「 死 し て 朽 ち な い 」 た め に 何 を 学 ぶ か 柔 軟 で 、 型 に は ま ら な

歳からの勉強法 目次
プロローグ
死ぬまで未熟、未完な「起承転々」の人生 ………
死して朽ちないために必要な「学び」という心棒 ………
蓄積した経験の中に必ず学びの鉱脈が存在する ………
発酵した樽の中から取り出したぼくの生涯テーマ ………
学びに栄養分を求めながら転々の人生を生きる ………
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「死して朽ちない」ために何を学ぶか
第一 章
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柔軟で、型にはまらない勉強法
ゆっくり学ぶことは深く学ぶこと ………
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第二 章
型にとらわれない自分流の学び方でいい ………
原稿を「口で書く」ぼくの非常識な小説作法 ………
おのれの精神活動を時計ごときに仕切らせるな ………
便利や効率や速度の「毒」に染まらない方法 ………
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複数作業の同時進行が時間の中身を濃くする ………
ぼくが部下に「並行飲酒」をすすめた理由 ………
やりたくないことから真っ先に手をつけよ ………
やるべきときに自分の「やる気」に相談するな ………
頭脳活動がもっともシャープな早朝時間を活用 ………
仕事も酒も時間の「見切り」が大切 ………
世間は無辺の学校、出会う人はみな教師 ………
ぼくはなぜかくも映画を愛しているのか ………
働き方に一本の「背骨」を通してくれた映画 ………
「時限蒸発」という充電期間を日常の中に確保せよ ………
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自分の手足を使って得た「なま情報」に勝るものはない ………
「何を読まないか」も重要な読む技術のひとつ ………
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「あの人のためなら」と思わせる人格的説得力を備えよ ………
役所文書から会得した「わかりやすい」文章 ………
人生の余白を広げる学び方
第三 章
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知識と行動を並立させる「楕円思想」をもて ………
頭をやわらかく、心をゆたかにする思考法
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「眠らなくてはいけない」という拘束感から解放されよ ………
学びの場はどこにでもある、誰からでも学べる ………
「街中の書斎」でいそしむ孤独で濃密な情報収集 ………
資料には心ゆくまでサディズムを加えよ ………
脳内での十分な発酵作用、それが仕事の生命線 ………
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秀吉が発揮した「人を動かす」技術の凄み ………
主体性と協調性が並立する「握り飯」型人間であれ ………
単眼を複眼に変えるもの ………
歴史にお手本を求めるときに注意すべきこと ………
何が小説に生命力を吹き込むのか ………
人生を貫く「師」はあなたの身近に存在している ………
人は誰も平凡を積み重ねて非凡にいたる ………
怒りは身の毒、腹が立ったら一日置け ………
どんな人の話にも分けへだてなく耳を傾ける ………
異見こそ尊重せよ
︱
「個」を守りながら、世間と「折り合う」生き方 ………
第四 章
「終身現役、一生勉強」の生き方を貫く
「何のために書くか」を教えてくれた作家 ………
短く、わかりやすい文章で人を喜ばせたい ………
「短文をたたみかける」文章技術を使え ………
人間への深い洞察を含む落語から学んだ語り口 ………
上手な講演は入念な準備と現場のアドリブから ………
話し方の研鑽が書き方の上達に通じる ………
「忘れっぱなし」にしないことが記憶力を鍛える ………
ぼくの心中にうごめいている「デーモン」たち ………
恥や後悔や挫折こそ「人生の調味料」である ………
五十歳からは人間関係の絞り込みを行うべし ………
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166
