第6節.希望とユートピア 前節で我々はティリッヒのカイロス論の展開から生じた歴史解釈の問題との関連で歴史 相対主義の問題を検討した。しかし、これは理論的な認識行為の問題にとどまらない。な ぜなら、具体的な歴史的状況の中で、特定の時をある事柄が成就されるべきカイロスであ ると認識する場合、その認識がいかなる仕方で正当化できるのかという問題は、理論的歴 史解釈の問題にとどまらず、その解釈が要求する実践的な決断の問題に関わらざるをえな いからである。この問題は宗教社会主義論の文脈において形成展開されたカイロス論にお いて始めから問題になっていたものである。カイロス論の形成過程において、カイロスか らの決断を単なる恣意的な主観主義と区別する必要性はしだいに緊急のものとなり、ユー トピア精神をユートピア主義から区別することを要求するに至る。またこれは、決定的な ことが成就しようとしているというカイロスの意識が歴史の現実の中で満たされずに終わ った時に、それにもかかわらず、カイロスを意識した主体がなおも希望を持ち続けること がいかにして可能なのか、という問題にも関わっている。それは『社会主義的決断』にお ける待望の問題である。したがって、本節では、まずティリッヒおけるユートピア精神と ユートピア主義との区別を明確にし、続いて待望の問題を検討することにしよう。( 59) カイロスの意識が間違っていることがあり得るという問題は、最初のカイロス論ですで に問題化していた。「さらに一つの問いが提起され、簡単な答えが見出されるかもしれな い。カイロスの知らせが間違いであることは可能であろうか? 答えは困難ではない。知 らせは常に間違いである。なぜなら、それは理想的に考えれば現実性とはならず、現実的 に考えれば長い時間をかけて成就し、しばしば長い時間の経過の後に明らかになることを、 すぐそばに近づいていると見なすからである。またカイロスの知らせは決して間違いでは ない。なぜなら、知らせが無制約的なものから告げられるところでは、カイロスはすでに そこにあるからである。すでに萌芽的に存在することなしに、カイロスが告げられること はあり得ない」([1922b:71f.])。この問題はティリッヒにとって深刻な問題である。なぜ なら、ティリッヒの初期の宗教社会主義論は、第一次世界大戦後の歴史的状況を決定的な 歴史的転換点として、宗教社会主義の理念が成就する時として告げるものであったからで ある。それが成就せずに、単なる状況判断の間違い、幻想、ユートピア主義に終わるとい う危険性は 1922 年に最初のカイロス論が書かれる時点ですでに問題として意識されてい たのである。もし、宗教社会主義が告知したことが実現せずに終わったとき、その真理性 も完全に否定されてしまうのか、という問題である。実際ティリッヒの宗教社会主義論が 目指していたような状況の転換(神律的社会と神律的文化状況の実現)は現実には生じず、 それどころかドイツの状況はナチス政権の成立へ向かって進展することになる。そのよう な歴史的現実の中で、宗教社会主義の真理性を救い出すことができるとするならば、それ はいかなる仕方で可能であるのか、 という問題がティリッヒにとって緊急の事柄になり、20 年代後半の思想はこの点をめぐって展開するのである(カイロス論の展開)。ここでティ リッヒが直面した問題は、キリスト教自体にとっても決して周辺的なものではないことを 確認しておきたい。なぜなら、イエスが告知した神の国の到来のメッセージの真理性も同 様の問題を抱えているからである。もちろん、告知の言葉が聞かれるたびごとに、終末は すでに言葉の出来事として現実化しているという立場も可能であろうが、( 60) イエスの宣 教から 2000 年近くが経過した現代においても神の支配は現に目に見える仕方で完全には -1- 成就していない、つまり我々はいまだに終末以前の時代を生きているという見解を完全に 否定することは困難であろう。もし、神の国がいまだ到来していないとすれば、イエスの 宣教(神の国の接近)の真理性とは何であったのかという根本問題は不可避的になるであ ろう。このことをティリッヒの思想に即して考えるためにも、まず彼のユートピア論を検 討することが必要になる。 ティリッヒにおける宗教社会主義の目標(=神律)とユートピアとの区別が、まず 23 年の『宗教社会主義要綱 』の中に見出すことができるということは先に述べた通りである。 