四天王寺大学紀要 第 59 号(2015年 3 月) 神の遊びの神学 濱 崎 雅 孝 「人間は人間であるときだけ遊んでいるのであり、 遊んでいるところでだけ真の人間なのである。」 フリードリッヒ・シラー 「生きるとは、合目的性と本能の緊張とに抗して遊ぶことである。」 エマニュエル・レヴィナス はじめに 本稿における私の目的は、キリスト教の説く救済の本質が「遊び」にあることを示すことで ある。 救済と遊びとを結びつけるのは、いささか突飛な発想であると思われるかもしれない。しか し、この両者は人間存在の本質に関わるという意味で密接な関係にある。地球上のあらゆる存 在の中で、人間だけが救済を欲し、人間だけが遊ぶ。救済と遊びとは、人間が人間であること を示す最高最深の概念である。それを論証することがここでの最終的な目的となる。それは、 従来の神学の枠組みを越えた試みであるかもしれない。しかし、それが必要な試みであるとい うことも併せて論証していきたいと思う。 遊びを論じた書物は数多いが、その中で最も有名なのはホイジンガの『ホモ・ルーデンス』 であろう。以下ではホイジンガの遊戯論とそれを批判的に継承したカイヨワの遊戯論を出発点 とし、神学者の立場から遊びを論じたパネンベルクとモルトマンの遊戯論を救済論と関係づけ ながら取り上げる。その際、ピーパーの祝祭論、木村敏の時間論、エリアーデの反復論などに も触れて、議論を補足していくことにする。 1 世界開放性と遊び まず、遊びの定義であるが、ホイジンガは遊びの本質を次の五つの項目にまとめている 1 。 ① 自由 ② 実生活外の虚構 ③ 没利害 ―――――――――――――――――― 1 J. Huizinga: Homo Ludens, Versuch einer Bestimmung des Spielelementes der Kultur, Basel, 1938.特に第一章 を参照。ここでは、カイヨワの『遊びと人間』 (講談社学術文庫、1990年)の訳者多田道太郎氏の解説(同 訳書340-366頁)に依拠して要約しておく。 − 517− 濱 崎 雅 孝 ④ 時間的・空間的に分離 ⑤ 特定のルールの支配 この定義を受け継いだカイヨワは、遊びの本質を次の六つの項目にまとめている。 ① 自由な活動 ② 隔離された活動 ③ 未確定の活動 ④ 非生産的活動 ⑤ 規則をもった活動 ⑥ 虚構の活動 両者の定義はほとんど重なっているが、ともに「自由」を遊びの第一の特徴として挙げてい ることは注目に値する。遊びはまず自由でなければならない。強制された遊びはすでに遊びで はない。自然に発生し、自発的に継続されるのが遊びである。これは人間が自由な存在である ということと無関係ではない。そしてこの自由が人間の抱える諸問題(哲学的、神学的、その 他)の根底にあるということも我々は知っている。遊びが人間の本質であるということは、自 由が人間の本質であるということと同義である。 神学者のW・パネンベルクは人間の自由を世界開放性という概念によって特徴づけている 2 。 この概念を最初に用いたのは哲学者のM・シェーラーであるが、その意味するところは、動物 が本能によって環境に縛りつけられた存在であるのに対して、人間はそのような環境からいつ でも距離を取ることができる、つまり世界に対して開かれているということである。パネンベ ルクは人間の世界開放性を示す最も顕著な例として「遊び」を取り上げている。しかし遊びは 人間だけに認められる現象とは言えない。我々は子犬がじゃれあったり、猫が毛糸の玉を追い かけたりするのを見て、彼らもまた遊んでいるのだと言う。それは決して動物の特異な行動を 比喩的に遊びと呼んでいるのではない。少なくとも、遊びを本能的な目的から自由な行動と定 義する限り、動物も確かに遊ぶことがあるのを我々は認めなければならないだろう。パネンベ ルクもそれを認めているのであるが、しかし彼は次のように言う。 K・ローレンツも強調しているように、動物の子どもの遊びは、その開放性と自由な活 動性という点で、人間の世界開放性と原理において比較可能なものである。しかし、動物 の子どもは成長すると、その行動において開放性や可塑性が消えてしまうのであるが、人 間はこの観点で見ると、子どもの発達段階に留まり、そのような世界開放性が全生涯にわ たって行動の特徴として保持されるのである。