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………
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5
127
124
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138
130
146
120
142
135
155
152
世界の破滅を前にリンゴを植える静かな覚悟をもつ ………
あとがき
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プロローグ 「死して朽ちない」ために何を学ぶか
プロローグ
「死して朽ちない」ために
何を学ぶか
装 幀/重原 隆
構 成/大隅光彦・岩下賢作
編集協力/株式会社ぷれす
組 版/山中 央
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プロローグ 「死して朽ちない」ために何を学ぶか
死ぬまで未熟、未完な「起承転々」の人生
じ りつ
むかしの人は、年代の区切りをもって生き方の節目とする人生設計の知恵に恵まれてい
じじゆん
たようです。その、もっとも有名なものは、孔子の志学(十五歳)、而立(三十歳)、不惑
順(六十歳)という区分でしょうが、
(四十歳)
、知命(五十歳)
、耳 「起承転結」
という言葉も同じく、年代ごとの生き方の四つの変化をあらわしています。社会へ出る
二十代を起とするなら、力を伸ばしていく三十代が承、変化の起こる四十代が転、人生を
堅固にし、また収束させていく五十代が結。
いずれも実人生の変化をよく反映した、収まりのい い考え方ですが、同時に、 それは
「かくあるべし」という理想を述べたものでもある。現実には、こんなにきれいに割り切
れる人生は誰にもなかなか望めないはずです。
そもそも、これらは人生五十年の時代の知恵であり、平均寿命が八十歳を超え、時代の
変化の速度もおそろしくせわしない現代にあっては、かつては不惑の四十歳も、いまはま
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プロローグ 「死して朽ちない」ために何を学ぶか
だ迷いと悩みのまっただなかにあるのが実情でしょう。
かんおけ
さらに、五十歳という知命の年代に入っても、六十歳の耳順を迎えても、成熟や完成と
はほど遠く、若いときとあまり変わらない未完や未熟を引きずったまま。
こんな
だから、先人が示してくれたような、やるべきことはやり遂げたのち、みずから棺桶の
︱
ふ た を 閉 じ て、 跡 を 濁 さ ず、 憂 い も 残 さ ず、 い さ ぎ よ く 人 生 を 締 め く く る
「結」の迎え方は、もはや現代人には不可能な離れ業というべきではないか。
それが、ぼくも含めた多くの人のいつわらざる実感であるはずです。そうしたことから、
いつごろからともなく、ぼくは人の一生は起承転結ならぬ、
「起承転々」
であると思い定めてきました。
「もはや人間の一生に結などない、あるのは転だけだ」
そのことがいつからか、ぼくの生のありようを
こういう覚悟を胸に据えて、死の日までついに未達、未遂のままの起承転々の人生。そ
︱
れがわが定め、多くの人の運命である
根っこで規定する哲学とも持論ともなったのです。
したがって、かつてなら人生の結びのときであった五十代も、いまはふたたび「転」を
迎える時期となる。それは結がまた転へと転じる再起点であり、人生で二度目に迎える大
きな変化や転変への分岐点でもあるのです。
では、その五十歳以降の転々の日々を有意義なもの、実り多いものにするためにはどう
したらいいか。そのもっとも有効な方法が、ぼくは「学び」であると思います。
すなわち、いくつになっても知的な好奇心や探究心を失うことなく、自分の知識や能力
や教養や見識(つまり人間としての総合力)を少しでも高めるべく勉強を怠らないこと。
その老いてもなお学びを忘れない姿勢が、流動的で不安定な転々の人生に確たる骨格を
歳からの勉強法』と銘打っていますが、三十代、四十代の方々、いや二十代の方々に
与え、その時間を豊潤なものにしてくれるのです。そういう意味では本書はタイトルを
『
読んでいただいても参考になるかもしれません。
死して朽ちないために必要な「学び」という心棒
じゆう しん
冒頭で紹介した、かの孔子は六十歳の耳順のあとにも、さらに七十歳を「従 心」と定
