嫌韓の論法 - 韓国人研究者フォーラム

キムキュンジュ
金 慶 珠 著『嫌韓の論法』(ベスト新書 446)
書評
横浜市立大学 国際総合科学部 教授
鞠重鎬(クックジョンホ)
物書きを行う際、気を付けなければならないことが、感情に流されないことだろう。す
なわち、冷静な頭脳と暖かい心(Cool head, but Warm Heart)が求められる。私の気持ち
を素直に言うと、荒れた感情を露わにぶつける議論に参加したくもない。ネガティブ思考
の嫌韓論の書物も、あまり読む気にはならない。冷静な頭脳でもなければ、暖かい心もな
キムキュンジュ
いからだ。金 慶 珠 氏の『嫌韓の論法』に言うように、消耗戦に終わることが目に見えるし
(p.173)、後味悪いことも十分予想される。『嫌韓の論法』を読んだお蔭で、嫌韓論の一端
を間接的に経験することができたし、著者の感情コントロールや我慢強さにも、接するこ
とができたような気がする。
嫌韓論が流行ることは、社会思想史家の白井聡氏の言う、日本社会の「劣化」や「内輪
の論理」の通用を反映しているとも言えよう。白井氏が言うように、“日本は、戦後を通し
て「大人」になり損ねてしまった(朝日新聞 2014 年 12 月 20 日付)”ことで、嫌韓論で騒
いでいるかも知れない。評者としては、騒いで「いた」かも知れない、としたい気分だ。
著者は、嫌韓論には、
「多様性の尊重」と「普遍的価値観の追求」が見失われており(p.26)、
その流行りを日本の国内現象と見ている。嫌韓論の議論の構図が、相手不在という根本的
な欠陥を抱えているためである(p.65)。
周知の通り、論法には、大きく分けて、「演繹法」と「帰納法」がある。与えられたとこ
ろで熱心に生きる、という「一所懸命」を重んじる日本は、社会全体を貫く理念などには、
あまり関心を向ける性向はなく、自分が置かれている具体性に関心が高い。論法において
も、具体的な事例から一般に通用するものを導き出そうとする帰納法に馴染む。裏を返す
と、人間の尊厳、平等、博愛のような一般理念に基づき、特殊性を説明する、という演繹
法には馴染まない社会だ。
嫌韓論は、「歪んだ帰納法」の論法に過ぎない、と言えよう。嫌韓論の大半が、自分が経
験したことや自分が接した人(例えば、「過去に出会った嫌な韓国人の姿(p.111)」を取り
上げ、自分の感情や価値判断を一般化しようとするからだ。著者が指摘するように、「特殊
事例の一般化」のレトリックを駆使する論法であり(p.121)、
「過剰な一般化」である(p.122)。
韓国人(または韓国社会)を俎上に載せ、内輪の価値観に取られ、
「それもあるか?」、
「こ
れもあるよ!」という相槌が打たれると、そこだけの韓国論の一般化が出来上がる。内輪
だけの「あるある」合戦である。そこには、著者が言うに、「日本自身の姿を相対的に見る
視点が失われている(p.113)」。
「自分を基準に相手を見る。こうした態度こそが、日韓のミ
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スコミュニケーションの最たる原因(p.113)」である。
責任も負わず、コンプレックスのはけ口として嫌韓論を言う。「人間の尊厳を尊重する」
という理念に照らすと、何も残らない嫌韓論である。つまり、「人間尊重」の理念の下、演
繹法に立って議論すると、成り立たない論法が嫌韓論である。人間尊重の前提がないから
だ。人間も感情の動物である以上、その感情を共にしたい気持ちがある。友達クラブなら
ともかく、世界に向けて、「わが日本では、嫌韓論がベストセラーですよ!」と言えるので
あれば、それ自体が恥ずかしいことである。世界の目からすると、
「誰かをいじめることが、
ベストセラーになるなんて、子供ごっこみたいで幼稚だね」と捉えられるからだ。
『嫌韓の論法』では、「分離・排除」、「戦いと攻撃」、「嘘と捏造」、「優劣と興亡」という
話題を取り上げ、それぞれの論法に対し、著者特有の達弁を交え評価していくが、結局は
最初に言及したように、消耗戦でしかなく疲れてしまう。嫌韓論にちなんで日本社会が抱
える問題を指摘すると、
「ヤジの暴走にブレーキが機能していない状況(p.66)」ということ
である。著者は、感情的な決め付けや知的拒否感の結果、日本社会が失った最大の損失は、
「余裕」だという(p.74)。冷静に相手の立場を考える「余裕」がなくなることは、「大人」
になる条件が揃わないことでもある。
著者は、論理学の概念も取り入れながら、議論のすり替えがあってはならないことをも
指摘する。例えば、相手の論点をわざとずらすことで、議論がかみ合わないようにする「論
点のすり替え(カカシ論法)」が挙げられる(p.104)。朝日新聞は 2014 年 8 月 5 日、従軍慰
安婦の募集に強制があった、と言った吉田清治氏の証言記事を取り消した。しかし、その
取り消しが、従軍慰安婦の募集に強制がなかった、ということを意味するのではない。著
者は、その「カカシ(仮の人物)論法」の概念を用いて、朝日新聞の証言記事の取り消し
が、まるで、従軍慰安婦の募集に強制がなかった、という議論にすり替わったりすること
を警戒する。
ちまた
すり替えの論法が通ることは、 巷 の日本人や日本社会が、自ら判断しようとせず、声高
な誰かの主張に乗っかろうとする習性が、身に着いている証左かも知れない。政治家は、
か
か
し
声高に案山子 論法を使いがちだが、それに付和雷同することも問題であろう。日本が、戦
後の社会としての明確な合意や、政治の面において総括ができていないだけに、日本自身
の発言の揺れやブレが表れる(p.116)。日本国民は、その揺れやブレに翻弄されてきたかも
知れない。
著者が言うように、「日韓が互いの存在価値を見いだせず、相対的な存在感が薄れている
ことが、双方に激しい感情の衝突を生んでいると見るほうが、むしろ正確な現状認識(p.38)」
かも知れない。本書を読みながら、
「日本的な視点としての自国文化中心主義」
(p.27)を脱
却し、多様な視点を受け入れてほしい、というメッセージを伝えたかったのではないか、
と思った次第である。今後、嫌韓論のような流行りを克服し、より大局的な視点から、物
事の議論を進めてほしい、と願う。
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