鳳社︶を著していた。同書は、同年二月に翻訳された﹃サヴ
ェートロシアのピオニール運動﹄︵ゾーリン著、希望閣︶や﹃第三期とプロレタリア青年﹄︵マヌイルスキー、ヒタロ
フ、フェルンベルグ著、希望閣︶に学びながら、国際ピオニール運動の歴史、任務、形態、方法、現状を要約して
紹介しつつ、日本の無産少年運動の発展過程を分析したものであり、この著書の第四章﹁日本に於ける少年運動の諸
問題﹂をさらに発展させたものが前掲論文であった。田部の論文を検討しながら、まず昭和初期のピオニール運動
について概観しておきたい。
︵11︶
田部は﹁我が国のプロレタリア少年運動は、その自然成長的発展段階において三つの特質を表はしている已と
述べ、①児童の学校に対する闘争、②プロレタリア児童の成人の闘争への参加、③水平運動における児童の闘争
を指摘している。大正末年から昭和初年にかけての時期は、内外の資本主義体制の予盾が極度に激化し、労働
者・農民の経済的・政治的闘争が全国的規模で増大している時であった。労農階級の子どもたちは、欠食問題や
娘の身売りなどきびしい生活状況に追いこまれていたが、小作争議・労働争議に立ち上がった親たちの闘いにふ
れる中で自主的・集団的に争議の手伝いをするようになっていく。特に争議戦術のひとつとして採用され
95
一、
た小学児童の同盟休校戦術の中で、自然発生的ではあったが親たちによる労農少年少女の組織化がはじまる。田部
のいう三つの特質の中で﹁成人の闘争への参加﹂は、最も重要な契機となるが、木崎村小作争議︵新潟県︶や野
田醤油労働争議︵千葉県︶での少年少女の組織と活動は、この時期全国的に注目されたとりくみであった。
それらの動きが基礎になって、昭和に入ると目的意識的な組織化が各地ではじまり、全国的なピオニール運動
として急速に発展していく。労農児童の組織化にとりくんでいた労農団体に目的意識性を持たせる契機となった
ものは、プロレタリア文化運動の発展の中で翻訳紹介された、ソビエトやドイッのピオニールの経験や、共産主
義青年運動の組織的成長によって導入された国際的なプロレタリア少年運動の方針であった。田部は﹁意識的発
展期﹂を一九三〇︵昭和五︶年十月からとし、﹁我が国プロレタリア少年運動の意識的発展の決定的な契機は一九
二八年︵一九二九年の誤りであろう 引用者︶に於ける国際プロレタリア少年運動の決定的方向転換に基く
︵12︶
ものであり、特に、青年コミンテルンの執行委員会の決議によるもの﹂と指摘している。
戸13︶
ピオニール運動についての最初の本格的な方針は、一九二八︵昭和三︶年八月、青年コミンテルン第五回大会で決議
された。この方針は、同大会で正式に加盟を承認された日本共産青年同盟 ︵﹁共青﹂︶によってわが国にもたら
︵14︶
され、翌年二月の﹁任務に関するテーゼ﹂の中にもりこまれている。これがわが国におけるピオニール運動を方
向づける最初の基本的な組織方針となった。そこでは、次のような方針が提起された。
﹁今日反動が強いとは云へ、小作争議、労働争議に於ける頻々たる児童の盟休、少年団の出現等は、この運
動の可能性を充分に示すのであって、この運動は、プロレタリア団体の支持の下に発達する。我々は工場、農
村、学校を基礎として、独立の全国的組織を作るべきであるが、現在に於ては先づ労働組合、農民組合、解放
運動犠牲者救援会等に少年部を作り、又地方的に少年団を組織し、これらの基礎より独立の全国的組織に進む
96
べきである已
︵15︶
コミンテルン第五回大会での方針は、共産党ー青年同盟ーピオニールという組織方針であったが、天皇制支配
権力による弾圧によって非合法下におかれた﹁共青﹂は、直接ピオニールの組織にあたることが不可能であった
ために、日本においては労農大衆団体による少年部の組織という現実的方向がうち出された。ところがコミンテ
ルンのこの方針は、ピオニール組織に党、青年同盟の組織方針を機械的に適用していたため、実践的にはセクト
的な﹁少年の党﹂を作り出していくことになった。そのため田部の指摘にある青年コミンテルンの執行委員会は、
一九二九︵昭和四︶年十一月から十二月にかけて総会を開いて運動を総括し、大衆的なピオニール運動の展開に
向けて﹁方向転換﹂を提起したのであった。そこでは青年コミンテルン第五回大会の方針を自己批判し、﹁少年
︵16︶
の種々の才能や欲求より出発して、共産主義少年運動の活動の内容は異常に多面的であらねばならない已と指摘
している。この決議は各国のピオニール運動の大衆的発展の基礎となったが、さっそく日本語にも翻訳され、
﹃インタナショナル﹄誌︵一九三〇年八月号︶に掲載された。また総会におけるフェルンベルグの報告は、のち
に前掲﹃第三期とプロレタリア青年﹄に決議とともに収録され、わが国のピオニール運動の方針作成に大きな影
響 を 与 え ている。
﹁共青﹂の基本方針にもとづき、さらに青年コミンテルンの方針転換に学びながら、労農少年少女の組織にあ
たった労農組合が独自の方針を作成するのは一九三〇︵昭和五︶年に入ってからである。全国農民組合︵﹁全農﹂︶
は、第三回大会︵一九三〇年四月︶で﹁少年部確立の件﹂を審議し、同年九月青年部代表者会議では、﹁少年部
︵17︶
対策の件﹂が決議され具体的な方針を持つに至った。﹁全農﹂青年部がピオニール組織方針を少年部の組織とい
う形で具体化して全国的なとりくみを開始した一九三〇︵昭和五︶年から翌年にかけて、わが国における労農少 9
98
年団︵ピオニール︶運動はピークをむかえる。この時期﹁全農﹂だけではなく、消費組合・労働組合・全国水平
社など無産階級の解放闘争の中で少年少女の組織化が目的意識的に追求され全国的なひろがりをみせている。
そしてとりわけ、日本教育労働者組合︵﹁教労﹂︶新興教育研究所︵﹁新教﹂︶の成立二九三〇年八月︶にょって、
vロレタリア科学の一環としての新興教育の科学的建設﹂の中に位置づけられる。ピオニール運動にとりくむ
教育労働者が積極的にかかわるようになると、校外におけるピオニール組織の持つ教育的機能への注目が始まり、
あ して新しい教育の形態.内容.方法を生み出しつつあったが、﹁満州事変﹂二九三一年九月︶の開始とともに加速度
このように、昭和初期に発生したわが国のピオニール運動は、労農階級の闘いの中で集約された教育要求に根ざ
けの教材研究がはじめられていっ た 。
年八月十日発行︶を編集し、﹁新教﹂からは﹃ピオニールトクホン﹄が定期的に発行され、プロレタリア児童む
強い要請にこたえてピオニールむけの教材が作られる。﹁全農﹂青年部は﹃全農ピオニーロ夏季教程﹄︵一九一一二
育労働者により﹁学校単位﹂のピオニールが組織されはじめた一九三一︵昭和六︶年後半になると、実践からの
として、のちに黒滝チカラの松の花ピオニールや脇田英彦の馬入ピオニールを生み出していく基礎となった。教
である巴とのべ、﹁労農少年団を学校につくれ!﹂というものだが、﹁新教﹂による最初のピオニールの組織方針
っいての一提案﹂をしている。この提案は、﹁学校単位のピオニールこそ真実によく動ける合理的なピオニール
︵20︶
は俺達の組合を作って地主資本家と戦おう!﹂と呼びかけ、さらに横山芳夫のペンネームで﹁ピオニール組織に
︵19︶
五︶年十月号に設けられた﹁ピオニール欄﹂の中で﹁俺達も農民組合と協力してピオニールを応援しよう!俺達
てピオニール組織化への関心をつよく喚起していく。会の責任者であった田部は、﹃新興教育﹄一九三〇︵昭和
実践者からの要請に応じて、﹁新教﹂ピオニール研究会は運動の理論化にとりくむとともに、教育労働者に対し
「
を増した天皇制支配権力による熾烈な弾圧によって発展の道をとざされ急速に衰退していく。その後支配権力は、
︵21︶
一方でピオニール組織の解体をすすめつつ、他方では文部省訓令﹁児童生徒二対スル校外生活指導二関スル件﹂
二九三二年十二月十七日︶を発し校外児童に対する管理的統制を強力に推進していくが、天皇制支配権力の弾
︵22︶
圧によるピオニールの消滅過程は、同時に帝国主義的侵略戦争に全面的に協力する﹁大日本青少年団﹂結成︵一
九四一年一月︶にむけての権力的統制の過程となった。
Aピオニールの組織状況
⑤﹃社会運動の状況﹄︵内務省警保局︶ 9
④﹃思想研究資料﹄第六号︵司法省刑事局一九三三︵昭和八︶年九月︶
