イギリス社会保障の形成

イギリス社会保障の形成(I)
一大導如寺の推移から大嘘後の立法の形成一
樫 原 朗
(神戸学院大学教授)
目 次
1.平等主義的な租税措置
2.第2次世界大戦初期からベヴアリジ報告-至る間の
社会保障に関する立法と意識の転換
I 本 号
3.家族手当の意味するもの
4.ベヴァリジ報告
5.ベヴァリジ報告以後の展開
6.チャーチル政府の立法作業
7.アトリーの勝利と社会保障関連法案の準備
8.社会保障ならびに関連法律の制定
㈱ eサij
① 国民保険省法と家族手当法
② 国民保険法と国民保険(産業傷害)汰
③ 国民扶助法
1.平等主義的な租税措置
第2次世界大戦に突入する前から、失業は次第に少なくなり、 19
20年代から30年代中ばにかけてのさまざまな対策の影響もあり、労
働者階級は全体としてはかなり恵まれた状態になっていた。一方、
大戦前から大戦への準備もあり、いろいろな面で統制措置がとられ
るに至った。例えば、病院は戦時体制のために、緊急医療サービス
BII
イギリス社会保障の形成(I)
体制のなかに組みこまれた。このような多くの措置は同時に、戦後
の社会保障形成への地ならしをする'ものであった。 ,税制についても所
得配分の平等化への傾向を生み出す措置がとられていった。
大戦の間、少なくとも、上流階級はイギリスのために臨時の租税を支
払うのは当然であると考えられるようになっていた。労働者階級につ
いては実質賃金はかなり安定的な傾向をたもち、それでいて戦争遂行
のために労働者階級の支出からはそう大きな移転はなかったが、それ
でも犠牲がなかったわけではなかった。しかし、もっと顕著な利得は
機械をより能率的に使用し、経済を発展せしめることによりもたらさ
れたO戦時生産は国民所得の着実に上昇する部分をしめていた。とい
うのは、民間の支出が下落しつつあったためよりも、むしろ国民新線
が上昇しつつあったからである。また社会的変化もあった。人的資源
の動員は中流階級の増加のかげで召使いの_数の減少をきたしていた。
この減少は第1次大戦時よりもずっと鋭敏なものであり、この傾向は
その後永続的なものとなった土1)
こうして、人的資源および物的資源の動員とそれにともなう戦時財
政は支出と収入の差額を生み出す工面をすることを必然化した。戦争
突入以来、所得税の標準税率は急上昇していた1940年5月には、戟
時連立内閣がつくられ、キングスリー・ウッド(Kingsley Wood )
が大蔵大臣になったが、この頃から財政は一段とさびしくなった0
1940年には、多額の収入不足が貯蓄か他の手段によってみたされねば
ならなくなっていた.経済上の基本的な問葛は、賃金と雇用が増加し、
商品が減少するとともに、インフレの危険があらわれていたことであ
った。輸出市場を保持しさらに拡大することも大切であった。その
機構は課税か貯蓄による過剰所得の吸収であらねばならなかった。も
はや、単に富者-の課税によって戦費の調達などを試みることは無益
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イギリス社会保障の形成(I)
であった。社会のあらゆる部分が寄与しなければならなかった(2)
こうして資金は戦費調達とインフレの防止のために納税者から技巧
をこらしたやり方で吸収されることとなった1941年の政府は実物資
源の要革をみたすために、財政調整をすることを企てた。そしてそれ
は政府の財政政策の経済に及ぼす効果についてケインズの一般的な考
え方を受け入れた財政であると考えられたものであった1941年にキ
ングスリー・ウッドは政府支出の項目をとりあげ、何が現在の課税で、
何が借入れで、そして何が外国からの借款でカバーされるかを示し、
さらに課税によってみたさねばならないギャップを差額として示した0
さもなければ、インフレと価格上昇をともなった強制貯蓄によってみ
たされねばならなかった。
課税における初期の革新は労働者階級の支出をいくらか制限した。
1940年に導入された累進的購買税は多数の労働者階級の購入に影響を
及ぼした。しかし、その税の労働者階級への帰轟はわずかな程度のも
のであった。購買税の真に重い負担は上流階級の著移品にかかってい
った。ちょうど超過税と結びついた所得税が高度の所得に対する実効
税率をポンドあた919シリング6ペンスに引き上げたこととも重なっ
て、富裕階級の高い犠牲はあらゆる人をほぼ一律の平等的な生存水準
に近づける形をとる傾向があった。そして労働者階級の多くはかなり
この水準に近かったので失うべきものは殆んどなかったJ 1939年か
ら1946年にわたって、戦前基準以上に利潤があがった範囲に対して課
せられる超過利得税(Excess Profits Tax )は100%までいった。
それで人びとは第1時大戦時ほど戦争利得者のことに気をもむことは
なかった。戦時の経済政策は国民所得の10%を通常上流階級の受けて
いる地代や配当から賃金や俸給生活者に移転させることになったとい
われる。より富裕でない階層は1939年水準に家賃を凍結した家賃制限
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イギリス社会保障の形成(I)
法によっても利益をえていた。所得税率の変更、貨幣賃金の増加はよ、
り多くの賃金穣得者をして所得税を支払わねばならない水準まで引き
上げるものであったが、多くの場合、控除や割りもどしにより、筋肉
労働者は結婚して共稼ぎでなければ、実際には標準税率で支払うこと
はまれであった。なお、効果のあり方はともかく、勤労所得税源泉徴
収制度(Pay As You Earn System )も1940年の議会に好意的に
迎えられ、 1943年9月から行われたが、それは俸給生活者からの租税
の徴収をよ,)便利にならしめたのである(4)
これらの平等主義的な影響をもつ財政措置は政治的な世論が左-移
るのが明らかになる以前に実施されたものであ上た。大戦の初期の段
階では社会保障についてそれほど明確な世論の動きはなかった。イギ
リスの人たちのそうした動きはベヴァリジ報告まで待たねばならなか
ったo Lかし、とりあえず、ベヴァリジ報告に至るまでの立法につい
て若干ふれておこう。
(1) T.O. Lloyd, Empire to Welfare State, English History 1906
-1967, 1970, p. 252.
(2) B.E.V. Sabine, British Budgets inPeace and War, 19321945, 1970, p. 175.
(3) Lloyd, ibid., p. 253.
