36.人類は「宗教」に勝てるか:一神教文明の終焉 - So-net

36.人類は「宗教」に勝てるか:一神教文明の終焉
(感想文の筆者:林
久治、記載:2015 年2月 11 日)
本書の著者:町田宗鳳(1950 - )
発行:NHK ブックス
発行日:2007 年5月 30 日
定価:1070 円
著者の略歴:京都市出身。14 歳の
時に出家し、大徳寺にて修行に励
む。34 歳の時に大徳寺を離れ渡米
し、ハーバード大学神学部で神学修
士号、ペンシルバニア大学東洋学部
で博士号をそれぞれ取得。
シンガポール国立大学助教授、プリ
ンストン大学准教授、東京外国語大
学教授を経て、現在、広島大学大学
院総合科学研究科教授。
主な著書:狂いと信仰、生きる力と
しての仏教、法然対明恵、森女と一
休、山の霊力、縄文からアイヌへ、
光の海:死者のゆくえ、なぜ宗教は
平和を妨げるのか、など。
(1)前書き
2013 年から、私(本感想文の筆者:林久治)はナザレのイエスとキリスト教を
少々研究している。なぜなら、これらは謎の多い問題であるからである。イエスに
関しては、本感想文の第1-5回と 27 回で取り上げた。また、第 15-16 回には、ス
ペイン映画「アレクサンドリア」を取り上げ、4-5世紀におけるキリスト教の異
教弾圧の実態を紹介した。第 17 回には、「ローマ帝国の神々」(小川英雄著)を取
り上げ、古代オリエントに存在していた様々な宗教(神々)が、ローマ帝国の時代
にキリスト教に収斂して行った過程を考察した。第 18 回には、「禁じられた福音
書」(エレーヌ・ペイゲルス著)を取り上げ、「ナグ・ハマディ写本」における
「グノーシス諸福音書」の豊穣な可能性を紹介した。(なお、第1-35 回の感想文
の内容は、次ぎのサイトからご覧になれます:本感想文の目次/l)
私(林)は、本年(2015 年)1月、私の本棚の隅に本書「人類は宗教に勝てる
か」(以後、本書と書く)があることを発見した。不思議なことに、私は本書を購
入したことも、本書の内容もすっかり忘れていた。本書をパラパラめくってみて大
変驚いたことは、「本書に書かれている内容は、2013 年から私がイエス様とキリス
ト教を勉強して到達した私の考えと非常に似ている」ことであった。私は本書の存
在を全く忘れていたのに、まるで本書に操れたかのように、私は考えを巡らせてい
たのであろうか。私が本書を購入した時には、私は聖書の勉強もしていなかったし、
1
「グノーシス」という言葉さえ知らなかった。そういう時期に私が本書を読んでも、
本書の内容を全く理解することが出来ず、私は本書を忘却の渕に投げ込んでしまっ
たのであろう。
本年になって、私は本書を再読したので、本感想文ではその内容を紹介したい。
その際、私(本感想文の筆者:林久治)の意見を青文字で記載する。本書は、プロ
ローグで著者が本書の内容に到達した経緯を記載した後で、6つの章で著者の考え
を展開している。以下にその内容を紹介する。
なお、私(林)が本感想文を書いている最中に、2人の日本人が「イスラム国」
により残酷に殺害されたという悲惨な事件が起こった。安倍首相は日本国民に「お
2人の救出に全力をつくす」と言明していた。しかし、私は「安倍首相は外には頑
張っているポーズを示しつつ、内では救出作業をサボタージュしていたのではない
か」と疑っている。なぜなら、安倍首相が「身代金」や「人質交換」で、2人の日
本人を救出することに成功すれば、ご主人のオバマ大統領から「大目玉」をくらう
のは必定であるからである。本書の著者の言葉を借りれば、「この事件は、一神教
の傲慢さが人類を不幸にした一例である」と私は考えている。
(2)本書の目次
プロローグ(p.3 - 10)
第1章
エルサレムは「神の死に場所」か(p.15 – 65)
第2章
世界最強の宗教は「アメリカ教」である(p.67 – 104)
第3章
多神教的コスモロジーの復活(p.105 – 143)
第4章
無神教的コスモロジーの時代へ(p.145 – 194)
第5章
愛を妨げているのは誰なのか(p.195 – 230)
第6章
ヒロシマはキリストである(p.231 – 255)
(3)本書の紹介