③﹃プロレタリア教育運動﹄下︵文部省学生部一九=ゴニ︵昭和八︶年四月︶
②﹃無産階級教育運動に就て﹄︵検事藤田三郎一九三二︵昭和七︶年三月︶
①﹃思想調査資料﹄第九輯︵文部省学生部一九三一︵昭和六︶年二月︶
資料︹1︺ 支配権力側の調査資料
以下に述べるような手続きと取り扱いによって再整理を試みた。
もまずピオニールの組織状況を整理しておきたい。その際、わたしは次の︹1︺・︹n︺・︹m︺の資料にもとづき、
らかにされている。ピオニールの実践内容とその教育的意義を検討するに当って、氏の研究に学びながらわたし
わが国における昭和初期のピオニールの組織状況については、すでに中村拡三氏の研究によってその概略が明
1、資料の整理にあたって
一一
資料︹11︺ 0
10
︵i︶労農団体発行の機関誌・紙および当時出版された著書
︿機関誌﹀
⑤﹃婦人運動﹄ ︵一九二三年創刊 職業婦人社︶
①﹃文芸戦線﹄︵一九二七年六月創刊労農芸術家連盟︶
◎﹃戦 旗﹄ ︵一九二八年五月創刊全日本無産者芸術連盟︶
④﹃国際文化﹄ ︵一九二八年十一月創刊国際文化研究所︶
⑤﹃童話運動﹄ ︵一九二九年一月創刊新興童話作家連盟︶
①﹃少年戦旗﹄ ︵一九二九年五月創刊 全日本無産者芸術連盟︶
@﹃産業労働時報﹄ ︵一九二九年六月創刊産業労働調査所︶
⑤﹃女人大衆﹄︵一九二九年+月創刊全国婦人連盟︶
①﹃農民闘争﹄︵一九三〇年三月創刊農民闘争社︶
①﹃新興教育﹄︵一九三〇年九月創刊新興教育研究所︶
⑪﹃消費組合運動﹄ ︵一九三二年九月創刊 日本無産者消費組合連盟︶
︿機関紙﹀
①﹁水平新聞﹂ ︵一九二四年六月創刊 全国水平社︶
⑯﹁無産者新聞﹂ ︵一九二五年九月創刊 無産者新聞社︶
⑥﹁労働農民新聞﹂ ︵一九二七年創刊 労働農民党︶
⑥﹁赤 旗﹂ ︵一九二八年二月創刊 日本共産党︶
⑤﹁無産青年﹂ ︵一九二八年七月創刊 日本共産青年同盟︶
⑥﹁消費組合新聞﹂ ︵一九二九年二月創刊 日本消費組合連盟︶
︿著書﹀
㊦﹃プロレタリア児童文学の諸問題﹄ ︵槙本楠郎著、世界社、一九三〇年四月︶
⑤﹃無産少年運動﹄ ︵田部久著、白鳳社、一九三一年五月︶
①﹃全農ピオニーロ夏季教程﹄ ︵全農青年部本部、一九三一年八月︶
⑤﹃ピオニールトクホン﹄第一輯︵新興教育研究所、一九三二年二月︶
⑤﹃ピオニールトクホン﹄第二輯︵新興教育研究所、一九三二年三月︶
︵23︶
︵H︶各地のピオニール組織当事者により作成されたビラ・パンフレット
資料︹m︺
④当時の一般新聞および雑誌類
◎戦前の労農団体に関する研究書および運動史類
資料︹1︺の①から⑤は、いずれも治安対策、言論思想の取締り対策のための⇔資料としてまとめられたもの
であり、①から⑤には当局の手で整理されたピオニールの一覧表が掲げられている。
①は一九三一︵昭和六︶年一月現在、②は一九三一︵昭和六︶年二月現在、③は一九三二︵昭和七︶年十二月
現在、 ④は一九三二︵昭和七︶年末現在の調査結果とあり、いずれも各ピオニールを設立年月日順にならべ団 1
10
員数、設立の動機、主たる活動、背景としての組織団体名が記されている。②③④は明らかに①を参考にして作
最も多あピオ〒ル名︵四±懇︶をつらねているが・調査の誤りや誤植をそのまま掲載したり已オ〒m
られ、時代をくだるごとに新しい調査結果を順次書き加えていったものと思われる。したがって数の上では④が
ルでないものまでピオ〒ルとしてつけ加えたりしてい㌔︶ ,
また、そこに記述された内容を詳細に検討するとすぐわかることであるが、そのほとんどすべてが資料︹H︺
の労農団体の雑誌論文や著書を引用したり再構成したものである。さらに資料︹1︺のピオニールに関する記事
に共通して見られる特徴として、治安対策上﹁階級意識の注入﹂、﹁児童の赤化﹂の﹁事実﹂を摘発することに力
が注がれ、ピオニールの実際の活動内容が正しく反映されていないという点に注意しなければならない・したが
って資料︹1︺は、ピオニールの発掘・調査にむけてひとつの手がかりにはなるが、その内容については批判的
な検討が必要であり、慎重に取り扱わねばならないであろう。
そこで、この小論においては資料︹1︺をまず最初の手がかりとしつつも、当時者による運動側の資料︹H︺
を基本にすえ、さらにその上で資料︹m︺を参考にしつつ、ピオニールの組織状況を年次ごとにまとめてみるこ
とにした。
2、年次ごとのピオニール組織状況
︵
︿
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田ル一井ニオ仁ピ
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合組費消
島福
1肌19
町ル巴 二名オ小ピ
④③②DG
農全
森青
6皿1
造ル ﹁ ニ オ木ピ
⑤④③
所組作製宮雨労
④③②
農全
④③
農水全全
京東
宮ル亙 二橋オ淀ピ
2註19
梨山
宮団 年 少 産二無
2社19
良奈
2肌1
上ル 一 ニ オ挾ピ
146/パ3抽⑤
農全
⑤④③
組労
梨山
団年少産無府国
4阯19
庫兵
田B鵬
区ル地5一立ロ東二市 オ戸神ピ
④③
農全
梨山
4鯉19
津ル 一 ニ オ船ピ
⑤④③
農全
京東
5蹴1
連部府年京四東地農4全第
④③5⑪/213皿曙 12B認
農全
④③
労教
森青
賀ル 一 ニ オ猿ピ
6社19
川奈神
6吼1
入ル 一 ニ オ馬ピ
⑤④③
農全
野長
頃8社19
部部支口田年農全少
農全
京東
頃8社19
部ル支一塚 二浮農オ全ピ
1 07
①
司︵
∋︵
司︵
農全
⑤
農団全女目少ー年二少
梨山
農全
和ル一石ニオ小ピ
梨山
水全
議ル争一革ニオ皮ピ中木北高
12社19
庫兵
農全
山歌和
6社19
高ル一ニオ日ピ
∋︵
盟同年青産無
梨山
村ル一地ニオ福ピ
⇒︵
農全
田秋
村ル﹁田ニオ吉ピ
京東
盟ル連竺”二けオ知ピ
和
︵
料資
者織組
地在所
舶麟結
衿
︿
名ル一ニオビ
の
昭
19 32
3°8に/337⑭/51069.川司3 3①⑥
水全
1332①
農全
都京
正団年養少
42.呪
山歌和
32.皿
置ル﹁ニオ日ピ
④③
農全
16/5訓◎
農全
木栃
16/5訓⑥
山岡
農全
田.秋
区ル一地二谷オ塩ビ
52.団
52.呪
部ル旦村財田部年番少
52.隅
ロル[ノニオ樋ピ
会組費消
京東
5眩19
島会好柳仲
5/6釧④
合組費消
京東
6眩19
布会供麻子
β720Uー④32⑥③
味合雛鯛沖消
縄沖
62.鵬
縄会好沖仲
農全
川︵
労教
∋︵
④③
農全
労ル教一二野オ長ピ
野長
潟新
浦ル,一ニオ吉ピ
72.隅
取鳥
9記19
岡ル[ニオ河ピ
10 8
⇒︵
農水全全
山岡
村ル一ニオ郷ピ
水全
水全
20/5訓◎
水全
山岡
村ル[二田聞家軒財三
山岡
田ル一ニオ名ピ
山岡
田ル一ニオ富ピ
農全
司︵
農全
潟新
村ル一田ニオ和ビ
田秋
屋ル一ニオ畑ピ
合組費消
京東
崎ル一ニオ大ピ
﹀年8和昭︵3319︿
料資
者繊
地在所
朋年︶成結
名ル一ニオビ
水全
20/8副⑨
水全
⇒︵
水全
重三
ル一二財熊朝
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社団平水年州長少
鰯1
山歌和
5鋭呪
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農全
⑤
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︶
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農全
⑤
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︿
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さ
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1 09
⑤
れて い
だ
れて い
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年
昭 和 11
19 36
れて い
だ
年
研田
q 93 5
