小鹿野お塚古墳のある般若というところ

小鹿野お塚古墳のある般若というところ
ウィキペディアでは、「お塚古墳 」について、次のように説明されている。
お塚古墳(おつかこふん)は、埼玉県小鹿野町にある古墳である。県道27号線の西側、長
留川左岸の段丘上に所在する。伝説では、「羊太夫の墓」といわれており、墳頂に「お塚
権現」と称する小祠が祀られている。1992年(平成4年)に墳丘の測量調査が行われたが、そ
の結果から上円下方墳である可能性が指摘されている。上円下方墳とした場合、墳丘の大
きさは下方部一辺13メートル・高さ1メートル、上円部径7メートル・高さ1.5メートルであ
る。埴輪は確認されておらず、また上円下方墳という形態からも7世紀後半の築造と推定
されている。1959年(昭和34年)8月24日付けで町指定史跡に指定された。
また、埼玉県鳩ケ谷市の豊房という人のホームページ「古墳横穴及同時代遺跡探訪記録
帳」にも「羊大夫の墓」のことが紹介されていて、次のように説明されている。
先週見学した上円下方墳とされるお塚古墳は、群馬県南部の伝説の豪族である羊太夫の墓
であると言い伝えられている。これと道路を挟んだ東側に隣接して羊太夫の館があったと
も言われていることは先週の記事で紹介したが、その場所の写真を撮っていなかったの
で、撮ってきた。
写真右手奥の少し小高くなった畑地から奥の一帯がその伝承地。
朝廷から討伐を受けた後、この地に落ち延びて暮らすようになったそうだ。
左端に見えるのが先週見学してきた羊太夫の墓とされるお塚古墳。
また、「埼群古墳館」というホームページの「小鹿野町お塚古墳」というページには、
「本古墳は、小鹿野高校北方近くの長留川左岸台地上にあります。」と書かれていて、そ
の場所の詳しい地図が掲載されている。
【アクセス】秩父鉄道影森駅から徒歩・自転車6.9km、駐車場無し、見学自由 ★地図★
【周辺古墳】■小鹿野町古墳地図■
その地図と上記の画像をたよりに、現地に行ってお塚古墳の確認とそれがある般若という
ところがどのようなところかを自分の眼で確かめ、この地域が羊太夫が住むにふさわしい
場所であるのかどうかを考えてみた。
小鹿野町の町営バスの「長若中学校前」という停留所で降りて、100メートルほど小鹿
野方面に歩いていくと、畑にである。この写真はそこから撮った写真である。ちょっと見
にくいが、この写真の左端に茂みがあり、鳥居らしきものが見える。どうもそれが「お塚
古墳」らしい。その茂みのクローズアップ写真を撮る。
その茂みに近づいてみよう。
冒頭に紹介したように、 墳丘の大きさは下方部一辺13メートル・高さ1メートル、上円部
径7メートル・高さ1.5メートルの誠に小さい古墳だが、これが羊太夫の墓らしい。
墳頂には「お塚権現」と称する小さな祠が祀られている。
はたしてこれが本当に羊太夫の墓なのかどう
か、それを考えるために近くに日本武神社とい
うのがあるのを思い出し、その神社に行ってみ
た。その神社は 小鹿野町の町営バスの「長若中
学校前」の次の停留所「十六様」にある。
御大典記念社殿改築記念碑
この記念碑には、次のように書かれている。すなわち、
『 日本武神社は、人皇第十二代景行天皇の御代第二皇子日本武尊が東夷平定後、御凱旋
の砌(みぎり)、当地を御通過あそばされた。その際、里人は御神徳を欽仰し、産土神と
して保食神並びに日本武尊を奉祀したのが起源となっている。当神社は天台修験に関係し
た時代が長く、別當般若院所蔵の大般若経の守護神が十六善神であるところから、大般若
十六善神社(十六様)と呼ばれ、長い間地区民の心の拠り所として崇敬されて来た。
明治元年神佛分離令により社名も日本武神社と改め、旧長若村の村社として毎年春盛大に
例大祭がとり行われて来た。御祭礼には小鹿野町指定無形民俗文化財の御神楽の奉納、県
指定文化財の小鹿野歌舞伎等が上演され、由緒ある神社に彩りを添えると共に老若男女の
大きな楽しみになっていた。
しかしながら、元の社殿は百有余年の歳月を経て腐朽著しく、また狭小のため長年にわた
り改築が検討されて来た。今回、県道改修のため神楽殿の移転に伴い、平成の御大典記念