3 もちろんこれに対しては、動物も遊ぶのは子どもの時期だけには限られない、と反論するこ ―――――――――――――――――― 2 W. Pannenberg: Anthropologie in theologischer Perspektive, Vandenhoeck&Ruprecht, 1983, 40-76. 3 ibid., 313. − 518− 神の遊びの神学 とができる。すでに子どもでない犬や猫が遊んでいるのを我々は目撃することがある。しかし、 ここでパネンベルクが言いたいことは、人間だけが遊びを大人になっても続けるということで はなく、人間だけが本能から自由な行動を基本的なものとして身に付けて成長していくという ことなのである。つまり「遊びという行動において我々は、人間の世界開放性の具体的な形成 過程を目の当たりにする 4 」のである。 一般によく言われることであるが、子どもの遊びは社会性を身に付けるために必要なものと 考えられる。遊びを通して子どもは集団の中で自分が守るべき規則があることを知り、また自 分が果たすべき役割があることを学ぶのである。しかし、そのような学びが可能となるために は、遊びそのものが子どもにとって魅力的なものでなければならない。規則を守ることよりも、 自分の本能的欲求を満たすことの方が優先されるなら、遊びは成立しないからである。パネン ベルクは、 「遊びの魅力の中には、遊ぶ者の自己形成の契機がいつもすでにある 5 」と言ってい るが、子どもが本能的欲求を満たすことを我慢してでも遊びに参加するのは、遊びの中で自己 形成されることへの欲求が人間にとっては根本的なものだからである。この欲求は、いわゆる ロールプレイ(Rollenspiel、○○ごっこなど)や競争の場面で顕著に現れる。パネンベルクが 遊びをこの二つの相に大別して論じているのは、ホイジンガの影響によると見てよいだろう。 ホイジンガは「遊びは何ものかを求めての闘争であるか、あるいは何かを表す表現であるかの どちらかである 6 」と言ったが、これを受けてパネンベルクは次のように述べる。 たしかにホイジンガ自身は、この二つの遊びの類型は文化生活の諸形式において相互に 交じり合うこともある、と譲歩した。その際、発生起源から見ても、現れている事象から 見ても、優位性をもっているのは何かを表現する遊びの方である。(略)この何かを表現 する遊びは、コスモスの神話的秩序を表現にもたらす宗教儀式の中に、最も凝縮された形 で現れた。7 ホイジンガ自身は闘争としての遊びよりも表現としての遊びの方が優位にあるとは言ってい ないが、パネンベルクは明らかに後者に優位性を与えている。それはおそらく、表現としての 遊びから祭祀の分析へと発展するホイジンガの論述を神学者の立場から重視したためであった と思われる 8 。そこで次に、その祭祀の分析について考察してみよう。 ―――――――――――――――――― 4 ibid. 5 ibid., 315. 6 J. Huizinga: Homo Ludens, Versuch einer Bestimmung des Spielelementes der Kultur, Basel, 1938, 22.(邦訳『ホ モ・ルーデンス』、高橋英夫訳、中央公論新社、1973年、42頁。) 7 Anthropologie, 316. 8 明らかにこれはホイジンガ解釈として片手落ちであるが、ここではそれを批判することが目的ではな いので、これ以上詳しくは考察しない。 − 519− 濱 崎 雅 孝 2 聖なるものと遊び 遊びを定義する上で最も重要な要素となるのが、空間と時間の設定である(前節に挙げたホ イジンガの定義④、カイヨワの定義②)。遊びはある空間においてのみ、ある時間の間だけ成 立するものである。この空間的時間的限定によって、遊びは日常生活から区別される。この区 別は、日常生活における規則が遊びの中までは侵入してこないことを保障し、逆に遊びの規則 がそこだけで効力をもち、日常生活には適用されないことを示している。遊びが成立するため には遊びの規則(ルール)が遵守されていることが絶対条件であるが、この規則にはその適用 範囲を制限することも含まれているのである。 遊びがもつ非日常性は、非現実的なものを現実化する行為を可能にする。すなわち、何かを 表現する遊びを可能にする。例えば、子どもがままごとをする場合、子どもはそのままごとが 成立している範囲内でのみパパとなりママとなることができる。ホイジンガは、原始文化の祭 祀の根底にこのような何かを表現する遊びがあることを指摘する。彼は、原始社会における祭 祀は、宇宙全体を支配する秩序を演じ表現するところから始まった、と言う。 