年
0 9
19 34
◎
なおこの一覧表は、これをまとめるに当って、さきに述べたような手続きをとりつつも、次の諸点が欠落して
10
いるために不十分なまとめになっている。 1
ω、実際に組織と活動に携わった関係者の証言を十分に得ていないこと。
②、個々のピオニールで発行されたビラなどの第一次資料が、まだほとんど発掘されていないこと。
③、当時出版された雑誌・新聞のピオニールに関する記事すべてに目を通し得ていないこと。
今後これらの点を補いつつ、あらゆる角度から昭和初期のピオニール運動の歴史的全体像を明らかにしていく
ことを課題として残し、 以下この小論ではとりあえず、限られた資料の分析を通してピオニールの組織と教育
をめぐる諸問題について考察して い く 。
三、ピオニール運動をめぐる諸問題
1、ピオニール運動の成立過程と用語問題
﹁ピオニール﹂︵勺㌣巳Φ吋ドイツ語︶は、革命後のソビエトにおける共産青年同盟︵コムソモール︶第五回大
会二九二二年︶以後、党.共青の指導のもとに組織された共産主義少年同盟に端を発している。革命前から青少年
に対して根づよく組織の手をひろげていたボーイスカゥト運動に対抗して、新しい社会の建設にむけての﹁開拓
者﹂ ﹁先駆者﹂となるべき少年少女の組織として創設されたのがピオニールであった。ソビエトでのピオニール
運動の経験は青年コミンテルン︵キーム︶の指導で世界各国に伝えられ、革命運動のひろがりの中で国際的に組織
されていった。コs。Φ¶ ︵ロシア語︶の日本語訳は﹁ピオネール﹂と表記され、当時普及されていた国際共通
語のエスペラントでは﹁ピオニーロ﹂と呼ばれている。
︵26︶
わが国では、主にドイツ語文献の翻訳を通して紹介され、一九二八︵昭和三︶年末ごろから﹁ピオニール﹂の語が
使われはじめている。特に、日本共産青年同盟︵﹁共青﹂︶が、青年コミンテルン第五回大会︵一九二八年八月︶の方
針にそって﹁任務に関するテーゼ﹂二九二九年二月︶の中にプロレタリア少年少女の組織化を位置づけて以来意識
的に使われるようになった。﹁共青﹂によってわが国で最初の方針が出されたのと同じ月、日本プロレタリア
︵27︶
作家同盟の創立総会が開かれたが、そこでプロレタリア児童文学作家猪野省三は、﹁童話についての報告﹂をし、
その中で﹁労農少年団︵ピオネール︶の組織に助力する﹂と述べている。一九二九︵昭和四︶年初頭、﹁共青﹂
の方針や猪野報告の中で、労農少年団1ーピオニールと明確に把握されて以来、当時各地の労農争議の中に生まれ
ていた﹁児童盟休団﹂、﹁労農少年団﹂、﹁無産少年団﹂の発展方向をさし示す統一的用語として全国的に普級して
いったようである。
ただし、ピオニールの語が運動の当時者や子どもたちによって意識的に使われるようになるのは、一九二九年
末から一九三〇年に入ってからになる。わが国で最初のピオニールといわれる豊里労農少年団︵一九二八年九月
゜ ° ° ° °︵28︶
結成︶をはじめとして、一九二九年に生まれた労農少年少女組織は、資料をみるかぎりでは、発足当時自らを﹁ピ
オニール﹂とは公称せず、土睦少年少女争議団、加納岩無産少年団、山之神民衆少年団と呼んでいる。一九二九
年に生まれた少年団のその後の発展過程の中でピオニールの用語が意識的に使われていったようである。三〇年
に入り、全国農民組合東京府連合会が青砥、水元、佐野に少年部を組織した時には自分たちを﹁ピオニール﹂と
公称し、その時までに作られていた少年団をも﹁○○ピオニール﹂と呼ぶようになっていた。
したがって、一九二九︵昭和四︶年は、労農争議の中で発生したわが国のプロレタリア少年少女組織が、﹁共青﹂
11
の方針やプロレタリア文化運動の援助を媒介として、目的意識的で全国的なピオニール運動へと飛躍的に発 −
展していく年となった。この年に発行された﹃戦旗﹄や、創刊された﹃少年戦旗﹄、﹃童話運動﹄には、わが国に 2
11
おけるピオニール運動の成立過程がリアルに反映されている。
2、ピオニール運動の全般的状況
つぎに運動成立後のピオニールの組織と活動の全般的状況についてみておきたい。全国的なピオニールの状況
は、労農団体の会議や機関誌・紙を通じて広く交流されていた。
一九三〇︵昭和五︶年十二月、御崎陸平︵菅忠道︶は、﹃新興教育﹄誌上に﹁一年間の少年運動の概観﹂をまとめ
ている。彼はその冒頭を﹁我が国に於ては未だ共産主義青年同盟は存在しない。従って正しい意味に於けるピオ
ニールは無い訳だ。だがその母胎たる可き種々の労農少年団、組合少年部の組織結成は進歩的青年の少年に対す
さる、のは遠い日ではない已と展望していた。御崎論文の指摘どおり、一九三〇︵昭和六︶年には労農大衆団体
︵29︶
る関心の深まりと共に全国的に巻き起さる・に至った已と書き起こし、﹁我が国に於ても共産主義青年同盟が結成
︵30︶
によって少年少女の組織化が積極的にとり組まれ全国的な運動として発展している。
﹁全農﹂では、前年度青年部が独立部門となって以来、少年部の組織化に目が向けられ一全国的な少年部組織
方針の作成にむけて各支部で実践的なとりくみが巻き起こっていた。北海道、宮城、埼玉、東京、秋田、千葉、
山梨、神奈川、静岡、長野、大阪、三重、兵庫、鳥取、島根、福岡、熊本など、活動地域が点から面へと全国的
規模で発展しつつあった。
また、和歌山では、六月にぼたん工場の労組青年部が、争議を契機にわが国最初の労働組合による田辺ピオニ
ールを結成した。九月には、東京の大島製鋼争議の中でプロレタリア少年団が作られ、労働組合によるピオニー
ルの組織化も始められた。
同じく九月、岡山県久米郡三保村錦織の小学校に端を発した未解放部落児童への差別事件は、﹁全農﹂﹁全水﹂
が一体となった大闘争へと発展し、特に水平社はこの事件に総力をあげてとりくみ、﹁俺たちの学校﹂の開設か
らピオニールの結成へと導いた。﹁全農﹂との共同闘争によって闘われた三保村での経験は、水平運動における
︵31︶
従来の少年少女水平社の組織を、意識的・恒常的なピオニール運動へと飛躍させていく重要な契機となるもので
あり、その後、﹁全水﹂によるピオニール組織が急速に増加していく。
関東消費組合連盟でも子どもたちを消費組合活動に参加させ、少年部の組織をはじめた。六月には、東京の大
島隣保館に消費組合のピオニールが生まれ、八月には、同じく東京で落合消費組合ピオニールが作られている。
消費組合運動もその全国的なひろがりの中で少年部ピオニールの組織を開始したのであった。
こうして、労農大衆団体によるピオニールの組織化が全国的に拡大していく中で、同年八月、﹁新教﹂が創立
された。﹁新教﹂は、創立と同時にピオニール研究を開始し、教育労働者に﹁学校単位のピオニール組織﹂を呼
︵32︶
びかけた。また﹁教労﹂も十一月に発表された行動綱領の中に﹁労農少年団の組織﹂を掲げている。
労働者・農民の経済的・政治的運動の広がりを背景として、一九三〇年に入ると農村、都市工場、学校、消費生活の
場を基礎として、生産点においても生活点においても労農少年少女の組織化が開始されたことは、支配階級にと
っては大きな脅威であったろう。それゆえ支配当局は﹁現在迄の所では之等のピオニールは概ねその組織も活動
等未だ微々たるものであるが、併し将来全国的ピオニールの結成されやうとする傾向があるので、教育上大に注
意すべきことである已ときびしい監視の目をむけ干渉と弾圧にのり出していった。
︵33︶
一九三一︵昭和六︶年一月に入ると、文部省学生部の⑧資料﹃思想調査資料﹄第九輯は、﹁我国ピオニール一覧
B
表﹂に十三のピオニール名を掲げながら、当時のピオニール運動の全国的状況を次のように記している。 −
﹁ピオニールの児童に及ぼす影響には真に寒心すべきものがあるが、併し監督官庁の之に対する措置宣しき
14
を得たため、自然に消滅に帰するもの多く最近に於てはその数に於て半減し、現存するものは僅かに山梨県山 −
︵34︶
之神、落合、里吉、宮城県豊里、東京府青戸、佐野、水元のピオニールに過ぎない。而も之等のものも何等の
積極的活動を為さず次第に衰微しつ・ある有様である已
当局側の資料を見ると、わが国のピオニール運動がその成立当初から、いかにきびしい監視と干渉の下におか
れていたかがうかがえる。労農少年少女の組織にあたった労農団体は、組織の維持と発展のためにつねに支配権