プロローグ
本書の著者は、最初に「人類の敵とは何か」との質問を読者に投げかけている。
著者は「ほかならぬ宗教こそが人類最大の敵だ」と考えている。一般的に宗教は
「愛」を説くが、もし神なるものがおわしまし、その神が「愛」そのものだとすれ
ば、その神と「愛」を引き裂いているのが、宗教である。宗教を熱心に信じれば信
じるほど、他者に対して暴力的になったり、自分の人生を不幸にしている人たちが
少なからず存在する。「人類は宗教に勝てるか」という過激なタイトルをつけた本
書を書くことになった著者の宗教遍歴はかなり屈折している。
著者は京都の粗末な借家に生まれた。彼が生まれる前に、彼の聡明な姉は予防注
射が原因で急死していた。そこで両親は虚弱体質の彼に過保護となった。彼はしば
しば風邪を引き、高熱にうなされて恐ろしい夢を見た。幼いながら「死んだら、ど
こに行くのかな」と考えるようになった。
母方の祖母は弘法さん(東寺)と天神さん(北野天満宮)の月参りを欠かさない
人だった。大好きな祖母に連れられて、著者も弘法さんと天神さんにお参りするよ
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うになった。弘法さんで「豆大福」を、天神さんで「こぼれ梅」をほおばるうちに、
小学生だった著者の心の中に信仰心のタネがまかれたのかもしれない。
小学6年のころ、著者はクラスメートに誘われて、日曜日にキリスト教会に通う
ようになった。教会の荘厳な雰囲気に浸るのが好きだった。聖書の話も新鮮であっ
た。教会に来る若者たちは裕福な家庭の子が多かった。路地裏の貧家に育った著者
は、妙なコンプレックスを抱きはじめた。そのうち、実直そうな牧師さんの息子が
自殺したことを聞いて、宗教家の理想と現実の間に横たわる齟齬にいいいようのな
い苛立ちを覚えた。
著者が中学校に進むと、近くにある大徳寺の小僧さんをしていたクラスメートと
仲良くなった。お寺を訪ねていくと、和尚さんと小僧さんたちが懸命に畑を耕した
り、まき割りをしていた。それは、教会で聖書を読んだり、賛美歌を歌ったりする
のとは、まったく異質の世界で、本音の宗教がそこにあるような気がした。著者は
「お寺で体を鍛えれば、もっと強い自分になれるかもしれない」と思い、住職に
「しばらくお寺においてください」と頼んだ。以後、20 年間、著者はまったく予期
しなかったが、寺の中で暮らした。
長い僧堂生活で著者が学んだのは、人間の意地悪さであった。一部の雲水の思慮
のなさや横暴にはほとほと嫌気がさし、「修行が人間性の本質をどこまで改善し得
るか」に懐疑的になった。そんなとき、師匠が急死した。著者は迷いあぐねて、当
寺、禅宗界のホープと目されていた某有名寺院の管長にお会いして、現代における
禅修業の有効性について正面から意見をぶっつけて見た。若い修行僧がそのような
挙に出るのは前代未聞で周囲の顰蹙を買ったが、当の管長は1ケ月後にみずから命
を絶たれた。
著者は寺院組織という後ろ盾を失い、仏教以外の宗教のことを学び、仏教を外か
ら見てみたいと思った。その後、大学さえ出ていない著者に、アメリカの大学でキ
リスト教神学を学ぶ機会が与えられた。(林の意見:京都の寺院は立派な大学であ
る。)著者は大学を卒業して、比較宗教学者として世界各地を飛び回っている。
著者には、「祖母に連れられて弘法さんや天神さんにお参りしていたころから現
在まで、なにか一貫したものが自分の中で明らかになりつつある」と確信している。
その確信を具体的なかたちにしたのが本書である。宗教は「愛」と「赦し」を説く
が、人を幸せにしない。人類社会を平和にもしない。なぜか。宗教とは人間の勝手
な思惑で作り上げられたフィクションに過ぎないからである。それが、著者の長い
宗教遍歴の結論である。
第1章
エルサレムは「神の死に場所」か(p.15 – )
著者は本書をエルサレムで書き始めた。本書における著者の考察や主張を、以下
に紹介する。(なお、林の意見を青文字で記載する。)ユダヤ教、キリスト教、イ
スラム教の三大宗教が聖地の中の聖地とみなすエルサレムの町で二千年以上もの間
続いているのは、憎悪と暴力の歴史である。イスラム教では、最後の預言者ムハン
