1917年憲法 - メキシコ革命と日米関係

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1917年憲法
1917年憲法
1916年
1916年の独立記念日、
独立記念日、ビヤがチワワ州都
ヤがチワワ州都を
州都を攻撃している
攻撃している頃
している頃、カランサはオブレゴン
カランサはオブレゴン
とビヤの決戦場
ヤの決戦場となったセラヤに
決戦場となったセラヤに程近
となったセラヤに程近いケレタロ
程近いケレタロで
いケレタロで憲法会議を
憲法会議を開催することを
開催することを高
することを高らかに宣
らかに宣
言した。
した。勿論会議に
勿論会議に招かれたのはカランサ支持者
かれたのはカランサ支持者のみである
支持者のみである。
のみである。カランサは1857
カランサは1857年憲法
1857年憲法
の自由主義精神を
自由主義精神を尊重し
尊重し、注意深く
注意深く検討しようとした
検討しようとした。
しようとした。彼は1857年憲法
1857年憲法が
年憲法が1824年
1824年
憲法を
憲法を踏襲したように
踏襲したように、
したように、新憲法に
新憲法に継続性を
継続性を持たすことで合法性
たすことで合法性を
合法性を強調しようとした
強調しようとした。
しようとした。そし
て、議会の
議会の横暴を
横暴を許した1857
した1857年憲法
1857年憲法を
年憲法を是正して
是正して、
して、調和の
調和の取れた強力
れた強力な
強力な行政権を
行政権を確立で
確立で
きると信
きると信じていた。
じていた。さらに、
さらに、判事の
判事の任期を
任期を終生とすることで
終生とすることで、
とすることで、司法の
司法の独立を
独立を確保し
確保し、地方
行政権を
行政権を認める条項
める条項も
条項も必要である
必要であると
であると考えていた。
えていた。
カランサは彼
カランサは彼の考えていた社会改革
えていた社会改革を
社会改革を新憲法に
新憲法に組み入れる必要
れる必要はなく
必要はなく、
はなく、ベニート・フア
レスの改革法
レスの改革法のように
改革法のように、
のように、個々の法律によって
法律によって対処
によって対処して
対処して行
して行けば、
けば、歴史の
歴史の辿るコースに沿
るコースに沿って
改革は
改革は達成できるであろうと
達成できるであろうと考
できるであろうと考えていた。
えていた。また、
また、新憲法によって
新憲法によって彼
によって彼の権威を
権威を正当化させ
正当化させ、
させ、
彼の政策を
政策を尊重させる
尊重させる自信
させる自信があった
自信があった。
があった。カランサは1857
カランサは1857年憲法
1857年憲法の
年憲法の政治的欠陥を
政治的欠陥を手直しす
手直しす
ることで、
ることで、会議は
会議は終始するものと
終始するものと予想
するものと予想した
予想した。
した。更に、国家の
国家の権威に
権威については、
ついては、これまで自分
これまで自分
が実践してきたことを
実践してきたことを、
してきたことを、代議員は
代議員は容認するものと
容認するものと信
するものと信じて疑
じて疑わなかった。
わなかった。しかし、
しかし、驚いたこ
とに急進的
とに急進的な
急進的な改革案が
改革案が憲法条文に
憲法条文に織り込まれ、
まれ、新憲法に
新憲法による社会革命
よる社会革命が
社会革命が始まったのである。
まったのである。
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1916年
1916年11月
11月18日朝
18日朝、
日朝、歴史的な
歴史的な会議に
会議に臨むため、
むため、カランサは五十
カランサは五十人
五十人からなる騎馬
からなる騎馬
隊を組んで、
んで、颯爽とナショナル・パレスを
颯爽とナショナル・パレスを出発
とナショナル・パレスを出発してケレタロ
出発してケレタロに
してケレタロに向かった。
かった。12月
12月1日、早
くから
くから多くの労働者
くの労働者、
労働者、有識者、
有識者、小企業主、
小企業主、教師などが
教師などが会議場
などが会議場に
会議場に集まっていた。
まっていた。午後、
午後、多く
の随行員を
随行員を伴ったカランサは熱狂的
ったカランサは熱狂的な
熱狂的な歓迎を
歓迎を受けて入場
けて入場した
入場した。