われわれ人間は宇宙秩序の中に嵌め込まれた存在なのだという感情が、一つの独立的な 質である遊びという形式、遊びという機能の中でその最初の言葉を発し、またおそらく最 高至聖の表現をさえ見出すようになる。このようにして、神聖な行為という意味合いがし だいに遊びに滲み込んでゆく。祭祀が遊びの上に接木されたのだ。しかし、あくまでも根 源にあるのは遊ぶというそのことである。 9 ホイジンガは遊びから祭祀などの宗教的行事が始まったと考えているが、そのように考える 根拠として、さらに遊びにおける真面目さを挙げている。先の例をもう一度使えば、ままごと をする子どもは真面目にパパやママの役を演じているのであり、それは決して「そのようなふ りをしているだけ」ではない。ここでは完全に役になりきることが求められるのである。不真 面目な遊びはもはや遊びではない。遊びが成立するには真面目に遊ぶことが必要なのである。 この真面目さをホイジンガは「神聖な真面目さ10」と呼んでいる。しかし、真面目に遊んでい る間でも、それが遊びであるということを子どもは知っている。知っているからこそなお真面 目さが要求されると言ってもよいだろう。このことから、ホイジンガは真面目で厳粛な祭祀行 為を遊びと結びつけて考察する道を開くのである。 ところで、この考え方の筋道をさらに祭祀行為まで延長して、供犠の儀式を執り行って いる奉献司祭もやはり一種の遊びをしている人間という点では同じである、と主張できな いだろうか。そして、もしこのことをある一つの宗教に対して認めるならば、結局すべて の宗教について、それを同様に認めざるを得なくなるであろう。そういうことになれば、 ―――――――――――――――――― 9 前掲訳書51頁。 10 同52頁。 − 520− 神の遊びの神学 祭式、呪術、典礼、秘蹟、密儀などの観念はことごとく遊びという概念の適用領域に納まっ てしまうのではないだろうか。11 このようにホイジンガが遊びをここに挙げた祭式、呪術などといった「聖なるもの」に結び つけたことに対して、カイヨワは賛同しつつも異論を唱えている。すなわちカイヨワは、ホイ ジンガが遊びと祭祀を結びつけたこと自体には同意しているが、その根拠として両者の形式が 同じであることを挙げている点を批判するのである。たしかにホイジンガは遊びの形式を重視 するあまり、内容については本質的でないかのように扱う傾向がある。彼は例えば、次のよう な論じ方をしている。 0 0 0 0 0 0 0 形式からすれば 、聖事はどう見てもやはり遊びなのであり、またその本質からいっても、 聖事はそれを共にした人々を、別の世界へ連れ去ってゆくというかぎりでは、やはり遊び なのだ。12 0 0 0 遊びの形式的特徴のなかでは、日常生活から空間的に分離されているという点が最も重 要だった。(略)一方、いかなる神聖な儀事の場合にも、神に奉献された場を標示するこ 0 0 0 0 0 0 0 0 0 とが、儀式の最初の、第一の特徴である。(略)その形式からすれば、奉献の目的のため に場を画することと、純粋な遊びのためにそれをすることとは、まったく同じものだと言 える。13 このように形式を重視するホイジンガに対してカイヨワは、「聖なるものは(形式ではなく) 内容そのものである14」と言って批判する。 聖なるものは全能の力の源であり、信者はその氾濫を前に圧倒され、なすすべもなく翻 弄される。遊びの場合は逆で、一切が人間的であり、一切が創造者たる人間のつくりあげ たものだ。だからこそ遊びは疲れを癒し、緊張をほぐし、浮世の憂さを晴らし、危険や心 配事、仕事を忘れさせてくれる。反対に聖なるものの領域に入り込むと緊張させられる。 こうした緊張に比べると、疲れを癒し、緊張をほぐし、憂さを晴らしてくれるのは、まさ に世俗的生活の方である。事情が逆になっている。15 ここで、ホイジンガとカイヨワとの違いを図式的にまとめてみよう。ホイジンガにおいては、 [祭祀=遊び⇔日常生活]という形で、祭祀と遊びが同じ位置にあり、この二つが日常と対立 している形になっている。一方カイヨワにおいては、[祭祀⇒日常生活⇒遊び]という形で、 ―――――――――――――――――― 11 同53頁。 12 同53頁。傍点強調引用者。 13 同56頁。傍点強調引用者。 14 R. Caillois: L homme et le sacré, Gallimard, 1950, 207. 15 ibid. − 521− 濱 崎 雅 孝 祭祀にとっては日常が気晴らしであり、日常にとっては遊びが気晴らしであるという序列関係 になっている。