事業として、社殿及び神楽殿その他の移築造営が計画されるや神社の改築資金を元に旧村
内、村外の氏子崇敬者各位の御賛同を得て多額の浄財が奉納され、平成5年9月より4年6ヶ
月を経て、宿願の社殿、神楽殿、社務所の造営を始め、境内の整備を充実することが出来
た。 』・・・と。
なお、私は、 小鹿野町で発行している「広報おがの」であらかじめ日本武神社のことを調
べあげていたが、それには次のように説明している。すなわち、
『 日本武神社は、江戸時代に「大般若十六善神社」と. いい、大般若経の守護神である
十六善神を祀っ.ていました。明治時代の神仏分離に伴い、同じ. 敷地にあった修験系の大
規模な寺院であった. 別当般若院の管理を離れ、十六善神の画像、. 大般若経六百巻を始め
仏教系のものは、約200m西側にある「横山観音堂」に移しました。そして、日本武尊
が配祀されていたところから日本武神社と改称されましたが、地元の人々は、. 今でも親
しみを込めて「十六 様」と呼んでいます。』・・・と。
日本武神社の境内社のいちばん大きな社が諏訪神社である。
字が薄くて見にくいが、たしかに諏訪と書いてある。このことは日本武神社と諏訪大社が
かって昔は深いつながりを持っていたことを意味しており、注目に値する。そういう知見
も現地をつぶさに見たお陰である。
現地に来た甲斐があったと満足しながら、日本武神社を後に、日本武神社と深い関係のあ
る「横山観音堂」を見に行くことにした。
場所もよく判らないし、近所の人に聞いてみたら、「今は無住の小さなお堂ですよ」と言
いながら道順を教えてくれた。
「横山観音堂」は、地元の人に聞いたとおり今は確かに朽ち果てたしがないお堂である
が、昔はそれなりに立派なお寺だったようで、小さな井戸もあるし、その雰囲気はある。
この高台から見ると、日本武神社が見え、さらに秩父の霊山・武甲山がよく見える。
この写真の右側には般若の里が広がっているが、この般若の里は、古代、住み良いところ
であった感じがする。そんな想いを持ちながら、日本武神社の裏に戻る。「横山観音堂」
から5∼6分のところだ。
日本武神社の裏の道を県道にである角に庚申塔があって、この写真では小さな字が見えな
いが、もともとこの道が32番札所「般若山法性寺」の巡礼道であったことが判る。縁起
によればこの寺の開祖は行基と伝えられているだが、以来、多くの信者がこの道を通った
ことであろう。
以上縷々述べてきたが、この般若というところは、古代、交通の要所であったと思われる
ので、その点につき、秩父における古代の道について説明しておきたい。私には、「三峰
神社の歴史的考察」という論文があって、その第7章第1節に「 古代における交通要所
としての秩父」というテーマで書いているので、その中からこの般若という場所と関係の
ある部分を抜き書きしておきたい。そこでは次のように述べた。すなわち、
『 江戸時代、秩父から甲斐へ出るには雁坂峠、信濃へ出るには十文字峠が使われた。中
山道と甲州街道のバイパスにあたる雁坂峠道と、中山道の裏街道にあたる十文字峠道は、
秩父市大滝の栃本集落の先で分岐する。雁坂峠道は、戦国時代に武田信玄の手のものが、
秩父市大滝の鉱産資源を採掘するのに頻繁に行き交った歴史を持つ。江戸時代になると、
甲斐善光寺 や身延山への参詣や、生活物資を甲斐で売買するために出る人々、また甲斐
から三峰山への参詣のために入ってくる人々が多数、通行した。十文字峠道もまた、信仰
と生活・交易の道としてにぎわった。雁坂峠同様、信濃善光寺や秩父三峰山は相互に多く
の参詣者が行き来したし、米のとれない秩父 に、佐久の米がこの峠を越えて運ばれた。
白泰山への道は、昔からの十文字峠道である。途中におかれている一里観音、二里観音の
石仏は、栃本から長野県南佐久郡川上村梓山に至るまで、約一里ごとに建てられている六
基の観音像の一部であり、往古より山を越える旅人を見守ってきたので ある。』
『 野辺山から東北に向かう黒曜石の道は次のとおりである。まず、野辺山のすぐ東側に
隣接して長野県川上村がある。そこは黒曜石遺跡の多いところで、ここが東北に向かう黒