20 年代前半の意味の形而上学の概念にしたがって、「神律」は意味形式と意味内実との総 合の現実化(無制約的な内実が無制約的な形式において実現し、聖なる内実と聖なる形式 が歴史状況の中で総合する)と説明されるが、ティリッヒはこの「神律」 (神律的社会) を彼岸的ユートピアと此岸的ユートピアとから区別しようとする([1923c:94f.])。ティリ ッヒがこの二つのユートピアを宗教社会主義の目標としての神律から区別する理由は次の ようにまとめられる。まず、彼岸的ユートピアは、意味形式と意味内実の統一を絶対的な 神的支配の内に求める。その場合、絶対的な神的支配を歴史的現実の上に措定し、結果と して制約的なものと無制約的なものの並置(領域的二分法)に陥ることによって、制約的 な歴史的現実は価値のないものとされてしまう。このように世界と領域的に並置された神 的領域に理想を求め、神の支配と神律が実現される場としての歴史固有の価値を評価でき ないところに、彼岸的ユートピアの欠点がある。これはルター派の二王国論やのちにティ リッヒが超自然主義として批判する立場に対応する。次に此岸的ユートピアであるが、こ ちらは内実と形式との総合が歴史の中で探求されるべきことを肯定する。しかし、これは 歴史の進歩の中で理想的な合理的社会秩序の完全な実現がなされると考える点で非現実的 であり、まさにユートピア的である。( 61) 「宗教社会主義は、その目標が個別的−創造的 で 、具体的−歴史に由来するものであるという点でユートピアから区別される」(ibid.:95 ) 。このように二つのユートピアから神律を区別する意図は、宗教社会主義が、一方でそ の目標を歴史内において実現されるべき、あるいはされうるものと見ていること、しかも 他方で人間の計画による理想の完全な実現という楽観的な幻想を免れた現実主義の立場に 立っていることを明確にすることにあったと思われる。先に考察したように、これはバル トとヒルシュに対する第3の道の選択という姿勢に関わっている。それはともかくとして、 ティリッヒがベルリン時代の宗教社会主義論においてすでに様々に批判される意味でのユ ートピア思想と自らの立場とを区別する必要を感じていたこと、つまり宗教社会主義にこ のようなユートピア思想と誤解されるような要素が含まれていることを意識していたこと は注目に値する。初期の宗教社会主義の熱狂が覚め始め、歴史解釈の問題を再検討する必 要に直面した時に、それとの混同の誤解を避けるねばならない問題として、ユートピア思 想が問題化してきたのである。そしてこれは宗教社会主義が持っていた真理性を救い出す ためにも、重要な課題となった。 宗教社会主義論自体の批判的点検作業の中から、ユートピア思想の問題が生じてきたこ とは上に確認した通りであるが、次にこのユートピア思想批判のモチーフがどのように展 開されるかを見てみよう。おそらく、この展開に関連しては、これまで本章で見てきたテ ィリッヒのカイロス論あるいは歴史思想の発展プロセスの全体を検討する必要があると思 われるが、ここでは問題の核心である、ユートピア主義とユートピア精神との区別の試み -2- に限定して考えることにしたい。この点に関わる重要文献としては、[ 1933] ,[ 1951b]、 [ 1959]、[1963a] などを挙げることができるが、1951 年の『諸民族の生におけるユート ピアの政治的意義』([1951b]) を中心にティリッヒの主張を分析して見たい。 1951 年の講演でティリッヒが「ユートピア」を捉える枠組みは、1933 年の『社会主義 的決断』で起源神話や政治的ロマン主義を人間存在の構造から説明した場合に類似してい る。つまり、ティリッヒがユートピアの問題を論じる視点は、ユートピアを生み出す人間 存在の存在構造がいかなるものであるのかということなのである。ティリッヒはユートピ ア思想あるいはユートピア運動を偶然的に生じる歴史の出来事とは考えない 。 「もし、ユ ートピアが価値のない空想以外の何ものかであるとするならば、それは人間の構造自体の 中に基礎を持たねばならない。人間の構造の中に基礎を持つものだけが、究極的に意味深 いのである」([ 1951b:157]) 。ここでティリッヒが行う人間の構造の分析は、同年の『組 織神学』第一巻において提出された存在論的人間学(基礎的存在論)にしたがっており、 とくにその中でも問題となるのは、人間の有限性、あるいは有限的な自由の問題である。 