この序列によれば、遊びが日常生活にとって気晴らし以上のものではないよう に、祭祀にとって日常生活は気晴らし以上の意味をもたないことになる。しかし、このような 序列づけは遊びの地位を不必要に貶めることになっているのではないだろうか。遊びは気晴ら し以上のものではないというのは、遊びの本質を捉えていると言えるのであろうか。次にこの 点を考察してみよう。 3 労働と遊び 遊びが単なる気晴らしにすぎないという考え方は、おそらく一般に流布しているものであろ う。我々は遊びの世界が現実でないことを知っている。ホイジンガ自身もそれを認めていた。 しかし、そこから遊びが現実の生活のためにあるものと考えることはできない。むしろ、この ように遊びを現実の婢女の地位に貶めることは、近代労働社会においてのみ通用する考え方で はないか、と疑うこともできる。例えば、ドイツの哲学者・社会学者ヨゼフ・ピーパーは、『余 暇と祝祭』の中で、この点に触れている。 現代社会では労働の概念に非常に大きな比重がおかれていて、人間の活動、というより は人間の存在そのものの全領域を占領している。(略)現代社会では、労働と真の意味で の余暇の占めるべき位置が逆さまになっている。16 ピーパーは、精神的労働(知的労働)という言葉の出現に違和感を抱いている。本来、肉体 労働を意味する「労働」という言葉が精神的な活動にも適用されるということは、人間を労働 者と捉える見方が支配的になってきたことを意味しているが、そのような人間観に対して彼は 異論を唱えているのである。人間が何かを知る、認識するという働きは、本来は「知的直観」 に基づいたものであり、その意味で人間が能動的に働きかけるというよりは、受動的に与えら れるものと考えられていた。ピーパーによれば、それを最初に転倒したのは哲学者のカントで ある。「カントは、人間の知的な認識の働きは、初めから終わりまで推理の積み重ねであり、 決して直観ではないとしている17」。その結果、認識すること、さらには哲学することも労働の 一種ということになるのである。 しかしスコラ哲学においては、まだそのような労働観は現れていない。スコラ哲学は、人 間の知的な認識能力には、「理性(ratio) 」と「知性(intellectus) 」の二つがあると考えている。 そして、「理性」は探究、抽象、比較、推理、証明などの「労働」を受け持ち、真理を見る直 観を受け持つのが「知性」ということになっている。人間はこの理性と知性との共同作業によっ て認識活動をしているのである18。したがって、哲学を労働と呼ぶことは、哲学から知性の要 ―――――――――――――――――― 16 J. Piper: Muße und Kult, Kösel Verlag, 1965.(邦訳『余暇と祝祭』、稲垣良典訳、講談社、1988年、27頁。 なお原書は入手できなかったので訳書から引用するが、文体は適宜修正する。) 17 前掲訳書32頁。 18 前掲訳書35頁参照。 − 522− 神の遊びの神学 素を除去することになり、自由学芸(liberal arts)としての哲学を傷つけることになるのである。 それはまた人間性の否定にもつながる。というのも、スコラ哲学においては、人間が完全な意 味で人間であるためには、人間的な営みである理性だけでなく、超人間的な働きである知性を 用いなければならない、と考えられているからである。 この哲学に必要不可欠な知性の働きを、ピーパーはトマス・アクィナスが用いた「観照 (contemplatio) 」という概念によって説明する。観照とは、日常生活のあらゆる心遣いや関心 から離れ、小さな自我を抜け出ることによって、世界をあるがままに眺め、その創造主に触れ ることである。トマスは、『集会の書』(旧約外典)においてこの観照が「遊び」に喩えられて いることを指摘している( 『ボエティウス・デ・ヘブドマディブス註解』序言)19。その理由は、 観照が楽しみを含むものという点で、遊びと同じだからである。 したがって、人間の認識活動には遊びの要素が含まれているということになる。逆に言えば、 人間が人間らしく活動するためには遊びが必要なのである。遊びは単に労働のためだけに存在 しているのではない。哲学が知的労働であることを示すことによって自己弁護するのは、哲学 が遊びであることに後ろめたさを感じているからであるが、そのような発想こそが、間違った 遊び観、間違った労働観に基づいていることに我々は気付かなくてはならない。