力による弾圧と闘いながらピオニール運動の全国的発展を追求していったのであった。
労農運動側の資料を見ると、右のような当局の干渉に抗しつつ、わが国におけるピオニール運動の高揚期が一
九三一年中頃に作られたことが示されている。田部久は当時の﹁全農﹂のピオニール組織状況についてふれ﹁一九
三二年の大会までには現在の数倍、否それ以上に達するであろう事が予想され、従って吾々は我が国のピオニー
ル運動の発展にその多くを期待することが出来るであ㌔﹂と展望していた・
緕O一年は、前年のとりくみの発展にうらづけられて、ピオニールの内容と方法についての質的な探求がみられる。三
︵36︶
月、落合消費組合は、関東消費組合連合会の総会に﹁少年部組織の件﹂を提案し満場一致で可決している。また
ところが、一九三二年になると、﹁近年著しく活発になっていたピオニール運動が、どうした事かこの頃では
︵39︶
次第に衰えていつの間にかその姿を消すものも多くなってゐる様だ巴と言われる状態になってしまった。その原
待望のピオニールむけの教材﹃全農ピオニーロ夏季教程﹄が発行される。﹁新教﹂でも﹃新興教育﹄七月号で︿ピ
が オニール特輯﹀を組み、ピオニール運動の歴史、内容、方法について紹介していた。
.全農Lでも五月に開かれた青年部袋者会議で﹁少年部組織方甦を可決し・八月には新方針の具体化として
一
因は第一に、﹁満州事変﹂に前後して急速に政治のファッショ化が進行する中で、ピオニールの組織主体にきび
しい統制と弾圧が加わったことにあった。また、質量ともにわが国のピオニール組織の中心であった﹁全農﹂内
の左右の対立が表面化して分裂︵一九三二年八月︶し、主体的条件を弱めたことに見られるように、運動内部に
も弱点があったのである。
こうしてわが国の昭和初期におけるピオニール運動は、﹁共青﹂の方針にもとづき労農大衆組織の少年部とし
て全国的規模でとりくまれたが、ついに﹁独立の全国的組織に進む﹂という目的を達成することはできなかった。
3、ピオニール組織化の主体について
ピオニール運動の国際的な方針においては、組織化の主体について﹁共産主義青年同盟は、共産党の指導の下
︵40︶
に共産主義少年同盟︵少年ピオニール︶を組織する已と規定されていた。しかし日本においては、天皇制支配権
力の弾圧の下で、当時﹁共青﹂が非合法下におかれ、直接少年少女の組織化にとりくむことは不可能であった。
そうした社会的条件を考慮して﹁土ハ青﹂は、まず労働組合や農民組合など労農大衆団体の青年部確立に力を入れ、
その下に少年部を組織し、それを基礎にして全国的統一へという日本の条件に即したピオニール組織方針をうち
︵41︶
出 し た の であった。
︵42︶
﹁共青﹂の指導の下に、わが国におけるピオニール組織化の先頭にたったのは﹁全農﹂の青年部であった。
﹁全農﹂による組織の中には﹁全水﹂の組織とだぶっているところが多いが、それは戦前日本の社会的矛盾が農
村、とりわけ未解放部落に集中して現れ、最も貧困な生活条件におかれたことを示している。生産と生活の場が
一体となっている農村・部落に発生した争議の中で、子どもたちがその争議に直接ふれ、親たちが自らの闘争の
15
味方、あとつぎとして子供たちを組織していくことは必然的であった。また子どもたち自身も生活基盤の共通性 1
によってまとまりやすく、農民組合による少年部組織化は比較的容易であったと思われる。﹁全農﹂の方針によ
16
りピオニール組織が最も多く生まれたのはそのためであろう。 −
それにくらべて労働組合による少年部の組織は、非常に少ない。田辺無産少年団︵和歌山︶、や大島プロレタ
リア少年団︵東京︶、淀橋雨宮ピオニール︵東京︶など全部で五指に教えられるほどしかない。 労働組合による
少年部の組織が少なかった理由の第一は、少年少女の組織化の基般皿が工場地帯にはうすかったという点が
指摘できるだろう。生産と生活の場が必ずしも一致していない工場地帯で、労働組合が子どもたちを組織するの
は困難であったためと思われる。また第二に、労組の青年部が少年工を組織しようとする場合、年齢的にみても、
また職場における要求の点でも青年と共通であるから少年部として独自の組織を作る必要がなかったことがあげ
られよう。第三に、そうした組織条件の困難さの上に、﹁全協﹂︵日本労働組合全国協議会︶は高度に政治的性格を
おび、なかば非合法下におかれるという状況のもとで、全国的規模でピオニールの組織に力をさくだけの主体的
条件を持てなかった点を指摘することができる。
なお、一九三〇年十一月に大阪硝子工組合の少年工︵一四才∼一六才︶五三七名が集められて﹁労働少年隊﹂
が作られているが、これは日本労働組合総連合の手によるもので、特製のユニホーム︵一着一円二〇銭で自費負
担︶に身をかため、メーデーには﹁労働少年音楽隊﹂の組織も計画されていたという。こうした動きに対して当
時、御崎陸平は﹁全国的に巻起る少年運動の波を堰とめる為の新手のマヤカシものだ。いくら姿ばかりソビエー
︹43、﹀
トのピオニールに似せても俺達のほんとの教育が出来るものか。﹂ときびしく批判していた。
御崎の批判は、﹃新興教育﹄誌上に掲載されたものであるが、﹁新教﹂は創立当初からピオニール運動の理論化に
とりくんでいた。﹁新教﹂による﹁学校単位のピオニールを作れ﹂という理論的提起を受けて﹁教労﹂のメンバー
が直接ピオニールの組織化に着手したのは、黒滝雷助︵チカラ︶の松の花ピオニールニ九三〇年秋︶が最初の
ようである。松の花の子どもたちは、大島プロレタリア少年団の子どもたちに手紙やカンパを送るなどして、各
地のピオニールと交流をもっている。黒滝の影響を受けて、翌年には脇田英彦が馬入ピオニールを組織した。そ
︵4 4 ︶
れは、学校内の諸活動と結合してとりくまれ、脇田の獄中手記には彼が校外ピオニール組織と学内での自治会、
︵45︶
教科の教授を有機的に関連づけてとらえていたことが示されている。資料的にみて、現職の教育労働者が組織し
たピオニールの例はこの二例だけであるが、長野教労支部メンバーの証言によると﹁労農少年団⋮ピオニールと
︵46︶
いう言葉はナマでは使わなかった﹂が﹁居住地域ごとの部落少年団﹂という形でとりくんでいたとあるので、﹁ピ
オニール﹂という名をさけて校外児童の組織化にとり組んだ例は他にもあったにちがいない。
そのほか、教育労働者が関係したピオニールには、現職を追放された新教京都支所の人見享が、水平運動の一
環として消費組合活動が活発にとりくまれていた田中に入って組織した養正少年団二九三二年四月︶がある。
人見の構想だと思われるピオニール組織の基本形態が﹁θ学外ピオニールの組織、回学内自治会の組織、内学外
︵47︶
学内の有機的結合﹂ととらえられていたことを、先の脇田による実践と考えあわせると、﹁教労﹂によるピオニール組
織は数としては少数でも、ピオニール運動の教育的役割を明らかにしていく上で重要な位置をしめていたといえよう。
消費組合による少年部の組織は、関東消費組合連合会の総会に﹁各組合に少年部を作れ﹂と呼びかけた落合消
費組合少年部をはじめとして、全国各地に作られている。沖縄では大宜味消費組合が仲好会という名で一二〇名
の子どもたちを組織し二九三二年六月︶、﹁ω学内八ヶ所に共学所を設け自治的に勉学すること。ω会員は輪番に
︵48 ︶
消費組合の石油等を行商すること已を決めて活発にとりくんでいたという。消費組合では﹁組合少年部は組合の内部
︵49︶ 17
組織に止めず、之を無産少年団︵ピオニール︶にまで発展せしむべきである已という方向のも、とに﹁子供会 1
︵少年部︶Lの組織化を全国的にすすめていった。
18
また、消費組合活動の実際は、﹁全農﹂や﹁全水﹂の組織活動の一環として組合の婦人部に担われていた点1
体の闘争力を高めるばかりか少年部設置のよき媒介をなしていたビといわれるように、消費組合活動に婦人部
に注目しておく必要があるだろう。﹁闘争中における婦人部の役割は決して小さくなく、むしろ婦人部の組織は全
︵50︶
がとりくんでいたところでは、少年部の活動が長期にわたって継続していた。﹃消費組合運動﹄一九三三年二月
号、三月号では京都や東京の活動をもとに消費組合の子供会の組織のあり方と方向が真剣に論じられており、一