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プロローグ 「死して朽ちない」ために何を学ぶか
義づけています。
耳順は「後輩の言葉によく耳を傾ける」こと。従心とは、「(七十年という長い年月を重
こわ
ねて相当の修養を積んでいるはずだから)自分の心のままに生きてもまちがいはあるま
い」という意味です。
だが、これはぼくにとってかなり厳しくも恐い教えといわなくてはならない。なぜなら、
いまのぼくはとうていそんな境地にはいたっていないからです。
八十歳を超えたいまもなお、後悔と自己嫌悪と反省の連続で、耳順のほうはともかく、
従心についてはまったく自信がない。心のままになんか生きていたら、とんでもないこと
になるという不安が胸から消えることがありません。
らくはく
まさに、未熟未完の人生を地で行っているわけですが、運のいいことには、坂を転げ落
ちていくような落魄の道は歩まずにすんでいます。
それどころか、いまだに現役の歴史作家として働かせてもらっているし、仕事にも恵ま
れている。心身ともにまずは健康、色のほうはともかく、酒も食もそれほど衰えを見せて
いない。
医者の世話にはめったにならないし、近所の商店街 を歩けば、お世辞まじり にせよ、
「お若いですね」と声をかけてくれる人も少なくありません。
その幸せの理由を運以外に求めるとすれば、口幅ったい言い方になりますが、「学び」
を忘れない姿勢にあると思うのです。つまり、未熟を自覚しているからこそ、絶えず勉強
を怠ってはいけないという気持ちがぼくには人一倍強い。
こ
この世における持ち時間が少ないからこそ、眼前の仕事にこれまで以上に力を注ぎ、わ
ずかなりとも前へ前へと漕ぎ進んでいかなくてはならない。だから、年齢を理由に手抜き
をしない、先延ばしをしない。
「終身現役、一生勉強」
。
をモットーに、死を迎える日まで「これでよし」とサヤにおさまることなく、「まだ不
︱
足、まだ未熟」と自戒しながら、命を最後の一滴まで燃焼させたい
どれほど実践できているかはわからないけれども、そういう気概、心構えをぼくはつね
に腹の底に用意しているつもりです。そして、そのことがぼくの転々の日々に一本の心棒
を与えてくれている。向学心がぼくにとっては格好の滋養剤、不老薬となっているのです。
思うに、学びほど人生を深くするものはありません。また、人を成長させ、若く保つも
のもない。学ぶことを忘れたとき、人は本当の意味で老い始めます。だから、たとえ五十
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プロローグ 「死して朽ちない」ために何を学ぶか
歳を過ぎようとも、
「老いて学べば死して朽ちず」
そんな枯れることのない知的欲求を抱き続け、この世にさよならを告げる日まで勉強を
怠らない。そうした姿勢が結なき転々の人生を希望に満ちたものにしてくれ、ぼくたちの
内部にみずみずしい果実を育ててくれるはずです。
蓄積した経験の中に必ず学びの鉱脈が存在する
学びは人生に果実をもたらす種子である。転々の人生が始まる五十代は、その再学習の
基点となる重要な年代である。こういうと、こんな声が聞こえてきそうです。
「だが、五十からいったい何を学べばいいのか、何を勉強したらいいのか。その材料がな
かなか見つからない」
たしかに、学びの素材を何に求めるかは大きな問題かもしれません。そして、そんなと
き、人は鉱脈をこれまで登ったこともない新しい山に探しがちです。勉強の素材をまった
く未知の分野に求めることが多いのです。
しかし、五十歳を過ぎたら、それはもうおやめなさい。学びの種は未知ではなく、むし
み いだ
ろ既知の分野に探しなさいというのがぼくの提案です。すなわち、鉱脈は自分の過去の中
に見出すべきである。
「人は誰もが、その年齢までに書かれた一冊の本である」
とぼくは考えています。あなたが五十歳なら、その年齢まで生きてきたことだけで、あ
なたはすでに一冊の本を書いている。あるいは、あなた自身が五十歳までに書かれた一冊
の本なのです。
それまで、よほどいい加減に生き、ムダな時間を過ごしてきたのでないかぎり、その自
作の本の中には、読み返すに値する箇所が必ずひとつはあるはずです。その「これだ!」
こういう努力が五十代に
という一行なり一ページを探し出し、読み返して、五十代からの学びの素材とする。
︱
その後の転々の人生を生きていく羅針盤とし、心棒とする
は必要なのではないでしょうか。