遊びは労働の ための単なる気晴らし以上の価値をもっているのである。 前節において論じたカイヨワによるホイジンガ批判は、カイヨワが遊びの本質を見誤ってい たことを示している 20。むしろ遊びと祭祀を同列においたホイジンガの方が遊びの本質を捉え ていたことになる。したがって、我々はもう一度ホイジンガの図式[祭祀=遊び⇔日常生活] に戻って考えてみなくてはならない。 4 安息日と遊び 繰り返しになるが、トマスにおいて遊びに喩えられた観照(contemplatio)とは、日常生活 のあらゆる心遣いや関心から離れ、小さな自我を抜け出ることによって、世界をあるがままに 眺め、その創造主に触れることであった。つまり観照とは、世界を創造主との関係において受 け取るという態度なのである。したがって、キリスト教神学の創造論は観照による認識によっ て完成するものであることが分かる。例えば神学者のJ・モルトマンも、観照という言葉こそ使っ ていないが、創造論が安息日についての教説によって完成するものであることを強調している 点でトマスの考えを受け継いでいると思われる。 すべてのユダヤ教とキリスト教の創造論の目標は、安息日についての教説でなければな らない。安息日によって、神はその創造を「完成された」し、安息日に、安息日によって、 人間はその中で彼ら自身が生きている、また彼ら自身であるところの現実を、神の被造物 ―――――――――――――――――― 19 稲垣良典『トマス・アクィナス』、講談社、1999年、272-274頁参照。 20 と言っても、カイヨワの遊戯論そのものが誤っているということではない。彼のホイジンガ批判には 曖昧なところもあり、単純に両者を対比させることは許されないだろう。 − 523− 濱 崎 雅 孝 として認識するからである。21 安息日において人間は世界を神の被造物として認識することができるというのは、能動的な 活動によって世界に働きかけることは真の認識には至らないということである。しかし、キリ スト教の伝統、特に西方教会においては、イエスが安息日の戒めに反したことを理由に、安息 日を軽視あるいは無視する傾向が強まった。その結果、人間の認識も労働による面だけが重視 されるようになったと考えることができる。「安息日に<休息する神>、祝福し祝う神、創造 を喜び、被造物を喜びによって聖める神は、創造する神の背後に退いてしまう。それ故に、人 間にとっても、人生の意味は労働と制作と同一視され、安息、祝祭日、生きる喜びは、役に立 たない無意味なものとして追放される 22」ことになった。ここには遊びを単なる気晴らしと見 做す考え方の萌芽が認められる。すなわち、遊びのような楽しみは労働の能率を上げるためだ けに存在していると見做す傾向はキリスト教の伝統の中にすでにあったのである。これがプロ テスタンティズムの禁欲的労働精神に結びつくことは容易に見て取れるであろう。しかし、モ ルトマンは安息日こそが創造の目標であったように、労働も安息を目標とするときにのみ意味 のある働きとなる、と考える。ここで安息を目標とするというのは、休日を励みにしながら働 くということではない。労働の意味は安息日によって創造の意味を悟ることから与えられると いうことである。いや、安息日によって生きる喜びを知った者は、もはや労働の意味を問うこ とすらしないと言った方がよいであろう。このようなモルトマンの安息日についての考察は、 「存在が働きに先立つ(Das Dasein geht dem Wirken voran.)。だから、働きは存在する現在にお いて終わる。神の現在の中に立つことを得た休息している存在の方が、働いている状態よりも 高い 23」という言葉でまとめられる。 5 祝祭と遊び 次に、モルトマンは遊びをどのように考えていたのかを見ておこう。ホイジンガにおいても 遊びは宗教儀礼と結びつけられていたが、モルトマンも遊びを論じる際に祝祭(Fest)や舞踊 (Tanz)の考察から始めている。 彼は、ニーチェの言葉を考察の出発点としている24。ニーチェは、キリスト教会が悪用した ために堕落してしまったものの一つとして、祝祭を挙げて、次のように言っている。 キリスト教徒やキリスト教的価値がその場に居合わせることを、真のお祭り気分 ―――――――――――――――――― 21 J. Moltmann: Gott in der Schöpfung, Chr. Kaiser, 1985, 279. 以下、GS279.というように略記する。 (邦訳『創 造における神』沖野政弘訳、新教出版社、1991年、400頁。) 