マドが天使ガブリエルに導かれて、一夜のうちにメッカからエルサレムに飛来して、
「岩のドーム」の中にある「聖なる岩」から馬に乗って昇天し、天上でイエス、モ
ーセ、アブラハムに会ったとされる。エルサレム旧市街に渦巻いているのは、不信
と憎悪のエネルギーであって、宗教が説いている「愛」のエネルギーでない。
エルサレムでの宗教対立の根源にあるのは、ユダヤ教徒が体験した苦渋の歴史的
記憶である。紀元前 2000 年(頃)にエジプトの奴隷となって以来、バビロン捕囚や
ローマ軍の攻撃により、四千年もの間、ディアスポラ(離散)の歴史を強いられて
きたユダヤ民族が、他民族に対して不信感を抱くようになったのも、無理からぬこ
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とである。社会心理学者の岸田秀も「アメリカの正義病・イスラムの原理病」の中
で「虐げられ抑圧された被差別民ほど、失われたものを埋め合わせようとする意識
が強くなり、全知全能の神という観念に固執するようになる」と主張している。
そのような重い過去を背負ったユダヤ教の厳格主義を脱却して「愛」と「赦し」
の教えを前面に出したのが、宗教改革者としてのイエス・キリストである。イエス
がエルサレム神殿に行ったとき、両替商や鳩屋の屋台をひっくり返した。四千年の
トラウマを抱えたユダヤ教から派生してきたキリスト教の基本にあるのは、やはり
自分たち信仰者を「正義」とし、その信仰を受け入れない「不義」なる者を敵視す
る二律背反的世界観である。そこには、自己中心的な「愛」の誤認が生じやすい。
後世のクリスチャンが十字軍遠征、異端尋問、魔女裁判、ユダヤ人差別など、大
きな歴史的過ちを犯してしまった(欧米による原住民の虐殺・奴隷化や植民地化な
ども重大な過ちである)。イエス自身に二律背反的思考の残滓が取り除かれていな
かったのが原因であろう。ルターに始まり、ピューリタンを経由して、現代の福音
主義者に継続されるプロテスタントには、度し難い狭量さがある。他者の立場、他
者の価値観を受け入れることのできない世界観を、誰かによって植え付けられてし
まうことは不幸である。樹木や岩にも精霊を感じ、礼拝するようなアミニズム的宗
教を未発達な偶像崇拝と見るのは、超越的一神教の救い難い偏見である。
21 世紀には、今まで差別され、搾取されてきた先住民のような人々が、代々受け
継いできた深い知恵に頼らざるを得ない状況が、きっと到来するだろう。なのに、
あたかも自分たちの宗教のほうがはるかに進化した宗教のように考えるのは傲慢で
あり、完全な錯誤である。一神教徒にとっては、神とは絶対的善としての人格をも
っているもので、普遍的真理でもある。彼らにとっては、宇宙には真理がただ一つ
しかないのであり、その唯一の真理を認めず、信奉しない者は神の福音を拒絶する
「邪教徒」に過ぎない。邪教徒は人間失格に等しく、彼らを抹殺してもたいした罪
になるわけではない。だから、十字軍にせよ、アメリカ軍にせよ、遠い外国に遠征
して邪教徒を大量殺戮することにためらいが無かったわけである。
宇宙に一つしかない真理があるとすれば、それは広大無辺の宇宙があり、その惑
星の一つに、かろうじて人類が生息させてもらっているという真理しかない。その
真理はいかなる宗教の専売特許でもない。なのに、ヤハウェやゴッドやアッラーだ
けが、真理だと断定するのは、ちょっと身勝手すぎる。
一神教徒にとっては、神は無謬であるにもかかわらず、人間に耐え難い試練を
次々と与えた。不可解な神の意志を知ることが、一神教徒に共通する願望となった。
神の意志を知ろうとする人間の知的好奇心が、やがてサイエンスを生み出すことに
なり、自然現象のなかに次々と法則性が発見された。サイエンスが発見した法則性
を、人間生活に活用しているうちに生まれたのが近代産業である。現代日本人が当
たり前に享受している生活の快適さは、近代産業の発展により可能になった。
しかし、近代文明が加速度的に発展したあまりに、環境破壊が深刻となり、富の
分配が極端に不公平なものになったため、いよいよ人類社会の先行きが懸念される
ようになってきた。その結果、21 世紀は希望より不安に満ちた世紀として、われわ