九三二年以降、多くのピオニールが有名無実化する中で、消費組合の少年部はひきつづき活動をつづけることが
できた。そこには、少年少女組織が継続して発展していくためには、日常的な経済生活に密着した父母の恒常的
組織活動が不可欠であり、青年や教師の指導だけではなく父母による系統的な援助が必要であることが示されて
いるといえよう。
四、ピオニールの活動内容
これまで、昭和初期のピオニール運動について、その概観、組織状況、運動をめぐる諸問題を検討してきたが、
ここで新たに豊里と土睦の二つのピオニールをとりあげて、具体的な活動内容とその中に含まれる教育の問題を
検討してみたい。数多くのピオニールの中から、今回 ﹁豊里労農少年団﹂と﹁土睦少年少女争議団﹂に注目した
理由は次の点にある。第一に、両者とも組織主体別にみると最も量的に多い﹁全農﹂によるピオニールの代表的
な組織であること。また第二に、両者ともピオニール運動の成立期に組織され、とりくみの典型としてその後の
運動に教訓を与えていったこと。第三に、当時の活動状況を伝える資料が比較的多く残されており、現段階で使
用しうる検討の素材が豊富であるということである。豊里労農少年団は、すでにふれたがわが国最初のピオニー
ルであり、しかも最も長期にわたって組織と活動を維持したピオニールでもあった。ほとんどのピオニールが短
命に終わらざる得なかった中で、なぜ豊里では子どもたちを長期にわたって組織しつづけることができたのか、そ
の要因の中に教育にかかわる問題が内包されているようである。土睦少年少女争議団は、組合の同盟休校戦術の
中で生まれたが、盟休児童のための教育機関として﹁農民小学校﹂を組織し、意識的にプロレタリア教育の内容
と方法を探究している。両者の組織と活動内容を検討することによって、ピオニールの教育的意義の一端を明ら
かにすることができるであろう。
1、豊里労農少年団の組織と活動
︵52︶
北上川と迫川の合流地点に位置する宮城県登米郡豊里村は、北上川流域の中でも最悪の水利条件の下におかれ
ていた。水害の頻発と同時に、溜池灌慨の不十分さによって毎年のように水不足が発生していた。明治・大正を
通して村の歴史は水との闘いの歴史であり、豊里村の農民運動は、こうした劣悪な水利条件から脱脚をはかろう
とする過程で発生した。一九二六︵昭和一︶年十二月には日本農民組合豊里支部が結成され、労農党仙台支部の応援を
得て農民の組織化が急速にすすめられた。劣悪な地理的条件とともに、不在地主の下で村の大半が小作という生
活の貧困は農民組合の組織率を急速に高め、農民運動の全県的拠点になっていく。こうした強固な農民組合の指
導の下で一九二七︵昭和二︶年から小作争議が展開していった。
豊里の子どもたちは、争議を目の当りに見て、親たちを苦しめる地主や官憲に強いにくしみを抱き、争議の手
つだいをするようになった。特に一九二八︵昭和三︶年の初頭から激しさを増した﹁箆岳事件﹂や﹁前谷地事件﹂に
よって検挙された組合員の救援活動を通してまとまった三〇数名の子どもたちは、秋には稲刈りの手伝いをしたり、9
ユ
組合のビラくばりを手つだいはじめた。こうした子どもたちの活発な様子を見た組合青年部は、子どもたちの集 −
りに援助と指導の手をさしのべ、同年九月四日、国際無産青年デーを機会に正式に結団式をする
20
︿少年団の構成> −
○指導者 組合のオルグとしてこの地に入っていた吉本三代治の指導の下に、秋山敬志ら組合青年部が担当し
た。
○団 員 豊里尋常小学校四年生以上、高等二年までの男女。成立時三四名、最盛時一〇〇名弱
尋常四年生以下は正式の団員になれないが、行動はともにする。高等科を出たものは青年部に編入
される。
豊里尋常、高等小学校の総生徒数の一割強を組織︵成立時︶。
︿少年団の日常活動﹀
○組合活動への支援
ビラまき、ポスターはり、見張り、連絡など。特に警察のきびしい監視の中で、オルグが組合幹部と
連絡をとり合う時など、子どもたちは、遊びながら怪しまれずにその役割を果たすことができたの
で、組A口の闘争になくてはならない存在だった。また﹁少年稲刈隊﹂と称して、親たちの労働を手
つだっている。子どもたちのこうした活躍は大人たちに認められており、子どもたちも自分たちの
活動に誇りを持っていた。
○﹁研究会﹂
週二回の﹁研究会﹂が、夜間、組合員の家でもたれ、団員たちの意志統一と学習の場になっていた。
青年指導者により、組合の闘争の展望が語られ解放歌が教えられた。また時には、 ﹃少年戦旗﹄を
○新聞発行
利用した話し合いや、教科書のおさらいなどもとり入れられている。
結団当初、月2回、少年団の新聞を発行し団活動の状況を知らせあった。こうしたとりくみによっ
て非組合員の子どもも少年団に参加するようになる。
○学用品の原価販売
豊里消費組合の活動にとりくむ婦人部の援助で学用品を原価で販売する。この活動を通して婦人
部の少年団への理解がひろがり、日常的に援助され、少年団も販売活動の協力をしていた。
︿ 学 校 闘争﹀
豊里少年団の活動は、一九三〇︵昭和五︶年夏ごろから新しい発展段階をむかえ、学校に対する闘争が始められた。
少年団員は、﹁学用品を学校で買ってよこせ!﹂と呼びかけ、次のようなビラをまいた。
﹁フケイキデ、エンピツ一本力ヘナイヤ。コノアイダノ組合ノエンゼツカイデハナシヲキイタラ、コトシハ
エライフケイキダソウダ。米モヤサイモマユモヤスイソウダ。オイラ家中ハタライテツクッタ白イマユヲウッ
テ、オイラノオ父サン青イ顔ヲシテイタゾ。オマケニ大水デ外畑ノムギハサッパリダメダ。オレタチノ学用品
ヲカウ金ガナイ。ナガノケンデハオヒルノベントウヲモッテコナイ少年ガ、タクサンイル。金持ノ子供ハウン
ト学用品ヲカッテアソンデヰルガ、オイラハ学校カラカヘルトカセイデ子守ダ、クミアイノオヂサンバカヲア
ハセテ
税金ヲナクシロトイッテヰル 、
小作料ヲマケロ ー
12
オイラモカヲ合ハセテ
学用品ヲ全部、ガッコウカラヨコセトミンナデ、ガッコウニオシカケルノダ。月給ノ外ニツキアヒ金五百円12
モラッテヰル村長ハ、学用品ヲキフシロ
コレガ カセイデ ベンキョウスル
︵53︶
少年団ノヨウキウダ!
このビラは、消費組合の原価販売活動を通して発展した子どもたちの要求に根ざして、﹁小学校児童用品の公費
負担﹂のスローガンを掲げていた﹁全農﹂支部が作成したものであった。少年団員による﹁学用品よこせ﹂のビ
ラまきに驚いた教師は、子どもたちに向って﹁少年団は共産党だ。少年団に入っている者はすぐ退学させる已と
脅迫することによって対応した。教師の脅迫に屈せず約五〇名の団員たちは、学校を一時間早く引き上げ、組合と
県連の応援を得て﹁そんなことをぬかす先生は、村から追い出せ!﹂と学校に抗議のデモをかけ、校長に団交を
要求する。支部組合員、県連、少年団の三者の代表からなる実行委員は校長を詰問し、脅迫した教師をよび出し
て謝罪させ、ビラをまいた子どもの処分はしないことを約束させた。
しかし、学校におしよせた村民が近くの田んぼで報告集会を開いているところへ、学校からの急報で警官が飛
んでくる。ビラが押収され、﹁主謀者﹂として県連代表の吉本三代治と組合支部長篠原源吉が検挙された。少年た
ちは組合事務所の家宅捜査にむかってくる警官の前に立ちふさがって奮闘し、ついに警官を追いかえしたのだっ
た。
少年団員は、この事件直後﹁ヤラレレバ、ヤラレルポド少年団ハ強クナルゾ!﹂のスローガンの下に総会を開
き、検挙者の救援活動に積極的に協力した。そして二日後に二人を救出した少年団は再び総会を開き、次のよう
な活動目標をたてて新たなとりくみを展開していく。
ω、毎日曜ごとに、少年団の総会を開く。
②、毎週一回、各班の班会を開 く 。
③、新聞を月一回発行する。
ω、 ﹃少年戦旗﹄の支局を作り近くの支部に宣伝する。
㈲、 ﹃少年戦旗﹄に綴方、絵をどしどし投稿する。
⑥、運動会を開く。
豊里労農少年団では、こうしてさらに活動を持続し、一九三二︵昭和七︶年五月には組合青年部の指導で少年
団員五〇名がメーデーのデモを計画している。しかし警察の弾圧によって事前に中止させられ、組合の指導者が
次つぎに検挙されてしまう。それ以後、豊里の農民運動は組A口員への弾圧と指導者の検挙によって衰退し、指導
