後期難波宮 朝堂院西方地区の調査

後期難波宮 朝堂院西方地区の調査
難波宮 NW15-1 次調査 現地説明会資料 大阪市教育委員会 (公財)大阪市博物館協会 大阪文化財研究所 写真 7 調査区全景(東から)
-43,900
用 語 解 説
GN
-43,800
-43,700
後期難波宮
(こうきなにわのみや)
神亀 3(726)年から聖武天皇によって造営が始められた宮殿。前
期難波宮と同じ中心軸の上に建てられている。大極殿や朝堂院な
ど中心部の建物は瓦葺き、礎石建ちが採用されている。長岡遷都
(784年)
に伴って廃された。
内裏
(だいり)
宮殿における天皇の居住する空間。後期難波宮においては、大
極殿院と分離してその後方にあり、外郭は回廊によって区画され
る。東西174.5m、南北規模は未確認。
大極殿
(だいごくでん)
大極殿は、即位など国家の重要儀式に際して天皇が御した建物
で、後期難波宮の大極殿は基壇を有する礎石建物である。大極殿
の位置する区画を大極殿院といい、東西106.2m、南北80.5mの規
模である。
朝堂院
(ちょうどういん)
さまざまな朝政や儀式が行われた場で、中央の朝庭とそれを取
り囲む朝堂からなり、臣下が居した。後期難波宮では八朝堂が配
され、周囲には築地塀などが巡る。南には五間門が開いていた。
645
(大化 1 )
年 650
(白雉 1 )
年 652
(白雉 3 )
年 686
(朱鳥 1 )
年 726
(神亀 3 )
年 732
(天平 4 )
年 744
(天平16)
年 756
(天平勝宝 8 )
年
793
(延暦12)
年 難波宮年表
孝徳天皇難波遷都
前期難波宮造営開始
前期難波宮完成
前期難波宮焼亡
聖武天皇難波宮
(後期)
再建開始
この頃難波宮
(後期)
完成
難波宮一時的に皇都に
孝謙天皇難波宮東南新宮に入る
難波宮廃止
後期難波宮 朝堂院西方地区の調査
難波宮 NW15 - 1 次調査現地説明会資料
平成 28 年 12 月 3 日
-43,600
-43,500
-43,400
内裏
Y-43,300
【後期難波宮古段階】
X-146,400
-146,500
-146,600
大極殿院
五間門区画
-146,700
朝堂院
調査地
-146,800
0
100
200m
1:4,000
図 3 後期難波宮全体図
公益財団法人大阪市博物館協会 大阪文化財研究所
〒540-0006 大阪市中央区法円坂 1 - 1 -35 アネックスパル法円坂 6 F
TEL.06-6943-6833 H.P.(http//www.occpa.jp)
発掘調査地全景(南から)
Y-43,700
Y-43,690
Y-43,680
Y-43,850
Y-43,670
Y-43,700
Y-43,650
Y-43,600
100次
北
調査を行ってきました。この場所は後期難波宮の朝堂院西方
84-30次・1 区
不明遺構 1
かんが
-146,600
五間門
99-23次
(役所)
と
「五間門
に当ります。調査の結果、後期難波宮の官衙
X-146,740
85-10次
塀1
86-28次・2 区
後期難波宮は、732
(天平 4 )年頃には完成したとされてい
だいり
X-146,550
五間門区画
ちょうどういん
区画」
と呼ばれる施設の一部を発見しました
(図 1 )
。
Y-43,750
X-146,730
大阪市教育委員会と
(公財)大阪市博物館協会大阪文化財研
究所は
(独)国立病院機構大阪医療センター内で難波宮の発掘
Y-43,800
北
-146,650
五間門
だいごくでん
ます。40年以上にわたる調査によって、内裏、大極殿、朝堂
85-22次・2 区
X-146,750
-146,700
塀2
院など中心部分の構造はほぼ解明されていますが、周辺に展