れの前に立ちはだかることになったのである。
第2章
世界最強の宗教は「アメリカ教」である(p.67 – )
古代の宗教都市エルサレムで角を突き合わせている一神教は、今も生きている。
しかも進化している。その先端に誕生したのが、「アメリカ教」である。アメリカ
教の教皇は「アメリカ大統領」である。アメリカ教の布教のやり方は、グローバリ
ズムという名称で呼ばれている。その正体は、アメリカ版中華思想であり、いくつ
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もの仮面をかぶった覇権主義である。アメリカ教の宣教師の役割を担っているのは、
高級スーツに身を固めたアメリカの政府高官である。アメリカ教を受け入れないも
のは、「異端」として断罪される。
どのような神を崇めているかといえば、「富」という神である。その神に近づく
ためには、アメリカ型の自由と民主主義という「教義」を受け入れなくてはならな
い。つまり、アメリカ教の核心にある自由と民主主義というのは、富の格差を基本
的条件として認め、近代的個我の栄光を追求するシステムである。アメリカ国民は、
グローバリズムが地球規模で受け入れられれば、人類が幸福な生活を享受できると
信じている。これは、キリスト教が世界に広まれば、皆が死後、天国に生まれるこ
とができると信じることと同じである。
図1.バチカン宮殿のシスティーナ礼拝堂の祭壇に描かれた、ミケランジェロ作の「最後
の審判」(鳴門市・大塚美術館に展示されている実物大の模写を林が撮影)。キリスト教
では、「イエス様(上部中央におられる方)が再臨された時に、総ての死者の魂は呼び出
されて最後の審判を受ける」と信じられている。その時、キリスト教徒の魂のみが天国に
送られ(向かって左側)、そうでない魂は地獄に落とされる(向かって右側)。
ちなみに、「隠れアメリカ教」信者は世界各国に広く分布しており、日本ではエ
リート層、とくに政治家、外交官、国際政治学者に多いようだ。始末が悪いのは、
アル中患者が「アル中である」という認識を拒否するように、それらの人々に信者
意識がまったくないことである。(林は、「小泉純一郎、竹中平蔵、安倍晋三、橋
下徹らはアメリカ教に洗脳された輩である」と考えている。)
現代アメリカ社会は訴訟地獄で、自分が「義」で、他者が「不義」であるとする
単純な自己中心主義を生み出している。現代アメリカ政治も、必ず「仮想敵」を必
要とする仕組みである。アメリカを今日のスーパーパワーに押し上げたのは、アメ
リカ教という世俗的原理主義であり、それと正面衝突したのが、イスラム過激派の
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宗教的原理主義である。多神教文化圏にある日本がそのような宗教戦争に加担する
ことは、思想的にも不自然であり、政治的にはお門違いである。
地球環境破壊に拍車がかかったのは近代以降で、その責任の本質は一神教の中心
にある絶対的な超越神という抽象概念である。その神にいちばん近い位置に、万物
の霊長としての人間が配され、その下に人間を養うために動植物が置かれている。
今やエゴが膨張し切った人間みずからが、「神」となって世界を変えようとしてい
る。環境保護よりも企業利潤を優先するアメリカが世界規模でやってのけた環境破
壊は未曾有のものである。アメリカ人はエネルギーの消費がおびただしいにもかか
わらず、今でもそのライフスタイルを変えようとしないのは異常なことである。
多神教文化が濃厚に残っている地域では、ゴミのリサイクルが進んでいない。そ
れは経済力や技術力が後発であるせいもあるが、生活から出たゴミは海や山に捨て
るものという先祖伝来のメンタリティーが最大の原因となっている。これからの環
境保護運動は、多神教的コスモロジーが培ってきた自然への畏敬の念と、一神教的
コスモロジーで重視される人間の意志力の双方が統合されていく必要がある。この
へんにも日本人の自覚を促したい。
自然破壊の度合いに正比例するように、精神疾患を患う人間も増えている。環境
の問題と心の問題について懸念されるのは、生命の問題である。そこに見えてきた