有限性は存在と非存在の混合であると説明されるが、それは人間にあっては不安と勇気と いう二つの要素のバランスの問題を引き起こす([ ibid.:161] 。第6章を参照 ) 。この場合 不安も勇気も心理学的概念としてではなく、存在論的概念として理解されねばならない。 ( 62 ) このような枠組みにおいて、ユートピアは不安と勇気の持つ未来の次元に関係づけら れる。まず未来は人間にとって二重の形態の不安として経験される。未来に直面するとき の不安は、一方では不気味な知られざるものへ進む不安、未来のために現在を喪失する不 安であり、また他方未来の実現に失敗する不安、現在のために未来を喪失する不安である ( ibid.:163) 。 ( 63) つまり、今まで守ってきたものによって与えられる保証を失うことの 不安と、未来に待ち受けるもろもろの可能性を失う不安の中で− 前者の不安は人間にお ける保守的態度を生みだし、後者は革命的態度を生み出す−、人間は決断(→勇気)す る。この分析から分かることは、人間の存在論的不安と勇気は、その未来という時間との 関係で、あるいはその未来において実現される可能性との関係で見るとき、基本的に二つ の形態の態度を生み出すということである。人間存在における「ユートピア」とは、人間 が未来の時間を持つこと、そして未来に直面した不安の中で勇気ある決断(可能性の実現) を行うことに存在論的基礎を持つと考えられる。 さて可能性の実現のために前に立てられる「理想形態」(Idealbildung)にも、未来へ投影 される場合(先取り)と、過去に投影される場合(想起)の二つのタイプが存在する。未 来において実現される理想が過去へと投影される場合というのは、過去がそこへ戻るべき ものとして理想化されるときに生じるものであり、 「 後向きのユートピア」(die rückgewante Utopie)と呼ばれる(ibid.:165) 。これに対して、未来へ理想を投影するユートピアは、後 向きのユートピアにおける未来と過去を同一化によって閉じた時間の円環を突破し、歴史 における新しいものの創造へと決断するユートピアとなる。ティリッヒはこの分類に続い て、33 年の『社会主義的決断』における政治意識の類型論、あるいは先に見た歴史解釈 の類型論と内容的に同じ類型論を展開し(ibid.: 167 ∼ 185) 、さらに宗教的ユートピアと 世俗的ユートピア(あるいは超越的ユートピアと内在的ユートピア)という二つの形式を 歴史的に検討する (ibid.:185 ∼ 198)。しかし、我々の本節の問題にとって重要なのは、 その後に展開される「ユートピアの批判と正当化」の議論である(ibid.:198 ∼ 210)。 -3- こ の議論の中において、ティリッヒのユートピアへの評価、つまりユートピア主義とユート ピア精神との区別が明確にされる。議論は、ユートピアの肯定的側面とユートピアの否定 的側面の検討から、ユートピアの超越へと進められる。まず、ユートピアの肯定。1.ユー トピアは人間存在に根差し、人間の現実存在の目標を表現するものである限りにおいて、 真理である。2.ユートピアは来るべきものの先取りによって、無数の可能性を切り開く(ユ ートピアの豊饒さ)。先取り的なユートピアなしには多くの可能性は現実化されることな く終わったであろうし、ユートピアを欠く人間は現在に束縛されたままである。3.ユート ピアは所与の現実を変革する力を持つ。どこにも存在しないユートピアは存在するものを 変革する力を持つが、それは人間の存在論的不満に根拠を持つ。ティリッヒは存在論的不 満に基づいて来るべきものに決断するユートピアの担い手として大衆を位置づける。 次にユートピアの否定。1.ユートピアは人間の有限性と疎外状況を忘れ、ある時代、あ る社会集団、ある民族の内に疎外されていない人間を仮定にする限り、非真理である。つ まり、ユートピアは誤った人間像を前提にする限り、非真理である。2.ユートピアは幻想 的に誇張された可能性(=不可能性)を実在の可能性として提示する限り、つまり現実的 な人間の状況を無視して、単なる願望の投影に落ち込む限りにおいて不毛である。3.ユー トピアはその非真理と不毛とから、人間を幻滅に導く限りにおいて、無力である。