『近代医学の先駆者 ハンターとジェンナー【岩波現代全書】』

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目 次
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はじめに
プロローグ
章 近代医学以前 ──天然痘の脅威
1
第
天然痘はどんな病気か ミイラにも見つかる天然痘とその起源
天然痘が歴史に及ぼした影響
漢方による治療と予防
魔除けの赤からノーベル賞へ
古典医学による治療 最初の効果的な予防手段は人痘種痘 24
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目 次
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第
科学的外科の父ハンター 章 ドリトル先生の時代
3
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ドリトル先生のモデルになったハンター 観察と解剖と執筆の日々 ハンターの教えを受けたジェンナー 詩人ジェンナー 考えるより、実験を 恋人のもとへ気球を飛ばす 章 ジェンナーと天然痘
51
──論争と支援
「ほら、ここに天然痘の源がある」
日本で間違って伝えられた最初の牛痘種痘
ロンドンでの最初の試み
牛痘種痘の普及への挑戦
──預言者は故国に受け入れられたか?
その後のジェンナー 93 91
第
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62
可愛い乳搾りの娘さん 豚痘を長男に接種する 57
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第
代金一五〇ドル ナショナリズムをも越えて ワクチンの製造 ワクチン時代へ 117
5
4
日本における牛痘種痘導入までの長い道のり 日本で最初の衛生事業
伝染病研究所
神格化されたジェンナー
166
171
章 ジェンナーの予言 ──天然痘の根絶
169
根絶までの道のり 177
145
ジェンナー論文の発表後五年で早くも日本に情報が ロシアから来た牛痘種痘の書物 またたく間に世界に広がった牛痘種痘 ──古典的医術から近代医学へ
章 ジェンナーが遺してくれたもの
第
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章 日本の近代医学と牛痘種痘
第
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132 129
125
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目 次
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115
天然痘根絶に貢献したのはローテクノロジー バーミンガム大学の悲劇 いまだに廃棄されていない天然痘ウイルス 197
新しいワクチン 天然痘根絶は一時の歴史上の出来事に終わる? エピローグ
おわりに 参考文献
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194
183
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プロローグ
プロローグ
*
(一八六六)
一二月二五日、孝明天皇が天然痘で亡くなった。天皇の診療にあたった朝廷
慶 応 二 年
い ら こ みつやす
の典薬寮の医師のひとり、伊良子光順がつけていた孝明天皇拝診日記は、宮中での診療の様子が書
かれているだけでなく、当時、天然痘にどのように漢方医たちが対応したかを知ることができる貴
(
(
重な資料である。決して他人には見せてはならないと巻頭に書かれていたが、ひ孫の伊良子光孝医
かんのう
る。
じょねつ
ごしゅう よう
ご
けんてん
お
ささ ゆ
お
きちょう
どりしょ
、御収靨(かさぶた、二四~二六日)
、御酒湯(全快儀式、二七日)
となってい
御灌膿(膿疱、二一~二三日)
ご
、御見点(発疹、一五~一七日)
、御起脹(水疱、一八~二〇日)
、
によれば、御序熱(発熱、一二~一四日)
ご
成された。天然痘はおおむね一定した経緯をたどることから、経過を予測した予定表である。それ
けた。形式的なお見舞いではなく、一日も早いご回復を祈ってのことである。一六日に日取書が作
ひ
その夜から発熱された。最初は軽い風邪と診断されたらしい。しかし、一五日に発疹が現れ、天
