来な い 船 極寒 の 中 で 失 っ た 弟

終戦
年
引き揚げ
凄惨、
苦難 故郷への道のり
戦前から多くの民間人が朝鮮や旧満州、樺太などに移り住み、戦時中は多くの軍人
が出兵しました。 その数、軍人、民間人合わせて660万人といわれます。 昭和 年
に終戦を迎え、多くの日本人が引き揚げ船で帰還しましたが、すべての財産を失い、
身の危険を感じながらの道のりには幾多の困難が立ちはだかっていました。 今号では本
紙に寄せられた、引き揚げに関する体験談を紹介します。
も無い状態でただひたすら
水 筒 も 割 れ て 水 も 無 く、 靴
と 食 べ 物 も 無 く、 ガ ラ ス の
な っ た。 行 程 も 半 ば 過 ぎ る
その声もやがて聞こえなく
からかんかん照りで暑かっ
病 か と 思 う が、 こ の 日 は 朝
が 見 え た ︶。 お そ ら く 日 射
倒 れ た ︵三 途 の 川 の 渡 し 場
も最後の峠で意識を失って
希 望 が あ っ た か ら だ。
の は、 日 本 に 帰 れ る と い う
苦行に耐えることができた
た ち も い る だ ろ う が、 こ の
亡くなった方や脱落した人
収容所は私たちグループ
の 他 に も、 後 か ら 着 い た グ
た。 栄 養 不 足 や 疲 れ、 水 分
昼 間 で も 歩 く よ う に な っ た。 不 足 が 原 因 か も し れ な い。
ループも含め総勢4∼50
歩 い た。 こ の 頃 に な る と、
どうして意識が戻ったのか
0人ほどが収容されていた
捕 ま え た け れ ば ど う ぞ、 と
開 き 直 っ た 気 持 ち で あ っ た。 定 か で は な い が、 私 は 生 き
父 は 年 前 に 逝 っ た。 思
え ば 敗 戦 後、 苦 労 の 連 続 で
帰 国 の 途 に つ い た。
都合で約2週間待たされて
か と 思 う。 汽 車 や 連 絡 船 の
7 月 下 旬、 私 た ち の グ ル
ープは板門店近くの米軍キ
朝 鮮 の 人 も 見 て 見 ぬ ふ り か、 返 っ て 歩 い て い た。
むしろ食べ物などで助けら
れ て い た と 私 は 思 う。
日 目 に、 お
ャ ン プ に 収 容 さ れ た。 平 壌
を発ってから
かげさまで我が家は1人の
Tさんの子どもは残念な
が ら 亡 く な っ た。 亡 骸 を 背
負 っ て 歩 い た。 留 ま る こ と
落 伍 者 も な く 無 事 到 着 し た。 る こ と も な か っ た。 悔 や ま
身 も 心 も 疲 れ 果 て、 楽 に す
な ど で き な い、 私 た ち に 人
感 謝、 感 謝 で あ る。 途 中 で
れ て な ら な い。
を 助 け る 余 裕 な ど な い。 私
迎えの船はすぐには来な
か っ た。 待 た さ れ て い る 間
な ら な か っ た。
大阪府
安藤知明さん︵ ︶
来ない船 極寒の中で失った弟
始 め は、 昼 の 明 る い う ち
は 森 や 林 に 隠 れ、 夜 陰 に ま
っ た り し た。
列では私たちの前に後ろだ
子 を、 手 に 荷 物 を 持 ち、 行
茨城県
塚田一夫さん︵ ︶
引き揚げの企ては翌年の
7 月 頃 決 行 さ れ た。 町 内 ご
の 方 が 大 き か っ た。
脱落すれば死 朝鮮から日本へ
終戦を迎えたのは 歳で
小 学 校 ︵国 民 学 校︶ 5 年 生
で あ っ た と 記 憶 し て い る。
で あ っ た と 思 う 。﹁ 憧 れ の
・豊 原 で 生 ま れ た。 戦 争 が
明 か り で 歩 い た こ と も あ る。 そ の 日 の 未 明 に、 私 は 樺 太