のは、「人間改造」というじつに魅力に満ちた、しかもどこか不気味さを感じさせ
る生命科学技術的な可能性である。一神教的コスモロジーの中で「個」の栄光を求
めるかぎり、そういうところに科学が行き着くのは、歴史的必然である。そして現
在は、一神教の最先端にある「アメリカ教」が、地球の隅々まで政治、経済、文化
などの多方面にわたって決定的な影響を及ぼしている。「人間改造」に貢献する
個々の科学技術の倫理性をめぐって議論される生命倫理は、「個」の機能を最重視
する「アメリカ教」的価値観に依拠する「倒錯の生命倫理」とも見える。
「アメリカ教」のトーテムは近代建築技術の粋を集めた摩天楼である。摩天楼は、
近代における人間が神の栄光に迫ろうとする野心的意欲を象徴している。高層建築
といえば、モスクワにもスターリン建築と呼ばれる左右対称の荘厳な高層ビルがた
くさんある。共産主義もまた一神教の変形であるからだ。共産主義者は無神論者で
あることを標榜するが、実際は「権力」という神を信奉している。ソルジェニーツ
ィンの「収容所群島」に描かれた囚人の非情な断面や、終戦直後にソ連の捕虜とな
った日本人も同じような目にあったが、それが「権力」を絶対視する共産主義の正
体である。
ソ連の宗教弾圧時代には、キリストを思う感情が共産主義体制の指導者に向けら
れていた。中国の毛沢東についても同じことがあてはまる。それは巨大な中国国家
を共産主義という一神教で統一していくために不可欠であった。資本主義的になり
つつある中国では、神観念が「権力」から「富」に変容し、十数億の国民がそれに
向かって突進しはじめたのである。
「アメリカ教」をバックボーンとする近代文明は、高くそびえるピラミッドにた
とえられる。ところが二十世紀後半から、ピラミッドの光の部分と闇の部分のコン
トラストが目立つようになってきた。全世界の富がごく一部の先進国に集中し、し
かも先進国の中でも、その富をごく一部の階層が牛耳るようになった。このような
絶望的な格差社会を作ってしまったのは、直接的には資本主義かもしれないが、真
犯人は一神教的コスモロジーである。ピラミッド型の男性原理社会では個人的能力
が厳しく問われ、速く、強く、賢くある者が競争の勝者となる。
しかし近代文明というピラミッドの致命傷は、それが確固たる基石の上に構築さ
れておらず、外見上の美しさとは裏腹に、脆い構造になっていることである。一神
教的コスモロジーを基軸とする「力の文明」の終焉の予兆となったのが、2001 年の
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9.11 同時多発テロ事件である。それは近代文明への警鐘を鳴らす神の御業だったの
ではなかろうか。そういう意味で、現代におけるバベルの塔は 2001 年という年に、
すでに崩壊したと考えるほうが正しいのではないか。その認識がないままに、既存
の路線を猛進していけば、その先に待ち受けるカタストロフィーは想像を絶するも
のになる可能性がある。
図 2.ピーテル・ブリューゲル作の
「バベルの塔」。本物はウィーン美
術史博物館にある。この写真は、鳴
門市・大塚美術館に展示されている
実物大の模写を林が撮影した。
林も、「9.11 同時多発テロ事件
は神の御業」のような気がする。
しかし、著者も林も「一神教の神
は人類の妄想」と思っているの
で、林は本書の「神の御業」とい
う表現は不正確と恩ぅ。
第3章
多神教的コスモロジーの復活(p.105 – )
このまま「アメリカ教」に代表される一神教的コスモロジーだけで、人類社会を
動かしていこうとすると、早晩、文明間の衝突だけではなく、格差を原因とした人
間間の衝突が激しくなっていくだろう。このへんで、一神教的コスモロジーから多
神教的コスモロジーへの移行が不可欠である。多神教には、絶対的な権威を持つ造
物主が存在しない。宇宙が一人の神によって支配されているわけでなく、多くの
神々が役割分担して全体のバランスを保っている。多神教の基盤にあるのは、多様
な生命形態に不変なものを感得するアニミズムである。アニミズムは精霊信仰と訳
されるが、その本質は個々の自然現象に限定されない永遠の「いのち」への敬虔感