このよ うにして生じた幻滅は反動と結合することによって、一つのデモーニッシュな力を発生さ せる。( 64) 以上の議論からわかることは、ティリッヒがユートピアを両義的なものとして理解して いることである。( 65) ユートピアは、人間の有限性と疎外の現実を正しく認識した上で、 人間を現実の閉塞状況から連れ出し、新しい可能性を開き、その実現に向かって現実の変 革を行う力を与える限りにおいて、真理であり、肯定されるが、その反面誤った人間理解 に基づいて、人間の自己中心的で非現実的な願望へと人々を導き、幻滅に終わらせるとい う、危険性を伴う。これは 22 年の『カイロス』においてカイロスの知らせはある視点か らは間違っていると言えるし、また他の視点からは決して間違っていない、と述べられて 事態に対応している。カイロスの知らせの真理性を誤りとなる危険性から救い出す課題と、 肯定すべきユートピアを否定されねばならないユートピアから区別する課題とは、同一の 問題に関わっている。問題はこの区別をどう行うかであり、否定されるべきユートピアを いかにして超越するかである。ティリッヒはこの否定されるべきユートピアの超越に関し て、垂直方向への超越の必要性を主張する。「根源的に超出するということは、水平線上 において超えて行くことではなく、垂直線上において超えて行くことであり、超出の全領 域を超えて行くことである」(ibid.:204) 。ここでティリッヒが垂直方向へのユートピア の超越のモデルと考えているのは、聖書の預言者的なユートピアの把握であり、それは宗 教的な自己超越の問題である。( 66) ティリッヒは、水平方向へと現実を超えて行くユート ピアが幻滅(「 実存的失望」[1963a:355 ] )に終わる悪しきユートピアとなる危険性を伴 うこと− 「ユートピア主義は字義通りに取れば、偶像崇拝的である」(ibid. )− 、また この危険を超越し、本来の肯定すべきユートピアを救い出すには、 「神の国、天の国、正 義の国などのような象徴が適応される他の秩序 」、「垂直の秩序」へ向かって水平の秩序 を超えて行くことが要求されることを洞察する([1951b:209]) 。つまり、ティリッヒは、 否定されるべきユートピアに変質する水平方向への自己超越をユートピア主義と呼び、そ -4- れに対して垂直方向への自己超越によって媒介されたユートピアをユートピア精神と呼ん で、両者を区別する。「ユートピアを克服するユートピア精神(der Geist der Utopie )」が、 宗教社会主義運動への自己批判をへた上で、宗教社会主義的な歴史解釈の真理性を救い出 すためにティリッヒによって提出された答えなのである。 ティリッヒのユートピア精神が預言者的ユートピアに基づいていることは、先に述べた 通りであるが、最後にこの点を「待望」(Erwartung) を手掛かりに具体的に考察して見よ う。 ティリッヒの希望論あるいは待望論と言える議論は、 『社会主義的決断』の中に、社会 主義的原理との関連で、最も集約的に現れる。( 67) 社会主義的原理に関する先の分析をも う一度検討してみよう。ティリッヒはブルジョワ精神と政治的ロマン主義とを克服する課 題を持つ社会主義が依拠する原理を次のように説明している。ティリッヒは「社会主義原 理」が「起源の力、調和の破壊、要請されるものへの志向性という三つの要素」に根拠づ けられると考える([1933a:309 ]) 。つまり、まず社会主義はその実質原理、形成原理とし て積極的なものに依拠しなければ存立できない。その点で社会主義は政治的ロマン主義と 同様に「起源の力 」、「起源神話の象徴」を肯定する。しかし、政治的ロマン主義と異な り、起源神話を無批判に肯定するのではなく、それを合理的批判に服させる。この点で社 会主義はブルジョワ原理の前提 (自律的批判的合理性)を認める。しかし、社会主義は ブルジョワ原理が依拠する調和信仰を肯定しない、つまり合理的批判や有限で制約的な形 式に安住する精神性を突破する無制約的な要請(未来の約束)を肯定する。この点で社会 主義は預言者的伝統に立つ。このように、社会主義運動の内的な力の概念的表現としての 原理は(ibid.:320 )、具体的象徴を介して実質的基盤に立ちつつも、それを合理的批判と 預言者的批判において克服するものとして理解されるのである。