者を失った労農少年団も自然消滅していった。
︵ 5 4 ︶
2、土睦少年少女争議団の組織と活動
一九二九︵昭和四︶年二月、千葉県長生郡土睦村では地主による土地引上げに端を発して小作争議がもち上が
った。地主のひとりに土睦小学校の教師が含まれていたため、二月十四日﹁全農﹂土睦支部は、総会を開き﹁教
え児の家から土地と米を奪取しようという人非人。そんな奴の教育は絶対拒絶だ已として小学児童の同盟休校を
決議する。校長に盟休宣言を通告し、翌二月十五日より十七名︵小学一年から高等二年︶の児童をもって盟休に
突入した。一時の爆発的憤激によって盟休を断行したものの、組合では盟休児童をどうするかその策に頭を痛め 3
12
た。五日間にわたる論議の末、とりあえず組合幹部三名がお寺を借りて﹁児童座談会﹂を開始することになった。
︿児童座談会﹀
指導にあたった組合幹部は、交代で三日間にわたり﹁階級的な偶意﹂をこめて童話を話してやったり・なぜ親が 12
闘っているのか、なぜ学校へ行けなくなったかを話して聞かせ、農民歌を教える。学校を休んだ子どもたちは大
喜びで歌をうたい、絵を描き、三日目には家から机を運び込み、教科書を持ってきて﹁これも教えてくれ﹂と迫
るようになってきた。そのため組合では、子どもたちのために本格的な﹁農民学校﹂を開始することにした。
︿農民学校﹀
二月二十七日より﹁座談会形式を脱し、寺小屋形式﹂の﹁農民学校﹂を開始した。そこでの組織と教育は次のよう
であった。
○組分け:::尋常一∼二年、 三∼四年、 六∼高等二年、 計三組
○指導者⋮⋮組合幹部による二∼三名の講師
○教科課目:・⋮国語・歴史・地理・理科・算術・作文・図画
○時間⋮⋮午前一∼二課目、午後一課目
○教材⋮.①国定教科書 ②﹁無産者新聞﹂や﹃戦旗﹄の﹁グラフ欄﹂および﹁付録の双六﹂などを使う・
特に教材の不足を切実に感じ、﹁階級的なものは非常に欠乏し、特に下級生向の童話に至っては全くこれを
得るに道のないのに苦しんだ﹂といわれる・
○方法⋮⋮①国定教科書の批判的活用
国語読本中の﹁南洲と海舟の会見﹂のところでは、その教材をきっかけにして話題をずらしながら、教え
たいことにきりかえていくという方法がとられた。たとえば﹁サツマ屋敷﹂という文字が出たら、維新当時
の薩摩屋敷の状況やそこに起居した志士の生活、幕末における市中の混乱状態を﹁現下の資本主義末期の
世相﹂とだぶらせて話す。あるいは﹁新選組と現下の反動国体﹂を比較しながら、それらの反動的役割を
わかりやすく説明するというようなやり方であった。
また地理の教料書をもとに、ある土地の産業についてふれその中で特に労働組合の活動や労働争議につい
て説明するという方法をと っ て い る 。
②独自に作成した教材の活用
﹁無産者新聞﹂の記事の切り抜きをもとに子どもたちに話し合いをさせたり、﹃戦旗﹄のグラビアにのった
ピオニールの写真をみせピオニールについてのはなしをする。乏しい教材ながらこれらの利用は﹁実に偉大
な効果をあげた﹂という。
③創作活動の重視
図画や作文を書かせ、創作活動を通して自分たちの生活を正しく見つめる目を育てようとしている。たとえ
ば第一回目、﹁非干渉主義﹂で好きなものをかかせたらほとんど全員が﹁学校に行くところ﹂として﹁華やかな帽
子をかむった洋装の少女﹂の絵をかいたり、作文では﹁炬燵に赤いふとんがかけてあって猫があくびをして
立上った﹂と書いたりして、自分たちの現実生活とは全く遊離したものをかいたという。そこで第二回目か
ら方針を変更し、次のような方法をとる。﹃戦旗﹄グラフ欄からとった一枚の写真をみせて、描くもののテ
ーマを示すとともに、それとかかわらせて父母や兄姉の仕事、家の中の様子を思い出させ、自分たちの生活
に目を向けるようになってい っ た 。
を正しく見つめさせるように指導している。そうした教育方法を通して、しだいに子どもたちは自分の生活 5
12
④集団活動と共同生活
26
尋常一年から高等科まで一緒の行動を経験させるために、山や畑につれてゆき、共同で仕事にとりくませ ー
る。畑仕事を手伝って汗を流したり、山の中からみんなで百合根を掘ってきて昼食のおかずに煮て食べたり、
親から差入れられた米や味噌を材料に、係を決め仕事を分担して自分たちの手で煮炊きして会食したりした。
親たちも子どもたちにまじって集団活動と共同生活の楽しさをわかちあっている。
︿少年行商隊﹀
﹁農民学校﹂のとりくみを通して、子どもたちの中に急速に集団的な規律が、生まれ、親たちの争議につよい関
心を示し組織的に参加するようになった。そこで組合は、子どもたちの﹁少年行商隊﹂を作り、それを争議勢力
の一翼に位置付けた。さらにそれを﹁農民学校の具体的実践的教育﹂としてとらえ、具体的行動のもつ教育力に
注目して指導していく。二月二十六日から、大人二名に付添われた﹁少年行商隊﹂の子どもたち十三名は、芋や切干し
を積んだ荷車に赤旗をおし立て、赤いタスキを肩にかけて町にくり出し、次のようなビラをまき衆目の関心を集
めたのだった。 −
﹁私達ノ家デハ去年大不作デオ米ガトレマセンデシタ。ダカラネング米ヲマヶテクレト地主ニタノンダラ、
一ツブモマケヌト言ッテ、シカモ飯塚源一達ハシッタツリヲヨコシテ、アリタケノオ米ト土地ヲトッテシマイ
マシタ。モウ、タベルモノガアリマセン。ノンキニ学校ヘナンカ行ッテイラレマセン。私達ハオトッアンノ争
︵55︶
議ヲ勝タセンタメニ行商隊ヲックリマシタ。皆サン、カッテ下サイ。﹂
しかし待ち構えていた警察は、二名の指導者に襲いかかり、彼らを検束して子どもたちを追い返そうとした。
子どもたちは引きずられていく指導者をとりもどそうと、警官の腕にぶら下ったり、足に組みついたりして力
の限り闘う。この騒ぎに黒山のように集まった町の人たちは、けなげな子どもたちの様子に目がしらを押え、今
にも検束されようとする指導者の手から芋や切干しを次々に買うのであった。とうとう指導者二人は、警察署に
引っぱられ、子どもたちは警察の中まで抗議に詰めかけ、親たちが迎えに来るまで全員ががんばり通したという。
﹁少年行商隊﹂は、この事件の翌日も再び町にくり出し、子どもたちだけで行商をやりぬいた。その後も、三月
四日、十日と行商に行くが、官憲の弾圧は増々きびしくなり、ついに三月十一日﹁罪のない子どもたちを扇動して
いる﹂との理由で、開校より十八日にして﹁農民学校﹂は閉鎖された。
︿組合少年部﹀
﹁農民学校﹂が禁止されたあと、子どもたちは﹁組合少年部﹂として再組織され、自分たちの力で少年スポー
ツ団を組織し、未組織少年を集めたり、ビラまき、レポ、救援物資の配給、救援活動などに積極的に参加し、統
制ある行動によって大人もおよばぬ活躍をしていったという。
五、ピオニールにおける教育問題
昭和初期に組織されたピオニールの中から豊里と土睦をとりあげ、そこでの活動内容をみてきたが、最後にそ
の中に含まれる教育問題を検討して小論の結びとしたい。数多くのピオニール組織の中からとりだして分析した
二つの組織の活動内容だけから、昭和初期ピオニール運動の性格全体を規定するのは正しくないが、そこに含ま
れる教育上の諸問題を指摘することは許されよう。
ピオニールにおける教育問題の第一は、争議の中における子どもの教育の独自の発展の問題である。争議戦術と
27
が
全
国
各
地
で
採
し て 児 童 の 同 盟 休 校
用 さ れ たへ
がそれは子どもたちの学習する権利を犠牲にしたものではなかった。1
確かに盟休戦術には、社会的な関心を喚起し闘争を有利に展開しようというねらいもあったろう。しかしその根底
28
には、天皇制支配権力の下での学校教育に対するきびしい批判がこめられていたのである。争議にかかわる組合 1
員の子どもに対する教師の差別、そして何よりも学校教育が、労農階級の子弟を親たちのあとつぎとして教育して
いない事実に批判が向けられた。児童の盟休戦術は、労農階級に、臣民の義務としての教育を放棄させ、子ども
たちの権利としての教育を自らの手で保障していく課題に直面させたものといえよう。その課題を自覚的に受け
とめたからこそ、土睦の﹁農民学校﹂をはじめ、盟休によって生まれた多くのピオニールが、盟休後すぐに独自
の教育の場を設けているのである。それらの多くは施設的には非常に貧弱なものではあったが、教育の内容・方