(4) Lloyd, ibid., p. 253. ; Sabine, ibid., p.176.; Ursula K.Hicks,
British Public Finances, Their Structure and Development 1880
-1952, 1958.遠藤湘書、長谷田彰彦訳『イギリス財政史』昭和36年、
東洋経済新報社、 92-3 , 139頁。
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イギリス社会保障の形成(I)
2.第2次世界大戦初期からベヴァリジ報告へ至る間の
社会保障に関する立法と意識の転換
両大戦間期のイギリス政府の社会保障政策についての人びとの見解
がどういうものであれ、それが重要だという考えは最後まで続いた。
しかしながら、大恐慌がおさまり、景気が回復し、大戦への見込が大
きくなってくる時期になると、その間心の中心は失業ではなく、老齢
年金に移っていった1939年9月に勃発した大戦以前の殆んど最後の
議会での出来事は労働党によ・)援助された労働虚脊会議(Trade Union Congr&阜S )の要求した退職者に対する年金の大増額に関する討
議であった。それは首相チェムバレン(Neville Chamberlain )が
社会保障問題について下院で話した着後の機会であったが、彼はこの
議論に答えて、すべての問題を再検討し、 「拠出者になるであろう人
びとの見解を認めるような方法in the recognized fashion )に
おいて確認する」と述べ、老齢者の状態を調査し、対策を講ずると約莱
したou)有難いことには、大戦の発生はこの約束からのがれることを
可能ならしめた。しかし、やがて11月には、非難の動議のもとに、政
府は現実的な提案がなされるならば、年金の増額の実現の可能性があ
るとし、早期に結論を出すと再び約束して、希望をいだかせる約束を
したのである。
1930年代には年金額は拠出・無拠出とも過10シリングであった。こ
の年金額が不十分であることはこの年代申述べられた不満であった。
事実、ラウントリーによると、単身で生活する最低標準は男子週15シ
リング3ペンス、夫婦で22シリング4ペンスで、しかもこれには家賃
が除外されていたt2)老人たちのなかで年金以外に資力のない老齢者の
間にさびしい貧困が存在していた10%程度のものは公的扶助局に援
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イギリス社会保障の形成(I)
助を求めねばなら'なかったが、この数字は真の貧困度を示すものでは
なかった。ある種の人びとは困窮度の調査にしりごみをしていた。ラ
ウント))-は1936年のヨーク市の調査において、老齢者の貧困はその
他のいかなる原因によるよりもきびしいものであり、全体としで公的
扶助を申請する老齢者の10%という数字はおそらく老人たちの間に実
際に存在している貧困のひろがl)を十分に反映するものでないことを
論証した。事実、調査則ま申請を遠慮した多数の場合に遭遇していたO
もし子供が自発的に援助しようとしないなら、 「外部からの救済を申
請することによって子供たちが援助するよう強制するよりも、むしろ
触死する」と老人の多くが調査員にかたっていた三3)ヨーク市では老
齢年金受給者の33%が最低水準以下の生活をしているものと推定され
た王4)そういう背景のもとに、労働組合会議と労働党の年金の増額要求
はますます強くなっていった。そしてそれは彼らの政策とも絡んでい
た。彼らの年金改善案には常勤の職を退いた者だけに支給されるべき
であるという条項がはいっていた。これは年をとった者を仕事から引
退させ、家族をかかえているもっと若い者の仕事を増加するのに役立
つと論じられた。こうした考え方は、老齢者のより安価な労働の競争
を排除することによって、労働の供給を制限しようとする、初期労働
組合の態度と一致していた15)しかし、増額の要求に際してとった彼
らの態度は非常に柔軟であり、現実的であった。
すなわち、労働組合会議はその後の秘密討議において、具体的な新
しい提案をし、働いていない人に5シリングの年金の増額を認めたが、
これに対してはコストにむけられる保険料引上げの必要をよく理解し、
評価された余分の保険数理的費用のすべてをカバーするだけ十分大き
な拠出増を支援するといっていたb 彼らはこうして大戦の圧力のもと
に、 1925年の内閣において、大胆なチャーチルが主張した拠出年金財
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イギリス社会保障の形成(I)
政と同じ基礎を受け入れたJ6)
もっとも、チェンバレンは退職を条件とすることについて、それに
対して若年から拠出した人に年金を拒否することは保険原理に反する
のみならず、多くの産業において熟練労働者不足がみられると,きに、
65歳以上の人の弓帥j引退は国家的な利益をそこなうといっていた禦
こうして、 194a年1月23日、大蔵大臣ジョン・サイモン卿(Sir
John Simon は、 (a)窮境にある老齢年金受給者(60歳以上の寡
婦年金受給者を含めて)に補足年金を与え(b)婦人被保険者および拠
出年金受給者の妻に対する年金年齢を65歳から60歳に引き下げる法律
制定に直ちに着手すると発表し翌日法案を提出した. (a)については
失業扶助の方法と機構を応用することにより年金に対する追加をする
とした。個々の場合の追加の範岡は失業扶助に適用されるそれに似た
尺度にしたがって計算される「ニード」に依存することとした。すな
わち世帯必要テストが適用されるとした。彼は週5シリングの年金額
の増加は大幅な保険料の増額を必要とするとして補足年金を採用する
理由を説明した。続けて彼は、 「1925年法のもとでの年金は『拠出』
と呼ばれているけれども、彼らに支払うのに要する費用の大部分は、
雇主および労働者からの拠出によってではなく、一般納税者によって
調達されている。拠出年金に対する国家の拠出は現在では全体の60%
にもなっている。さらに国家は無拠出年金のすべてを支払っている」(8)
としたのである。
こうして、 1940年3月20日に成立した老齢・寡婦年金法は、第1部
が年金年齢の引き下げ、第2部が補足年金を規定した。保険料は男子
週2ペンス(週1シリング1ペンス) 、女子週3ペンス引き上げられ
た。保険料増額分は女子年金年齢を65歳から60歳に引き下げた新法第
1部の財源にあてるためのものであった。若干の節約がこうして疾病
ast
イギータス社会保障の形成( I)
および失業手当についてなされたが、これらの給付は年齢引き下げが
なければ、 60歳から65歳までの女子に支給されたかもしれないもので
あるo Lかし、新給付はそれまでの諸給付よりもはるかに価値の高い
ものであると考えられた。いずれにしても、第1部は一般的に歓迎さ
れたが、第2部は基本年金額の増加を具体化していないという理由で
酷評を受けた。ここでの重要な第1点は、婦人に対する年金受給年齢
を60歳に下げることは国家年金の出発当初から同一であった取扱いの
平等性を打破したことである。そしてこれが労働組合会議の要求との
唯一のリンクであったo第2の特級は基本年金額の増額の具体化をし
ていないかわリ、法律は収入が扶助局の定める生活基準額を下回るよ
うな年金受給者は不足分を補足年金で埋めることができたことである0
そしてその他のニ∴ドの基準額に加えて、家賃手当が年金受給者のニ
ードの一部として計算されたO ここでの大きな特徴は老齢年金を補足\
する仕事を地方当局から失業扶助局に移すことによって老齢者に対す
る国家の配慮を中央政府の責任としたことである。
ところで、この予想しない政府の提案は1934年にチェンバレンが内
閣に約束していた政策の大きな部分であった.それはすでに進みつつ
あった拠出年金の増額を拒否し、そのかわりにそれを補足する年金を
支給するのに、いまだ不信感のある扶助局を選んだために非常な議論
のあるものであった。もちろん、拠出年金の増額は急速な財政的・行
政的費用の増加の必要に直面している地方当局にとってはちょっとし
た救済になるはずであったし、行政的激変と人力の浪費から救ったで
あろう。そして増加必要資金の調達に関しては、現実的な余分の拠出
の必要性は労働組合会議も労働党も認めていた。しかし、それにして
も、引退する誘因としての増加年金の提供により、失業問題を解決し
ようとする夢は、失業問題から年金-の重点の移行とは裏腹に、失業
HSB
イギリス社会保障の形成(I)
が少なくなり逆に熟練労働者の不足が目だちはじめていた当時において
は、思慮ある戦時戦略において地位をえなかった。そして労働組合会
議と折合をつけることの拒否は国家財政委員会からきた。国家財政委
員会は年金を「社会的」給付-ニードの証明にもとづいてのみ支払
われるものであることを意味する-と考え、それゆえに戦時に増額
すべきでないと主張した。しかし、その背後には、ワリ- (Wally )
によると、拠出の支払にもとづいた施与の水準はニードの証明にもと
づいたものよりも、より大きな政治的約束でならねばならないという