した。改革ではなく
改革ではなく、
ではなく、革命を
革命を求め
る若い代議員に
代議員に対して、
して、カランサは前世紀
カランサは前世紀から
前世紀から話
から話しかけた。
しかけた。聴衆はカランサに
聴衆はカランサに敬
はカランサに敬意を表し
たが、
たが、決して服従
して服従はしなかった
服従はしなかった。
はしなかった。最初の
最初の演説が
演説が終わると、
わると、皆が一斉に
一斉に酒場へ繰り出し、テ
キーラを飲
ーラを飲んで更
んで更に論議を
論議を闘わした。
わした。これが二
これが二月も続いた。
いた。
会議が
会議が進むにつ
むにつれて、
れて、色分けがはっきりしてきた。
けがはっきりしてきた。カランサに近
カランサに近い代議員で
代議員で、1857
年憲法の
年憲法の一部を
一部を手直ししようとする
手直ししようとする「
ししようとする「継続派
継続派」と呼ばれた中道
ばれた中道右派
中道右派が
右派が凡そ八十五名
十五名、それ
に対し、幅広く
幅広く改革を
改革を求める急進的
める急進的な
急進的な代議員は
代議員は百三十
百三十二名いた。
いた。中心議
中心議題は二十七条、農
地改革であった
地改革であった。
であった。継続派
継続派は1857年
1857年の原文以上のものは
以上のものは不
のものは不必要とした
必要とした。
とした。反対派は個人へ
個人へ
土地の分配を行う様式の
様式の確立を
確立を求めた。
めた。そして、
そして、メキシコの
メキシコの土
シコの土地は誰のものか、
のものか、という一
という一
大論争に発展した。
した。その結果
その結果、
結果、植民地
植民地時代にはメキ
にはメキシコの
メキシコの土
シコの土地は副王のものであったよう
副王のものであったよう
に、土地は国家のものであると
国家のものであると結
のものであると結論付け、土地と水利権
水利権を国家へ
国家へ返上することを
返上することを二
することを二十七条
に盛り込んだ。
個人へ
個人へ管理権
管理権を委譲する
委譲する権
する権限は国家が
国家が保有することになった
保有することになった。
することになった。この個人
この個人に
個人に資産を
資産を与える
権限は、公益の
公益の名の下に無効にすることが
無効にすることが出
にすることが出来た。国家は
国家は公共のために
公共のために、
のために、個人の
個人の資産を
資産を制
限することが出
することが出来、その地
その地域社会に
社会に充分な土地や水がない場合
がない場合には
場合には、
には、最寄りの
最寄りの大
りの大地主から
地主から
69
245
それらを奪
それらを奪うことを可能
うことを可能にした
可能にした。
にした。これをもって大土
これをもって大土地
大土地農園(
農園(ラティフン
ティフンダ
フンダ)やアシエ
アシエンダ
は終焉した。
した。
70
国家が
国家が究極の
究極の土地所有者で
有者で、保護者であれば、
であれば、その地
その地下にあるものも国家
にあるものも国家が
国家が所有する。
する。
二十七条は副王の
副王の代りに国家
りに国家が
国家が地下に眠る鉱物、
鉱物、石油を
石油を含む物質の
物質の所有者であるとした
有者であるとした。
であるとした。
若い急進派
急進派は更に、メキシコで
メキシコで生
シコで生まれるか国
まれるか国籍を取得した者
した者のみが、
のみが、メキシコで
メキシコで百
シコで百パーセ
ントの土
ントの土地所有権を
有権を持つとした。
とした。政府は土地所有権を
有権を外国人に
国人に与える事
える事は出来るけれども、
るけれども、
その外
その外国人は
国人はメキシコ
メキシコ国
シコ国籍所有者
籍所有者として
有者として扱
として扱われる。
われる。過去数十年
過去数十年にわたって
十年にわたって外
にわたって外国人土
国人土地所有
者は、法律上
法律上の問題を
問題を本国に訴えきたが、
えきたが、それを禁止
それを禁止した
禁止した。
した。議場を
議場を席巻した
席巻した急進
した急進派
急進派は百二
十三条を新設した。
した。
初日の演説で
演説で、カランサは労働
カランサは労働問題
労働問題を
問題を取り上げ、慈悲深
慈悲深いリベラルとして、
ベラルとして、一般的
一般的な労
働条件
働条件の改善を訴えた。
えた。勿論、
勿論、スト権
スト権については何
については何ら言及しなかった。
しなかった。若い代議員た
