解答例 記事の筆者は、本来「危険なこと」を意味する「やばい」という語が、近年若者を中心 に「素晴らしい」という意味でも頻繁に用いられていることを紹介している。そして、言 葉の流動性を念頭に置きながらも、素晴らしさや感動を全て「やばい」という一語で表わ してしまう傾向を危惧している。では、そうした傾向のどこが危ういのか。それについて 考えてみたい。 まず、一口に感動といっても、そこには衝撃的な感動(「心を打たれる」)や押し寄せる ような感動(「胸に迫る」)、心の奥からの感動(「琴線に触れる」)など、多種多様な様態が ある。しかし、あらゆる感動を「やばい」の一語で片付けていると、自分の感情を表現す る力が弱まるだけではなく、次第に自らの感受性そのものが単純化してしまうだろう。 なぜなら、人間にとって言葉とは、コミュニケーションの手段である以前に、世界を認 識するための手段だからである。例えば、一面銀世界の中で生活しているアラスカのイヌ イット族は、 「白」という色を非常に多くの言葉に分けて認識しているという。また、詩人 や哲学者の紡ぐ言葉は、それを読む私たちにこの世界の多様な見方をもたらしてくれる。 このように、人間にとって言葉は世界を認識するための枠組みである。そして、自分の感 覚や感情も世界の一部である以上、感受性もまた多様な言葉を通してはじめて豊かさを増 すのである。それゆえ、反対に感覚や感情を表現する言葉が単純化してしまうと、自らの 感受性も単純化してしまうのだ。 人々の感受性が単純化していく社会では文化は発展しない。そこでは、作家が人情の機 微や世界の深層を表現しようとすればするほど、それは難解だとして人々から敬遠されて しまう。逆に、 「泣ける」作品といった単純で分かりやすいものが、市場の論理を背景とし て社会に氾濫することになる。このように、言葉の単純化は感受性の単純化へとつながり、 ひいては文化の停滞や退廃を招くのである。 確かに、言葉は常に変化・生成するものである。一方で、人間は言葉を高度化させるこ とによって文化を創造し発展させてきた。それゆえ、若者言葉であっても、新しく生まれ た言葉が世界に対する私たちの認識の目盛りを細かくするのか、それとも粗くするのかを 慎重に見極めなければならない。
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