古い幻想とともに、戦時のインフレの確実さとそれにしたがっての計
画に直面することを嫌ったという事情があったためであるといわれる三9)
未婚婦人の老齢年金受給年齢の引き下げは長らく古い織物地域にお
いて限られた政治的追随者をもっていた。しかし、すべての婦人に対
してそれを引き下げることにおける労働組合会議の関心は彼らの年金
を全くえていない若い妻をもっている多くの労働者から望まれたもの
であった。そのために政府は年金額自体に対する政治的圧力を軽減す
るための安い新趣向として、その考えにひかれた。しかし、労働継続
に対する何らかの施策なしに、年金年齢の引き下げは、将来起るであ
ろう老齢扶養の増加の負担について、すでに久しく政界および経済界
の識者が感じて発していた警告に・矛盾するものであった。先見の明の
あるチャーチルは、政府のアクチュアリーのワトソン(Watson )に
よって提出されたこの間題に関する報告の余白につぎのように書いて
いた。
「人口の老齢化と年金人口の増加の結合した形での労働人口の減少
にかんがみて、つぎの世代に対する展望は荒涼たるものである。労働人
口の負担はたえるにはあまりにも大きすぎる可能性があるo われわ礼
の時代の人びと一般および下院は特に、しばしば唱えられている偉大
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イギリス社会保障の形成(I)
な年金対策のみちぴぃていく結末についてもっと教育する必要がある
ように思われる00)
。j
要するに、1940年の主要な諸規定は保険年金に関しては何らかの追
加的な戦後についての言質をさけるという決定にもとづいていたこと
を考えると、そのなかに婦人の年金年齢の引き下げを含めることは矛
盾していた。それゆえ、それは主要な措置についての不可避的な政治
的批評をにぶらせる甘味剤(sweetner)とのみみられたが、1940年
法の価軌ま戦後の社会保障の観点からは巨大なものであったElVこの
時期に労働組合会議の有力な人物アーネスト・ベヴイン(Ernest
Bevin)は内閣に入ったが、もはや拠出年金論争にみちびかなかった。
一方政府は拠出年金増額のために必要とされたはずの資金を扶助計画
にそそいでいった。
1940年法による扶助局の補足給付には、すでに以前に使われて苦い
経験を残した世帯資力調査が使われた。しかし、その結果として当然
生じた非難に答え、1941年には、それを取り除き、「困窮度決定法」
(DeterminationofNeedsAct)が個人資力調査にかわった。こ
れは子供の所得をまったく考慮に入れず、ただ家計への少額の寄与と
のみみなすものであった。また、申請者が補足年金受給の資格を奪わ
れることなく、ある種の所得および貯蓄の保有を認めるものであった0
それはきわめて大きなニードの解釈の緩和であり、公的扶助の近代化
-とつながった。しかし一万、1940年政策への固守とニードの解釈の
緩和の結果、扶助局のニードを評価する基準は上昇し続けた。いまや
失業保険基金が巨額の黒字をつみあげていたにもかかわらず、失業給
付の方が保険原理に拘束されて案外融通性がなかったのに反し、それ
は家賃手当もニ-ドの一部に追加されて、失業給付のための基準をこ
えていった。この政策の滞在的費用はとにかく働くことのできる人は
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イギリス社会保障の形成(I)
何らかの種類の仕事についているという事実により唆味にされていた0
そしてその結果、いずれにしても「ニードの解釈の緩和にもかかわら
ず、資力調査後の補足給付金は拠出制年金の観念からの重大な牡反と
なるものであった(12)もっとも、 1940年と1941年の法律を政界一般に
そしてことに野党は暫定措置と考え、戦争終了後の年金給付の全体系
が再検討され調整される際に御破産にされるべき戦時の便宜措置であ
ると考えていたが、戦後の世界において年金のための拠出原則の再建
のために、その含蓄に十分注意が払われたかどうかは疑わしい(13)
学童をもつ寡婦年金受給者はのちに扶助局の責任に加えられた。し
かし、それに対するそれ以上の移転はなされなかった。こうした姿が
法定年金制度の進展状況であった。老人は拠出制年金からは保険上の
権利として、また無拠出制年金からは年齢と所得の制限に従って収入
を得ていた。この両種の年金受給者はその支給金を扶助局から補足し
てもらうことができたが、年金を受ける資格のない人は扶助局とかか
わりあいはなかった。こうして救貧法を管理する地方当局は、年金の
ない老齢者、若年の児童のない寡婦、離婚した婦人などすべてを含む
疾病労働者に対する防衛の第1線として継続していた1942年におい
て、公的扶助の件数の12%以上(29,800人)は65歳以上の男子と60歳
以上の女子であり、また約69,400人の老人が施設において救助を受け
ていたが、そのうち約39,600人が老齢年金を受けていなかったのであ
る(14)
こうして、ベヴァリジ報告のあるなしにかかわらず、扶助局とその
制度は保険によってカバーされていないあるいは十分にカバーされて
いないあらゆる財政的ニードの救済のための道具として確立されたの
である。しかし同時に、拠出原則の再建は別としても、資力調査によ
る扶助で老齢者を保護するという戦時の経験はどれほど貧しいかとい
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イギリス社会保障の形成(I)
うことに基づいて人びとを保護するというやり方への古くからの反対
を激化することとなった。やがてベヴァリジは一般の感情にくみして
老齢年金を国家的拠出年金に包含せしめた.彼がコスト高の理由でも
うけた20年の経過的年金という留保案は即時生活年金とはくいちがう
ものであり、そのため無視されたが、結局ベヴァリジの貴初の提案と
非常に似かよったことを別のルートを通って行うこととなったといえ
m*
こうして、失業及び健康保険、年金、扶助などの展開過程における
問題の発生とその調整の過程において、次第にこれらの稔合体系化の
必要が感じられるようになっていったのは必然のことであった。
周知のように、形式上は、社会保障はアメリカ会衆図とニュージラ
ンドからイギリスに渡ったことになる。そしてそのさいに、ベヴァリ
ジ報告その他からも知られるように、イギリスの社会保障の形成の準
備にさいし、戦争遂行を円滑にするという、戦争目的の地位をも獲得
した。しかし、同時に新しい含蓄をもえることとなったO_これまでは、
かなり適用範囲が拡大されたとはいえ、労働者中心であった。そして
保険と扶助の総尉ヒは行われていなかった。ふるいものからの転換が
必要であった。そしてこの時期にこそその転換の志向がみいだされる0
そしてそこからペヴァリジ報告-つながったと考えるべきであろう。
ベヴイン(Ernest Bevin )は1940年11月20日に、社会保障は「すべ
てのわれわれの国民生活の主要な動機であるべきである」とし、つぎの
ように続けた。 「それはすべての利潤及び余剰が拭い去られるであろ
うことを意味するのではなく、われわれの経済、財政、組織、科学お
よびその他あらゆるものが、わずかの中流階級あるいは単なる資産所
有者である人たちにではなくて、全体としての社会のための社会保障
にむけられるべきであることを意味するoJそしてイ-デン(Anthony Eden)
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イギリス社会保障の形成(I)
も1941年5月29日の演説のなかで、アメリカのローズベル寸大統額の
「四つの基本的人間的自由」に言及して、社会保障を窮乏からの解放と
同一視したのである。「われわれは社会保障はわれわれの国内政策の
第1の目的であらねばならぬと宣言した。そして社会保障は国内にお
いても国外にあるときでもわれわれの政策であるだろう(15)「ベヴイン
及びイ-デンにとって、社会保障は基本的に計画化された国民的国際
的経済の果実-副産物でなく産物-であった(16)
。jもっとも、失業が
直接間接に戦前の世界の最大の害悪であり、経済的瓦解がその源泉で
あるという意味で、多くは雇用を基準にして社会保障を考えていたこ
とはベヴァリジ報告からも明らかであろう。しかし、ベヴァリジはそ
れに影響されていたとしても全体を考えていたことは事実である.し、
またベヴインの言葉のなかには、それ以上のことも読みとれるであろ
う.彼らの言葉のなかには保証されねばをらないことはすべての人に対
するつつましやかな生活水準であるということが読みとれるであろう0
ベヴァリジをベヴァリジ委員会の長に任命した意図がいかなるもので
あれ、両大戦間期から大戦中の政策の影響もあって、児童手当、年金、
公的扶助、医療サービスを体系的に組み合せて社会保障を形成せしめ
るための基盤と新しい含蓄は成熟しつつあったのである。そしてこと
に戦時中の年金、医療の政策はその方向づけに大きな意味を有するも
のであった。
(1)JohnWally,SocialSecurity:-AnotherBritishFailure?,
1972,p.66.
