シリーズ❸ 開拓者である夫を 『花埋み』は、日本最初の女性医師、荻野吟子 る。吟子は闘病中に「天下の病苦に呻吟する同 ない二重の辛さが、吟子に女医の道を自覚させ 大学)での治療で男性医師に体を曝さねばなら の生涯を描いたものである。テレビドラマや舞 胞姉妹のために全力を尽くして医事を試むべ ゆみ』 (2006年、ドメス出版発行)を執筆・ 『北の命を抱きしめて――北海道女性医師のあ 降の北海道における女性医師の足跡を追った 会改良家としても論陣を張った。そんななかで 論が巻き起こった。吟子は積極的に発言し、社 で開業した。しかし女性の社会参画には賛否両 業試験に合格。公許女医第1号として東京湯島 歳で結婚し、北海道利別原野(現今金町 きたと自負している。本書に収められた「パイ ボによって、地域史にユニークな視点を提示で て珠玉の経験となった。何よりこの異業種コラ なかった。顔に真黒にたかる虻・蚊の責苦、畑 と日々の激しい労働から罹患する者が後を絶た 神丘)の開拓に挑む。当時の利別原野は、天災 オニアの女性医師たち」 (北海道情報大学教授 広瀬玲子氏、 『新札幌市史』編集長海保洋子氏 執筆)をもとに、北海道農業と交錯した女性医 師の人生についてお伝えしたい。 荻野吟子の女性としての人生は苦難から始ま る。1851(嘉永4)年に武蔵国に生まれた 吟子は土地の素封家に嫁いだが、夫から淋病を 移され、離縁となる。夫に非がありながら妻が 苦汁を舐める不条理に加え、大学東校(現東京 32 土地改良 286号 今年4月に世を去った作家渡辺淳一の小説 台で山本陽子、三田佳子が吟子を演じたことか しかし道は険しかった。東京女子師範学校を し」と決心した。 ではないだろうか。この吟子の他にも、黎明期 経て、聴講生として好寿院に学ぶも、女性には ら、ひたむきな吟子の姿をご記憶の方も多いの の北海道農村で奮闘した女性医師として、十勝 医術開業試験の受験資格さえない。吟子は東京 府、埼玉県、内務省に幾度も請願した末、受験 に入植した間宮八重がいる。 私が両者について詳しく知ったのは、北海道 )年、医術開 編集する過程のことだった。委員会は、現役女 出会ったのが北海道にピューリタン村建設の志 資格を獲得し、1885(明治 性医師と女性史研究者がタッグを組んで先達の を 抱 く 同 志 社 学 生 の キ リ ス ト 教 徒、 志 方 之 善 女性医師史編纂刊行委員会の一員として幕末以 功績を掘り起こそうという斬新なもので、理系 だった。強く惹かれ合った二人は、吟子 歳、 文系入り混じり、口角泡を飛ばして議論し合っ 志方 18 た果ての深い共感に立ち合えたことは私にとっ 40 日本の女性医師、第一号の荻野吟子 凛々しく支えた 女医たち ノンフィクションライター 北室 かず子 Kazuko Kitamuro 26 働いたという。飲料水の関係か、オコリ(マラ 仕事 は 腰 に 下 げ た ワ ラ 束 に 火 を つ け 煙 し な が ら 99(明治 )年、兄の北海道庁在職中の部下 者の吉岡弥生と並ぶ7人に記されている。18 く、自らの知識と技術を生かしたのだ。お産の ば往診にも赴いた。村医不在の空白を埋めるべ リア)に年数回も罹り、家族全員が粗末な家屋 なく自らの手による開拓を志し、十勝郡生剛村 だった林田成一と結婚。成一は役人としてでは から、公衆衛生の意識普及にも貢献したことが 世話や衛生面での指導にもあたったという記録 歳を過 ぎるまで医師としての職務を果たした。東京に 宮に戻し、間宮農場を運営しながら、 しみのどん底に突き落とされた八重は、姓を間 昭和に入り、夫と長男の相次ぐ死去という悲 で呻き苦しむ家も珍しくなかった。こうした中 歳の時、医院を わかる。 してもてはやされた八重も、 に単身、入植した。東京で「有名なる女医」と しかし志方はと言えば、国に貸付地の返還を 閉じて夫を追って渡道する。 シタコロべ川沿岸(現浦幌町幾千代地区) 、ま 林田農場が開かれたのは、生剛村下浦幌原野 命じ ら れ キ リ ス ト 教 徒 の み に よ る 村 の 建 設 を 断 歳で帰京するまで、開拓地の医 念。事業にも失敗し、ついに病没する。吟子は、 志方 の 死 後 も 歳、米寿になってからというか められた『浦幌村五十年沿革史』によると「浦 嫌いが過ぎて上達しなかったこと、 ら驚くほかない。 帰ったのは、 幌村は野地を耕地に成地したところが多く、土 若ければ自転車を稽古するんだけれども」と 年にまと 866(慶応2)年、陸奥国石川郡(現福島県) 地改良事業を必要とする土地が甚だ少なくな 言ったことなど、バイタリティ溢れる人柄が伝 さに十勝の過湿な原野である。昭和 に生まれた。東京女子師範学校を卒業後、済生 い。昭和8年、最初3反歩で粗朶をもって施行。 えられている。 師として奮闘した。 学舎 に 学 ぶ が 男 子 学 生 か ら の 嫌 が ら せ も 苛 烈 で その結果が非常に良好であったので9年には6 荻野吟子と間宮八重には共通点が多い。新天 歳で麻雀を覚えたが負けず あった。だが医術開業試験受験資格の方は吟子 反歩を実験に供し、北海道庁に対して補助金の 地を開こうとする夫の志に共鳴し、東京での医 年後の1 らの運動の末、女子への認可が出た時期と重な 交付を申請したところ、一町2反歩を施行する 業をたたんで開拓地の不自由な暮らしを主婦と 歳で「十 る。吟子が病める「同胞姉妹」のために開いた 円が交付された。これが浦 幌の土地改良事業の補助金交付の嚆矢である。 して切り盛りしながら、医療を担ったことだ。 4年後の報知新聞には「今東京に在る有名なる に至っても少しの変化もなく、有効に作用して (中略)爾来、 から勝ち取らなければならなかった。それは確 )年に東京で開業。 女医 を 挙 ぐ れ ば 」 と し て 東 京 女 子 医 科 大 学 創 設 固たる意志のある人間にしかできないことであ 過疎の不安は大きいが、当時、無医村で重病に しばあった。交通機関の発達した現代でも医療 の長期間の勤務が厭われ医師不在の時期がしば の生剛村には嘱託の村医がいたものの、辺地で を率いる農場主の妻として家庭を守った。当時 でもあったのだ。 せた場所が北の大地 の使命感を重ね合わ 性が響き合い、互い と、開拓を目指す男 ろう。そういう女性 効果を挙げている」 。ここで八重は小作人 なったり大けがをすれば生命の危険にさらされ 今金町 16 たことだろう。そんな中で八重は、家屋の一部 浦幌町 戸 八重は1892(明治 83 当時、女性医師になるには、教育を受ける権利 88 一方、間宮八重は、吟子誕生から 80 ことにし、補助金 24 年を経過した粗朶暗渠が今日 90 17 25 扉が、後進の女性医師の道をも開いていくのだ。 88 42 で吟子の医学知識と技術は大きな力となった。 32 を診療所に充て近隣の病人を治療し、請われれ 33 土地改良 286号 15 58 十勝に入植、農場主としても奮闘し た間宮八重(昭和17年喜寿記念)
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