教区宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌テーマ・第12次教化研修計画教区

教区宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌テーマ・第12次教化研修計画教区教化テーマ
「私はどこで生きているのか~たずねよう
真宗の教えに~」
テーマ策定に関する経過
高田教区では、2007 年に宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌お待ち受けとして「越後御流罪八百
年法要」を勤めた。宗祖の歩まれた道をたずね、自らも歩まんと「親鸞の道を生きる」を課題とし、
親鸞聖人が顕かにされた本願念仏の教えに私たちの生きる依りどころを確かめてきた。親鸞聖人
は流罪生活をとおして、人間としてのいのちを赤裸々に生きている「いなかのひとびと」と出遇い、
本願念仏の教えこそ国を超え、時代を超えていく共なるわれらの道であることを確信された。その
流罪に心を致し、宗祖の歩みをたずねるべく「流罪からの出発」を教区の教化テーマとした。また、
この越後御流罪八百年法要をとおし、私たちは何を依りどころにして生きるのかがあらためて問わ
れていることから、サブテーマを「私はどこで生きているのか」として、自己の立脚地を見つめなお
すことを重点としての教化活動を行ってきた。
この教化テーマをもとに様々な取り組みが行われ、2011 年に「宗祖親鸞聖人七百五十回御遠
忌」を迎えた。教区では流罪の地として「流罪からの出発」のテーマにより、教区内はもとより全国
にその意義を発信してきた。これらのことにより流罪のもつ意義は確認されてきたが、テーマのね
らいとする自己の立脚地と内実を問うまでには至っていない。
このたび、高田教区宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌を迎えるに当たり、御遠忌推進委員会「行
事広報部会」でそのテーマを策定することになった。教区御遠忌テーマについては、教区の教化
研修計画が 2011 年度中に定められ、2012・2013 年度に実施されることから、お互いの方針の整
合性を保つため、教区御遠忌テーマと教区教化テーマを同一のものとすることにした。そのことを
うけて、行事広報部会に「テーマ策定実行委員会」を置き、その構成は部会メンバーと教化委員
会幹事会員とした。
テーマの策定では多くの方の意見を聞くということと、関心を持っていただくという観点から全寺
院を対象とした意見聴取を実施した。住職・坊守・寺族・門徒を対象とした御遠忌テーマについて
の集計結果の一部は「御遠忌通信 創刊号」でお知らせしたとおりである。そのなかでは現テーマ
「流罪からの出発」の継続、あるいは「流罪」をキーワードとして取り入れるべきであるとの意見があ
り、一方、多くの人にわかり易い言葉で発信すべきという意見も少なくなかった。さらに、多くの方
が御遠忌への関心を高め、そして事業への積極的な参加を促すため、テーマの周知と教化事業
の展開の手法の検討が必要であると指摘している。回収率は高いとは言えないが、この意見聴取
から「流罪からの出発~私はどこで生きているのか~」として推し進められた事業が一定の評価を
受け、流罪の意義が意識されてきたことがうかがえる。
この「流罪からの出発~私はどこで生きているのか~」のテーマがどのように深まりをもったか確
認するために、教化委員会では、次の3項目を観点として部門ごとに検討を重ねた。それは、①こ
のテーマによって自身に何が明らかになったか ②今の時代、社会をどのようにとらえるか ③教
区御遠忌で闡明にすべき課題と視座の3点である。
①では、テーマ「流罪からの出発~私はどこで生きているのか~」が、まだ一人ひとりが自分自
身を問うものにまで浸透していなかった。流罪までの経緯や時代状況、あるいはこの越後の地に
流されたという事実、それにより親鸞聖人が「いなかのひとびと」と関わることによって民衆にかえり、
あらためて念仏の教えを確認していくという歩みを理解することにとどまっている。流罪が私たち一
人ひとりに投げかけている課題を明らかにしないかぎり、それは単なる歴史的事実としてしか受け
取ることができない。当然この地が親鸞聖人が流された場所であるから、テーマを「流罪からの出
発~私はどこで生きているのか~」としただけではない。そこに願われるのは、サブテーマ「私はど
こで生きているのか」による私たちの立脚地の確かめであり、この歩みが一人ひとりに恵まれたとは
言えない。
②では、昨年(2011 年)発生した東日本大震災と、それによる原発の事故がさらけ出した現代
文明の課題に多くの方がふれられた。当然そのこと以外にも戦争、差別や年間 3 万人を超える自
殺者や経済格差などの近代的人間観に基づいてのいのちの私有化という問題もある。それらに
対して私たちはややもすると傍観者の立場に立ってしまい、被害者意識しかもてず、私たち自らが
生み出した現代社会の一員としての加害者の一面をもつという意識が薄れている。
③では、教区の御遠忌を流罪から出発し、どこで生き、どこへ向かうのかその方向性を明らかに
することになろう。そのことが高田教区で御遠忌を勤める意義であり、それぞれ一人ひとりの「私に
とっての御遠忌」になる。
以上のように、教化委員会部門ごとの意見や、先の意見聴取の声を参考に「テーマ策定実行
委員会」で論議を重ねてきた結果、教区御遠忌テーマ「私はどこで生きているのか~たずねよう
真宗の教えに~」という言葉を生み出した。流罪という文字は入っていないが、決して流罪のもつ
意義、そしてそこからの問いかけを離れたところにこのテーマの存在はなく、あらためて流罪のも
つ意義をたずね、自己の立脚地を明らかにしなくてはならないという意味をこめてのテーマであ