(2)B.SeebohmRowntree,PovertyandProgress,ASecondSocial
SurveyofYork,1941,p.70.
(3Rowntree,ibid.,p.70.
(4)Ibid.,p.71.
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イギリス社会保障の形成(I)
(5) B. E. Shenfield , Social Policies for Old Age , A Review
of Social Provision for Old Age in Great Britain, 1957.清水
金二郎監訳『老齢者のための社会保障』昭和34年、東洋経済新報社、
961O
(6) Wally, ibid., p. 66.
(7) Sir ArnoldWilson and G. S. Mackay, OldAge Pensions, An
Historical and Critical Study, 1941, p.208.
(8) Wilson and Mackay, ibid., p. 210.
(9) Wally, ibid., p.67-8.
Ibid., p. 69.
.(ll) Ibid., p.69.
12 Shenfield, ibid.,前掲訳書, 97頁.
(13) Shenfield, ibid.,前掲訳書、 97頁,; Wally, ibid., p. 70.
(14) Reported by William Beveridge , Social Insurance and Allied
Services, 1924.山田雄三監訳『ベヴァリジ報告、社会保険および関
連サービス』昭和44年、至誠堂、 322頁、 349頁。
(1S) Edited by William Haber and Wilbur J. Cohen, Readings in
Social Security , 1948, p. 43.
Ibid., p.44.
3.家族手当の意味するもの
ここで特にベヴァリジ報告との関連において家族手当の導入につい
て述べておかねばならない。戦争になった頃、家族手当を求めるエリ
ナ・ラスポーン(Eleanor F. Rathbone )らの主張は労働組合会議
の支援のもとに強化されていったが、その主張は老齢者扶養の負担の
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イギリス社会保障の形成(I)
増加と将来それをささえるにたる若年者が十分いないという不安につ
いての一般的な関心という暖味な支援はあったとしても、いまだ政界
あるいは産業界の-一般的な支援をえているという状態ではなかった。
しかしながら、戦争は思想の集中装置であった。そしてこの時期の政
界などの思想は最終的に国民生活における不可欠の要素として家族手
当を確立することをベヴァリジ報告に求めてはいなかった。ほんらい
それは報告以前の問題ともいってよかった。それゆえ、ベヴァリジに
よるという現在の一般的な考慮とは反対に、批判者たちによると、委
員会の任命は戦争が終了するまで家族手当の出発を遅らせたばかりで
なく、それがその当時とった見ぐるしい、つぎはぎの、そして不十分
な形に責任があるという。イギリス政府は当時、児童および家族に関
する政策に対して一般的責任をおう部局を欠いていたことによって不
利益をこうむっていた。それゆえに、家族手当の広範な要求に直面し
たとき、それに対処する責任は30年前にロイド・ジョージの寡婦・孤
児に対する保険に反対を組織したキングスリー・ウッド(このときの
連立内閣の大蔵大臣)の肩にかかることとなった1941年6月10日(
委員会の任命の日) 、新大蔵大臣は国会議員からの全党的な強力な圧
力に遭遇し、大戦時の措置としての児童手当の導入の可能性を個人的
に検討することを約束した。そしてつづく数ヵ月間、大蔵大臣の調査
は戦時のために十分簡単に思われる計画で、ケインズやラスポーンお
よび彼女らの支持者たちが求めていたものに集中していた。これはあ
らゆる児童に対して週5シリングの無税扱いの支払であった。その純
費用は6,000万ポンド以上にのぼらず、それによって政府は批判者に
完全に対処しえたのみならず、すでに当時進行しつつあった戦時のイ
ンフレに抵抗(当時導入されつつあった食物や他の物資の大規模な価
格補助金のそれよりもずっと安い費用でより効果的に)する安全な基
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イギリス社会保障の形成(I)
礎を確立することができたであろうというと1)
大蔵大臣はベヴァリジ報告のいまだ確立されていない1942年7月に、
連立政府が家族手当の原理を受け入れたことを表明した。もちろん、
ベヴァリジ委員会が家族手当を勧告するであろうことは、 1925年の炭
坑業に関するサムエル委員会(Samuel Commission )で、ベヴァリ
ジが主張して以未の経過をみれば明らかであったであろう。しかし、
失業者が多く、その家族の生活困窮の救済のために失業保険給付など
に扶養者手当を付加して多くの間塔を生みだした戦争前と状態がかわ
っていたことも事実である。それゆえに、なにゆえ、政府は社会給付
で生活するよりもむしろ仕事を受け入れる誘因としての家族手当の必
要性に関する古典的主張が明らかに戦争期間中考えられなくなってい
たときに、このような方法で早まって行動したかをいぶかしがられる
かもしれない。その理由はつぎのようなものであったといえよう。ベヴ
ァリジ委員会の唯一の関心は戦後の状態に開したものであったが、新
連立内閣は直接的な行動の必要性にせまられていた。それは賃金を抑
制しながら将来の老齢者扶養のため若年層を増加することとともに、
多くの方法で労働組合の協力を得ることがいかに必要であるかを、内
閣が理解していたことを示すものであった。いまや、労働組合会議が
好意をもっていた家族手当は政府が協力を得るために支払うべく準備
していた代価の一部分であった(2)こうして協力獲得と賃金抑制を目
的として、戦時内閣は家族手当の原理を受け入れたが、それに反し、
ベヴァリジは以前は賃金抑制を副次的動機としていたが、このときは
以前の大不況による失業とその給付の経験をもとに戦後の社会保障こ
とに家族の貧困解消とインセンティブの面からその必要性を強調して
いたのである㌘)ベヴァリジはつぎのようにいう。
「失業または労働不能の期間に就業時と同等またはそれ以上の額を
-46-
イギリス社会保障の形成(I)
与えるのは危険である。しかし、就業していると否とにかかわらず、
児童手当を支給されなければこの危険はさけることはできない。この
ことは過去において失業給付や失業扶助のもとでかなり経験されたこ
とである -雇用維持を確保するためには就業しているとき
の所得とそうでないときの所得の間のギャップがあらゆる人にとって
できるだけ大きくなければならない。大家族をかかえている者につい
ては失業または労働不能の場合の給付を少なくするか、また就業して
いるときにも、そうでないときにも同様な児童手当を与えるか、いず
れかによる以外にそのギャップを大きくさせておくことはできない(4)
もっとも、不幸なことには、戦後の再建に関する社会保障について
の1943年3月のチャーチルの放送は、出生率の減少のみを異常に警告
し、あらゆる手段によって大家族をもつことの必要性を鞍調し、社会
に対するこの生命の泉に寄与すべく両親をたすけるために、よく設定
された家族手当の計画を実現することに最大の重要性をあたえた。そ
してこれがなにゆえに、 1945年の家族手当法が戦時内閣のもとで法律
になった唯一のベヴァノリジ措置であったかを説明するものであるとい
われる㌘)
(1) Wally, ibid., pp.70-1.
