2. 菅原神社遺跡 2 ∼ 4 区 1.遺跡の位置 遺跡は八幡西区堀川町の標高 4 ∼ 8 mの低丘陵 の 東 斜 面 に あ り ま す。 こ こ は 洞 海 湾 の 最 も 奥 に 位 置 し 、 こ の 低 丘 陵 上 に は、 江 戸 時 代 に 作 ら れ た 菅 原 神 社 が あ り ま す。 丘 陵 の 東 に は J R 筑 豊 本 線 と 堀川があり、北には鹿児島本線が東西に走ってい ます。 2.発見された遺構と遺物 古 墳 時 代 (6 世 紀 ) の 竪 穴 住 居 が 8 軒 、 1 2 世 紀 の 竪 穴 式 建 物 が 1 基、16 世 紀 ∼ 江 戸 時 代 初 期 の 井 戸 が 1 基 、用途不明の穴が4基発見さ れ ま し た 。 竪穴住居は3区の小さな谷となる丘陵斜面にあ 菅原神社遺跡全景 ( 南から) り 、平 面 形 は方形ですが、低い部分は壁が な く「 コ 」 字 形 の プ ラ ン を し て い ま す。 カ マ ド が 壁 に 接 し て 作 ら れ て い ま す。 屋 根 を 支 え る 柱 は 4 本 で す 。 1 号 住 居 の 中 で は、 鍛 冶 炉 が カ マ ド の 反 対 側 の 壁 に 接 し て 作 ら れ て い て、 小 型 の 鉄 製 品 の 製 作 や 修 理 を 行 っ て い たことが考えられます。 竪 穴 式 建 物 と い う の は、 丘 陵 の 等 高 線 に 平 行 す る よ う に 竪 穴 を 掘 り、 床 面 を 平 坦 に 造 成 し 、 そ こ に 柱 を 立 て て 建 物 を 建 て た 遺 構 で す。 4 区 の 竪 穴 式 建 物 は、 竪 穴 の 長 さ 5.4 m 以 上 、 幅 4 . 2 m 以 上 で、 内 部 に 大 き な 柱 穴 が あ り ま す。 普 通 の 平 地 住 居 で は な く、 作 業 場 の よ う な 施 設 か も し れ 3区1号竪穴住居全景 ( 南から) ません。 1区からは弥生時代中期の土器も若干量出土し ていて、弥生時代の遺構も存在したことが考えら れ ま す。 奈 良 時 代 か ら 平 安 時 代 前 期 の 土 師 器 や 須 恵 器 、 緑 釉 陶 器、 平 瓦、 製 塩 土 器 が 出 土 し て い ることから、古代の公的な施設が存在した可能性 もあります。 と く に 、 花 紋 の あ る 平 瓦 は、 八 幡 西 区 永 犬 丸 に あ る 北 浦 廃 寺、 園 田 遺 跡、 八 反 田 遺 跡 、 松 本 遺 跡 、 永 犬 丸 遺 跡、 芦 屋 町 の 浜 口 廃 寺 か ら 出 土 し て 3区の竪穴住居群 ( 南から) い ま す 。 浜 口 廃 寺 は 古 代 の 島 門 駅 で、 北 浦 廃 寺 は 夜 久 駅 と す る説もあります。 また、平安時代後期の土器も多く出土している ことから、この時期にも集落が存在したと思われ ま す 。 さ ら に、16 世 紀 代 の 土 器 群、 な か で も 山 口 県 の 周 防 国 で 作 ら れ た 瓦 質 の 足 鍋 ・ す り 鉢 や、 李 氏 朝 鮮 時 代 の 陶 器、 中 国 の 明 の 時 代 の 陶 磁 器 、 京 都 系 土 師 器 も 出 土 し て い て、 戦 国 大 名 の 大 内 氏 に 依 存 し て い た 麻 生 氏 一 族 の 拠 点、 あ る い は 山 城 が 存 在 し た ことが考えられます。 4区全景 ( 東から)
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