どんな人でも、過去の中に必ず未来の種を宿しているものです。それまでの仕事や生活
の中で経験したこと、蓄積した財産のうちに、未来への活路を開く有望な鉱脈がすでに潜
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プロローグ 「死して朽ちない」ために何を学ぶか
在している。それを丹念に探し、見つけ出し、育てていくことに力を尽くすのです。
したがって、五十代に大切なのは、新しいことの模索よりも、「これまで」の振り返り
や見直しであるとぼくは思います。
このことを逆にいえば、五十歳までは仕込みの時期であるということです。自分という
たる
樽の中にさまざまな材料や栄養分を詰め込んで、それを発酵させる時期。
以前は、ぼくのところにも弟子志望の若い人が訪れてきたものです。「わたしも歴史を
やりたい、勉強させてもらえませんか」というのですが、ぼくはみんな断ってきました。
物書きというのは徹頭徹尾孤独な作業を余儀なくされる個人事業で、師匠もなければ弟
子もない。やるのならひとりで始めて、ひとりのまままっとうせよというのが断る理由の
ひとつ。
もうひとつは、歴史とはつまるところ人間の生き方、死に方の集積ですから、その勉強
は人生の定食コースをひととおり食べてからでも遅くないという点です。
社会に出て、働き、恋をし、結婚して、子どもをつくる。そうした人間一般の体験を重
ね、社会的責務も相応に果たしてからのほうが歴史の解釈に深みが生まれる。歴史を学ぶ
については、早いスタートは必ずしも有利ではなく、むしろ不利に働くのだから、定年後
からでもけっして遅くない。
こんなふうに説明すると、たいていの人はあてが外れた不得要領の顔つきで帰っていく
のですが、要するに、あわてて樽の中から取り出しても、未発酵なままでは遅かれ早かれ、
鉱脈の根は枯れ、底が割れてしまうということです。
これはたぶん、どんな分野の勉強にも共通していえることでしょう。樽の中での仕込み
が不足していれば、せっかくの学びの苗もいずれ痩せ細ってしまう。逆に、仕込みが十分
であれば、おのずと肥え、伸び育っていく。
その意味で、五十代というのは、それまで自分の中に培ってきた鉱脈を新しい可能性と
して表へ取り出すのに最適な時期なのです。五十歳までは知の助走期間で、その本番を迎
えるのは実はそれ以降のことなのです。
知命とは「天命を知る」の意ですが、それは「おれの天命はどこにある」と未知の分野
や未来の方向にキョロキョロ探すものではなくて、おのが来し方に蓄えてきた知的財産の
中にすでに存在しているもの。
五十歳からの転々の人生において、どんな目的を掲げ、どの方向へ進んでいったらいい
のか。その答えは、実はもう過去の中に暗示されているのです。
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プロローグ 「死して朽ちない」ために何を学ぶか
それを新たな可能性や滋養分として再発見すること。それが孔子のいう「知命」の本当
の意味なのだとぼくは思います。
発酵した樽の中から取り出したぼくの生涯テーマ
ぼく自身の例をいえば、やはり五十代までの勤め人時代に、すでにいまにつながる学び
の鉱脈を培っています。
ご存じの人もいらっしゃるでしょうが、ぼくには三十年余、東京都庁の職員として働い
た経験があります。在職中から習作活動(同人誌)を休日に行っていました。つまり仕事
との併行です。部分的には歴史雑誌からの注文もありました。よく“二足のワラジを履い
ている”という見方がありますが、ぼくの場合は一足のワラジです。これはどこかでご説
明します。そのこともあって、五十一歳で都庁を退職したときも、
「これから新しいことを始めよう」
という気持ちは薄かったのです。むしろこれからどう生きるか、という大きな課題の壁
ぼうぜん
の前で呆然と立ちすくみました。実際にはぼくの体内では五十歳までに蓄積してきた体験
や財産、その多くが滋養たっぷりな発酵物となってグツグツと煮えるような音を立てなが
ら、主人の手によって樽の外ヘと取り出されたがっていたのです。そのふたを開けてくれ
たのが、在職中に知り合ったマスコミ記者さん数人でした。
「なにか書け」
「テレビに出ろ」
と声をかけてくれたのです。しかしそれも辞めてから数年後のことで、すぐにではありま
せん。ぼくは誘いに応じました。うれしくもありがたいことでした。そしてこのときにこ
れから書こうとする作品のテーマや材料は、それを新しい未知の分野に探すよりも、過去