(2) Ibid., pp.71-2.
(3) John Wally, 'Children Allowances', Edited by David Bull , Family Poverty, 1972 (2 nd ed. ) p. 109.
(4) Reported by William Beveridge, ibid.,前掲訳書、 238頁( para.
412つ。
(5)
Wally,一Children
Allowances,
Edited
-47-
by
Bull,
ibid.,
p.
109.
イギリス社会保障の形成(I)
4.ベヴァリジ報告
そこでつぎに、ベヴァリジ自身の言葉(ベヴァリジ報告やその他の
もの)によるよりも、歴史的背景および立法や政治の推移にてらして、
ベヴァリジ報告の歴史における意義問題などをみよう。以前の稿と若
干重なるところがあるが、それらについてはできるだけ簡単にしてお
くつもりである。
1941年に、労働党の副党首であると同時に、戦後の世界のための計
画をつくる任務についての連立内閣の無任所大臣であったアーサー・
グリーンウッド(Arthur Greenwood)はベヴァリジに社会保険計画
の作成の任務につくことを求めた。その結果、ウイリアム・ベヴァリ
ジを委月長とする「社会保険および関連サービスに関する各省間委員
会」が1941年6月に連立政府によって任命せられた1942年に発表さ
れたその報告書はそれまでに至る間に生じた委貞会の性格の変更およ
び報告書の政治的性格のゆえに、委員長のみによって署名された。付
託の条件はよりよい組織とそれらのよりよい相互関係を検討する以上
のことを望んではいなかった。それをベヴァリジは単なる組織と相互
関連の問題としてではなく、高度な政策上の問題の扱いにかえてしま
った。その結果、それは以後、国家の報告書のもっとも有名なものの
一つになった。それは社会政策に対するその重要性において、 1834年
および1909年の救貧法に関する報告書になぞらえられるものとなった。
ベアトリス・ウェッブ(Beatrice Webb )は報告書の発表以前に、
イズベスチアのロンドン特派則こ、それは「政界に投げこまれた爆弾」
になるであろうといっていた(1)そしてそれが世に出たとき、彼女は、
ベヴァリジがすべての人びとのうちで、新しい世界秩序の一般に受け
入れられた立案者として、突然世間の注目をあびて浮かびあがったの
-48-
イギリス社会保障の形成(I)
は、 「この奇妙な恐るべき戦争のおかしな結果」であると、その日記
に記したのであるt2)
そうすれば、委員長の選択を必然化せしめたものはなにであったで
あろうか。もちろん、ベヴァリジの任命は当時としてはそれ以上のも
のを期待しえない人選であった。学者としては社会保険の実際には貴
高の経験者であった。ことに失業保険形成におけるベヴァリジのチャ
ーチルとの結びつきは一つの重要な人選の要素であったろう。そして
ベヴァリジは1920年代以後、単なる失業問題と失業保険ではなく、社
会保障問題全般にその洞察力を強めていたし、 1934年の半ば頃から失
業保険法定委員会の長として失業保険の再建に力をかしていた。しか
し、それとともに、この時期の現実の要因は別稿で述べたように、労
働・国民兵役省における戦時のメンバーとして担当大臣であるア-ネ
スェト・ベヴインとうまくいっていなかったことである。ベヴィン
は彼を社会保障の調整計画の任務(それはそう重要なものとは思われ
ていなかった)につけることを策し、グリーンウッドに彼を手わたし
たことに任命の直接の切掛があったのである。この委員会の長にグリ
ーンウッドが最初、労災補償委員会の長である-クタ- ・ベザリング
トン Hector Hetherington )卿をおしたとき反対したのに対し、
ベヴァリジを委員長におしたとき、大いに歓迎したことはこのことを
示しているJ3)ベヴィンは彼を追放することを望んだのであった。労
働省からの除去はうるさい人間のまつり上げであった(4)
こうして発表された報告書は個々の事項については新しいものでは
なく、平凡なものの新しい組みかえやつなぎあわせであったが、全体
として想像力豊かな作品であり、革命的な感じをいだかせたのであるa
それは基礎となった大量の情報や見解とともに、たとえそれが総合化
の作業とみられようとも「顕著なはなれわざ」( a remarkable tour de
-49-
イギリス社会保障の形成(I)
force )でもあった(5)
12月に発表された報告書は、国内はもちろん、アメリカ合衆国、イ
ギリス連邦でも広く熱烈に支援された。ドイツ政府も無視することは
なかったが、それを虚偽であると批判した。ベアトリス・ウェッブは
彼女自身と夫シドニー・ウェッブが1909年にはまった-資本主義の
枠における改革という-わなにおちこんだと述べたま6)政府内では
ウェッブ夫人にひそかに同意した多くの人がいた。それにもかかわら
ず、一般大衆の人気は政府にとっては非常に不都合なものであった。
こうした一般の人の報告書に対する反応は通常の人がたたかいつつあ
った物事の一つは将来の経済保障のためであることを明らかにしつつ
あったし、多くの人は、ベヴァリジが窮乏からの解放に途を開いたと
信じているこどを示していた。当然、こうした背景のもとに政府は報
告書を歓迎し、受け入れることが期待された。しかし、政府は下院に
おいて議論しようとしなかった。チャーチルは戦争から注意をそらす
おそれのあるいかなることにも本能的敵対感情を示した。なすがまま
にさせれば、 「チャーチルはウイリアムー・ベヴァリジ卿と彼の報告書
を忘却に付してしまったであろう」といわれる(7)それゆえ、下院に
おける討議は議只や一般大衆の熱望の結果であったO下院と一般人の
報告書に対する熱狂をチャーチルが理解するのに失敗したことは、こ
れまでの社会福祉に対する彼の功績を希薄にせしめると同時に、この
国の人の感情との接触を失いつつあることを示すものであった。ドイ
ツが次第に敗戦に近づきつつあったために、彼の立場は挑戦できない
ようになっていたが、 ・彼は戦争のみを考え、人がなにを日ぎして戦っ
ているかを忘れるきらいがあった。議員たちの多くは、保守党の議員
も含めて、ベヴァリジ報告を支援していた。ことに労働党員と労働組令
月は熱心であった(ベヴインは当初、ベヴァリジ報告の多くの部分は
-50-
イギリス社会保障の形成(I)
労働組合にとって受け入れがたいといっていた(8)労働党の議員の多
くは政府に報告書にもとづいて早期に行動するよう、修正案を、チャ
-チルの放送の後に提出したO それは歴史上の重大事件であった。討
論の間に政府は家族手当の実現をひき受けた。そして最終的に報告書
の残余の部分についても一般的な賛成の感情を政府は示したが、不利
なことには、止むを得ず譲歩したという印象を与えてしまったのであ
る。
そうすれば、ベヴァリジの考え方はどれほど新しく、重要であった
であろうか。現在、ベヴァリジ報告を読んでいない人も多いし内容を
知らない人も多い。そして当時ですら、ベヴァリジの考え方と公的議
論においてチャーチル連立政府によって引き受けられた決定、あるい
はチャーチル政府および1945年のアトリー政府のときの立法と明確に
