子どもとの学びや生活が始まる今だからこそ戒めにし合いたい毛涯章平

平成27年6月8日(月)職員朝会
配布資料
子どもとの学びや生活が始まる今だからこそ戒めにし合いたい毛涯章平先生の十戒
九
子どもに素直にあやまれる教師であれ。過ちは、こちらに
もある。
「過ちは、こちらにもある」そのように冷静に考えられる人は教師でなくても、親でも大人でも
子どもでもえらいと思います。
教師は、自分よりずいぶん年下の子どもを相手にします。人生の先輩、年配者である教師が、子
どもは教育を得て人格の完成を目指す立場だと考えれば、子どもはもともと人格的に不完全な存在
になります。そう思えば、素直にあやまることはしないと思います。その背景には不完全な子ども
が常に悪いという考え方があります。教師は、子どもの誤りを見いだし、それを正す正義の味方で
す。子どもは、教師に不完全なところを指摘され、場合によっては、教師に自分の不完全なところ
を指摘してもらったことに感謝したり、あやまったりする立場になります。はたして、子どもと教
師との関係とはそのようなものであると考えていいのでしょうか。
毛涯章平先生は、子どもとは本当にそういう立場なのだろうかと疑問を感じたに違いありません。
十戒に入れたのは、大人としての自分は子どもはそういう立場ではないと頭ではわかっているけれ
ど、年長者の自分がつい気を抜くと、常に子どもを目下の者と見てしまうことが真摯に分かってい
たからだと思います。でなければ、十戒に入れるはずがありません。
自戒の七を思い出してください。「教師の力以上に、子どもは伸びない。精進をおこたるな。」
この自戒を忘れると、「過ちは、こちらにもある」と考えられなくなるのかもしれません。
「あやまる」という行為にも奥深さがあります。それは、あやまるというのはあやまる側が相手
に押しつけることではないということです。あやまられている側が、相手があやまっていると受け
止めることできて、ようやくあやまるは成り立ちます。素直にあやまっても、過ちがこちらにある
と認めても、相手がそう受け止めるか、相手に真摯に伝わるかどうか。その難しさが分かるから自
戒に入れたのではないでしょうか。本当に難しいと思います。
教師だけでなく、保護者に置き換えても、「子どもに素直にあやまれる親であれ。過ちは、こち
らにもある」ことは有り得ると思います。「過ちは、こちらにもある」をどのように自覚できるの
か。その自覚をもとに「どのように素直にあやまれる」のか。実際に、子どもたちにどのような場
面で心からあやまったことがあるか思い出して考えてみたいものです。
長野市立清野小学校長
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岡本
力