の自分の歴史の中に求めるべきだ。物書きとしての本能はぼくにそう教えてくれたのです。
そう思って振り返ってみると、職員数三十万という巨大組織である都庁での三十年の
日々は、実にゆたかな宝の山であることにあらためて気づいたのです。
また都庁で働いていたころも、ぼくは勤務時間中もあるいは、家へ帰ってからも歴史と
現在のあいだをしきりに行ったり来たりしていたようです。
たとえば、いま、この職場で起きているこの問題は、歴史上のどんな事件のどんな局面
に相当するか。この上司や部下のこういう考えやふるまいは、歴史上のどの人物のどんな
思考や行動に近いか。
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プロローグ 「死して朽ちない」ために何を学ぶか
あるいは逆に、あの歴史上の事件を現代のこの組織に当てはめてみたら、どんな出来事
が起こり、誰がどういう役割を果たすか。あの歴史上の人物をこの職場に置いたら、どう
いう行動を見せるか。
そんなふうに、歴史を現在的位相に置き換えてみたり、現在を歴史的視点からとらえ直
してみたりする作業、すなわち、
「過去と現在の相互交流」
をしょっちゅう行っていました。したがって当時もいまも、ぼくにとって歴史はたんな
る過去ではなく、現在に生きているものです。現在もまた過去と切り離されてあるもので
はなく、過去と地続きのものなのです。
歴史をあつかうことは現在を考えることでもあるし、現在の問題に取り組むことは歴史
の出来事に触れることでもある。このことから、
「歴史を死体解剖するのでなく、生体解剖する」
という、ぼくの歴史作家としての基本的態度がだんだんと形づくられてきたのです。同
時に、そこから転々の人生を貫く生涯のテーマも明確になってきました。その最大のもの
が「組織と人間」です。
具体的にはあとで述べるつもりですが、「組織をつくり、動かすのは人であって、その
逆ではない」
「個人の独立した人格や人望によって組織は支えられ、動かされている」も
のである。
したがって、組織の中の個人は「主体性のある組織人」であるべきで、一個の自立した
人間でありながら、組織にも十分に貢献するのが本来の姿である。
つまり、個人は組織の中にあって、どろどろに溶けて米の一粒一粒が主体性を失った
「おかゆ」ではなく、その一粒ずつがしっかりと自立しながら、全体としても確かな形を
保っている「握り飯」のようでなくてはいけない。
このような組織観および人間観の上に立って、「組織と人間」の問題を歴史小説を通し
て追究すること。それがぼくの人生後半の最大のテーマ、すなわち「天命」としてはっき
りと浮かび上がってきたのです。
繰り返しになりますが、転々の生涯を貫く学習テーマはすでに誰の過去の中にも発酵し
つつあり、樽から取り出されるのを待ち受けています。
ぼくたちは自分自身が紡いできた本の中の一行、一ページにそれを見出し、これからの
人生を堅固に生きる指針とも心棒ともすべきなのです。
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プロローグ 「死して朽ちない」ために何を学ぶか
学びに栄養分を求めながら転々の人生を生きる
何を始めるのにも「遅すぎる」ということはありません。まして、それまで培った知識
や経験の中に題材を求めるのであれば、五十歳という年齢が勉学を志すのに遅すぎること
などなおさらありえません。
そのお手本を歴史に探すなら、たとえば伊能忠敬が「歩く人」を志したのも、彼が五十
歳を過ぎてからのことです。
よ
ち
日本全国を測量のためにコツコツと歩き回り、わが国最初の本格的な国土地図である
『大日本沿海與地全図』を完成させた。その業績はつとに知られるところですが、彼が歩
き回った旅行距離は実に約四万キロメートル、地球を一周するほどの距離です。
測量に費やした日数も、五十五歳から七十一歳までのうちの三千七百三十六日。まさし
く、小さきを積み重ねて大を為す「積小為大」の偉業といわねばなりません。
忠敬は幼いころから計算の天分にすぐれ、天文学を学びたい志を抱いていました。しか
し、その思いを実行に移すのは、婿入りした伊能家の財政再建を果たしてのちのことです。
それまでは樽の中でふつふつと志を発酵させながら、「時」がくるのを待っていました。
そして、同家の再興を果たし五十歳の年を迎えると、彼はすぐに隠居を申し出、以降の
人生を、天文学を学んで、世の中の役に立てたいという、長く心に秘めてきた宿願に向か
ってまっしぐらに突き進むことになったのです。