情であり、そこに一神教的性格さえ存在する。著者は本書の p.109 に、多神教的コ
スモロジーの要点を十項目に要約している。
一神教的コスモロジーに特徴的な厳父のような神のイメージは、神の啓示でもな
んでもなく、牧畜を中心とした男性優位の社会構造にほかならない。そこでは父と
子の間に契約が結ばれ、父の絶対的権威に従うことが、信仰の証となる。それに従
わないことは「不義」であり、地獄に落ちると脅迫される。同時に、父と主人と息
子の権威に従わない女性は、悪女であり魔女となる。
そして男性優位社会に、真に自立した男性が稀有であるという、皮肉な現象が生
じてしまう。なぜなら、一個の人間がアイデンティティを確立していくためには、
男性原理だけではなく女性原理が欠かせないからだ。アイデンティティ・クライシ
スという概念を打ち出したエリク・エリクソンは「人間の最初の発達過程で形成さ
れるのが、三歳ぐらいまでのベーシック・セキュリティー(基本的信頼)」とする。
ベーシック・セキュリティーとは、母親の愛情に全身を委ねる乳児が感じる安心感
のことで、それが基盤となり、自分への信頼観となり、肯定的な世界観につながる。
母性の逸脱がアダルト・チルドレンを生む。政治や行政の中枢にも、企業経営の
頭脳部にも、学歴もあり、身なりもよいアダルト・チルドレンが占拠し、次々と間
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違った判断を下していく社会に、明るい希望はない。男性原理が支配的な一神教的
コスモロジーが敵視してきたのが、女性原理である。魔女の原型は、小さな村落共
同体で活躍する、呪術医、シャーマン、助産婦にあった。彼女たちが人間の生死の
境に立会い、ときには死の責任を負わされたからである。
ユングは東洋思想の刺激を受けて、キリスト教の神と子と聖霊という「三位一体
説」を批判するようになった。ユングの考えを発展させれば、異端や異教徒をサタ
ンとして弾圧し、迫害を加えてきたキリスト教の歴史の根源には、三位一体説とい
う理論的根拠があった。(本感想文の第 15-16 回で、林が紹介したスペイン映画
「アレクサンドリア」は、4-5世紀におけるキリスト教の異教弾圧の実態をよく
表している。本感想文の目次/lより入場して、第 15-16 回の感想文をぜひご覧下さ
い。)「義」ではなく「不義」であるサタンを他者に投影するのではなく、まさに
自己の中に存在することを自覚したとき、真の意味でのキリスト教は「愛」の宗教
として復活する。
一神教の中にも多神教的要素は数多く埋め込まれている。旧約聖書には、唯一絶
対神とは思えない記述がいくつもある。これら複数系の表現は、かつて中東全域に
分散していた他民族の宗教文化が、長い時間をかけてアブラハム的宗教に統合され
た痕跡である。キリスト教はヨーロッパのアミニズムであるケルト文化を駆逐して
しまった。ケルト人たちは日本の縄文人と共通点があり、動植物を神聖視しており、
神道と同じく職能神信仰をもっていた。ヨーロッパでは、ケルトの女神の多くは魔
女として扱われるようになったが、大地母神への信仰は確実に聖母マリア信仰に変
容している。イスラム教は、アブラハムに始まる宗教の中で、一番後に登場してき
たので、一神教的性格を最も濃厚に持っている。メッカにあるカーバ神殿は「神の
館」と呼ばれ、イスラム教における最高の聖地である。しかし、この神殿は、もと
は土着の多神教の祭壇であった。
アミニズムとは自然への「愛」の表現だから、聖書に説かれているような人間中
心主義の「愛」は日本では定着しなかった。日本は表層文化においてどれだけ西洋
を真似ようとも、多神教的コスモロジーが通奏低音となっている事実は否定できな
い。日本は 20 世紀初頭、欧米列強の植民地主義を打ち負かすことができることを最
初に示した国だが、21 世紀においては多神教的コスモロジーを機軸とした新しい文
明を作りうることを、アジア・アフリカの国々に示すべきだ。自然を人間文化から
引き離し、資源として活用する一神教的世界観から、自然の流れの中に人間文化を
内在化させ、自然と人間の共存を目指す多神教的世界観へと移行することが、緊急
