1津 (伊勢) 2 名古屋 (尾張) 3 二本松*(陸奥) 4 佐川 (播磨) 5 岡山 (備前) 6 栗賀 (播磨) 7 郡山 (大和) 8 姫路 (播磨) 9 小室 (近江) 10 島原 (肥前) 11 淀 (山城) 12 府中 (対馬) 13 高田 (越後) 14 佐伯 (豊後) 15 津軽 (陸奥) 16 佐賀 (肥前) な か の し ま く ら や し き あ と 中 之 島 蔵 屋 敷 跡 発 掘 調 査( N X 1 3 - 1 次 ) 現 地 説 明 会 資 料 17 加島(肥前) 18 大村(肥前) 19 唐津(肥前) 20 松山(備中) 21 福山(備後) 22 人吉(肥後) 23 臼杵(豊後) 24 成羽(備中) 25 檜原(備中) 26 津山(美作) 27 姫路(播磨) 28 金沢(加賀) 29 松山 (伊予) 30 谷村 (甲斐) 31 竹田 (豊後) 32 府内 (豊後) 33 岡山 (備前) 34 平戸 (肥前) 35 大洲 (伊予) 36 秋月 (筑前) 37 東連寺(筑前) 38 福岡 (筑前) 39 鳥取 (因幡) 40 広島 (安芸) 41 久留米(筑前) 42 小田原(相模) 43 高松 (讃岐) 44 五嶋(肥前) 45 森 (豊後) 46 足守(備中) 47 明石(播磨) 48 川辺(備中) 49 林田(播磨) 50 岩国(周防) 51 村上(越後) 52 章野(播磨) 53 柳川(筑後) 2014年 5 月10日 (土) 大阪市教育委員会・ (公財) 大阪市博物館協会 大阪文化財研究所 調査地 ★ ■ 調査の概要 54 高松(讃岐) 55 徳島(阿波) 56 丸亀(讃岐) 57 宇土(肥後) 58 熊本(肥後) 59 杵築(豊後) 60 今治(伊予) 61 宍粟(播磨) 62 中津(豊後) 63 小倉(豊前) 江戸時代、物資を集積・販売するために各藩は大坂をはじめとする諸都市に 「蔵屋敷」 を設けました。 大坂では中之島を中心に、19世紀には120ほどの蔵屋敷が建ち並んでいたことが知られています。 今年 1 月から中之島 6 丁目において開始した発掘調査では、 江戸時代の土蔵跡 4 棟、 井戸など、 図 1 蔵屋敷の分布と調査地の位置 ( 『新修大阪市史』 第 3 巻所収図に加筆) 蔵屋敷に関わる遺構や遺物が見つかりました。江戸時代大坂の経済的繁栄を支えた蔵屋敷の構造を 考える上で、重要な成果といえます。 建物⑥ ↑至 堂島川 ■ 明らかになったこと す。周辺には多くの蔵屋敷が建ち並んでいました (図 1 ) 。 井戸 建物⑦ 明治時代以降の井戸 北 今回の発掘調査地 (約2,100㎡) は、北を堂島川、南を土佐堀川に囲まれた中之島の西部に位置しま 64 和歌山(紀伊) 65 竹田 (豊後) 66 松江 (出雲) 67 蓮池 (肥前) 68 萩 (長門) 69 尼崎 (摂津) 70 田谷 (伊予) 71 飫肥 (日向) 72 浜田 (石見) 73 鹿児島(薩摩) 74 小杉 (伊予) 75 佐土原(日向) 76 延岡 (日向) 77日出 (豊後) 78 三田 (摂津) 79 宇和島(伊予) 80 清末 (長門) 81 長府 (長門) 82 高鍋 (日向) 83 津和野(石見) 84 三次 (備後) 85 立石 (豊後) 調査区は東西の二区に分かれ、現在調査中の東調査区では、基礎に石積みを用いた土蔵と考えら れる建物跡 2 棟 (蔵④・⑤) や、 その他の建物⑥・⑦、 井戸 2 基 (うち 1 基は明治時代以降) などが見つかっ ています (図 2 、写真 2 ) 。 すでに調査を終了して埋め戻した西調査区では、やはり土蔵とみられる建物跡 4 棟が見つかりま 蔵① 蔵② した (蔵①~④、図 2 、写真 1 ) 。石積みは 3 ~ 4 段あって堅牢に築かれており (写真 3 ) 、内側には床 蔵③ を支えるための礎石が据えられていましたが、その多くは抜き取られて痕跡だけが残っていました。 これらのうち、蔵②~④は江戸時代に建てられたもので、蔵①は明治時代以降に建てられたと考え られます。 土蔵の幅は、石積みの外側で計測すると、いずれも8.2メートルと規格性があります。長さがわか る土蔵は蔵③・④のみですが、34.7メートルと長大です。壁の位置を復元すると、幅 4 間 (7.8メートル、 通路 蔵⑤ 蔵④ 1 間≒1.95メートルとして算出) 、長さ17.5間 (≒34.1メートル) と考えられ、床面積は約266平方メー 通路 トルであったと想定できます。