これは両義的で歪められ た現実態の起源を無制約的な要請によって止揚する真の起源への精神の志向性と呼び得る ものである ( ibid.:229f. ) 。このティリッヒの社会主義理解において、注目すべき点は、 社会主義における具体的な象徴の重要性の主張とそれに対する批判原理の不可欠さの主張 (これなしには、社会主義はナチズムのような政治的ロマン主義へと変質し、デーモン化 してしまう)との結合である。我々はここに 20 年代後半におけるプロテスタンティズム 論と同じ思惟構造を確認することができる。つまり、社会主義原理における起源神話、ブ ルジョワ原理、預言者的批判の結合は、批判−形成、合理的−超合理的という二重の弁証 法として理解できるのである −ここから「待望」という象徴における起源との緊張関係 ( ibid.:314 ∼ 317)、預言者的性格と合理的性格との関係(ibid.:317 ∼ 320)が問題となる − 。このような、三つの要素、あるいは二重の弁証法を具体的に表現する象徴として位 置づけられるのが 、「待望」の象徴である。したがって、「待望」はティリッヒの宗教社 会主義論の最も核心的な象徴として理解されねばならない。 では、ティリッヒは「待望」の象徴の特徴をどのように理解しているのであろうか。待 望と行為との関係、そして待望と歴史解釈との関係を論じる際に、とくに重要なことは、 社会主義が預言者的伝統に依拠しているというティリッヒの主張である。( 68) 「社会主義 とは自律性と合理性の基盤における預言者的運動である」(ibid.:317) 。したがって、社 会主義における現実理解は基本的に預言者的性格において理解されねばならない。待望と は、前方へ向かう緊張であり(水平的 )、新しい秩序の待望である。しかも、預言者的待 -5- 望は、「未だ存在しないが、到来しようとしている、無制約的に新しいもの」(ibid.:310) へ向けられる(垂直的) 。預言は具体的な歴史的状況に堅く結びつけられており、その待 望されたもののそのときどきの成就を求める。その待望されたものは、実現を約束された ものである限りにおいて人間の実践に左右されない、しかし同時にそれを実現へともたら すのは人間の実践である。この待望の中に見られた独特の二重性は、カイロスとカイロス 意識(カイロスにおける行為の要請の意識)との二重性、あるいは運命と決断の二重性と して表現されてきたものに他ならない。来るべき約束された新しい秩序の経験・意識にお いては、客観的な歴史の運動(例えば史的弁証法)とその運動への主体的参与とが不可分 に結びついている。つまり、重要なことは「存在と当為、歴史の運動と行為の要請との統 一」であり( ibid.:325) 、ここからティリッヒは社会主義における二つの危険な形態(悪 しきユートピア主義 )、つまり歴史の運動の絶対視(革命的状況は人間の主体的参与に一 切依存せずに自動的に生じる)と、主体的参与の絶対視(歴史的な客観的状況の成熟を無 視した熱狂的な行動主義)とを批判するのである。ある出来事の実現の時であるカイロス に基づくときに、カイロスの意識は単なる恣意的でユートピア的な思い込みや幻想ではな い何らか現実性を持ち得るのであり、またカイロスにおいて実現されるべき事柄はそのカ イロスを意識しそれに主体的に参与する者たちが存在するときにのみ実在性を獲得する。 この弁証法的構造はそれ自体問われるべき問題を含むが−例えばすべての人がある時代 状況をカイロス・決定的チャンスと理解するとは限らないとすれば、それを理解しない人 に対してカイロスについて語ることは意味があるのか、そもそもカイロスについての語り は啓示相関に立たない人にとっても積極的な意味と説得力を持ち得るのか( 69) − 、次に この待望の構造が行為の要素を包含することから生じる問題を検討みよう。 待望はカイロスに主体的に参与する人にそれに対応した行為を引き起こすほどの力を持 つ。しかし、理想的な社会状況の実現、神の国の現実化といった終末論的事柄についての メッセージは、これまで繰り返される度に一定の行為を引き起こしたが、結局は人間の歴 史的現実(両義性)を根本的に変革する事態はその文字通りの意味においては成就しなか った。これは「待望 」、カイロスについてのメッセージが絶望に終わる危険を常に伴うこ とを意味する。問題は、実現しなかった「待望」が単なる絶望に終わらないうことがはた して可能であるのか、ということである。