課題となっている。
著者は、「袋小路に陥った近代文明の超克」、「先住民文化に学ぶサバイバルの
知恵」、「これからは小さな国が大きな役割を果たす」、および「文明の分裂が招
く人類の危機」という節を設けて、多神教的コスモロジーの復活を提唱している。
その詳細は、本書をご覧下さい。
第3章の最後に、著者は次ぎのように主張している。いちばん重大な「文明の分
裂」は一神教的文明を共有する国同士の分裂である。ユダヤ教徒とイスラム教徒の
分裂は、パレスチナ問題を見ればすぐ分かる。キリスト教徒とイスラム教徒の分裂
は十字軍から間断なく続いているが、現代ではアメリカのネオコンとイスラム過激
派との対立という形式で激しさを増している。キリスト教徒とユダヤ教徒との対立
は、「イエスを裏切ったのがユダ」という聖書の物語以来、古典的である。(ナチ
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スのユダヤ人虐殺もあった。)最近、「ユダの福音書」が発見され、「ユダ裏切り
説」が覆される可能性も出てきた。人類は文明の基軸を「力」から「愛」に転換し
なくてはならない。そんなのは机上の空論であると、何もしないことがいちばん危
険な選択である。アメリカと中東諸国とも友好関係にあり、多神教的コスモロジー
を基盤とする日本は、受動的な外交姿勢から脱却すべきである。(本感想文の第
32-33 回で、林はアメリカ映画「最後の誘惑」を紹介した。本映画は本書でも言及
されているが、「ユダはイエスの依頼で行動した」との説を採用している。本感想
文の目次/lより入場して、第 32-33 回の感想文をぜひご覧下さい。)
第4章
無神教的コスモロジーの時代へ(p.145 – )
岸田秀は彼の著書「アメリカの正義病・イスラムの原理病」で「一神教が諸悪の
根源なんで、ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も、一神教がすべて消滅すればい
い」と語っている。欧米には仏教には原理主義的傾向が比較的弱いため、ノン・ド
グマチック宗教と呼ばれたりする。しかし、仏教もそれほど平和的でないことは、
歴史を見れば明らかだ。日本の平安時代では、権門寺院と呼ばれる南都北都の寺院
が互いに僧兵を送り込み、武力闘争を繰り返していた。江戸時代には、仏教僧は幕
府と一体になって、隠れキリシタンを冷酷に弾圧していた。第二次世界大戦におい
ても、仏教界は軍部に歩調を合わせて、全体主義の高揚におおいに貢献した。(現
在においても、公明党は自民党と結託して、売国政権の片棒を担いでいる。)
宗教と名のつくほどのものなら、その長い歴史を通じて、とんでもない愚かな過
ちを犯しているものだ。著者の主張は、組織としての宗教に依存することによって、
真の意味での「個」の尊厳を見失ってはならないということに尽きる。その自覚に
到る道は、何者にも寄りかかることのできない孤独な道である。そのような考えを
持った人たちは、キリスト教の内部にもいた。西暦3-4世紀の地中海地方に流行した
グノーシス主義者たちである。彼らによれば、この汚辱に満ちた物質的世界を作っ
たのは「悪の造物主」デミウルゴスであり、旧約聖書の神ヤハウェの正体がそれで
ある。しかし、至高神(プロアルケー(原初)とも、プロパトール(原父)とも、
ビュトス(深淵)とも呼ばれる。本書のp.148では、「デミウルゴス」と誤植してい
るようだ)が人間の肉体に、汚れなき「霊的種子」をこっそりと埋め込んだため、
「霊的認識(グノーシス)」により、人間は至高神と一体になることができると考
えていた。(本感想文の第3回で、林は「グノーシス主義」を紹介した。本感想文
の目次/lより入場して、第3回の感想文をぜひご覧下さい。)
皮肉にも、宗教こそが、人類社会の平和を妨げている。人間の力を超えた偉大な
もの(something great)に対して、全身が震えるほどの敬虔な気持ちさえあれば、
神仏を語る必要はない。その単純な事実を素直に理解するだけで(正に、グノーシ
ス!)、人間は今より数倍賢くなるだろう。われわれが大切にしている宗教は、霊