法における新しいとりくみがその中に芽ばえていた点に注目しておきたい。
まず内容の面では、労農階級の教育要求にそって、独自の教材作成に着手された点が重要であろう。土睦での
とりくみは、当時発行されていた階級的雑誌の切り抜きをよせあつめ、つなぎ合せた程度の初歩的なものでは
あったが、それは国定教科書のワクをうちやぶる画期的なとりくみであった。ピオニール組織の中に生まれた自
、王的教材編成の試みは、ピオニールむけの本格的な教材編集の必要性を自覚させ、のちに﹁全農﹂や﹁新教﹂に
よって﹃全農ピオニーロ夏季教程﹄や﹃ピオニールトクホン﹄が作られる契機となっていた。
次に方法の面でも、新しいさまざまな努力がみられる。図画や作文、新聞づくりの中では、子どもたちが生活
現実を直視するように指導している。それによって、予どもたちが階級関係につらぬかれた現実社会を正しく見
つめ、現実に立脚して生活する力を育てようとしていたのである。盟休後の子どもたちの学習要求に応じて、国
定教科書をテキストとして使用したピオニールも多いが、その際には批判的に活用する方法がとられていた。後
に教育労働者による教室実践の中でさまざまに工夫され、定式化されたプロレタリァ教育の方法に関する先駆的
とりくみが、すでにピオニール活動の中に生まれていたのである。こうしてピオニール活動の中には、当時の支
配的な天皇制教育に抗して、労農階級の教育要求にそった新しい教育内容・方法が茅ばえていたことを指摘できる。
ピオニール組織における独自の教育経験の蓄積は、学校教育の変革を求める方向に進んでいく。豊里では親た
ちの支援のもとで、ピオニールの﹁学校闘争﹂がとりくまれた。学校闘争は、教育労働者による学内での闘争と
提携してすすめられてこそ効果があるが、教育労働者の自覚的とりくみのない豊里での闘いは結局失敗に終わら
ざる得なかった。しかし、こうした学校闘争の先駆的実践は、のちに﹁全農﹂のピオニール組織方針を充実させ
ていく基礎となっている。一九三一年五月の﹁全農﹂青年部の方針には﹁小学校に対する闘争﹂の項目が設けら
れ、﹁小学校に対する闘争は、教育労働者組合との提携によって更に効果的になされる已と指摘されるに至った。
ピオニールを組織した労農階級が学校組織を変革の対象として把え、教育労働者組合との共闘を求めていたのは
重要であろう。
ピオニールにおける教育問題の第二は、子どもの組織化、集団化のもつ教育的意義にある。子どもの集団的組
織化は、組織された子どもにとっても、組織する大人の側にとっても、ともに成長の契機となっている。
豊里の﹁少年稲刈隊﹂にみられるように集団的に組織された子どもたちの労働への参加は、個人的な重労働か
ら解放され労働を喜びとし、大人に認められることによってそれを誇りに転化することができた。また、大人の
争議や闘争に際して、子どもの生活がその中で犠牲にならないためにはどうしても集団として組織化され、保護
される必要がある。そうした条件の下で子どもたちが大人の闘いとの接点をもつことは重要な訓育的意義をもつ。
しかしその際、子どもの参加には、あくまでも教育的配慮が貫かれるべきで、直接大人の闘争の手段にしたり、 9
戦力として利用するのは誤りである。戦前のピオニールの指導の中には、大人の側の組織の弱さと闘争の困難さ ー
により、戦力として子どもをとらえ、性急に闘争に参加させる傾向がなかったわけではない。しかし、そうした
30
指導上の誤りと弱点は、指導者自身によって自己批判され、克服の課題としてとらえられていたことにも注目し ー
ておきたい。
子どもの組織化は、父母、青年の成長にとっても重要な意味を持っていた。父母や青年が子どもたちの組織に
あたるのは、自分たちのあとつぎを育てるためであるが、必ずしも子どもたちは親の志を理解しない。その子ど
もたちを、しっかりしたあとつぎとして育てるためには、天皇制国家に忠実な臣民づくりの機関となっていた学
校教育には頼ることができず、自らの手で教育の内容と方法を探求せざる得なかった。したがって、子ども
の組織化にあたった父母・青年は、子どもの教育についての実践的なとりくみを通じて認識の発展が強く求められ
る こ と になった。
しかし同時に、それぞれの運動が直面している困難な条件の下で、ピオニールの組織にあたった労農大衆団体の中
に、あとつぎとしての子どもたちに階級意識を性急に育成しようとするあせりが生まれていたことも事実である。労
農少年少女に対する独自の指導内容・方法が模索されていく過程で、それは子どもたちにマルクスやレーニンの
似顔絵を描かせて、階級意識の形成をはかるという短絡的な実践となって現われてくる。たしかに描かれたそれ
らの作品だけをみると、そこでの指導と教育が﹁政治主義的﹂であったと判断される側面を持っている。しかし、
そうした作品が生み出される過程には、労農階級の教育要求に根ざした独自の教材作成への手さぐりの努力があ
り、それらを子どもの興味・関心とかかわらせて学ばせようとする教育方法の工夫も模索されていた点にこそ注
目すべきであろう
昭和初期のピオニール運動は、支配権力による干渉と弾圧によって発展の道をとざされてしまったが、一方で子
どもの集団活動の組織化の努力と、他方での自主的な教材研究の探求は、必然的に子どもの成長発達についての
科学的認識に裏づけられた教育内容を生み出していく方向性を示していたといえよう。したがって昭和初期のピ
オニール運動は、支配的な天皇制教育体制の中に、初歩的ではあったが、労働者・農民の教育要求に根ざした新
しい教育への確かな萌芽を生み出していたということができるのではあるまいか。
註
︵1︶明治図書講座﹃学校教育﹄第二巻、﹁日本教育の遺産﹂一九五七年五月 P二
︵2︶当時の教育史研究の中でピオニール運動についてふれているものをあげると次のような論文がある。
⑦唐沢富太郎﹁左傾教員とプロレタリア教育運動﹂︵﹃教育の歴史﹄創文社 一九五五年四月︶
◎駒林邦男﹁抵抗の教育運動﹂︵海後勝雄広岡亮蔵編﹃近代教育史﹄第三巻、誠文堂新光社、一九五六年五月
◎国分一太郎﹁抵抗の人間像とそのための教育運動﹂ ︵海後勝雄編、明治図書﹃学校教育﹄第一巻一九五
六年十月︶
︵3︶註︵2︶に掲げた論文でなされた当時の評価についてみると、
⑦﹁⋮⋮左傾的意識の注入及び訓練を施し⋮⋮﹂ p一七八
◎﹁当時のピオニール運動の性格は、⋮⋮⋮ついに争議中心、組合中心的なものにとどまり、一人一人の
子どもたちの意識の中に深く根をおろして、彼らの人間内容の変革を実現するまでに至らず、単に﹃農
民運動の強力なる一部隊たるに止まったようである已 P二八三
◎ ﹁⋮⋮しかしこの人間像・プロレタリア児童像の形成には、ときに正しい自己批判がおこなわれて、
31
その実践の工夫が種々論議されたけれども、概していえば公式的・政治主義的・左翼小児病的の批評を ー
受けなければならない実状にあった已 P一二四
32
︵4︶ ﹃日本教育運動史﹄第一巻、明治・大正期の教育運動︵==書房、一九六〇年九月︶Pニ ー
︵5︶ ﹃新興教育﹄の復製を手がかりに、柿沼肇氏は﹁新興教育運動の研究﹂にとりくみ、その全体像を明ら
かにしようとしたが、その第五章で﹁少年運動の研究﹂を手がけている。そこでは﹁新教・教労﹂とピ
オニール運動との関連が明らかにされている。︵﹃教育運動史研究﹄第十二号︶
︵6︶ピオニール運動の中心部にいた菅忠道氏による証言は、ピオニール研究の発展への手がかりとして非常
に大きなものがあった。本文中でふれた論文のほかに次のような貴重な論文がある。
○﹁戦前の労農少年団運動と組織﹂︵﹃ソビエト教育科学﹄第十九号、明治図書一九六五年二月︶
○﹁労農少年団運動﹂︵﹃教育﹄国土杜、一九六六年三月︶
︵7︶ピオニール運動に関するものには、たとえば脇田英彦による﹁馬入ピオニール﹂の組織と教育に関する
研究をあげることができる。特に脇田は獄中にて大部の手記を残し、それが当局の意図によって都合よ
く再講成され﹃プロレタリア教育運動﹄︵下︶、﹃プロレタリア教育の教材﹄、﹃思想調査資料﹄第二十三
輯、二十五輯に分載されていた。当局の手による原手記への歪曲を是正し、手記を正しく復元する作業
が森谷清氏や坂元忠芳氏によってとりくまれた。
