終戦 年 万人や 200万人ともいわれている。今号では終戦後、 た が、 ど れ も 厳 し い 寒 さ が 道路の側溝堀りなどを行っ た。 こ こ で 私 は 瓦工場や 昔なじみの友人らも多くい 出 さ れ て き て、 嬉 し く て 船 間が走馬灯の如く頭に描き と 思 う と、 苦 し か っ た 3 年 本当に日本人に帰ったのだ 日、 東 舞 鶴 港 に 接 岸 し た。 日 本 式 の 入 浴 と 畳 の 上 の 夜 は 眠 れ な か っ た。 を 砕 く よ う な も の で、 十 字 に 座 り 白 米 飯 を 食 べ た 時、 付 き ま と っ た。 側 溝 掘 り の ︵つ る は し︶ で 苦 労 し て 一 俺はなんと運が強い事よと 際の凍った土はまるで岩石 日 か か っ て も、 1メ ー ト ル ン チ メ ー ト ル ほ ど。 背 中 は シベリアで何をしたかの取 防 疫、 被 服、 帰 郷 旅 費 受 領、 喜 び を し み じ み 感 じ 取 っ た。 痛 く な り、 手 首 は 利 か な く 日、 懐 か し の 故 里 へ、 軍 調べなどで4日間を過ごし セ な っ た。 し か し こ こ に 集 ま 四 方、 深 さ も せ い ぜ い った連中は徹底的にソ連に 平然と東京音頭や炭鉱節を 歌 を 歌 っ て い た が、 我 々 は の行き帰りに労働歌や革命 の で、 ほ か の 作 業 隊 は 作 業 対する反動分子の集まりな か っ た が、 健 在 で い て く れ て一度も返事を受け取らな そ し て 兄 妹 よ、 シ ベ リ ア に 大歓迎を受けながら東舞鶴 つ、 臨 時 帰 還 列 車 は 市 民 の 目 に 帰 る 故 里 だ。 父、 母 よ、 る の だ ろ う か と 心 に 念 じ つ 隊に狩り出されてから9年 港 を 離 れ た。 の で あ る。 謝しつつ涙の帰省が完った 明 け て 日 朝、 富 士 駅 で の兄妹の元気な出迎えを感 だ が、 私 は 裁 判 官 の 質 問 に イ エ﹂ と 答 え る 者 な ど 様 々 薬剤大尉の使命と、 強制労働 作 業 は 過 酷 を 極 め た が、 作業員同士は比較的穏やか 高らかに歌っていたことは 所 の 分 所 か ら 将 校、 作 業 員 昭 和 年 8 月 日、 満 州 とソ連の国境にほど近い朝 る よ う に し て 乗 せ ら れ、 舞 体 は、 馬 そ り に 投 げ 込 ま れ き場から出された凍った遺 を 漁 り に 出 て、 柵 か ら 外 に て場にじゃが芋の皮か何か のためか炊事場裏のごみ捨 な い。 い た。 悔 い る と こ ろ は 全 く 私の気持ちを爽やかにして 年 を 本 旨 と し て い て 、﹁ 食 事 ら800人が我々の部隊へ 鮮・訓戎で小隊長として警 炭 鉱 ま で の 鉄 道 建 設。 ﹁毛 頭 そ の 気 は な い﹂ と 答 え た。 す ぐ に 私 の 強 制 労 役 所 送 り が 決 ま っ た。 強制労役所では森林伐採 などの重労働が待っていた が 改 善 さ れ、 帰 還 が 早 ま 10 0 0 名 が 編 成 さ れ、 い と 転 属 し て き た。 そ こ か ら 身を乗り出した所を撃たれ ※宮澤善弘師は昭和 が、 隊 員 の た め に で き る 限 る﹂ と の 触 れ 込 み に よ り 入 い雪煙る雪原のかなたに消 た と い う。 確 か に 柵 か ら 乗 宮澤善弘︵故人︶ イ﹂ と い う 者 も あ れ ば ﹁イ 計画のシベリア一大都市建 だ っ た。 し か し そ こ に 共 産 正に反骨そのもので実に痛 寺田英一さん︵ 昭 和 年、 私 は 陸 軍 薬 剤 大尉として満州・興城の興 設、 大 ダ ム 構 築 な ど。 給 与 主義を強調する民主突撃隊 快 で あ っ た。 静岡県富士宮市・大頂寺檀信徒 城第二陸軍病院に派遣され は 非 常 に 悪 く、 粟、 コ ー リ の運動が活気付いてきたの 神奈川県・正観寺 おわ て い た。 