22 GS279. 23 GS288.(邦訳413頁。) 24 因みに、パネンベルクも遊びを論じるにあたって、ニーチェの引用から始めている。彼は、 『ツァラトゥ ストラ』冒頭の三つの変容(駱駝⇒獅子⇒子ども)における「遊んでいる子ども」の箇所を考察の出 発点とした。ATP312参照。 − 524− 神の遊びの神学 (Feststimmung)をすべて台無しにしてしまう抑圧として感じないために、我々はかなり 粗野な人間にならなければならない。祝祭には、自尊心、思い上がり、自由奔放さが含 まれ、悪ふざけや、あらゆる種類の真面目さと愚直さに対する嘲笑があり、さらには動 物的な充足と完全性――つまり、キリスト教徒があからさまに肯定してはならない純粋 な状態――に由来する自己への神的肯定(göttliches Jasagen zu sich)がある。祝祭はすぐ れて異教的なものである。25 このようなニーチェの言葉の正しさを認めつつ、モルトマンは「しかし、キリスト教はこの ような生の宗教的な祝祭性(Festlichkeit)を破壊するものと決めつけてよいのか?」と問うて いる。というのも彼は、キリスト教は、異教的祝祭を変容して取り入れてきたのであり、決し てそれを破壊してこなかった、と考えているからである。それは復活祭という形で受け継がれ ている。 キリスト教の祝祭の中核は、復活の祝祭である。だから、この世界の新しい創造の終末 論的祝祭は、イスラエルの安息の祝日と同様に、「天と地の異教的祝祭」の諸要素を受け 入れたが、しかし、それらをメシア的希望へと方向づけたのだった。(略)聖書的伝承は、 こうして異教的祝祭を受け入れ、メシア的に終末論的将来へと形成するが、しかしそれを 破壊するのではない。 26 本来異教のものとされる祝祭は、終末論的な解釈を施されてキリスト教の中に導入されてい るのである。このような導入が可能となるためには、キリスト教の中にそれを受け入れるだけ の土壌がなければならない。その土壌は、先に見た安息日についての正しい認識によって与え られる。したがって、ニーチェが批判したように、キリスト教の礼拝が祝祭の要素を排除した ものになっているとすれば、それはキリスト教の伝統が安息日を無視する傾向にあったことに 由来すると考えることができる。 さらにモルトマンは、何かを表現する遊びとしての演劇に関しても、次のような神学的解釈 を与えている。 神は世界の舞台で、汲めども尽きぬ創意に富んだ神の愛の芝居を演技する。神は世界の 歴史の中で、いつか神の全被造物の自由において、全くあらわになるはずの恩寵の芝居を 演技する。基本的に神自身が世界の舞台で実演する時、神の演技は、神の自己啓示をめぐっ て行われる。すべての被造物において、すべての被造物の役において、神は神自身を演じ ようとする。(略)神が舞台へと登場することによって、全体の隠されていた意味、各一 ―――――――――――――――――― 25 F. Nietzsche: Der Wille zur Macht, Kröner, 1996, Aph.916. なお、モルトマンは途中を省略して引用して いるが、ここではニーチェの真意を理解するために全文を引用しておく。 26 GS306.(邦訳439-440頁。) − 525− 濱 崎 雅 孝 人ひとりの人間の役割の隠されていた意味があらわとなる。また神が舞台へと登場するこ とによって、大きな世界という劇場の目標と終わりを見て取ることができる。27 すべての被造物が神自身の演じる役者となるときに、世界と人生の意味が明らかになるので ある。このように世界を神が演じる舞台と見ることは、我々人間の意味への問いに最終的な回 答を与える。「神は演じている(Gott spielt. 神は遊んでいる) 」。それがその回答である。 キリスト教に限らず、宗教は人生に意味を与えるという役割を果たしてきた。それは祭祀と いう形を取り、この世界を神の演じる舞台とすることによって、その役割を果たしてきたので ある。祭祀はキリスト教においては礼拝という形を取っている。礼拝が人生に意味を与えると いうことについては、パネンベルクも次のように言っている。 神話的秩序を表す儀礼的な遊びの礼拝的領域は、その祝祭と、またそれに属するすべて のものとともに日常の世界から浮かび上がる。そのような特殊化を通してのみ、礼拝は自 己完結した世界としてのコスモスの秩序を表現することができる。この自己完結した世界 においては、悪や苦悩は克服されているのである。