講評 (直し) 市地敬典 金賞: 「胎教殺人」 愛は人を歩ませるものと成れば、人を時空のある一点に強く拘束してしまうものとも成 る。愛という経験の後者の側面を、松本香菜の「胎教殺人」は、転落による死へと方向づ けられながら現実には望みかなわず、自身の裂けた肢体を縫い合わせる奇妙なぬいぐるみ の滑稽でいびつな日常を通じて描き出す。独特の創作的知性と筆力を感じた。 固定された心は代用を求め、それに形を与える(古来、愛憎の情・念は物に乗り移って きた) 。しかし、宿命的に、代用が欠如を完全に埋め合わせることはできない。 「ソルト」 の転落死の試みには、おそらく、終わりはないだろう。 「オーロラ」の心が歩みとしての愛 とど を再び見出しえず、 「京介」の死の上に止められ、止まる限り。 「喪」に関する深い問題を、 この作品は投げかけてくるように思う。安易な解は拒まれている。 銀賞: 「彼」 献身による恋の成就を題材とする作品。骨董美の崇拝という経験にひとヒネリを加えた ユニークな発想である。「彼」という語がほのめかす対象との距離感(近さでもあり、遠さ でもあり)、そして選ばれざる人間を椅子が吹っ飛ばしてしまうという展開が、たいへん興 味深い。 ただ、この「恋」の性格がどのようなものであるのか、もっと知りたいと思う。作中の 「私」は、「タブー」に対し少し忠実すぎると映るのである。恋における焦がれは、相手を “神聖視”させるものであると同時に、彼/彼女を“辱しめる”ことへの抑えがたい衝動 をも生み出すものである。それゆえ、 「彼」である椅子を「絹」でふく、 「彼」に話しかけ ることが「日課」となる(しかし、座ろうとしない)といったことのほかにも、 「彼」と「私」 の生活の背景的ディテールを読みたい。そのディテールを知ることで、読者は、死を意識 した「私」が椅子からの赦しの声を聴いたときの情緒――結末の意味――を、より鮮明に 理解できるようになるのではないだろうか。 銅賞: 「響かないほど透明な」 著者の語彙の豊富さと、イメージに輪郭を与える際の丹念さが、物語の描写の細やかさ に確実に結びついている。書きとめられた言葉をトレースしてゆくことの悦びを経験させ てもらえる作品。脆弱なキャラクターなのに不思議な存在感を放つ「時子」の造形が特に 印象的である。 恋人が心を委ねてくれる幸福を味わいつつも、 「孝一」はその幸福の中で弾むことができ ないでいる。彼の微妙なためらいの背後には「木村さやか」の面影がある。 「時子」には(ま だ)見えないが、 「さやか」がその「持って生まれた不幸としか思えない程に鋭い」眼で見 てしまったものとは何だったのだろう? もっと読んでみたい作品である。 佳作(1) :「優しい人」 他の人間たちとの関係の深まりから距離を置こうとする「僕」が彼らの“優しさ”に呑 む まれて噎せている。複雑な心のポートレイトである。連想的な手法による作品構成をユニ ークと感じた。しかし、いろんな意味や含みを盛り込もうとしているためか、それぞれの 場面の叙述がスケッチにとどまる傾向があるという印象を持った。結末はドラマチックで あるが、少し言葉足らずと映る。「父から逃げた母と悦っちゃんが重なり、母に逃げられた 父と自分が重なった」とするなら、 「父」のほうは人間のどんな“優しさ”に噎せた(敗北 した?)のだろう? 佳作(2) :「リセット」 モノローグ的な愛情の悲喜劇。 「あいつ」と呼ばれるレトリバーの存在がややミステリア スすぎるのが少し気になったが( 「あいつ」はいつ死んだのか? 何が原因で死んだのか?)、 理想の埋葬地を探し求める「僕」の切迫した感じ、そして執着に由来する限定された思考 のありようが興味深い。ただ、 〈リセットをこの世界にもたらすものとしての雨〉というモ チーフを活かしきれていないような気がして、この点を残念に思った。独特の苦さを伝え る結末である。が、ここで「リセット」されずじまいとなってしまったのは、 「僕」の中の 何だったのだろう? これを力まず言葉にしてみてほしい。
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