85-22次・3区
建物 4
開する官衙は発見されていませんでした。今回の調査では初
86-24東
調査地
めてこれを捉えました。
建物 2
-146,750
27次
建物 3
「五間門区画」は宮の西方にある区画で、 東側に格式高い
98次
X-146,760
C区谷
SD703
SB703
122次
SB702
SK701
97次
93- 4・12次
-146,800
ごけんもん
五間門が 2 棟設けられていることからこの名があります。今
回、南側の区画施設を発見し、そのおおよその規模がわかっ
てきました。
前期難波宮の官衙
E・F区谷
建物 1
0
10
龍造寺谷
20m
TP+18m前後の範囲
1:300
-146,850
06- 2 次
90- 7 次
TP+16m前後の範囲
図 1 後期難波宮の遺構
0
50
100m
1:1,500
写真 4 塀 1(東から)
図 2 五間門区画と南方の官衙
五間門区画南側の区画施設
五間門は宮城正門など重要な門に用いられるので、この区画
しゅつぎょ
も天皇が出御するような重要施設と考えられます。平安宮では、
ぶらくいん
朝堂院の西に饗宴施設である豊楽院が設けられているので、同
様な施設とする見方もあります。
これまでの調査で、区画東側は南北約200mにわたって塀が
続くことがわかっていました。今回発見の塀 1(写真 4 )
は区画
南側の塀で、東南の隅から約120m以上続いていることになり
ます。これによって、五間門区画は南北約200mで、東西にも
120m以上の規模をもつことが明らかになりました
(図 2 )
。
不明遺構 1 は、東西12m、南北 6 m、深さ0.7mの長方形の
写真 1 建物 1(南から)
写真 2 建物 2(東から)
実務を行う役所
(曹司)
の発見
穴で、丁寧に埋められています
(写真 5 )
。瓦葺の建物を建てる
ときの地盤改良
(地業)
か貯水施設かともみられますが、その機
能はまだわかっていません。
塀 2 の南側で 4 棟の掘立柱建物を発見しました。建物 1 は
写真 5 不明遺構 1(北西から)
東西 2 間
(4.4m)
、南北 3 間
(7.1m)以上の建物です。建物 2
は南北 2 間
(5.2m)
、 東西 6 間
(18.1m)の建物です
(写真 1 ・
2)
。建物 1 ・ 2 は塀 2 と等距離をおいて建てられ、これら
難波宮以外の遺構 は同時期とみられます。建物 3 ・ 4 は調査区外に続き、詳細
難波宮が造られる前の時代
( 5 ~ 7 世紀)
の柱穴約30個を発
は不明ですが、建物 1 ・ 2 の下に重なり、より古い時期に属
見しました。
します
(図 1 )
。
難波宮の廃止後、中世には、当地は畠として利用されてい
建物 1 ・ 2 は、塀 2 の中にコンパクトに配置され、建物の
ました。大坂城があった豊臣から徳川の時代
(16世紀末~19
規模も朝堂に比べると小型で簡素であることから、実務的な
世紀)には、大名屋敷や町屋が置かれ、住居のほか、深い穴
そうじ
に当るものと考えられます。
役所
(曹司)
蔵や土採り穴が数多く掘られました。
塀 1 と塀 2 は8.8mの間隔で建てられ、 その間は宮内道路
近代には旧日本陸軍の歩兵37連隊の本部となります。調査
とみられます
(写真 3 )
。この道路を東にたどると、朝堂院西
区内は訓練などが行われる営庭に当りますが、完全なかたち
築地のほぼ中央に到達します
(図 3 )
。このことは、曹司が朝
で残る防空壕や石組溝が注目されます
(写真 6 )
。
堂院などと同じ設計で作られたこと、その年代が後期
(奈良
時代)
であることを示しています。
写真 3 塀 1 と塀 2(西から)
写真 6 旧陸軍の防空壕(東から)