然痘の診断が下された。禁裏守護の松平容保、老中稲葉正邦、板倉伊賀守たちが至急御所へ駆けつ
時期に、白衣の上から冷水を浴び、夜七時から一〇時まで神殿の板の間に座られたのである。
邪気味で医師から止められたが、湯殿で神事に入る前の斎戒沐浴をされた。新暦では一月の厳寒の
病気の経過を日記にしたがって追ってみる。一二月一一日、天皇は国家安康を祈願する臨時「御
神楽の儀」をつとめられた。徳川慶喜が一五代将軍に任じられて六日後である。その日、天皇は風
師が時勢も社会情勢も変わった現在、学問の上から少しでも役に立てばと願って公表した。
(
2
プロローグ
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一五人の医師団は三班に分かれて当直をつとめた。古来、赤い色は天然痘除けのまじないとされ
ていたため、天皇に近づく者はすべて緋の衣装をつけた。従五位の宮中制服は赤だったが、四位と
六位は色が違うので、緋の絹羽織様の服が与えられた。
かつきぎゅうざん
(一六五六)
、将軍家綱が天然痘にかかった際の記録に初めて記されている。
酒 湯 の 儀 式 は 明 暦 二 年
最初は、かさぶたが早く落ちるようにするためだったが、のちに順調な経過を祝う儀式に変わって
が 書 い た 当 時 の 代 表 的 な 育 児 書『小 児 養 育
い た。元 禄 時 代 の 医 師・香 月 牛 山(一六五六~一七四〇)
(
(
には、酒湯は日本の風俗であって、米の二番目のとぎ汁に酒を少し加える
(正徳四年(一七一四)
)
草』
か、ネズミの糞を二個ほど入れて沸かした薬湯で痘を洗い沐浴すると書かれている。図 にこの儀
(
わらぶた
述べられているが、具体的には身体をさすったり、膏薬を貼ったりした、という記述しかない。突
ところが、二四日夕方になり容態が急変し、高熱、強い吐き気、痰が多く出て、しばしば意識不
明に陥られ、二五日に崩御された。日記では、病状が悪化してから昼夜の区別なく治療を行ったと
った順調な経過とみなされた。
後は回復を待つだけと判断され、御所の内外は安心した。二三日には膿疱となり、ほぼ日取書に沿
天皇の病気の経過を見ると、一八日には発疹が順調な経過をたどり、一九日には安眠され、水疱
になった。二一日に水疱は峠を越し、拝診者一同祈りが天に通じたかと手を取り合い涙にむせんだ。
すべて紅色の衣服を着用している。
の上から熊笹で薬湯が振りかけられている。周りに侍る人たちも
桟 俵(俵の両端につける円形の藁蓋)
さんだわら
式の様子が示されている。座敷の中央に紅色の衣服を着た患者が赤い敷物に座り、頭上にかざした
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然の悪化の原因についてもまったく触れていない。
症状についての詳細な記述もないが、ほかの資料で
は顔に紫色の斑点が現れたと述べられており、天然
痘の中でも悪性の出血性のものの可能性も考えられ
た。一方で毒殺説も強く、いまだに定説はない。
なりゆき
一般社会から隔絶された奥御座所へ天然痘が持ち
込まれ、天皇ひとりが発病された理由も不明である。
この頃、関白二条斉敬の子供ふたりが天然痘で死亡
し、ひとりの女官の実家でも死亡者があったという
ことから、このあたりからの感染経路の可能性が考
えられている。
ただやす
王は種痘を済ませていた。数年前、幼少の親王は生母中山慶子の父、中山忠能の屋敷に預けられて
よしこ
されてからは、病気のうつるのを心配した天皇から病室への立ち入りを禁じられた。実際には、親
は、毎日のように病床を見舞ったが、天然痘と診断
睦仁親王(翌年一四歳で即位されて明治天皇となる)
むつひと
令が出されたことが示すように、孝明天皇は種痘を受けていなかった。孝明天皇が発病された直後、
に宮中にとどまったものの、西洋医学を禁止する勅
種痘が行われた。しかし、慶応元年(一八六五)
(一八四九)
から始ま
ジェンナーの種痘は嘉永二年
には幕府が北海道に派遣した医師により国後島でも
って急速に全国に広がり、安政四年(一八五七)
図 1 酒湯の儀式.石塚汶上,護痘錦嚢,1824
(国立
国会図書館)
プロローグ
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たいすけ
いた当時、忠能はひそかに蘭方医大村泰輔に命じて種痘を施させていたのである。元々牛由来のワ
ののみやさだいさ
さちのみや
クチンをいきなり皇族に接種することは神聖を汚すということになり、また危険性も考えられたた
( (
に接種した。これを知った天
め、まず公家の野宮定功の女児に試したのち、親王(当時は幼名の祐宮)
陰暦で表記している。