区別されずに述べられていることも多い。 「ゆりかごから墓場まで」
という言葉を生んだあらゆる安楽な境遇( an-all providing feather
bedder )を与えるものの立案者あるいは偉大な創始者としてのベヴ
アリジについての一般的な考え方は広く浸透しているが、かなり的は
ずれのところが多いことも事実であろう。誰の言葉かも考えず(ある
いはベヴァリジの言葉のつもりで) 、ぼんやりと使用されている「ゆ
「ゆりかごから墓場まで」という言葉も、 「戦争および将来の社会政
策について」という1943年3月21日のチャーチルの放送における「あ
なたがたは私および私の同僚を、ゆりかごから墓場までの、すべての
目的のための、すべての階級のための、国家的強制的保険の強力なパ
ルチザン partisan )として評価しなければならない」(9)という言
葉からきたものであった。もっとも、 1890年代後半に、アメリカの社
会哲学者、エドワード・ベラミー Edward Bellamy )は国家は「
ゆりかごから墓場まで、あらゆる市民の養育、教育、安楽な生活」を
-51-
イギリス杜会保障の形成(I)
保証するときがくるであろうと述べ、 1938年のニュージランドの社会
保障法はこの希望の実現であるとされていたdo)それはともかく、チ
ャーチル自身1909年以来、多くのことをしていたし、ベヴァリジも職
業紹介所の新設、失業保険の創設にさいしチャーチルに協力していた0
また、ベヴァリジは1920年代から30年代における変遷のなかで社会保
障立法について経験し、ギルド社会主義者コール(G. D. H. Cole)
などの考え方をかなり受け入れ、またケインズの新しい経済学の影響
を受けていた。こうした経験と教訓をベヴァリジは彼の社会保障計画
と完全雇用計画にとり入れたのであるO また、保健を一般社会政策の
視野のなかにすえた功績も大きかった。しかし、雇用の問題も過去の
経験から得られたものであったし、医療の問題も、 1930年代以後、医
師会、社会主義医師会などの努力により新しい方向が探求されていたo
ベヴァリジの功績は大きかったが、ある意味で、彼の勧告はすぎ去っ
た境遇に対してうち立てられたものであった。そういう意味で、たし
かに現在のベヴアリジ原則からの牡脱という観点にたてば、彼の報告
はもはや時代遅れであり、それほど大きな重要性はないといわれる竺め
ことにべヴァリジ勧告の詳細については現代ではそれほど重要性はな
い。そして当時のイギリス人にとってもほんらいそうであったかもし
れない。社会保障はそれぞれの国の過去および現在のさまざまな条件
によって影響される「歴史的形成体」である,(lカこの報告の感染を受
けた他の国の人も、イギリス自身の歴史的発展に根ざした社会保障の
イギリス的接近を詳細には理解できなかったであろう 1900年代初め
のチャーチルやロイド・ジョージもビスマルクの制度からインスピイ
レイション以上のものを得たかどうかはうたがわしいというワ))-の
主張はもっともである。ましてうたがいもなく、他の国はベヴァリジ
報告を同様な方法で使用しなかったし、また使用できなかった。まず
-52-
イギリス社会保障の形成(I)
前提としての重要なことは読者を熱狂させたことであった。そして読者に
ったわったもの、読者を熱狂されたものは、保険主義と普遍主義にも
とづく提案も重要ではあったが、提案された個々のものをこえた、そ
こに含まれた一つの趣向あるいは幻想あるいは希望であった(13)
そこで、ベヴァリジ報告の重要性をみる場合、フレイザ-(Derek
Fraser)によると、三つの点が問題となる。まず社会保険の計画自
体はそれほど革命的なものではなかった。その魅力的なばかりの単純
性はおそらくさまざまな欠陥をさらけ出している当時の保険制度の合
理化以上のものではなかった。それは以前の選択的給付の普遍化・一
般化であり、その社会保障計画はすべてに対して国民貴低限を与える
欲求の実際的な表現であった。たしかにすべてのリスクと埋葬給付に
対する単一の拠出は新奇であったし、産業災害給付を保険制度に含め
ることも急進的な離脱であった。しかし、報告書の明らかに品を構成
している保険制度だけに注目を限定するとすれば、べヴァリジ報告の
革命的な趣向を見失うものである。真に革命的なことは五つの巨大な
弊害と戦うことができるとしたことである。報告ではこの五つのうち
窮乏のみをとりあつかった。しかし、彼の提案は他の四つの弊害を同
様に攻撃するであろう社会政策との脈絡のもとにおかねばならないと
したことに特徴があった。保健についても一般社会政策の背景のなか
にすえたのである。ここに全体のビジョンにおいてベヴァリジ報告の
I-I.tffm-.-m-v二11第2に重要なのが「社会保険の非革命的な性質」であった(15)
。ベヴ
ァリジの基本的な考え方においては、貧困は労働者に対してだけでは
なくて、社会のすべてのメンバーに対して、一般保健サービスと児童
手当によって支援される強制的社会保険によってさけることができる
ということであった。社会保険給付や児童手当、保健サービスのため
-53-
イギリス社会保障の形成(I)
の支払は資産や品性の調査なしに棉利として求めうるものであり、貧
困者としての援助の申請をさけせしめるものであった。こうして、す
べての市民は体系化され総合化された制度のなかの社会保険などによ
ってカバーされることによって、何らかの災難に遭遇したとき、社会
保険給付をえるために過去にたくわえたものを失う心配をせずに、あ
るいはそれらの給付が年金や老齢者に対する他の貯蓄を滅ずることを
心配することなしに、彼自身および彼の家族の利益のために計画する
ことができることであった。イギリス人がそういう拠出原則にもとづ
く計画になれ親しんでおり、そういう刊の社会政策が一般に受け入れ
られることを知った上で計画したのである。ベヴァりジはコールなど
に影響されつつ、安楽な境遇のための処方等ではなく、ピット,ロイ
ド・ジョージや以前のチェンバレンの伝統の自由、冒険心、個人的責
任のための処方等を戦争における計画化とたくみに調和せしめたもの
であった(16)
。そして誰でも窮乏におち入るかもしれないこと、それゆ
えに社会保険はすべての人について同じく基本的な偶発事件に対し準
備するために普遍的にカバーすることをE]的とするものでなければな
らないという仮定は、総力戦の緊張と危険のもとに、生活や財産の保
証について不安感の強かった時期の国民にとり特に訴えるところがあ
った。彼は「ここに提案された計画はある方法において革命である。
しかし、より重要な方法において過去からの自然の発達であるoそれ
はイギリスの革命であるoJといった。(l乃こうして、「資力に応じておの
おのから、そして必要に応じておのおのに」という原則にもとづく課
税からの扶養という社会主義的解決を拒否した。
第3にベヴァりジ報告が重要なのは大戦時に特徴的となっていた普
遍主義の精神になれ親しんでいたためであるむ社会保障の権利を与え
るという思想の社会的受け入れは、あらゆる人を平等にあつかう普遍
-51-
イギリス社会保障の形成(I)
主義によってのみ強化された。すべての人は保険制度に含まれねばな
らなかった。 「均一率の十分な生存水準とひきかえに均一率の普遍的
