コラム5. 謎多きケプラー

平成 27 年 5 月 28 日
千葉大院融合 椎名
「応用光学」コラム その 5
謎多きケプラー
ケプラーの業績は誰もが知るところだが、その生涯には未だに謎が多く、墓すらも分
かっていない。
祖父はこの町の市長までしたという名門だったケプラー家だったが、父は身を持ち崩
し傭兵として暮らしていた。母は居酒屋をやっていた。父は1588年(ケプラー17歳)の
ときを最後に家を出たままになった。また、ケプラーは子供のころの病気がもとで、目
を悪くしてしまった。その一方で幼少の頃に両親と星を眺めたことから天文学への興味
が始まっている。
ケプラーの才能と信仰心を認めた初等学校の先生の薦めもあり、ケプラーはルター派
の牧師になるための上級学校に進学した。学費無料の全寮制の学校での生活は聖書の勉
強がメインではあったが、ユークリッド幾何学には非常な興味を持った。その後さらに、
チュービンゲン大学神学部に進学している。
大学を卒業したケプラーは牧師にはならず、グラーツのギナジウム(中学から高校程
度?)の数学&天文学の教員になった。当時のグラーツの町は宗教的な緊張状態にあっ
た。ケプラーが作った1595年の占星暦は、寒波の襲来とウィーン南部へのトルコ軍の襲
来を当てたので評判となった。著書「宇宙の神秘」では、惑星が5つしかないのは(当
時は水星、金星、火星、木星、土星の5つ)、正多面体が5つしかない(正四面体、正六
面体(立方体)、正八面体、正十二面体、正二十面体)からだというアイデアが述べら
れている。つまり、各惑星の軌道はそれぞれ内接するそれらの正多面体に支えられてい
るというものである。彼は一生このアイデアのこだわった。 グラーツのプロテスタントは弾圧を受けた。ケプラーも一時町から避難したりしてい
る。こうした時期に、ケプラーはティコ・ブラーエの招きを受けた(1600年)。ティコ
は自分の精密で膨大な観測資料をもとに、新しい太陽系の理論の構築を試みていて、優
秀な助手が欲しかった。だが、呼んでみたケプラーは予想以上の頭の良さであった。自
分の資料をケプラーに全部見せると、その成果を全部とられてしまうと恐れ、ティコは
観測資料をなかなか見せなかった。
ティコはやがて死んでしまう(1601年)。ティコの精密で膨大な観測資料はケプラー
のものになった。ケプラーはとくに火星を研究した。ティコも火星の軌道は円に当ては
めにくいことに気がついていた。長年の研究の結果、ケプラーはある日「正解」
平成 27 年 5 月 28 日
千葉大院融合 椎名
「応用光学」コラム その 5
を出したと思った。だが、その軌道は最大で角度で8'(分、1'は1°の1/60の大きさ)の違
いを生じた。ケプラーは楕円を当てはめてみたところぴったりなことに気がついた。ケ
プラーの第1法則(楕円軌道の法則)の発見である。1605年のことであった。ケプラー
は同時に第2法則(面積速度一定の法則)も発見している。これらの書いた「新天文学」
が実際に出版されたのは、資金難やティコの遺族の妨害のため1609年になっていた。
しかし、ケプラーに不幸が見舞う。政情不安になったプラハに天然痘がはやり、妻と
長男を失う(1610年)。おまけに皇帝が変わってしまったため、以後皇帝付数学者とし
ての給料は満足に支払われなくなる。ケプラーは私生活では苦労を重ねている。彼の母
は魔女として告発され、継娘レギーナや娘一人を病気で失っている。
こうした間もケプラーは研究を続け、1618年ケプラーの第三法則(調和の法則)を発
見している(それがかかれた「世界の和声論」は1619年or1620年の出版)。惑星の公転
速度が太陽から遠くなるほど遅い、しかもこのケプラーの第三法則に従って遅くなると
いうことから、ケプラーは惑星の運動は太陽が惑星に力を及ぼし、それが惑星を動かし
ていると考えた。ケプラーは、ガリレオ(イタリア、1564年~1642年)が発見した木星
の衛星も、この法則に従っていることを確かめた。
ケプラーは支払われない皇帝付数学者としての給料を求めてプラハに向かったが、途
中の宿でケプラーは死んでしまった。1630年のことである。ケプラーのお墓は戦乱の中
で破壊され、所在が失われたままになって今日に至っている。
ティコの死には長年疑惑がもたれている。盗まれることを恐れ用心深く秘蔵してい
たという膨大な観測記録をまとめる前に急死したこと、死後の混乱に乗じてケプラーが
その観測記録をすかさず「相続」したこと、1901年に墓を開いて行われた検視で遺体か
ら水銀が検出されたことなどから、ケプラーによる毒殺の可能性も取りざたされてきた
経緯がある。2010年には、デンマーク・チェコ・スウェーデンの科学者たちのチームに
より、死因を究明するため遺体が掘り返された。 生涯で1000個以上もの星を観測し記録したというティコ・ブラーエは、1601年、満54
歳で亡くなった。ケプラーの談によると、10月3日に皇帝の晩餐会に主席していたブラ
ーエは、尿意を感じたものの非礼にあたるためトイレへ立つことを拒み、帰宅したころ
には非常な痛みをともないわずかな量しか排尿することができなくなっていたという。
それから11日後の10月14日に膀胱が破裂して亡くなったと言われていて、当時の医師は
死因を尿路結石としている。1901年に墓を開いて行われた検視で遺体から結石は発見さ
れなかったため、近年ではその死因は尿毒症という説が主流となった。しかし、公式な
記録が残されていないその1901年の検視で、遺体のひげや髪の毛から高濃度の水銀が検
出されていたため、ケプラーにより毒殺されたという説や、デンマーク王クリスチャン
4世の指示で暗殺されたという説も根強く存在する。