“金太郎”こと坂田金時は、 旧坂田郡の人だった?

湖北を駆け回って元気に育った金太郎が、長じて坂田金時を名乗ったというのです。
金太郎伝説があった。
といっても、
そ
れは郷土史に関心を持つ人たちが
坂田で 生 ま れ
育った 金 太 郎
ないかと思えてくる。
た当 初は住 民の大 半が﹁ あの有 名
長浜の金太郎伝説とはこうであ
る。金 太 郎は平 安 時 代 中 期 、近 江
西 黒田 地 区で金 太 郎 伝 説 を 活
かしたまちづくりが始まったのは、
な金太郎サンが?﹂と半信半疑だっ
国坂田郡布勢郷︵現在の長浜市西
1)
番所
(ばんふところ)
と授乳地蔵。金太郎は
ここで育ったとされて
いる 2)
毎年9月に開
催される金太郎相撲大
会(写真は2014年の
大会/長浜市立西黒
田公民館提供)
3)
本
庄町の芦柄神社(明治
初年までは足柄神社)
。
ここにも奉納相撲が伝
わる
語る程 度で、ま ちづく りに着 手し
一 九九八
︵ 平 成 十 ︶年のことだとい
たそうだ。
2
ふ せ
う。もともとこの地には、古くから
も、
じつは金太郎に由来するのでは
マサカリかついだ金太郎サンは、なんと近江出身という説があるのをご存知でしょうか。
足 柄 山 も、足 柄 神 社 も、長 浜にある!
1
長 浜 市 西 黒 田に
﹁ 金 太 郎の里 ﹂が あ る
日本全国知らない人はいないとい
える金太郎サン。﹁気は優しくて力
持ち﹂
のキャラクターは、五月 人 形
あしがらやま
さがみのくに
でもおなじみだ。
しかし金太郎とい
えば足 柄 山 、それは相 模 国つま り
箱 根に近い東 国の伝 説だとばかり
。
いやはや近
思ってきたのだが ……
江の長浜に、金太郎伝説が伝わって
いるとは驚いた。
さっそく﹁金太郎の
里﹂長浜市西黒田を訪ねると、
そこ
には足 柄 神 社があれば、足 柄 山 も
ある。旧 坂田郡で盛んな奉 納 相 撲
おきなが
黒 田 布 勢 町 ︶に 、この地 に 勢 力の
こ
あった古 代 豪 族・息 長 氏 の 一 族 と
いちじょう
して生まれた。布 勢と隣り あ う 小
う ば
一 条には番 所︵ばんふところ︶と呼
ふところ
ばれる地があるが、それは
﹁乳母が
懐 ﹂がなまったもので、金 太 郎はこ
の辺 りで乳 母に育てられたとの言
まつ
い伝えがある。
いまもお地蔵さんが
祀られ、母 乳を授かる授 乳 地 蔵と
して信 仰を集めているのは、そのよ
うな由緒からだという。
れっけ ん じ や ま
てす く す くと育った金 太
こうし
く まおかやま
郎は、熊 岡 山︵ 現 在の熊 岡 神 社 ︶
や
ふなさき
足 柄 山︵ 列 見 寺 山 ︶
で熊 と 相 撲 を
取ったり 、舟 崎︵ 現 在の米 原 市 ︶
の
鯉ヶ池でコイに乗ったり 、動 物たち
か
とかけっこをして遊ぶ怪 童ぶり を
じ
発揮。
やがて青年となり、地元で鍛
冶 仕 事に就 く 。当 時この地では製
鉄 業 が 盛んで、金 太 郎のトレード
マークである
﹁ 赤い肌 ﹂﹁ 金の字の腹
2015 Autumn 10
11 2015 Autumn
金太郎伝説のある西黒田の集落。右の写真は西黒田公民館に建つ金太郎のモニュメント
3
“金太郎”こと坂田金時は、
旧坂田郡の人だった?