る。
テーマの趣旨と願い
教区では、宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌厳修年度であった 2010 年度、御遠忌に向けて実
施した教化活動の点検作業を広範囲にわたって実施した。その期するところは、御遠忌お待ち受
け期間中の真宗同朋会運動推進「中期教化研修計画」に於ける施策の実施状況と、教区の第 10
次教化研修計画の成果と課題を明らかにすることであった。具体的には、教区教化委員会の 4 つ
の部門が中心となって行った「組長」「住職・代務者」「寺院(住職・坊守・寺族)」「組門徒会員」「推
進員」を対象とするアンケート調査である。その集計と分析については「高田教務所報(2011 年度
版)」に掲載しているが、この中で明らかになった課題の一つが教区教化事業の行き詰まり状況と
いう問題であった。特に宗祖御遠忌に向けての取り組みや教区教化事業の認知度の低さ、参加
状況の低さはどこに原因があるのかを明らかにし、早急に解決を図らなければならない課題であ
る。この課題の克服が、教区御遠忌の推進・円成に不可欠なものと考え、テーマ策定に当たり、
「今」という時代認識、社会認識、なかんずく教区の現況をどうとらえるかという論議から出発するこ
とになった。教区御遠忌をどのようなものとして構想するかは、御遠忌そのものの意義、宗祖として
の親鸞聖人にどのように遇うのかということと併せて、教区の現況をどのように見るのかという視座
が必要である。
親鸞聖人がいのちがけで伝えようとした念仏の教え、それは「真実の教を顕さば、すなわち『大
す
き
無量寿経』これなり」(『真宗聖典』P152)という言葉であり、「雑行を棄てて本願に帰す」(『真宗聖
典』P399)という宣言を、そのお心としていただきたい。私たちはその教えに「遇う、聞く、帰す」こと
を通して教区御遠忌を迎え、これからの生きる指標にしたいと思う。このことは「あらゆる人々を御
同朋として見いだしていく眼をいただく念仏者が生まれることを願いとする」(宗祖親鸞聖人七百
五十回御遠忌基本計画真宗本廟両堂等御修復事業最終報告、『真宗』誌 2003 年 5 月号)真宗
同朋会運動の趣旨に沿うことでもある。しかし、ひるがえって私たちは、親鸞聖人がいのちがけで
伝えようとした念仏の教えを生活の指標とし、そのことを価値判断の基準とした生活をしているかと
いえば、そうではない。自身の生活が真宗門徒としての生活と言い切れない弱さ、自信のなさが
つきまとっている。さらに言えば、そのことに気付かない、気付いても避けようとしている姿として露
呈しているのではないか。私たちは、宗祖御遠忌を通して、あらためて何を依りどころとして生きて
いるのかということが問われている。そのような中で、これまで教区教化のサブテーマとしてきた「私
はどこで生きているのか」をメインテーマとし、自身への問い、確かめる言葉として生み出した。「ど
こで」は「自己の立脚地と内実を問う言葉」(教区運動方針)であることの確認はこれまでになされ
ている。さらに「私はどこで生きているのか」という、自身の依りどころを明らかにしようと模索するう
えで、「たずねよう 真宗の教えに」をサブテーマとし、方向性を示す言葉として設定した。私の依
りどころを、どこまでも宗祖のお心に寄り添いながら求め、確かめていく、そんな求道の営みに期
待したい。「たずねる」は、「聞く」「語り合う」「伝え合う」行為を通して明らかにしていくことである。こ
のち
さき
とぶら
こでは「不明なことを明らかにする」意で「尋ねる」が適当であろうが、「後に生まれん者は前を 訪
え」(『真宗聖典』P401)にも通じる言葉として平仮名にした。
先にも述べたように、教区御遠忌を迎える教区寺院の現況は、住職の姿勢・意識も含めて厳し
いものがある。ことに、これまでも指摘され続けている宗門の「閉塞感」と「危機感の希薄さ」は当教
区とて例外ではない。「私たちは、たまたま同時期に、宗門にご縁をいただき、お念仏の教えにふ
れ、他者と共に在る世界を願いながら、実際の人間関係はというと、他者を責め、いつでも自らを
善しとする在り方であります。そして、そのことが自分にとって、仏法に生きるところで問題になって
こない。ここに閉塞感が蔓延する理由があると思うのであります。」(第 55 回宗議会・宗務総長演
説)と述べているように、「仏法に生きる」ことへの自信のなさが「浄土」や「往生」という言葉へのた
めらいとしても現れている。さらには、家の宗教に安住し、「常に自信教人信の誠を尽くし、同朋社
会の顕現に努める」(真宗大谷派宗憲前文)ことを怠り、自分の思いに閉じこもり自己満足して座り
込み、歩み出そうとしない。そして、そういう姿に気付かず、そのことに危機感も感じていないという
現実を厳しく問うことが必要である。もちろん、すべてがそのような状況であるわけではないし、教
区の問題を自身の問題として考え、解決の道を共に探り、ぶれずに歩んでいる姿、動きがあること
も承知している。その上でということになるが、この度の教区御遠忌が、自分の中あるいは教区の
中にある負の姿を明らかにし、「私はどこで生きているのか」をあらためて確かめる、そんな歩みに
なることを願っている。そして、そのことが「他者と共に生きる同朋の生活を明らかにする」(最終報
告)ことにつながり、「本願念仏に生きる人の誕生」(基本方針)となる。さらには、「真宗の教えにた
ずねる」プロセスが、お寺は何のために存在するのか、僧侶はどのような任務を担っているのか、
私は何を為すために生まれ、生きているのかという根源的な問いに真向かうことにもなる。今後、
自問自答を繰り返すことにとどまらず、テーマをめぐる寄り合い談合が生まれ、テーマが自身の生
き方を振り返るきっかけとなり、結果として教区挙げての御遠忌ができたという喜びが共有できるこ
とを願ってやまない。