前半生のお家再興と後半生の地理測量。忠敬は五十歳を境にまったく異なる人生を歩ん
だように見えますが、それはあくまで表向きのことで、「天文学をきわめたい」とする勉
学への志は一筋の太い鉱脈として、現役時代も隠居後も、彼の内部に一貫して枯れること
なく脈打っていました。
老いてのちもなお、まことにみごとな人生というべきでし
知命の年まで胸底にじっと雌伏させてきた夢を、その後、堅実に、また意志的に開花さ
︱
せ、深く掘り下げていった
ょう。
では、忠敬には及ばずとも、平成の現代に生きるぼくたちが転々の人生を実り多い、充
実したものにするためには、何を、どう学んでいけばいいのか。
その五十歳からの有意義な勉学術を考えてみようというのが、編集部からぼくに託され
た宿題です。与えられたミッションをどこまで果たせるものかはわかりませんが、ぼくが
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プロローグ 「死して朽ちない」ために何を学ぶか
これまでに身に蓄え、実践もしてきた童門流の勉強法を以下、できるだけ具体的に紹介し
てみることにしましょう。
具体論に入る前に、ぼく自身、肝に銘じている「学びの心構え」のようなものを二、三
述べておくと、そのひとつは、転々の時期から始める「学びの姿勢は自由でいい」という
点です。
五十歳からの勉強法の、その主目的は資格取得や知識増量などにはなく、おのれの人生
き
く
や人間の深度を深める点にあります。したがって、「こうするべきだ」「こうしてはいけな
い」といったネバーやマストの発想からは解放されて、社会の規矩にはまらない、柔軟性
や流動性の高い独自の勉強法を採用すべきです。
やみくもに知識を頭に詰め込んだり、規則正しい勉強を心がけるあまり時間に縛られた
ひ けつ
りするのはもう卒業して、最短距離を急がない、回り道も寄り道もある学びの道。それが
転々の時期の勉強法を息切れさせず、長続きもさせる秘訣となります。
ふたつには、
「教科書は世間にある」と心得よという点。
机前でかしこまってするだけが勉強ではありません。机やパソコンにしがみついて得ら
れる知識情報の多くは「干物」の範囲を出ないものです。別の言い方をすれば、加工品で
す。防腐剤もほどこされています。なまではないのです。
干物ではない「なまもの」の知識情報に接するには、やはり書を捨てて街へ出てみるこ
とが大切。書斎を飛び出して外気を吸い、街の息づかいに触れ、生きた人間に会う。そう
した、
「門構えの広い」学びの態度が転々の時期をゆたかなものにする。
すき
三つめの心得は、
「孤独を覚悟せよ」です。
五十歳までに培った鉱脈に鍬を入れよといいましたが、鉱脈をひとつ選ぶことは、反面
で、他の可能性を捨てることでもあります。
その行為は多かれ少なかれ、それまでの蓄積をいったんご破算にして、ゼロベースに立
つことを意味します。だから知命を迎えたら、まず、その零度地点に立つ覚悟を胸に据え
なくてはならない。
まして、年を重ねれば重ねるほど人間は孤独を増していく生き物です。壮年からの転々
の時期の学びは、したがってその孤独を自明のものとして覚悟し、それに絶える力も太く
み
養うものでなくてはならないはずです。
アメリカの西部劇映画などを観ていると、枯れ草が丸まって人気のない街中を風に転が
っていくさびしい場面に出くわすことがあります。あの枯れ草をタンブルウィードといい
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第一章 柔軟で、型にはまらない勉強法
ますが、実はあれは枯れてはいないのです。
風に吹かれ、転がりながらも、地面の栄養分を吸い取ってしぶとく生きている。孤独で
不確かな転々の人生を生きるぼくたちもまた、転がりつつ、したたかに生きるタンブルウ
ィードのようであるべきです。
むろん、その生の栄養分は絶えざる「学び」からしか得ることができない。これもまた
章
確かなことです。
一
第
柔軟で、
型にはまらない勉強法
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27
一章分まるごと読める﹁サキ読み﹂
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実際の刊行書籍とは、一部異なる場合がございます。
あらかじめご了承ください。
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