(略)悲劇の登場人物の苦悩や運命も また人間の日常性の限られた範囲をはるかに越えている。まさにそれゆえにこそ、演劇は 世界劇場となり、礼拝は日常の意味解釈にとっての関係枠を与える媒体となることができ るのである。 28 キリスト教の礼拝も、イエスの聖餐がその中心で行われるような聖なる遊び(das heilige Spiel)である。聖餐はイエスの業と運命をまとめたものであり、人間の社会的生活 形式における被造的現実を終末論的使命につなげるものである。29 モルトマンもパネンベルクもともに認めていることであるが、キリスト教において、遊びが 人生に意味を与えるということは、終末論的な解釈によって可能になるのである。ここで終末 論的という言葉が意味しているのは、将来における復活とキリストの再臨を希望するというこ とであるが、まだ見ぬ未来が具体的にどのような形で我々の今の生活に影響を及ぼすのかとい う疑問が生じてくるかもしれない。次節で少し考察しておきたい。 6 終末論と遊び 終末論は単に未来の出来事に対する期待だけに基づいているのではない。それは現在におけ る何らかの経験に基づいていなければ、単なる信仰の産物ということで片付けられてしまうだ ろう。つまり終末論は、未来と現在が一点に収束するところで初めて意味をもつ、したがって ―――――――――――――――――― 27 GS311.(邦訳447頁。) 28 ATP326. 29 ATP327-328. − 526− 神の遊びの神学 我々の通常の時間概念が打ち破られるところで成立するのである。それは具体的には祝祭にお いて起こるのであるが、この異常とも言える事態をモルトマンの言葉から解釈してみよう。 祝祭の時には、時間が聖別される。すべての時間は消尽され過ぎ去る。祝祭の時はしか し、この過ぎ去る時間を中断し、それを再生する。すべての祝祭の時は、時間の起源への 回帰であり、それゆえ原初時間である。(中略)祝祭において生の更新が祝われる。時間 が更新され、空間が聖別され、人間は生の原初から再生される。祝祭において、永遠は永 遠の現在の形で経験される。すなわち、それは「目標なき時間」(ニーチェ)であり、終 わりなき歓喜である。30 このモルトマンの言葉は、日本の精神病理学者の木村敏が癲癇発作について述べた次の箇所 と奇妙なほどに一致する。 発作の襲来と終結はきわめて突然であって、日常性内部での時間の流れは完全に寸断さ れる。患者はもとより、発作を目撃した第三者ですら、発作がはたして秒単位で経過した ものなのか、それとも数分を要したものなのかについての的確な報告をしてくれない。一 般には、時間は実際よりもかなり長く見積られる。この事実は、発作中の時間が日常性内 部での時間とはまったく異質な構造を有していて、これがその事態にまきこまれている傍 観者の時間にまで影響を及ぼしているということを物語っている。いってみれば、日常の 時間は発作中完全に停止して、無時間の空白が忽然として出現する。時間の見積りは、時 間の連続性を前提にしてはじめて可能になる。時間が突然とだえて、再び出現したような 場合に、この途絶の間の時間を見積るということは本来不可能なことなのだろう。 (中略)癲癇の発作においては、環界との相即関係を保障している時間の連続性が唐突 に中断され、短時間ののちに再び回復される。これは主体にとっては一つの重大な転機(ク リーゼ)である。しかし、発作が終了したのちに患者は稀ならず気分の一新、さらには一 種の高揚感を体験する。発作という「死と再生」のドラマにおいて、 「大死一番乾坤新なり」 という禅的な境地が現成したのだといってよい。このクリーゼにおいては、時間の中に永 遠が稲妻のように侵入してくる。永遠は彼岸的なものとしてでなく、現世的生の真只中で 生きられるものとして姿を現す。癲癇発作は、生の只中での死の顕現である。もちろんこ の死は、個別的生命の終焉としての個別的な死ではない。それは、いかなる個別的生もそ こから生まれそこへ向って死んで行く、個別の生死を超えた一つの次元である。 31 ここには個別性の否定という契機が見られるが、終末論もまた単に個人の復活を期待すると ころに成り立つのではなく、すべての隣人との共同において成り立つのである。それは未だ実 ―――――――――――――――――― 30 GS305.(邦訳438頁。) 31 木村敏『時間と自己』中公新書、1982年、142-143頁。 − 527− 濱 崎 雅 孝 現していない世界であるが、祝祭においてはすでに実現していると言うことができる。