拠出は正義をすべてに及ぼすであろう魔法の公式であった(18)もちろ
ん、ここに後の問題がやどされていた。ベヴァリジは低賃金に非常な
負担になる均一率の拠出は、保険数理的に資金調達しうるものに限度
をおき、その結果、給付の水準に影響を及ぼすことを知っていた。し
かし、計画はすべてに対して生存費水準以上を与えなかったo すなわ
ち国民最低限以上を与えようとはしなかった。生存費給付は財政的保
障を与えると同時に最低水準をおぎなうための個人的精神の発揚と節
約の機会を与えるものであった。しかし、この時の考え方の根底には
ラウントリーが「肉体的効率の維持」 ( the maintenance of physical efficiency と常に呼んでいた考え方の彼への影響がみられる
といえよう。イギリスの社会調査はこの考え方の影響を受けていたO
そして生存費給付を普遍的に与えるということは第1義的に必要とさ
れたのである。ほんらい、社会が飢餓に対して保証されるようになる
と、貧困は相対的なものになる。そしてニードに相関づけられた給付
は所得に従って調整されねばならない。そういう意味で、普遍的な均
一額の生存費給付は過去の抱負であり、イギリス社会調査の伝統でも
あった。将来はますます所得比例的要素をとり入れねばならない方向
に向うということが考えられるべきであった.しかし、この当時埠と
りあえず、普遍的な最低限を与えることは重大事であったのである(19)
それではベヴァリジの重要な考え方の実際-の影響という面はどうで
あったであろうか。例えば、ベヴァリジ報告の特徴の一つとして重要
と考えられるものの一つであった、社会保険に対する強い信奉はその
現実の効果を発揮した1920年代から30年代初期にかけての失業保険
制度の崩壊を通じて、この時期には社会保険は次第に後退しつつある
-55-
イギリス社会保障の形成(I)
との印象をいだかせていた。ワリーのいうように、社会保険原則に対
する内閣の信頼も大戦により次第にかすんでいたとすれば、その復活
はたしかにベヴァリジに感謝すべきものであったろう
¢o)
ところが、そのわりに、そして彼が望んでいたにもかかわらず、ベ
ヴァリジ報告は使用されなかったし、ベヴァリジ自身もそれを遂行す
る機会をもたなかった。ワリーはいう. 「彼の能弁とあらゆる説得力
をもって彼が大胆にとらえようとしていた-あるいはずっと批判に
さらされることとなった-機会のためにもっとよ・く準備しておれば、
ことに長期においてははるかに大きな影響を与えていたであろうと思
われるoJとO伽彼は多年にわたって公的な生活において著名な大学人
であった。そして同時に権力への回廊への道も知っていた。また自分
の報告書を一般の人に歓迎させる方法も知っていた。しかし、現実の
政治的経験はきわめて少なかったし、政治活動は殆んどなかった。ま
た、彼の性格は横柄であり、多くの政治家が彼を嫌い遠ざけようと-し
ていた。そういうわけで、自身の提案を大臣や高官たちが実施に移し、
あるいはその後の軌道にのせ'るのに対処しなければならなかった状況
に関連せしめるのに失敗した。事実、彼は自身の普遍的援助計画を彼
の提案した新社会保障省の少なからざる活動としていたが、この事態
は彼の生前には生まれなかった。そして勧告の詳細にも、またきわめ
て非実際的なものも多かった。大学の研究者の机上プラン的なものも
あった。例えば、保険原理に対する信頼を獲度におし進めたものとし
て年金の問題もあげられる。自身の貧困を証明し国民扶助を申請する
人以外では、 2年ごとに年金を増辞し、 20年後に初めて完全年金に到
達するという精巧なエスカレーター方式の年金額の増加ということの
政治的実現不可能性を考えたという証拠はないoeの
また、すべての給付に対する科学的な「生存費基礎」に到達しよう
-56-
イギリス社会保障の形成(I)
とする彼の企ては政治的に思慮のあるものではなかった。彼は「扶助
は保険給付よりもなにか望ましくないものであるという感じをいだか
せるものでなければならない。そうでなければ被保険者は保険料を支
払ってもなんら利益がないことになる」¢3)と主張したo Lかし、そのた
めには彼の給付率は国民扶助の経常的な水準であるものに強固に結び
つかねばならないことを理解しなかった。両者は生存費概念によって
解決されるであろうという考えは、ことに家賃の問題の解決なしには坐
く不明瞭であった。しかも、そうしたなかで国民扶助を受けるものは
将来なくなるであろうと計算していた。それは大きな誤算であった。
彼の提案した社会保障省が生まれた1966年に、国民扶助を受ける人が
多数いたという事実は原初の計画における構造的弱一郎こついての十分
な評釈であった。また、社会保障計画の将来の発展は彼がかって委員
長であっが失業保険埠定委員会に似た」独立機関によって監督される
というのが彼の考えであった。この委員会はそれが作用する絶対的に
堅固な財政原理の枠組みをもっているためにのみ成功したのである0.4
このことは計画からは全く兄のがされていた。したがって、その発展
は政治と財政の短期の難局にほんろうされることとなった。
ところで、社会保障運営のべヴァリジの経験は失業保険の分野のみ
であったということは彼の計画にも大きな影響を与えていた。という
のは彼の計画がみたすべきであった社会的ニードの主要なすべての形
態は失業のニードについての変形としてのみ見て、これを穣得の欠如と
して過大な単純化をし、ある前提のもとに社会保障を将来に向っても
所得の保障一本でみるという方向へ彼の精神の理論的な気質をむけて
いった。それは物事を簡略化し明確化する上で役立ったが、社会保障
の前進と複雑化の前には時代遅れの感をいだかしめるものであった。
労働者の疾病は以前の時代の疾病で働さえないこと、賃金をえられない
-57-
イギリス社会保障の形成(I)
こと、それゆえに単に所得の保障が必要という公式は必ずしも妥当し
ない時代になっていた。それゆえ、対処さるべきニードは失業のそれ
と同じであると仮定することは現在では合理的ではありえない。寡婦
と老齢を同じ分析のなかにもちこむ企てはとくに不自然であった。ベ
ヴァリジは、 (a)子供をもつ寡婦について、働く余裕のない人に対して
は完全な年金を与え、もし、彼女が正規の仕事についているならば年
金の必要がないものとして取扱い、 (b)最低年金受給年齢またはそれ以
前に引退したものに、彼らが労働を続けているならば得るであろうよ
りも保険数理的により価値のある年金を与えるという矛盾におち入っ
た。他方において、イギリスの人口学的な状態は老齢において出来る
かぎり長く働くことを奨励されるべきことを求めていた。老齢年金の
旧制度はこれよりよかったのである.e9
ベヴァリジ計画は両大戦間期に生じた失業救済の分野における展開
の結果として可能となったことは、報告を読めば明らかである。しか
し、個々の点では多くの問題があった。職域年金や雇主の疾病給付に
ついて殆んど考慮しなかった。国家給付を補足するための機関として
の労働組合および友愛組合に非常な考慮を払ったし、両性に対する平
等な取り扱いの原理の支援、児童の権利についての彼の擁護、家庭に
おける婦人の仕事の経済的ならびに社会的価値に関する彼の主張は称
賛に値するものであった。しかし、現実の勧告はそれと調和しないも