8 月 9 日 の ソ 連 軍 ャ ン 等 の お 粥 だ け で、 毎 日 で あ る。 最 も 困 難 な 作 業 を 年 6 月 2 日、 突 然 収 容 銃弾に倒れた仲間 懲罰も悔いなし 満州国侵攻と同時に作戦命 一食分もらえるはずの黒パ 民主的にすすんで行うこと そんな生活が2年半過ぎ 令 に よ り 、鳳 凰 城︵ 錦 州 省 ︶ ンも工場不備の関係でもら 隊 す る も の が 多 か っ た。 し 戒警備に当たっていた私は え て い っ た。 ﹁今 度 は 死 ぬ﹂ に没頭していたところ 日 年6 りを尽くしたという自負が 私は医務室勤務として作 業 現 場 回 り を 命 ぜ ら れ、 降 よいよ帰還が確実なものと 停 戦 の 報 を 受 け、 隊 伍 を 整 月学徒出陣 っても照っても毎日作業所 かし実態はソ連軍が裏で操 な っ た。 2 日 後、 様 々 な 資 年 正 午、 天 皇 自 ら の 停 戦 の 玉 に 出 か け て 診 断、 治 療 を し り、 天 皇 制 打 倒 の も と 共 産 昭和 音 を 拝 し た。 一 同 落 胆 こ の て 回 っ た。 そ こ で は 日 々 慌 一 体 と な り 夜 を 徹 し、 準 備 上 な く、 み な 放 心 状 態 と な 月 に 帰 国。 そ の 後、 神 奈 川 塵に打ち砕かれてしまった の で あ る。 日、 ソ 連 軍 の 進 駐 に よ これより日本に帰還すべ く 鳳 凰 城 へ と 向 か う も、 9 月 あ る 日 は、 鉄 道 建 設 工 事 現 場 で 穴 掘 り 作 業 中、 土 砂 勢 力 扶 植 に 努 め、 毎 日 午 寝 捕 虜 で あ り な が ら、 自 己 の を統括する民主委員は同じ 頭 に 横 付 け と な っ た。 い よ 日 朝、 明 優 丸 が 我 々 を 日本に送るべくナホトカ埠 散 ら さ れ た り、 佃 で 叩 か れ らないといっては焚火を蹴 始 ま っ た。 作 業 成 績 が 上 が ソ連の収容所に入ってか へ、 喜 び の 帰 還 が 始 ま っ た。 らは鉄道線路の側溝掘りが と い う 約 束 も し た。 故郷に帰れたものが届ける て 細 か く 分 け 持 ち、 誰 で も ってハサミで髪や爪を切っ 者の大隊長を務めていた私 た の で は な い。 そ の 時 収 容 も刃向かったり逃亡を企て な い か。 丸 腰 の 者 を、 し か ﹁抑 留 の 実 情 を 多 く の 方 に 平成 本 山 光 明 寺 執 事 長 を 退 任 後、 と し て 寺 門 興 隆 に 努 め、 大 県横須賀市・正観寺の住職 れ、 そ の 時 に は も う 全 身 チ る 〝正 義 派〟 は 弾 圧 さ れ、 じ た。 分後ようやく掘り出さ られ捕虜への道を北へ北へ アノーゼで呼吸も止まって は と 進 む こ と に な る が、 長 文 た。 私 の ほ か に 3、 歳で正念往生 今回は実弟の宮澤正順師 そ れ か ら 日 な ら ず し て、 私 は 作 業 現 場 か ら 召 還 さ れ、 ︵厚 木 市 ・ 西 福 寺 住 職︶ が は、 所 長 に 抗 議 し て 迫 っ た。 さ れ ま し た。 しょうねんおうじょう 崩 れ に ま き 込 ま れ、 2 名 の い よ 乗 船 だ。 一 人 ひ と り 名 翌 年 6 月 の 初 旬、 昼 日 中に所内で一人の日本兵が 伝 え て ほ し い﹂ と、 善 弘 師 年に 生 き 埋 め を 出 し た。 一 人 は をしたり飯の二度食いをし た り も し た。 食 料 の 粗 悪 や 射 殺 さ れ た。 