小生はサン・サルビアの兎、クリントンで

サン・サルビアの兎
クリントン日月抄
(第16話)
小生はサン・サルビアの兎、クリントンである。
昼時、竹中施設長は食堂で入所者青島与二郎氏に呼び止
められた。
「施設長、今私が乗っている車椅子は危ない。」青島与
二郎氏は遺憾の意を表明する。
「心配いりませんよ。座っていれば転ぶことはないです
から。」平凡至極な応答。
「いや、車椅子から落ちそうな気がする。」青島与二郎
氏は不安だ。
「どうしてですか。この車椅子は最新式チタン合金フルリクライニングチェアで、定価二十一万六千円
ですよ。今、関東大震災がきたって転びません。」と施設長は胸を張る。
「いや、チタンでもブリキでも車椅子から降りるとき危ない。」あくまで危険を指摘する。
「だったら車椅子から降りなきゃいいでしょう。」と施設長。
「降りようとするから危ない、と言っているのだ。」どこまでも譲らない青島与二郎氏。
「だから、おとなしく座ってりゃいいのですよ。」施設長は自信をもって突き放す。
「飯を食ったら部屋に帰る。その時必ず降りなきゃいかんだろう。」
明々白々な事実を突きつけられて口ごもる施設長に、「いい加減なことを言って、今夜は何を食わせ
るつもりだ」と追い打ちをかける。
「今夜は気仙沼産の秋刀魚の塩焼きである。」と白状する。
「昨日はアジで今日は秋刀魚か。たまには寿司でも出したらどうだ。
」追求は急だ。
施設長たるものここが踏ん張りどころである。
助勢したいのは山々だが、小生がでていき「兎を食わせろ。」と言い出されてはかなわぬ。
「寿司なら今月の 24,25 日が寿司の日だ。」と防戦する。
「友引でも仏滅でもかまわんから、今晩寿司を出したまえ。」と一気呵成に寄り立てる。
「今は脂ののった秋刀魚の旬である。現在、気仙沼港は秋刀魚だらけで他の魚は水揚げされない。さら
に隣の寿司屋は本日休業である。」これを聞き小生は両の耳を三つにたたむ。
「施設長。そんな話、今日の施設長のネクタイと同じだよ。」青島与二郎氏。
「どうして。
」と毎日同じ自分のネクタイを見る。聞き返さねば良いものを。
「飽き飽きした、ということだ。」青島与二郎氏はニヤリと言い捨てた。
青島与二郎氏が聞きたいのは、行事予定でも秋刀魚の大漁でも寿司屋の営業日でもないのだ。
青島与二郎氏は自分の体調を気遣う言葉を求め、山海の幸を話題にし、馴染だった寿司屋の昔話など
がしたかったのだ。
小生は思う。心という神秘の扉を開くのは「思い遣り」という鍵だけなのだと。