( 70) これは言い換えれば、カイロスのメッセー ジの真理性の問題である。ティリッヒにとっても、この問題は解決されねばならない問題 として強烈に意識されていた。とくに先に見たように、20 年代初頭のカイロス論の真理 性を一見それと類似の構造を持つヒルシュらの民族主義的な国家社会主義から区別しつ つ、弁護あるいは再解釈する作業は、きわめて緊急の問題として意識されることになった のである。そのためにティリッヒは、宗教社会主義論が本来依拠していた預言者的精神を 再度確認することを試みる。つまり、預言者的歴史理解というルーツから、「待望」の基 本的性格を捉え直す作業である。「社会主義は歴史への幻滅を知っている。それは人間存 在と歴史的現実が奇跡によって変化させられることを当てにするわけではない。それは近 いあるいは遠い未来に混沌と野蛮な状態の可能性のあることを計算に入れている 。しかし、 社会主義は人間の根本的態度としての待望を断念することはない。それはちょうど預言者 が深い幻滅にもかかわらず、待望を断念しなかったのと同様である。なぜなら、預言は< 占い>ではないし、次に生じようとしている出来事を予測することではないからである。 -6- 一定の予言の実現によって預言は確証されないし、また実現しないことによって反証され ることもない。預言者的態度の前提は、ただ歴史がその内に、そのあらゆる瞬間に新しい もの、つまり要請され約束されたものへの方向性を持っているということだけなのである。 待望は主観的態度ではない。それは出来事自体の推進力(Impuls)の中にその根拠を持つ。 もちろん対象化され来るべき時代のユートピアへと変化させられてはならないが、待望と はいわばこの推進力のことなのである。成就は経験概念ではない。成就が経験概念とされ るならば、ユートピアとそれに伴ったあの幻滅−あらゆる対象的な終末待望がそこに至 る幻滅−が必然的に生じる」(ibid.:311f.) 。 これまでの分析を前提にしながら、上の引用からティリッヒの言う「待望」を説明すれ ば次のようになるであろう。1.待望とは、ユートピア精神の場合と同様に人間存在の自己 超越性(未来への開放性)に基づく。それは現実の困難な状況を克服するための行為を起 こす力を与える。待望は単なる主観的な妄想ではなく、人間存在が未来へ企投する根拠で ある。2.待望は、具体的な状況との関わりの中でそれに対応した待望されるものの具体的 な象徴と結び付く。3.この具体的な象徴が、対象化され経験概念となるとき、それはユー トピア主義へ陥り、それに主体的に参与する者に結局は幻滅をもたらす。 4.したがって、 ユートピア主義を克服しつつ、あるいはそれがもたらした深い幻滅にもかかわらず、なお も待望することがいかにして可能であるかが問題になる。ティリッヒはそれが不可能では ないと考える。ティリッヒがこのようなユートピア主義を克服する「待望」の例として指 摘するのが、旧約の預言者の歴史理解に他ならない。( 71 ) 5.また待望が偽りのユートピア 主義に変質することをチェックするのが、合理的批判(現代の宗教批判を含めて。第8章 を参照)の役割なのである。 ティリッヒの歴史解釈、カイロス論、宗教社会主義論が、ユートピア精神、待望という 諸概念に決定的に依拠していることはこれまでの分析より明らかであろう。しかし、ティ リッヒの一連の議論は当然多くの疑問を引き起こさざるを得ない。次にこの中からいくつ かの問題を検討することによって、ティリッヒの歴史解釈の分析を深めてみたい。 [ 問1]カイロスとカイロスの意識とは分離できない、あるいは待望は客観的な仕方で は確証も反証もできないとすれば、それはいかなる存在論的身分を持つと考えられる のか。ティリッヒは待望は単なる主観的態度ではない、未来についての占いや予測で はないと言うが、それはティリッヒの説明にもかかわらず、主観主義の疑惑を解消で きるのであろうか。 [問2 ]「待望」という象徴によって把握される歴史理解の基本的構造はどのようなも のなのであろうか。ティリッヒにおいて、終末の「すでに」と「いまだ」との関係は どのような解決がはかられているのか。 まず、問1より、検討して見よう。これはティリッヒにかぎらず宗教的な信仰が単なる 主観的態度(イデオロギーあるいはユートピア)とどこが違うのかという根本問題に関わ る。 ( 72) あるいはティリッヒの言う「信仰的現実主義」あるいは「希望の現実主義」 ( ibid.:224) とは、いかなる意味で現実主義なのかという問題でもある。主観的な幻想で もなく、客観的に検証可能でもないという、この「待望」の性格を理解する助けとして、 我々は信仰や歴史の構造に関するティリッヒの説明を参照することができるかもしれな い。ティリッヒは、信仰あるいは究極的関心を主観的側面(信じる信仰・信仰する主体的 -7- 行為)と客観的側面(信じられる信仰・信仰内容)との総合であると説明する ([1957b:236])、また歴史は出来事・事実とその解釈・受容との結合であると主張される ([1963a:300ff. ])。つまり、人間存在の精神の次元における事柄は、単なる主観的なもの、 あるいは完全な客観的なものという仕方で理解されるべきではなく、それを理解する出発 点には主観と客観(あるいは志向性と志向されるもの)の相関が置かれねばならないとい う主張である。 ( 73) 人間がその中で有意味な生を生きる現実性とは、このような信仰や歴 史に典型的に見られる現実性なのである、とティリッヒは考える。我々は、このような人 間の生きる現実性の構造、あるいはこの現実性の存在論的身分を理解するのに、本研究で 論じたテキスト世界、象徴や隠喩が開示する現実性を参照することができるであろう。 「永 遠の生命とは、愛の統一性であり、万物を回収する一者の統一性ではない。キリスト教に とっての個人の無限の意義は、キリスト教の象徴においても保持されている。しかし、そ れがいかなる仕方であるかについては、何も語ることはできない。それが試みされる場合 には、それは詩的象徴となり、字義通りに受けとられるときには、その美しさは不条理と なるのである。それゆえ、神学者はここで沈黙し、すべての被造物とともに、見ることも 語ることもできないものを希望しなければならないのである」([1963e:429]) 。「カイロ スの自覚はヴィジョンの事柄である」([1963a:370] ) 。つまり、希望、待望の事柄は、詩 的象徴によって表現されるべきものなのであり、それゆえ、今我々の問題である「待望」 の現実性とは、テキスト世界を自己化する過程において自らが生き得る可能的世界として 獲得される現実性との類比において理解することができるのである。( 74) この現実性はそ れが自己化において自分の生きる可能性となることを離れては存在しない、したがって主 体的参与を離れて検証されるものではない。しかし、具体的な象徴(あるいは象徴体系) によってテキスト化されることによって、相互主観的な現実として共有され、またこの象 徴のまわりに形成された共同体において経験可能なものとなる(=相互主観的現実 ) 。個 々の具体的象徴とそれによって表現された待望は歴史のプロセスにおいて生成消滅する が、具体的な象徴によって「待望」し続ける人間のあり方は変わることがない。ティリッ ヒは、「待望」の現実性への主観−客観図式に基づく批判に対してこのように答えるであ ろう。このような「待望」の現実性の説明は 、 「待望」が人間存在あるいは精神の「起源 と要請」という二重性に基づくこと、その意味で人間の存在論的構造に根拠を持つことを 示すものであるが、個々の具体的な象徴がイデオロギーあるいはユートピアへ絶えず変質 する危険性を持つことも同時に示唆しているのである。神の国とか階級なき社会とかいう 象徴は、「彼岸的象徴あるいは此岸的対象のいずれでもない。それはそれ自体の中に彼岸 と此岸、現実的な生の動揺と振動を持っているのである。預言者的待望も社会主義的待望 も生の根本的開放性に対する生の証言であり、誤った此岸概念への反発を必然的に引き起 こす誤った彼岸概念に対する生の抗議なのである」([ 1933a:319]) 。 以上より確認すべきことは、 「待望」という現実性が、本研究の第4章において論じら れた宗教言語の開示する象徴的現実性として理解されること、それゆえ、真性の宗教的現 実性は主観的と客観的の二分法、あるいはイデオロギーとユートピアの二重の批判を超え た第三の現実性として理解されることを要求するということである。これは、この第二部 の最初に述べたキリスト論の現実性の言語的軸に沿った展開と考えることができる。しか し、この同じキリスト論的現実性は、時間軸への展開をも要求する。これは、先に挙げた -8- 第2の問いに関わる。