したがっ て、これは信仰者や癲癇患者だけに限られた特殊な経験ではなく、木村も言うように、すべて の人間が祝祭や遊びといった何らかの機会において経験する可能性をもっているのである32。 木村は、癲癇発作に典型的に見られる特徴を「イントラ・フェストゥム(祭りの最中)」とい う言葉で表している。そして、 「イントラ・フェストゥム的意識に特徴的な時間構造は、いう までもなく、現在への密着ないしは永遠の現在の現前である33」と言う。キリスト教の終末論 を単なる信仰の産物として片付けてしまうことができない根拠は、この永遠の現在の経験にあ る。それはおそらく復活体験とも呼べるものであろう。キリスト教の礼拝がキリストの復活を 記念して毎週もたれる本来の目的は、その復活の祝祭において我々自身が繰り返し復活を経験 するためであると言ってよい。そこでは永遠の現在が経験されることで、終末論が現在的に経 験されるからである34。 7 救済と遊び 終末論を単なる歴史の終わりとして考えたのでは、そもそもなぜ終末があるのか、終わるよ うな世界がなぜ始まったのか、という問いは永遠に未解決なまま残される。一般にこのような 問いは、我々が何らかの不幸を経験するときに生じてくる。すなわち、なぜこのような不幸が あるのか、という個別的な問いが、人生そのものに対する問いかけ(なぜ、生きるのか。なぜ、 生まれてきたのか) 、果ては存在そのものに対する問いかけ(なぜ、あるのか)へと拡張していく。 人間の問いには終わりがない。パネンベルクは、人間の世界開放性を神開放性と言い換えて いるが、これは人間が無限に何者かへと差し向けられている状態を表している。人間が創造と 終末を越えて無限に問うことができるのは、この神開放性をもっているからなのである。そし てその問いに対する回答は、神開放性の一現象としての遊び(祭祀、礼拝を含む)に参入する ときにのみ与えられるのである。 人間は意味を求める存在である。意味のないことには耐えられない存在である。しかし、人 間が求める意味は苦痛を伴うものについての意味であり、快楽を伴うものについて我々はそれ 以上の意味を求めない。楽しいから、気持ちいいから、という理由だけで我々は満足するので ある。意味への問いは、必ず苦痛を経験したときに生じる。そしてその問いは、決して独り言 で終わらず、問いかけられる相手を必要とする。信仰者は神に問う。信仰者でない者も、究極 的には人間を超えた何者か(人生、大自然など)に対して問う。その問いは、 「神よ、どうして?」 という形をとる。なぜ苦しみがあるのか、なぜ悲しみがあるのか、なぜ悪があるのか、を人間 は問うのである。そのように真剣な問いに対して、 「理由などない。ただ神は遊んでいるのだ」 という回答を与えることは、あまりにも不真面目であろうか?しかし、神が「真面目に」遊ん ―――――――――――――――――― 32 同書159-160頁を参照。 33 同書159頁。 34 周知のように、モルトマンとパネンベルクはこのような経験を「先取り(Antizipation) 」という概念 で捉えている。しかしこの先取りにおいては、人間の具体的な経験の要素が希薄であり、単なる理念 的なものになっている嫌いがある。これについての考察は今後の課題としたい。 − 528− 神の遊びの神学 でいるのだとしたら・・・?少なくとも、人間も「真面目に」遊んでいるときにはすでに意味 への渇きは満たされており、それ以上の理由を問おうとはしない。逆説的であるが、遊びは無 意味、無目的であるからこそ、人間の生に意味を与えているのである。それならば、神の遊び を目的とした創造の意図を問う権利は人間にはないと言うことも可能である。我々が神の遊び に参入し、真面目に遊んでいるときには、神への問いは消失してしまうのである。そして、そ れこそが真の救済なのではないだろうか。 世界象徴としての遊びは、世界の救済の特徴でもある。とりわけ、神秘主義的神学者た ちは、神の「恩寵の戯れ(Gnadenspiel) 」についての表象の中で、遊びのカテゴリーを用 いた。救済者なる神はその愛する人間を自由に救済するために、彼らの魂と絶妙な愛の戯 れ(ein wunderbares Spiel)を遊ぶ。救済の戯れの中で、人間の世界との創造的遊びの特性 が完成される。35 ―――――――――――――――――― 35 GS313.(邦訳450頁。) − 529− − 530−
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