曜石の道の出発地と考えてもいいぐらいのところだ。川上村から秩父山地は十文字峠に至
る。十文字峠から長尾根を下れば、秩父だし、尾根筋を北に向かえば、長野県は浅間山の
南麓佐久に至る。』
『 野辺山は、実は、黒曜石の加工をもっぱら行ったところではあるが、八ヶ岳周辺の中
心聚落は、諏訪であり、諏訪を中心として縄文文化が栄え、かの有名は縄文のビーナスを
残すのである。野辺山は、多分、諏訪の支配下にあったのであろう。』
『 諏訪を中心としたミシャグチ信仰は、胞衣(えな)信仰とか石棒信仰と言っていいも
のだが、実は、一つの文化圏を形成していて、上述したように富士眉月弧(ふじびげつ
こ)文化圏と呼ばれたりしている。多摩川の沿川と相模川の沿川がその範囲に入る。
日本は、古来、旧石器時代から、西日本と東日本に二つの大きな文化拠点があった。片や
サヌカイ トによる石器文化でその大拠点は奈良であったし、片や黒曜石による石器文化
でその文化圏は富士眉月弧(ふじびげつこ)文化圏である。この文化圏の最大の人口集積
地は、多摩川流域である。』
『 要は、縄文時代に交易を商売とする商人がいたということである。だとすれば、その
縄文商人の手によおって、秩父と富士眉月弧(ふじびげつこ)文化圏の最大の人 口集積
地・多摩川流域との交易が行われたと考えても何の不思議もない。私は、縄文時代に秩父
と多摩川流域との交易が行われていたと思う。そのルートは、秩父から雲取山経由で多摩
川の上流に下りる「山の道」である。』・・・と。
秩父市大滝の栃本というところは十文字峠道と雁坂峠道との分岐点で、縄文時代から連綿
と利用されて来たというのが私の持論であるが、栃本には、戦国時代から江戸時代には関
所が設けられていた。又、秩父市大滝の三峰というところは雲取山道へのスタート地点で
あるが、この雲取山道も縄文時代から連綿と利用されて来たのである。
ところで、大和朝廷が関東を支配下に入れるのは6世紀であり、知知父彦命が秩父神社を
創建したのは、6世紀以降である。そして、その頃の秩父地方の古墳を調べれば判ること
だが、知知父彦命が埋葬された古墳は国神塚(くにかみつか)古墳らしいということであ
る。国神塚古墳跡は、蟹沢川・荒川合流点近くの「国神神社」北方の台地上にある。その
詳しい場所については、埼玉県鳩ケ谷市の豊房という人のホームページ「古墳横穴及同時
代遺跡探訪記録帳」に掲載されているので、それをここに紹介しておきたい。豊房という
人の地図に示されているように、国神塚古墳跡は上の平古墳群の一つで真ん中の赤印がそ
うである。その場所は、荒川にも近く、南側に荒川の支川である日野沢が流れ、北側には
宝登山が聳(そび)えている。現在、この国神というところを県道44号線(秩父児玉
線)が通っていて、立派な道路が宝登山の西山麓を北上して群馬県に続いている。すなわ
ち、県道44号線(秩父児玉線)は、秩父から北上し、この国神の交差点で左折、日野沢
沿いに少し行くと根古屋というところに出る。根古屋の橋を渡って、左折すれば秩父観音
巡りの最後の 札所34番水潜寺 に行くが、右折すると宝登山の西山麓を北上するのであ
る。そして、途中で長
からやってくる県道13号線に合流するが、県道13号線を北上
すれば、「多胡の碑」と「羊大夫の伝説」で有名な多胡を経て高崎まで行くことができ
る。以上のことを考えあわせると、知知父彦命の墓であろうと言われている国神塚古墳跡
のあるこの地・皆野町の国神は、古来、交通の要所であったことが判るであろう。
上述したように、秩父市大滝も、古来、交通の要所であり、小鹿野町般若というところは
皆野町国神と秩父市大滝の中間にある。正に般若も正に交通の要所なのである。そういう
ところに羊太夫は居を構えたが、般若が交通の要所であることのお陰で、羊太夫は和同開
珎の黒谷と自由に行き来ができたし、諏訪との繋がりを持つこともできたのである。
般若というところの良さは、交通条件だけではない。例えば「横山観音堂」がそうである
ように、般若の高台からは秩父の霊山・武甲山が見える。
これらのことから、私は、般若というところは羊太夫が居を構えるにふさわしい良き地で
あったと考えるのである。