ぎ れ て ひ た す ら 歩 い た。 月
終わったのは昭和
人︶
日 本 人 住 宅 に 住 ん で い た。
日 本 に 帰 れ る、 帰 ろ う﹂ こ
ズ ッ ク ︵運 動 靴︶ の ゴ ム 底
連 に 占 拠 さ れ た 樺 太 か ら、
∼
家族は両親と子ども5人
れ が、 我 ら、 皆 の 希 望 で あ
は粗悪だからすぐ底が抜け
とのグループ︵
︵ 母 の お 腹 に 1 人 ︶、 私 は
り 願 い だ っ た。 し か し、 凄
る。 川 原 の 砂 利 が 足 に 食 い
昭 和 年 月 8 日、 太 平
洋戦争が始まったちょうど
長 男 で あ っ た。 父 は 自 動 車
惨、 苦 行 が 待 っ て い る と は
家、 家 財 な ど を 没 収 さ れ、
し た 知 り 合 い の 背 に、 お 腹
のよちよち歩きの妹は同行
決 行 し た。 我 が 家 で 一 番 下
が 多 く 多 忙 を 極 め て い た が、
私たちのグループの出発
終 戦 に よ り 現 地 の 日 本 人 は、 は、 示 し 合 わ せ 通 り 夜 間 に
た。 母 が 薬 草 を 石 で 叩 い て、
ちに足の神経が麻痺してき
落 は 死 を 意 味 す る。 そ の う
ナ の ヌ ー の 群 れ し か り、 脱
ほ う が も っ と 怖 い。 サ バ ン
が、 グ ル ー プ か ら 脱 落 す る
年。 ソ
け 付 け ず、 餓 死 の よ う な 状
は で き な か っ た。 母 乳 も 受
け 回 っ た が、 見 つ け る こ と
ス タ ー ト を 切 っ た。
れ と な り、 ま た ゼ ロ か ら の
北海道の親戚へと離ればな
に、 当 時 1歳 の 弟 ・ 晴 文 は
態 で 幼 い 命 を 落 と し た。
弟・晴文の墓が建ったの
厳しい冬の寒さの中で風邪
引 き 揚 げ 船 に 乗 れ た の は、 は、 昭 和 年。 引 き 揚 げ て
を こ じ ら せ、 高 熱 が 続 い た。 昭 和 年 5 月 だ っ た。 私 は
来 て か ら、 8 年 の 歳 月 が 経
夢 に も 思 わ な か っ た。
数カ所の民家に分散して収
の大きい母と我ら子どもた
父は医者を求めて市内を駆
容 さ れ た。 敗 北 感 と 不 安 感
ち は、 シ ャ ツ と ズ ボ ン、 肩
が 家 と ほ ぼ 同 じ で あ っ た が、 そ れ も 底 を つ い て き た。 体
と 焦 燥 感 を 抱 き な が ら。
力の無い幼い子が飢えで命
そ の 汁 で 湿 布 を し て く れ た。
を 落 と し て い っ た。 Tさ ん
には小さなリュックサック
幼い子と消息が分からない
女性は身を守るため頭を
丸 坊 主 に し た り、 顔 を 墨 で
は 価 値 が な く な っ た し、
夫を待つ若いお母さんも同
におんぶされていた子が
と 水 筒 ︵ガ ラ ス 製︶ を 持 っ
かに残った着物が食料に変
﹁ト ウ モ ロ コ シ﹂ と、 ま だ
汚 し た り す る 人 も い た。 し
り や、 ロ シ ア 軍 将 校 の 家 に、 行 し た。 取 り 残 さ れ て 1人
わ っ た。 私 も 市 場 で 新 聞 売
で 暮 ら す 不 安、 苦 渋 の 決 断
ま わ ら ぬ 口 で ね だ っ て い た。
衣服はトウモロコシや瓜
な ど の 食 べ 物 に 替 わ っ た が、
薪 割 り に 行 っ た。 報 酬 は 黒
を し た の だ ろ う。 名 前 は 確
た。 グ ル ー プ 内 の 構 成 は 我
パ ン︵ 酸 っ ぱ い 軍 隊 の パ
か も 生 活 は 楽 で は な い。 円
日本人は出ていかなければ
