古代吉備のできごと 西暦 1世紀 2世紀 3世紀 できごと 古代吉備国 特種器台型土器 特種壷型土器 吉備に弥生墳丘墓 (楯築遺跡) 3世紀後 吉備に前方後方墳出 半 現(都月坂一号墳) 天皇時代 7代孝霊 8代孝元 (57年) ●古代吉備国 吉備津彦が首長として吉備王国を支 配していた 孝霊天皇の子(異母弟)として, 孝霊天皇2年: ヒコイサセリヒコ(別名:大吉備 天皇の子(異母弟)として,ヒコイサセリヒ 津彦命)とワカヒコタケキビツヒコ コと稚武彦が生まれる が生まれる ●3世紀末:天孫族の「神武東征」にて 8年滞在。吉備は多大な支援をした。 10代崇神 崇神天皇10年 垂仁 武埴安彦・吾田媛の乱 邪馬台国消滅 崇神天皇60年 出雲振根暗殺 稚武彦命の孫である 吉備武彦が日本武尊 の東征に同行 日本書紀 9代開化 (60年) 大和に前方後円墳 (箸墓古墳) 4世紀 古事記 「神武東征」途中に,吉備に8年 滞在 吉備に前方後円墳出 現(宮山古墳) 3世紀末 高見さんの吉備国イメージ 景行 成務 350 仲哀 神功皇后 応神 崇神天皇 兄弟2人は協力して氷河(加古 ●四道将軍の一人として,イサセリヒコ 川)のほとりで戦勝祈願をして, 吉備に軍進め,平定 を西海に派遣決定 ●武埴安彦・吾田媛の乱をヒコイサセリ ヒコが平定 ●四道将軍派遣 ●ヤマト軍と吉備軍激戦,イサセリヒコ が吉備の吉備津彦を征服 吉備津彦は反ヤマト徹底抗戦派である ●四道将軍帰還し,平定を天皇に報告 ●武淳河別が出雲振根を暗殺 吉備津彦は関与していない 崇神天皇10年9月 四道将軍の一人として,吉備津彦命を西 海に派遣決定 崇神天皇10年 武埴安彦・吾田媛の乱をヒコイサセリヒコ が平定 崇神天皇10年11月 四道将軍派遣 崇神天皇10年12月 四道将軍帰還し,平定を天皇に報告 吉備津彦は吉備に定着 崇神天皇60年 吉備津彦,武淳河別が出雲振根を暗殺 ●ヤマト王権の吉備支配体制 徹底抗戦した吉備津彦を「鬼」として 吉備の始祖としての歴史を抹殺。 代わりに,穏健派であった稚武彦命(記 ではワカヒコタケキビツヒコミコト)を祖と した。 ●吉備臣は大和と協調関係を続ける 稚武彦命が吉備臣の祖となる 大吉備津彦命は吉備上道臣の 祖,ワカヒコタケキビツヒコノミコ トは吉備下道臣と笠臣の祖とな る 西暦 できごと 天皇時代 4世紀 末 5世紀 吉備の経済発展 造山古墳や,両宮山 古墳などの巨大古墳 の造営 応神 九州系倭王・倭五王 吉備反乱伝承 6世紀 高見さんの吉備国イメージ ●吉備在地の御友別に吉備の支配権が認められ,「縣」となる, 仁徳 (1)吉備下道臣前津屋が天皇殺害の呪詛を行った と密告 履中,反正 (2)吉備上道臣田狭が妻・稚媛を天皇に奪われたこ 允恭,安康 ●吉備の再びの強大化に脅威を感じたヤマト王権は,様々な とで新羅に入ろうとした 雄略 謀略と挑発(3つの反乱事件)をしかけ,ヤマト軍を派遣して,吉 (3)星川王子クーデター事件 備を支完全に配下に組み込んだ。砂鉄資源もヤマト王権に奪 これを契機に,大和軍を派遣 清寧,飯豊 われた 顕宗,仁賢 武烈 磐井の乱 ●吉備では9つの国造。吉備では加夜・下道・上道が3大国造 継体 でこうもり塚古墳など巨大横穴式古墳を築造するなど,支配下 安閑,宣化 にありながら半独立の状態を保っていた。 国造制,部民制,屯倉 欽明 ●しかし,吉備に置かれた2大屯倉によって,鉄資源の奪取, 制を施行し,支配体制 出雲へのおさえ(以上,白猪屯倉),漁業資源や製塩の奪取と を強化 瀬戸内海の制海・航海権奪取(以上,児島屯倉)により,完全に 敏達,用明 大和支配下に置かれるようになった。 崇峻,推古 7世紀 645:大化の改新 663:白村江の敗戦 672:壬申の乱 古事記,日本書紀 舒明 皇極,孝徳 斉明 ●吉備国の壊滅 天智,弘文 吉備太宰の設置 天武 備前・備中・備後3国に分割・評・里制で朝廷の直接支配 持統,文武 8世紀 律令制の確立 元明,元正 ●記紀により,吉備津彦の歴史を抹殺・改竄し,あらたに天孫 系として位置づけ,吉備支配の道具とした。 710:平城京遷都 聖武 古事記・日本書紀編纂 (略) ●吉備真備と和気清麻呂の登場 道鏡事件 9世紀 794:平安時代 桓武 (略) ●律令制の矛盾により瀬戸内海に海賊横行。これを取り締まる ため吉備の力を必要とし,吉備津彦を復権(吉備津神社の位階 を上げた)。また,御霊信仰の拡がりとともに,吉備津彦の怨霊 を鎮めるため吉備津神社を建立し,位階を上げていった) これにより吉備津彦命は吉備の総守護神として,」ますます吉 備の人々の信仰を受けるようになった。
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