代議員たちが
作成した原
した原文に盛り込まれたのは、
まれたのは、一日八時間労働
時間労働制
労働制、幼年労働の
年労働の禁止、
禁止、女性及び若年労
働者の
働者の保護、祭日の休業、適正な給金を
給金を現金で
現金で支給すること、
すること、プロフィッ
ロフィット・シ
ィット・シェ
ト・シェアー、
アー、
調停委員会
停委員会の
員会の設置、
設置、解雇時の
解雇時の保証金、
証金、などであった。
などであった。
カランサは勢
カランサは勢いづいた代議員
いた代議員た
代議員たちを止める事
める事は出来ず、古くからの難題
くからの難題である
難題である教会
である教会問題
教会問題
の討議に
討議に入るや、議場は
議場は更に熱気を帯びた。カランサの考
カランサの考え方は彼の以下のコ
以下のコメ
のコメントによ
く現れている。
れている。曰く、「人の習慣は
習慣は一夜に
一夜に変えられるものではない。
えられるものではない。カトリック
カトリックを
リックを返上させ
返上させ
る事は、革命に
革命に勝利したからといって
勝利したからといって出
したからといって出来るものでもない。
るものでもない。メキシコの
メキシコの民
シコの民は無知で
無知で迷信深
く、教育をしない限
をしない限り、何時までも
何時までも彼
までも彼等の習慣を
習慣を捨てないだ
てないだろう」
ろう」しかし、
しかし、三条と百三十
百三十
条において、
いて、カランサと側
カランサと側近は再び敗退する
敗退する。
する。急進派
急進派は教会に
教会に認められていた法律
められていた法律上
法律上の権
限を全て否定し
否定し、聖職者
聖職者の権利を剥奪して
剥奪して登録制
して登録制にし
登録制にし、
にし、更に、宗教教育
教教育と、教会外
教会外での宗
での宗
教行事を
行事を禁止するとともに
禁止するとともに、
するとともに、教会の
教会の財産を
財産を完全に
完全に取り上げて国有化した
国有化した。
した。ここでも二
ここでも二十七
条の土地法と
地法と同じように、
じように、植民地
植民地時代のスペイ
のスペイン
ペイン国王の権限を、国家が
国家が持つことになった。
つことになった。
国家は
国家は攻撃的な
攻撃的な反宗教憲法
反宗教憲法をもとに
教憲法をもとに、
をもとに、ローマ
ローマ法王の影響力
影響力を断って、
って、何時でも
何時でも教会
でも教会に
教会に対し
て圧力を加えることが出
えることが出来るようになった。
るようになった。
71
72
カランサが考
カランサが考えていた「
えていた「法と改革」
改革」は、彼の手元から取
から取り上げられ、
られ、法制的、教義的に
教義的に
1857年憲法
1857年憲法に
年憲法に矛盾するような
矛盾するような著作物
するような著作物となって
著作物となって1917
となって1917年憲法
1917年憲法に
年憲法に組み込まれた。
まれた。カラン
サ派は社会的中庸路線
社会的中庸路線を
中庸路線を打ち出すことに失敗
すことに失敗したが
失敗したが、
したが、最高指揮官が
指揮官が望んでいた通
んでいた通りの機構
りの機構
改正を
改正を成し遂げることに成
ることに成功した。
した。行政権は
行政権は極度に
極度に強化され
強化され、
され、立法権は
立法権は恐ろしく弱
ろしく弱められ
た。判事の
判事の任期は
任期は無期限となり、
となり、司法の
司法の独立は
独立は保たれる一
たれる一方、地方自治権は
地方自治権は剥奪された
剥奪された。
された。
カランサ急進
カランサ急進派
急進派は、その昔
その昔、副王が
副王が所有していた土
していた土地、水利権
水利権、地下資源を
下資源を、メキシコ
メキシコ国
シコ国
民を代表する国家
する国家に
国家に、そっくり与
そっくり与えた。
えた。さらに、
さらに、国家は
国家は国民の宗教に限りない影響
りない影響力
影響力を行
使するようにした
するようにした。
にした。カランサと彼
カランサと彼の取り巻きは労
きは労せずして、
して、植民地
植民地時代のような絶
のような絶対的な
対的な
権力を
権力を持つに至
つに至った。
った。彼らは、
らは、ポルフィリ
ルフィリオ・
ィリオ・ディ
オ・ディアスが
ディアスが夢
アスが夢想だにしなかった権力
にしなかった権力を
権力を手に
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入れ、国家の