︵軍 用 車︶ 会 社 に 勤 め て お
第2次世界大戦終戦70周年の追悼法要について
込む足裏は赤く腫れて痛い
り、 戦 況 に よ り 出 張 や 転 勤
当 時 は 北 朝 鮮、 平 壌 市 内 の
50
て い っ た 財 産 は、 こ の 戦 争
い た。 そ う や っ て 作 り 上 げ
強 力 な ﹁助 っ 人﹂ と な っ て
た 商 売 は 軌 道 に 乗 り、 父 は
私 が 生 ま れ た。 祖 父 が 始 め
渡 り、 そ こ で 父 が 生 ま れ、
父が新天地を求めて樺太に
ま で の 引 き 揚 げ だ っ た。 祖
た。 ほ と ん ど 着 の 身 着 の ま
もう5歳5カ月となってい
で あ る。
語り継ごうと決意した次第
にも子どもたちや孫たちに
起 こ し、 風 化 さ せ な い た め
改めて戦争の惨めさを思い
年 に 当 た る と 気 付 か さ れ、
覚 え て い る。 今 年 が 終 戦
が涙ぐんでいたのを今でも
つ 供 養 が で き た﹂ と、 両 親
っ て い た 。﹁ こ れ で 、 ひ と
弟 の 命 を 失 い、 全 財 産 を
失 い、 我 が 家 は 天 国 か ら 地
記 事 を 今 号 で 掲 載 す る と、
4 月 号 で 、 戦 争 孤 児・ 上
原 健 保 さ ん の イ ン タ ビュー
で 全 て 失 う こ と に な っ た。
獄へ突き落されたも同然で
頼 っ た の は 親 戚。 祖 父 母 は
申し上 げます。
の掲 載 と な り ま す。 お詫 び
あ っ た 。 函 館 に 上 陸 す る と 、 告 知 し ま し た が、 6 月 号 で
岐 阜 の 親 戚 へ、 両 親 と 私 は
読者の皆さまから戦争に関する体験談を募集しています。
実際に体験された話、体験者から語り継がれた話、また、平和に向けてこ
んな活動をしているなど、広く情報をお寄せください。8月号まで順次掲
載を予定しています。恒久平和に向けた紙面づくりにご協力ください。
73
20
80
よ ほ ど 空 腹 だ っ た ろ う に、
30
記
◆総本山知恩院 7 月15日 午前10時から 法然上人御堂
「総本山知恩院終戦70年戦没者追悼法要」 盂蘭盆会法要併修
◆大本山増上寺 8 月15日 午前11時45分から 大殿
「平和祈願会」
【お便りの送付先】
〒105-0011 東京都港区芝公園 4 - 7 - 4 明照会館 3 階
浄土宗新聞 「戦争体験談」 係 TEL:03(3436)3700
20
80
か Tさ ん だ。 Tさ ん は 背 に
22
2
いしずえ
ン︶ 1斤。 な ぜ か 小 さ い 弟
戦争体験談 募集中
12
平和への
70
礎
10
20
朝鮮や満州から博多港に引き揚げてきた女性や子ども
たち=1945年撮影(写真提供・朝日新聞社)。終戦後、
浦賀、舞鶴、佐世保、下関など18地域に地方引揚援護
局
(出張所含む)
が設置され、多くの日本人が帰還した。
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浄土宗では、第 2 次世界大戦終戦70周年を迎え、戦没者の方々に改
めて追悼の誠をささげるとともに、戦後の復興と世界が平和になるよ
う努力を続けてこられた方々に感謝の意を表明いたします。
各ご寺院には、法然上人の平和を願う心をもって、戦没者の方々の
追善回向法要をはじめ、世界の平和を祈念して梵鐘の鳴鐘にご協力を
いただいております。
なお、総本山知恩院(京都)
、大本山増上寺(東京)では下記の日程
で法要をお勤めになりますので、ご参列ください。 浄 土 宗
70
16
平成27年5月1日(金)
浄土宗新聞
第3種郵便物認可
第579号
[5]