土蔵の内部は、間仕切りによって 3 つないし 4 つの空間に分割され ていたようです。また、蔵③・④は長辺を接して 2 棟がセットで築かれており、その東西には通路 が設けられていました。 蔵②~⑤は18世紀の後半頃に建設され、その後、改築や蔵①の増築などを経ながら、1960年代ま で使われ続けました。1960年頃の図面からは、蔵①~④の周囲を取り囲むように建物が配されてい たことがわかります (図 3 ) 。また、図 3 には蔵⑤が描かれておらず、近代のある時期に取り壊され たようです。 西調査区← (現在は埋め戻しています) →東調査区 図 2 今回の調査で見つかった幕末頃の遺構 10m 0 1:300 北 ■ 調査結果から考えられること 今回の調査で検出した蔵屋敷は、文献史料などから18世紀末~19世紀前半には出羽国矢島を領し た生駒氏 ( 8 千石) 、幕末には佐賀藩の支藩である鹿島藩・鍋島氏 ( 2 万石) によって使われていたと推 測されます。ただし、藩名を記した文字資料など、直接的にそのことを証明する資料は出土してい 西調査区 ません。 今回の発掘調査により、江戸時代には敷地の中に少なくとも 4 棟の土蔵が所狭しと建ち並んでい 東調査区 たことがわかります。蔵の横には通路が設けられ、堂島川から荷揚げされた物資を効率的に蔵へと 搬入できる配置をとっています。しかし、そのいっぽうで、 「御殿」に相当するような居住用の建物 は今回の調査範囲では見つかっていません。 こうした土地利用のあり方から、今回調査した蔵屋敷では、蔵がそのほとんどの面積を占め、屋 敷としての役割が希薄な配置であった可能性があります。ひとくちに蔵屋敷といっても、広島藩・ 佐賀藩・高松藩・熊本藩といった西国の雄藩とは異なった構造をもっていたのかもしれません。 今回の発掘調査により、蔵屋敷の具体的な構造の一例を知ることができました。中之島周辺は 「天 下の台所」 と称された近世大坂の繁栄を象徴する地域であり、今後、その具体的な姿を復元する上で、 重要な手がかりとなります。 【 調 査 地 の 変 遷 】 時期 和暦 (西暦) 元和 5 年 (1619) 江戸 時代 【 用 語 解 説 】 できごと ■ 土蔵:倉庫のうち、防火などの目的で外壁を土壁と 淀屋常安による中之島開 発完了→蔵屋敷としての 利用が本格化 して漆喰などで仕上げるもの。基礎を石積みとするなど、 明暦元年 (1655) 絵図に 「松平出羽」 (松江 藩) の名が見える 寛政 9 年 (1797) 絵図に 「矢島藩」の名が見 える (下図A) 文久 3 年 (1863) 絵図に 「鹿島藩」の名が見 える (下図B) 明治維新により、 蔵屋敷は民間倉庫会 社の手に渡る。 その後、 いくつかの倉 近代 庫会社の手を経るが、 建物の基礎部分 は踏襲される。 現代 ど ぞう 昭和20年 (1945) 爆風による軽微な被害は あったようだが、 空襲に よる建物の焼失は免れて 終戦をむかえる。 1960年代 倉庫の取り壊し A.増修大坂指掌図 (1797年) 50m 0 1:1,000 図 2 と 3 の対応 蔵①=14号倉庫 蔵⑤:該当なし 蔵②=15号倉庫 建物⑥=事務所 蔵③=16号倉庫 建物⑦=20号倉庫 蔵④=18号倉庫 堅牢な構造をとるものが多い。 い こま ■ 生駒氏:もと讃岐高松を領した生駒氏は、家中不取 締りを理由に出羽国・矢島 (現在の秋田県由利本荘市矢 島町)に遷された。矢島藩の石高は 8 千石で、藩庁は矢 図 3 1960年頃の調査地 (平面図提供:三井倉庫株式会社) 写真 1 西調査区の建物跡 (南東から) 島陣屋に置かれた。 か しまはん ■ 鹿島藩:肥前国・鹿島 (現在の佐賀県鹿島市) 周辺を領 した佐賀藩の支藩。本藩である佐賀藩の分家筋にあたる 鍋島氏を藩主とする。石高は 2 万石で、藩庁は常広城、 のち鹿島城に置かれた。 B.改正増補国宝大阪全図 (1863年) ※A・Bともに 『大阪建設史夜話・大阪古地図集成』 大阪都市協会、1980年より 写真 2 東調査区の建物跡 (南から) 写真 3 蔵③の石積み基礎 (西から)
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