のを含んでいた。彼は注釈なしに、-男子と婦人の年金年齢の5年の違
いを受け入れた。そして議会も1908年にその考えを拒否して以釆初め
て夫婦に対する区別を提案し、受け入れられた。それは当時の失業給
付にすべての給付を適合せしめるようにかえるもう一つの結果であっ
た。就労している既婚婦人に対する低額の給付は彼女らの被保険者と
して拠出の免除と結びついていたが、両性の平等・結婚におけるパー
ー58-
イギリス社会保障の形成(I)
トナーシップの展開とは奇妙に対立する基礎のように思われるもC?で
・*i'
ところで、現今と.の比較で非常に重要であり、今日ますますいわれ
ている根本的な問題が残っている。それは1960年代以後、ベヴァリジ
原則からの貴も根本的な離脱の発生にあらわれることとなった。彼は
失われた穣得を均一額の給付でおきかえ、そのための資金調達を均一
額の拠出で企図し、その方式が戦後の社会保障に採用されたが、社会
保障の行き詰まりの批判とともに、 1960年代には報酬比例制に転換せ
ざるを得なかったことである。あきらかに均一額の拠出は所得の少な
い人には過大な負担となり、しかも全体としては資金調達難をもたら
したo Lかし、一面これは均一額の拠出が意図した以上にカバーする
ために利用されたためでもあった。彼の考えによると、 Bl民保健サー
ビス(現実には国民保険基金から援助された)および現在の年金受給
者および新年金の完全な費用を生涯にわたって支払うにはあまりに年
齢をとりすぎている人口に対する譲歩の付加的費用は、チャーチルが
1925年法のもとでとりきめたように、一般の課税からみたされるべき
であった。そういう意味では彼の考えは筋の通ったものであった。そ
ういうわけで、 (もちろん、彼の考えには非現実的な仮定があったが)
後の転換の必要が生じたことについて彼ばかりをせめるわけにはいか
ない。しかし、現実の立案者たちは彼の考えをこえていった。そして
国家年金の資金調達を「成り行き払方式」 (pay as you go system)
を基礎に、 1948年の出発当初から完全な年金額を支払うという政治的
決定がなされたにもかかわらず、ともかくも他の条件にささえられて、
課税からなんら実質的な援助なしに、アトリー政府の全期間にわたっ
て借金せずにやって行けたのであるoeの
しかし、彼の考え方の根本的な問題は他のところにあった。すなわ
-59-
イギリス社会保障の形成(I)
ち、彼は社会保険を国民扶助の対応物としてみたが、他方で申請者の
以前の縁得の水準は国民扶助の関心ではなかったのである。少し長い
がこの点についてワリーの述べるところを引用しておこう。
「彼の其の考えはフラット・レイトのシステムはさもなければ家族の
必要の基礎にもとづいて支払われねばならない国民扶助にかわるもの
であるということであった。このレベルをこえて保険をつけるのを国
家が強制するのを個人的自由の侵害とみたことはかなり明らかであっ
た。 r人の所得の処分は市民の自由の基本的要素である』というのは、
彼の報告からの引用である.社会保険を国民扶坤の正確な対応物とみ
ることにおいて、保険給付は受給者の家賃とともに変動すべきである
という不可解な命題(proposition )に彼は深くつき進んでいった。
ところが、申請者の以前の縁得水準自体は国民扶助にとって関心はな
かった。 したがって彼の対応的な保険給付は所得比例的である(
earnings-related )べきであるという機会がなかった。彼が他の国
の制度がこの基礎の上に成り立っているということを熟知していてさ
えもである。事実、穣得は彼の思考の線にあまりにも無関係であった
ので、 r生存給付』がいかなる穣得のいかなる部分をあらわすか、彼
の報告から発見することは不可能である。彼がこのような関係を確立
するためにえたところの最も近いものは-家族手当の主張を支持す
る-収入がある期間と収入のない期間とのギャップはあらゆる人に
とってできるだけ大きくあるべきだという主張である。しかし、彼が
提案した率は彼が心にいだいていたかもしれないどの程度のギャップ
を作り出そうとしているのかを示す企てはない。そしてそ'れらが全く
通常の賃金をえている多くの労働者にギャップを作り出したであろう
ということはありそうにも思われないCM
(1) Jose Harris, William Beveridge, A Biography, 1977, p. 424.
-60-
イギリス社会保障の形成(I)
(2) Harris, ibid., p. 426.
(3) Ibid., p.383.
(4) Idid., p.378.
(5) Wally, Social Seci∬ity, p. 72.
(6) Harris, ibid., p.424.
(7) A. Bullock, The Life and Times of Ernest Bevin, II, 1940-45,
1967, pp. 226-7.
(8) Ibid., p. 425.ベヴィンの態度は労働組合の下層部分から非難された。
(9) Edited by Maurice Bruce, The Rise of the Welfare State, English Social Policy 1601-1971, 1973, p.242.
Social Security in New Zealand, Report of the Royal Commission
of Inquiry, 1972, p.46.
(ll) Wally, ibid., pp.72-3.
(12)平田冨太郎, F社会保障-その理論と実際-』日本労働協会、昭和49年、
1頁。
Wally, ibid., p.73.
(14) Derek Fraser, The Evolution of the British Welfare State, A History of Social Policy since the Industrial Revolution, 1973,
p.200.
(19 Fraser, ibid., p. 200
Wally, ibid., pp.73-4.
(17) Reported by William Beveridge , Social Insurance and Allied Servi-
ces,前掲訳書、 22頁。
Fraser, ibid., p.201.
Ibid., p. 202.
Wally, ibid., p.74.
¢1) Ibid., p.74.
位2) Ibid., p.74.
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イギリス社会保障の形成(I)
¢3) Reported by Beveridge , Social Insurance and Allied Services ,
前掲訳書、 218真( para 369).
伽 Wally, ibid., p.75.
¢9 Ibid., p.75.
¢ Ibid., pp.75-6.
<27) Ibid., p.77.
鮒Ibid., p.78.
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