「負ける練習」

「負ける練習」
牧師
山口 繁
主は、
「わたしの恵みはあなたに十分である。というのは、わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言
われたのです。ですから、私はキリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですか
ら、私はキリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ私は強い
からです。
(2コリント人への手紙12章9‐10節)
中学校の体育に武道が取り入れられ、指導をする先生方が怪我を防ぐため必死に柔道を
学んでおられるとのことです。そう言えば私の中学生の時は体育の時間に柔道がありまし
たし、それとは別に少し柔道をやったことがあります。まず受身をしっかりやらされた記
憶があります。受身は、手や足などをうまく使って投げられた時の衝撃を軽くするのです。
一通り受身が出来るようになると、実際に投げられながら受身を習得していくのです。有
段者のような上手な人は奇麗な技で投げてくれますから、受身をするとあまり痛みを感じ
ませんが、下手な人に投げられると受身しようにもできない時があります。中学生の授業
ではそれが一番危険かな、と素人ながら思います。
柔道はいつも投げる側だけでなく、投げられる側になること、つまり勝つことだけでな
く負けることも想定しているように思います。これは柔道だけではなく他の武道にも共通
することであり、また人生にも同じことが言えます。誰でも勝つこと成功することを願う
のですが、現実は失敗すること負けることの方が多いのです。負ける練習をしなくても負
けるときが誰にでもあります。その負けを素直に受け入れることが負ける練習なのです。
負け癖がつくのもいけませんが、勝つことしか知らない人は一回の負けが致命傷になって
しまうほど脆いのです。勝ったときの嬉しさも体験すべきですし、負けたときの悔しさの
体験、またそこから這い上がる体験はことのほか貴重です。負けること失敗することは自
分の弱さを知ることにつながり、その弱い部分を何かでカバーする努力につながります。
聖書はその弱さを誇ろうとも教えています。
最近小さなグループで、私の牧師としての失敗談を話す機会を得ております。今は笑っ
て話せることですが、その時はどんなに悔しく悲しかったか分かりません。話しながら思
うことは、あの失敗を通して訓練されたこと、大切なことを教えられたということです。
今はあの時々のことさえ感謝することが出来るような気がします。