国家の発展と繁栄、
繁栄、正義と
正義と平等を
平等を達成するため
達成するため、
するため、国民を指導する
指導する責
する責任を負うことに
なった。
なった。カランサと急進
カランサと急進派
急進派が不本意
不本意ながら合意
ながら合意した
合意した結果
した結果出
結果出来上がった
来上がった1917
がった1917年憲法
1917年憲法によ
年憲法によ
り、二十世紀メキ
十世紀メキシコが
メキシコが誕
シコが誕生する。
する。正真正銘の民主主義を
主主義を求めて独
めて独裁者を転覆させた
転覆させた結果
させた結果、
結果、
それ以上
それ以上に
以上に権威主義的な
権威主義的な政権が
政権が出現することになった。
することになった。
1917年
1917年2月5日、ケレタロに
ケレタロに於いて、
いて、二ヶ月に亘る熱情的な論争の末、二十世紀と
世紀と
植民地
植民地時代の過去が
過去が結びつき、
つき、新憲法が
新憲法が公布された
公布された。
された。その年
その年の 5 月、カランサは合憲的
カランサは合憲的に
合憲的に
メキシコ
メキシコ大統領
シコ大統領に
大統領に就任した。
した。彼が儀式的
儀式的に統治した三
した三年の間、軍事的にも
事的にも社会的
にも社会的にも
社会的にも、
にも、国
際的にも国
にも国内でも、
でも、平和が訪れることはなかった。
れることはなかった。憲法が
憲法が発布した年
した年、国民は飢餓に苦し
み、二十世紀最
世紀最悪の年になった。
になった。政府の借金は七億五千万ペ
千万ペソに上り、持っている金
っている金は殆
ど軍事費にあて、
にあて、失業者が
業者が増え、国土は荒廃した
荒廃した。
した。不均衡ながら
均衡ながら、
ながら、ポルフィリ
ルフィリオ・
ィリオ・ディ
オ・ディア
ディア
スが構
スが構築した経済
した経済シス
経済システ
システムは跡形もなく
跡形もなく崩壊
もなく崩壊した
崩壊した。
した。作物は
作物は収穫され
収穫されず
されず、鉄道は寸断され、
され、
牛は弾薬と
弾薬と交換するために
交換するために輸
するために輸出され、
され、鉱山、工場、銀行が閉鎖し
閉鎖し、資本は
資本は国外へ逃避した
逃避した。
した。
大都市から水
から水、食料、
食料、石炭が消え、闇市が
闇市が至る所で繁盛した
繁盛した。
した。インフルエ
ンフルエンザ、チフスな
どが各
どが各地で猛威をふるい、
るい、農業は壊滅的
壊滅的な打撃を受けた。
けた。不作の
不作の穀物を輸入で補う金も無
く飢餓が蔓延した
蔓延した。
した。農民は
農民はおが屑入りの糠
りの糠を食べ、メキシコ
メキシコ人
シコ人は牛の代わりに愛
わりに愛して止
して止ま
ない馬
ない馬を食用にし
食用にし、
にし、ある地方
ある地方で
地方では土を食べた。
国土の殆どは敵
どは敵の領域であった
領域であった。
であった。モレロスのサパタ、
レロスのサパタ、ベラクルースではディ
ルースではディアスの
ディアスの甥
アスの甥、
フェリス・
ェリス・ディ
ス・ディアス
ディアス、
アス、オアハ
オアハカでは自治権
カでは自治権を
自治権を主張するホ
するホセ・マリ
セ・マリア・
マリア・ダ
ア・ダビラの一
ラの一党などで
ある。
ある。ウァステカでは、
カでは、ジェネラル・マ
ラル・マヌエル・ペ
ル・ペラエスがアメリ
スがアメリカの
メリカの石油
カの石油会社
石油会社を
会社を守って、
って、
カランサ政
カランサ政府の干渉を
干渉を一切拒否
切拒否していた。
していた。サン・
サン・ルイス・ポ
ス・ポトシではセディ
トシではセディヨ
ディヨ兄弟が
兄弟が敵対
し、ミチョアカンではハ
チョアカンではハイエナと
イエナと呼
ナと呼ばれたイ
ばれたイネス・チャ
ス・チャベス・ガ
ス・ガルシアが、
ルシアが、チワワでは悪
チワワでは悪
夢のようなパンチョ・ビ
のようなパンチョ・ビヤが徘徊
ヤが徘徊していた
徘徊していた。
していた。
73
74
68. Enrique Krauze, “Mexico, Biography of Power, a History of Modern Mexico, 1910
1910--1996, 1997,
P357
69. Ibid. P358
P358
70. Ibid. P359
71. Ibid. P360
72. Ibid. P361
73. Ibid. P366
74. Ibid. P367