そこで我々はこの第2の問いへ考察を進めなければならない。 第2の問いは、「待望」の歴史的あるいは時間的な構造についての問題であった。この 問題は、キリスト教神学においては、終末論や神の国の問題との関係で繰り返し問われて きたものに他ならない。したがって、この問題はティリッヒの歴史神学あるいは終末論の 核心部分に関わる。( 75) この点で注目すべきものは、ティリッヒにおける「完成・成就と その先取り」という図式である。( 76) まず、ティリッヒに従えば、新しい存在あるいは聖 霊の現臨の完全な実現・成就は終末論的な事態であり、歴史の現実性の下においては、そ れはどこまでも両義的なものにとどまる。しかし、これは新しい存在あるいは聖霊の現臨 が、歴史の中では経験不可能であるとか、いかなる現実性も持たないということを意味し ない。ここで登場するのが、断片的な成就という考えである。「人類は決して神によって 取り残されてはおらず、また絶えず聖霊の現臨の衝撃の下にあるのであるから、歴史にお いては常に新しい存在が存在する。曖昧さのない生の超越的統一への参与が存在する。し かし、この参与は断片的である(fragmentary) 」([ 1963a:140] ) 。歴史の現実性の中にお ける「待望」はこの断片性に単なる主観的なものでないことの根拠を持つのである。しか し、この「断片は予期(anticipation)」であり、歴史の中で経験可能な終末論的事態である ( ibid.) 。つまり、待望されるものへの参与、待望の対象の断片的な成就は、完全な成就 の予期、先取りという構造を持つのである。この断片性と先取りの密接な関わりは、ティ リッヒにおいて 、霊的共同体の統一性が「断片的であり先取り的である」(ibid.:156,158 ) というように、両者が併記されていることから読み取ることができる。我々は先に待望の 現実性が象徴的現実性であること、またそれが完全な実現への断片的な参与であることを 確認した。これは時間軸において表象するならば、「終末−先取り」という図式になるの である。この完全な成就と断片的参与、終末と先取りという構造は、キリスト教信仰の目 標である「聖霊の現臨 」「神の国 」「永遠の生命」という三つの象徴の基本構造に明確に 反映されている。つまり、「<神の国>の象徴は歴史の意味の問いに対する積極的で適切 な答えであるためには、内在的であると同時に超越的でなければならない」(ibid.:359) 。 この内在性と超越性は、ティリッヒが預言者的歴史理解にしたがって「待望」の現実性を 説明する際に用いられる「終末と先取り」の関係に他ならない。待望は具体的な象徴にお いて経験され表現される限りにおいて歴史に内在的であるが、待望は具体的な個々の象徴 とそれに対する幻滅とを超越する 。「待望は超えて進むことである。そしてこのようなも のとして待望は、対象的な起源の束縛(<日の下に新しいものはない>)と、対象的な終 末待望( <いつかすべては新しくなる>)とを克服する。それは非対象的な待望である(< 新しいものが古いものに突入する>)」([1933a:312] )。ティリッヒが自らの初期の宗教 社会主義論に内在し、ヒルシュの中に存在していたユートピア主義を克服する過程で提出 されたのが、この「非対象的な待望」、歴史における終末的完成の象徴的な先取りという 現実理解であったのである(=信仰的現実主義、希望の現実主義) 。この現実主義が、絶 望の中から再び立上がる勇気と歴史的相対性の中での真理の認識、そして「超時間的成就 と時間的発展の関係 」([1963a:418 ] )といった困難な諸問題に対するティリッヒの答え であったと考えることができるであろう。 これまでの第二部全体から確認すべきことは、宗教と文化との媒介・相関の根拠として のキリストの出来事が、言語的象徴的構造の軸と時間的歴史プロセスの軸とにおいて展開 -9- されると同時に、二つの軸は相互に密接に連関し合っているということである。これは人 間存在における言語的構造と時間的構造とが相互に結び付くことによって人間の存在構造 の十全な記述となるということを予想させる。( 77) なぜなら、キリストの存在は、新しい 人間存在に相関するものだからである。 - 10-
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