○森谷清﹁プロレタリア教育の教育内容とその方法ω∼⑤脇田英彦の教育実践と理論O∼四﹂︵﹃教師の友﹄
一九六二年三・四月号∼八月号︶
○坂元忠芳﹁脇田英彦のプロレタリア教育 その手記の復元と解説 ﹂︵復製版﹃新興教育﹄第九巻、
一九六七年七月︶
︵8︶ 中村氏は、一九五八年の勤評反対のたたかいを通じて部落子ども会の活躍に注目したが、部落子ども会
の系譜をたどると、それが京都の﹁田中子ども会﹂に何らかのかかわりを持つことを発見し、小川太郎氏
とともに調査に入った。その結果田中子ども会には前史があり、それは昭和初期のピオニール運動の中で
とりくまれた﹁養正少年団﹂につながることをつきとめたのであった。
○小川太郎﹁田中子ども会覚え書き﹂ ︵﹃部落﹄一六五号、一九六三年九月︶
○中村拡三﹁田中子ども会の歴史と運動﹂ ︵﹃部落解放の教育﹄一九六四年︶
︵9︶ 戦前プロレタリア教育運動にかかわり﹃新興教育﹄︵ピオニール特輯号、一九三〇年七月号∀に、青山清
のペンネームで﹁ソビェート同盟ピオニール運動小史﹂を書いた矢川徳光氏は、一九五五年三月﹃現代の
ソビエト教育学﹄の中でピオニールを紹介している。これは戦後におけるソビェト教育学の紹介を通して
あらわれたピオニールへの注目の最も早いものであろう。
︵10︶集団主義的教育の立場から戦前日本のピオニールの遺産に注目したものに次のような論文がある。
○杉山明男﹁子ども会の指導と活動﹂ ︵小川太郎編﹃集団教育実践編﹄一九五八年六月︶
○伊藤忠彦﹁プロレタリア教育運動﹂︵﹃生活指導﹄ 一九六〇年三月号︶
○伊藤忠彦﹁ピオニール運動を今日いかに継承するか﹂︵﹃生活指導﹄一九六一年八月号︶
○大橋精男﹁わが国における集団主義教育思想の展開﹂︵﹃講座集団主義教育﹄第一巻一九六七年︶
︵11︶田部久﹁日本に於ける無産少年運動の発展﹂︵﹃新興教育﹄一九三一年七月号︶
︵12︶ 同 右 3
ヨ
︵13︶青年コミンテルン著、産労京都支所訳﹃青年コミンテルンの綱領﹄ ︵マルクス書房 一九三〇年五月︶ −
︵14︶ ﹁共青﹂の﹁任務に関するテーゼ﹂は次の①だが、その内容を伝えるものに②③がある。
34
①佐野博﹁日本共産青年同盟の任務に関するテーゼ﹂ ︵一九二九年二月︶ −
②永田幸之助﹁プロレタリア青年同盟の任務﹂ ︵﹃マルクス主義﹄一九二九年三月号︶
③勝見秀雄﹁わが革命的プロレタリア青年運動当面の任務﹂ ︵﹁無産青年﹂一九二九年三月十五日︶
︵15︶︵14︶の③
︵16︶ ﹃インタナショナル﹄一九三〇年八月号
︵17︶ ﹃農民闘争﹄一九三〇年九・一〇月号 P四三
︵18︶ ﹁新興教育研究所創立宣言﹂ ︵﹃新興教育﹄創刊号 一九三〇年九月︶P二
︵19︶ ﹃新興教育﹄ 一九三〇年十月号、P四七
同 右 P四八
︵21︶文部省﹃学制百年史﹄資料編 P三七
︵22︶帝国少年団協会、大日本少年団連盟、大日本青年団、大日本連合女子青年団が合同して発足。団長は文
部大臣橋田邦彦。
︵23︶北海道雨竜村蜂須賀ピオニール、青森県木造ピオニール、新潟県和田村ピオニール、大阪府上亙屋ピオ
ニールに関する発掘資料 な ど 。
︵42︶墨ロピオ〒ル︵山梨︶を東京としているが、﹂れは③の誤りをそのまま写したものである・また中村拡
三氏の論文でもその誤りがひきつがれている。
︵52︶ピオ〒ル運動成立以前の木崎村や野田の少年少女組織をも﹁木崎ピオ〒ル﹂﹁野田ピオ〒ル﹂と
し て扱っている。
︵26︶ ドイツ共産青年同盟の児童雑誌・・O①こ旨σq①Ω①=。、、①..︵小さい同志︶の影響を受けて、一九二七年六
月号の﹃文芸戦線﹄には﹁小さい同志﹂欄が設けられている。
︵27︶ ﹃童話運動﹄ 一九二九年三月号、 P一二
︵28︶ これまでの研究では、日本で最初のピオニールについて豊里労農少年団︵宮城県︶とする説と、土睦少
年少女争議団︵千葉県︶とする二通りの説があった。前者は、戦前それらの運動に直接関係を持っていた
猪野省三氏や菅忠道氏の証言によって述べられたが、それは﹃戦旗﹄や﹃少年戦旗﹄など当時の運動側の
雑誌に﹁日本最初のピオニール﹂︵﹃戦旗﹄一九二九年二月号、P=七︶と紹介されていたことにもとつ
いている。後者の説は、﹃日本教育運動史﹄第二巻の中で中内敏夫氏が﹁ピオニールの成立と性格﹂を述
べた中で採用していた。中内氏が、日本最初のピオニールとして土睦をあげたのは、恐らく当局側の資料
︹1︺11①②③等にかかげられた﹁我国ピオニール一覧表﹂にたよったためと思われる。それらにはす
べて年代順ピオニール名の第一位に土睦ピオニールがあるから、当局側の資料に頼るかぎりでは土睦ピオ
ニールがわが国最初のピオニールとなってしまう。
﹁無産青年﹂一九二八年十月十一日号には、宮城県豊里村で﹁無産少年団を組織して、九月四日、附近
の森の中で発会式を挙げた﹂とあり、当地での聞きとりにおいても当時少年団員だった佐々木束記さん、
伊藤浅男さんらによってその記事の正しさが証言されているので、わが国最初のピオニールは豊里労農少
年団として良いであろう。 5
13
︵29︶ ﹃新興教育﹄ 一九三〇年十二月号、P三七
︵30︶同右P三八
︵31︶田部久﹃無産少年運動﹄ P一一四∼一一八 13
︵32︶渡辺良雄﹁日本に於ける教育労働者組合運動に就いての一考察﹂︵﹃新興教育﹄一九三〇年十一月号︶ P六五
︵34︶同 右 P一 二 三
︵35︶田部久﹁日本に於ける無産少年運動の発展﹂︵﹃新興教育﹄ 一九三一年七月号︶P三二
︵36︶ 同右 P二九∼三〇
︵37︶ 同右 P三〇∼三二
︵38︶ 田部久論文のほかに、青山清︵矢川徳光︶﹁ソ同盟ピオニール運動小史﹂や、浅野研真﹁フランスのピ
オニールは闘ふ﹂柾不二夫﹁イギリスのピオニール﹂ ﹁アメリカのピオニール﹂の紹介、さらにソビエト
の﹁ピオニールの誓い﹂や﹁小さい同志﹂などのピオニールの歌が掲載された。
︵39︶横山辛男﹁プロレタリア少年運動の発展のために﹂ ︵﹃新興教育﹄ 一九三二年三月号︶ P八一
︵ 40︶ ︵13︶と同じ、 P 一 二 二
︵41︶︵14︶の③
︵42︶ ﹁共青﹂は機関誌﹁無産青年﹂を通して﹁全農﹂青年部に行動綱領を提起している。
︵﹃産業労働時報﹄一九二九年十一月号︶ P八二∼八三
︵43︶﹃新興教育﹄ 一九三〇年十二月号 P三九
︵44︶黒滝チカラ﹃野に出る教室﹄ 二九六八年四月、シマ文庫︶ P一四九
︵45︶﹃思想調査資料﹄第二十三輯、第二十五輯に分載されている。 ︵文部省学生部、一九三四年︶
︵46︶ ﹃抵抗の歴史﹄ ︵労働旬報社、一九六九年十月︶P一八四
︵47︶ ﹃新興教育﹄通信欄 一九三二年、九・十月号合併号
︵48︶ ﹁消費組合新聞﹂ 第三八号、一九三二年七月八日号
︵49︶ ﹃新興教育﹄ 一九三一年七月号、P三〇
︵50︶ 青木恵一郎﹃日本農民運動史﹄第四巻︵日本評論社刊、一九五九年六月︶P三二五
︵51︶ 山口重一郎﹁子供会について﹂︵﹃消費組合運動﹄ 一九三二年二月号︶P四八∼五〇
岡本秀夫﹁子供会について﹂ ︵同右 一九三二年三月号︶P一〇四∼一〇九
槙本楠郎﹁消費組合子供会に対する私見﹂ ︵同右︶P一一〇∼一一九
︵52︶ 豊里労農少年団の組織と活動については、以下の文献・資料を参考にし、当地での聞きとりによって補
った。
○中村吉治編﹃宮城県農民運動史﹄
○﹁無産青年﹂ 一九二八年十月十一日号、一九二九年三月十五日号
○猪野省三﹁豊里労農少年団﹂ ︵﹃戦旗﹄一九二九年二月号︶
○中山一夫︵吉本三代治︶﹁宮城労農少年団﹂ ︵﹃童話運動﹄
○﹃農民闘争﹄ 一九三〇年九・一〇月号
○﹃戦旗﹄ 一九三〇年九月号
○﹃新興教育﹄ 一九三〇年十、十一、十二月号 7
0﹃婦人運動﹄ 一九三〇年十一月号
13
○﹁赤旗﹂一九三二年五月二十日号
38
0﹁消費組合新聞﹂ 一九三一年八月二十日号、一九三二年四月二十日号など ー
︵53︶ ﹃新興教育﹄ 一九三〇年十一月号 P四五∼四六
︵54︶ 土睦少年少女争議団の組織と活動については以下の文献・資料を参考にした。
○大塚良平﹁千葉県土睦村農民学校の成果に就て﹂ ︵﹃国際文化﹄一九二九年五月号︶
○﹃戦旗﹄ 一九二九年五月号
○﹃童話運動﹄ 一九二九年四・五月号
○﹃少年戦旗﹄ 一九二九年五月号
○﹃新興教育﹄ 一九三〇年十二月号一九三一年七月号
︵55︶ ﹃童話運動﹄ 一九二九年四月号 P七