*陰暦。以下、日本国内での出来事の年月日に関しては、明治五年
(一八七二)
一二月三日の改暦より以前は
のである。
八 七 〇)
には、全国的な種痘の体制が作られた。これが、日本における近代医学の始まりとなった
幕末動乱期に倒幕派を抑えて公武合体を目指していた孝明天皇の突然の死亡により岩倉具視を中
心とする倒幕派に主導権が移り、翌年明治新政府が誕生した。孝明天皇崩御四年後の明治三年(一
種痘が天然痘の有効な予防法ということは認識されていたのであろう。
皇は親王に感染のおそれがないことに安心されたという。公式には西洋医学を禁止されていたが、
(
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第 1 章 近代医学以前
第1章
近代医学以前
天然痘の脅威
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天然痘は史上最大の被害を及ぼしてきた。なすすべはなく、日本では
漢方による治療だけで、後は神仏に祈るか迷信にもとづく風習にした
がった。西洋では紀元前四世紀のヒポクラテス以来の古典医学による
治療が行われ、その結果病状を悪化させることもしばしばあった。ジ
ェンナーが牛痘種痘を開発する前、一八世紀初めに、人為的に天然痘
にかからせる人痘種痘が生まれた。これは、時には死をもたらしたが、
初めての効果的な予防法であって、日本でも普及した。
第 1 章 近代医学以前
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天然痘はどんな病気か
ひ
になってはがれ落ちるが、痂皮に包まれた天然痘ウイルスは二週間以上
疹はやがて痂皮(かさぶた)
か
である。皮膚の発疹にはウイルスが多量に含まれ、これに触れることでも容易に感染が広がる。発
膜に発疹が現れ、そこからウイルスは咳などと一緒に放出され、これが空気中を漂って感染するの
な戦略を持っている。天然痘に特有の発疹が皮膚に現れる二四時間くらい前には、口腔や気管の粘
さらに発病中の患者からだけでなく、体外でも長い間、生き残って感染を起こすという非常に巧妙
ことである。そこで天然痘ウイルスは、天然痘と診断される前から空気中に子孫ウイルスを放出し、
のである。そのため、ウイルスが存続する手段は唯一、まだかかったことのない人に感染を広げる
かった人では,死亡、回復いずれの経過をたどっても、もはや天然痘ウイルスの標的にはならない
した人は終生続く強い免疫ができるため、二度と天然痘ウイルスに感染しない。一旦、天然痘にか
身体の外ではウイルスは死に絶える。天然痘ウイルスに感染すると、約二〇%の人は死亡し、回復
だけで、増殖するためには生きた細胞を乗っ取って、細胞の代謝の機能に頼らなければならない。
で感染するのは人間だけである。ウイルスは子孫ウイルスを産生するための遺伝情報を持っている
は、二〇世紀
天然痘は人類史上、最大の被害をもたらした感染症である。世界保健機関(WHO)
だけで三億人から五億人が天然痘で死亡したと推定していた。病原体はウイルスであって、自然界
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も生きていることがあり、衣服に付着した痂皮から感染すること
もしばしば起きていた。白人により天然痘が持ち込まれたアマゾ
ンのインディオの間では、
「白人が衣服を脱ぐと病気をそこに残
していく」という言い伝えがあった。
天然痘の症状はほぼ規則的な経過をたどる。天然痘ウイルスに
感染すると、一般に一二日くらいの潜伏期ののちに、突然、頭痛、
筋肉痛、関節痛などと一緒に熱が出てくる。これが二ないし三日
間続いたのち蕁麻疹や紫がかった斑点が現れる。これは前駆疹と
呼ばれるもので、こののち、熱が下がり、天然痘に特有の斑点の
。痘疱の多くは直径一〇ミリメートル位で、
り、同時に全身に痘疱と呼ばれる発疹が出現する(図 )
が広が
ような発疹が現れる。三ないし六日の間にふたたび熱が出て、水疱や膿疱(膿が含まれる水疱)
図 2 天然痘患者の痘疱
が天然痘から回復したのちに残る「あばた」である。
一二ないし一四日頃から膿疱は乾燥して痂皮となり、痘疱は表皮が脱落したのち瘢痕となる。これ
では背中以外にはあまりみられない。発病後、
足のかかとに現れる点が特徴的である。躯幹(胴体)
期と呼ばれている。痘疱が出現する部位は頭、顔、手足などの露出部分が主で、とくに手のひらや
半球状に盛り上がり中心部がへこんで、臍のような形になる。これが天然痘の典型的な病態で発痘
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