金 太 郎 伝 説で 住 民 一 丸 となって まちづく り
と。頼光は付近にただならぬ気配を
﹁ 横 山 ﹂︶がその名の通 り 龍が伏せ
掛け ﹂﹁マサカリ﹂
は、古 代の製 鉄 作
あるようだ。
われど日 本 人にとって永 遠 不 滅で
力持ちの金太郎サン﹂
は、時代は変
う 会 ﹂会 長は語る。﹁ 気は優しくて
えればそうなります﹂
と
﹁きんたろ
で生まれやはったんやで﹄と付け加
のためには親が
﹃金太郎サンはここ
代には誰もが知る伝説にしたい。
そ
﹁ 地 区以外では伝 説はまだまだ
知られていないですが、
子の代、
孫の
が大切と強調する。
未 来に受 け 継 ぎ 、発 展させること
ル大 会 ﹂﹁ きんたろう 転 倒 予 防 教
運 動 会 ﹂﹁ 金 太 郎ソフトバレーボー
太郎﹂
の冠 をつけること。﹁ 金 太 郎
地域で行われるすべての行事に
﹁金
よみがえった。ま ず 手がけたのが、
宝 物であるとして、金 太 郎 伝 説が
あったころ、金太郎はまちづくりの
そんな西 黒田でも 、住 民たちの
意 識から古い歴 史が遠 ざかりつつ
が軒を並べたとされるほどだ。
こんじんやま
お
倉時代にな
ると名剣を打つ鍛冶屋
かる。布勢町の鍛冶屋場庄司は、鎌
か ん じゃ ま し ょ う じ
たら製鉄﹂
に関わる地名が多くみつ
﹁穴伏﹂﹁金神山﹂﹁焼尾﹂
といった
﹁た
やけ
治めた有 力 豪 族は息 長 氏 。その息
黒田はある。古代、
この坂田の地を
たように横 たわり 、その西 麓に西
感 じて、家 臣の渡 辺 綱に探 させる
け 。私たちの地 と伝 説の内 容がよ
け らい
わたなべのつな
業を表すというわけだ。
と、そこにいたのが金 太 郎 。頼 光に
長氏の一大勢力を支えたのは鉄生
金 太 郎は
息 長 氏の子 孫 か
請 われ 、金 太 郎は家 来 として都に
長浜市の南東部にある西黒田地
区は、なるほど金 太 郎 伝 説にふさ
二十 歳 を 過 ぎた金 太 郎に、大 き
ずりょう
かずさのかみ
な転機が訪れる。
受領として上総守
上ることを決心。頼光四天王のひと
みなもとのよりみつ
の任 期 を 終 えた源 頼 光が京の都へ
足柄山の金太郎伝説は、神奈川県
く似ており、
近江は歴史が古く、
都
さかたのきんとき
産であったともいわれ、西黒田の布
かい
わしい古代史を眠らせている。琵琶
から静 岡 県 まで六市 町にまたがっ
にも 近 く 、伝 説 発 祥の地の可 能 性
が りょうざん
り坂田金時となって、
さまざまな退
勢 町から小 一 条 町には
﹁タタレン﹂
どう
戻る途 中 、琵 琶 湖に通 じる黒田 海
湖 と 伊 吹 山の間に、臥 龍 山︵ 通 称
ている。
こうして見ていくと、①の金
して実在したのか。西黒田﹁きんた
も﹂と一目置かれ、イベント開催地
二〇 〇二年には﹁ 第四回 全 国 金
太 郎ファミリーの集い﹂
が長 浜 市西
ろう 会 ﹂
の皆さんは、どこが本 家か
太 郎の出 自や成 長 伝 説が伝わって
黒田で開 催された。
このイベントは
元祖かというのではなく、あくまで
に選ばれた経緯がある。
神奈川県南足柄市から始まり、西
もロマンとして金 太 郎 伝 説 をふる
いるのは、東国の足柄山周辺のほか
黒田地区も同じ伝承地として視察
さと振 興に役 立て、金 太 郎 を 通じ
には長浜だけのようである。
訪問を受けた。
その際、南足柄市の
これ
金 太 郎 伝 説はなぜ全 国に、
ほどまでに多いのか。金太郎は果た
あなぶせ
治に出向いた手柄話は有名だ。
室﹂
などだ。次に
﹁金太郎のさと、
に
しくろだ ここは○○町﹂
という町
名 案 内 板を手づくりして設 置 。そ
して有 志で結 成 した﹁ きんたろう
会﹂
が、伝説普及のための出前講座
に地区内を駆け回った。
全 国 伝 承 地 からみた
長 浜の伝 説
意 外なことに、金 太 郎 伝 説は長
浜のほかにも、全国に数多いのだと
いう。金太郎伝承地は、北は宮城県
て各地の方々と交流し、
この伝説を
参考文献/
「西黒田の金太郎伝説」
( 西黒田公民館きんたろう会
研究部)
、金太郎・山姥伝説地調査グループ編『金太郎伝説─謎
ときと全国の伝承地ガイド』
(2000年刊)
2
方に
﹁坂田を地名にもつのは長浜だ
5
から南は島 根 県 まで、全 国二十カ
しゅてんど う じ
編集者・エッセイスト。京都人も知っていそうで知らない身近
な
“不思議”
を追跡する
『京都の不思議』
『 京都の不思議Ⅱ』を
出版。著書はほかに
『京都語源案内』
『 それは京都ではじまっ
た』
(いずれも光村推古書院)
など。
1)西黒田公民館は1999
年
「金太郎伝説を活かした
まちづくり活動」で「第52
回優良公民館文部大臣表
彰」
を受賞した 2)
この大
看板もまちづくり活動の
一環 3)手づくりの町名
案内板で金太郎伝説をア
ピール
道を足柄山にさしかかったときのこ
3
4)坂田金時が退治したという大男「伊
吹山の弥三郎」の伝説が残る伊吹山
(びわこビジターズビューロー提供)
5)2002年「第4回全国金太郎ファミ
リーの集い」
には全国の伝承地から約
300人の仲間が長浜に集合。歴史ある
獅子舞も披露された
所以上にものぼるそうだ。そして、
やまんば
その伝 承は① 金 太 郎 生 誕 と 怪 童
たん
伝 説 、② 金 太 郎を育てた山 姥の伝
説 、③ 成 人 後の坂田金 時の武 勇 譚
と、大きく三つに分けられる。長浜
はもちろん① 。②は長 野 、新 潟 、宮
城など山 国に伝わり 、なぜか山 姥
おお え やま
が 金 太 郎 を 育てたことになってい
4
2015 Autumn 12
13 2015 Autumn
る。③は大 江 山の酒 呑 童 子 退 治や
伊吹山の弥三郎退治など。
全国に数多くの伝承地があると
はいえ 、本 家 本 元 ともいえる東 国
文・写真●黒田正子
(くろだ・まさこ)
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