私 は 作 業 現 場 ブ ロ ハ ・ コ マ ン ジ ー ル ︵悪 が戦争体験を綴った著書 ご しん い 出 し、 あ と 一 人 前 を 呼 ば れ た が、 わ ず か な 不 足 な ど も 相 乗 し て、 兵 員 に 出 て い て 留 守 だ っ た が、 人は 玉 隊 長︶ の 裁 判 に か け ら れ 自力で た り し て、 収 容 所 を 威 張 っ 時間も非常に待ち遠しく感 は 極 度 に 疲 れ、 ひ ど い も の 急 い で 駆 け つ け た 時 は、 上 時 に 出 帆、 シ ベ リ ア の 山 々 り 武 装 解 除 さ れ、 貨 車 に 揺 て 歩 い て い た。 そ れ に 反 す 時、 乗 船 完 了 と 同 か ら 倒 れ て い っ た。 次々と懲罰隊へと送り込ま ﹁絆﹂ を 編 集 部 に ご 恵 贈 く れ た。 そ の 波 は 医 務 室 へ も い た だ ろ う か、 一 人 ひ と り だ さ い ま し た の で、 そ こ か そ の 人 は 休 務 者 で、 空 腹 い た。 え て 努 力 す る か ? ⋮ ﹂。﹁ ハ が呼び出され罪状?が読み 分か 人工呼吸をすること 月には雪が粉のように舞 バ タ バ タ と 増 し た。 死 体 置 ら大量の血を流して死んで い た。 急 遽 体 を 温 め な が ら 年 1月、 ソ 連 の キ ウ ダ ソ 23 ら 抜 粋 し 掲 載 し ま し た。 になるが故ここは省略し翌 及 び、 私 も 様 々 な 因 縁 を つ 石 鹸、 煙 草 を 支 給 さ れ、 洗 分。 や っ と 呼 吸 が 回 復 け ら れ、 懲 罰 隊 へ と 送 り 込 ら し、 し ば ら く す る と 意 識 も 懲 罰 隊 の 総 員 約 13 5 名。 た ま ら な く 嬉 し く、 こ れ で 面 後 に 煙 草 を ふ か し た 時 は、 う。 寒 気 が 増 す と、 死 人 も ま れ る こ と に な っ た。 出てきたのでビタカン注射 を 一 筒 打 っ て 事 な き を 得 た。 11 13 85 上 げ ら れ る 。﹁ 心 を 入 れ 替 特にシベリアの冬は厳し 半身を内柵から外にのめり は 次 第 に 小 さ く な っ て い く。 船 中 で 歯 磨 き 粉、 歯 ブ ラ シ、 か っ た。 月 に は 雪 が 降 り、 出 し、 そ の ま ま の 姿 で 頭 か 区 第 八 収 容 所︶ に 収 監 さ れ 収 容 所 で の 主 な 作 業 は、 10 20 あ っ た の だ と 思 う。 突 撃 隊 り出したとはいえ内柵では 10 と、 故 郷 に 近 い も の が 集 ま 17 え て ソ 連 軍 に 投 降 し た。 18 21 15 ホ ー ス ・ ラ ー ゲ ル ︵十 九 地 21 て か ら の こ と を 記 す。 12 15 40 10 15 19 材を貨車に積み込み一路南 20 20 し く 様 々 な こ と が 起 こ っ た。 主 義 を 広 め る た め の も の で 23 20 り今までの必勝の信念は微 た に移駐し病院を開設するこ pick up シベリア抑留。捕虜になった日本兵は、 黒パンや馬鈴薯などのわずかな食事を与えられ、 鉄道建設現場で木材の切り出しや溝掘りなどの強 制労働を強いられた。過酷な環境に一説では34万 人が亡くなったとされる。写真=91年、旧ソ連国 立中央公文書館公開(提供=朝日新聞社) え ぬ 日 が 多 か っ た。 26 と に な っ た。 職 員 と 患 者 が ︶ 21 抑 留 正確な人数の特定は難しいが、 第 二 次 世 界 大 戦 終 戦 後、 ソ 連 軍 に よ っ て 武 装 解 除 さ れ た 日 本 軍 捕 虜 ら は シ ベ リ ア、 モ ン ゴル、北朝鮮などに移送隔離され、長期にわたり強制労働を強いられた。戦後の混乱期で 劣悪な環境、 苛酷な労働 必ず日本へ いしずえ 6 礎 70 過酷な抑留生活を 送 っ た 体 験 談 を 紹 介 す る 。 65 10 平和への 97 25 平成27年9月1日(火) 浄土宗新聞 第3種郵便物認可 第583号 [5]
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