的に幼い人類に与えられた「歩行器」のようなもので、人類が自分の足、つまり自
分の判断力でしっかりと歩けるようになれば、宗教という歩行器はお蔵入りである。
では、次世代の宗教とは、どういうものか。そこでは、人間の妄想が構築した
「神」の幻影を崇拝することも、「神」の解釈をめぐって争うこともない。そのと
き初めて、人類は「無神教」という教義も戒律も儀礼もない、世界宗教を共有する
ことになる。なお、「無神教」は「無神論」ではない。「無神論」は共産主義のよ
うに、神の存在を否定する思想である。著者がいう「無神教」は、神仏が消えてし
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まって、われわれの体内に入り込んでくることである。それは神仏を礼拝したり、
論じたりすることもなく、神仏と共に生きていく生き方である。
あれをやるな、これをやれと、色々と注文をつけてくるような神なら、早々に縁
を切ったほうがよいというのが、「無神教」の立場である。自分の生き方は自分で
判断するのが、人間の尊厳である。それは純粋に個人の意識内の出来事であり、
「霊的認識(グノーシス)」によって、内面的な霊性が高まるしかない。(なお、
著者は霊性と霊感の違いを説明しているが、ここでは長くなるので省略する。詳細
は本書のp.153をご覧下さい。)
21世紀になって、著者がようやく気付くことになった「無神教的コスモロジー」
を、早くも7世紀に理論的に体系づけた人たちがいた。それは、仏典の中でもっと
も難解とされる華厳経を「四種法界」という簡潔な理論に要約してしまった中国唐
代の法蔵や澄観といった華厳の思想家である。(なお、著者は「四種法界」を本書
で説明しているが、ここでは長くなるので省略する。詳細は本書のp.153-157をご覧
下さい。著者は、「四種法界」の四つ目の「事々無礙法界」が著者のいう「無神教
的コスモロジー」ことであると、述べている。)
華厳哲学が理論的に説こうとした「事々無礙法界」をきわめて具体的に図像化し
たものが、宋代の廓庵禅師によって作られた「十牛図」と呼ばれるものである。こ
の図では、十編の絵に牛と人とを描き、両者の発展的関係を明らかにするものであ
る。(なお、著者は「十牛図」を本書で説明しているが、ここでは長くなるので省
略する。詳細は本書のp.157-160をご覧下さい。林の級友・坂田君も、彼のサイトで
「十牛図」を解説している。坂田君のサイト/mもご覧下さい。)
「十牛図」が教えてくれる「牛」とは、悟りや仏法のメタファー(比喩)である。
それと同様に、神の本質は人智で捉えきれるものではなく、歴史のある時点で、人
類は自分たちの理解力の及ぶ範囲で捉えた神のごく一面を、かりそめに「神」とい
う言葉で表現しようとしたのである。つまり、「神」は神そのものではなく、「神
のメタファー」なのである。「経典の民」と呼ばれるユダヤ教徒、キリスト教徒、
イスラム教徒は、自分たちの経典を神聖視し、それを防衛するためには戦争さえ辞
さない。しかし、神仏がメタファーであることに気付けば、あらゆる宗教の経典は、
そのメタファーの「効能書き」であり「取り扱い説明書」に過ぎないことを、おの
ずと理解されてくるはずである。
図3.奈良・東大寺の大仏は
「華厳宗」の仏像である。この
写真は、2014 年 11 月に、林が撮
影した。
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著者は第4章の後半で、「アーミッシュが実践していた事々無礙法界」、「児童
射殺事件に見る魂の成熟」、「先進的だった梵我一如の思想」、「生活の中に仏を
見る」、「神秘主義者たちは神を崇めなかった」、「水墨画は無神教の芸術」、
「無神教的コスモロジーの表現としての俳句」、「ジョン・レノンも直感していた
無神教的世界」などの節で、無神教的コスモロジーの実例を紹介している。
著者が宗教の超克を訴えるのは、宗教が過去と未来を見て、現在を見ようとしな
いからである。過去を見るとは、人間が過去に犯した罪とか、先祖が作った因縁と
かを大仰に語ることである。その贖罪のため、教会や寺院は寄付を求めてきた。未
来を見るとは、終末論や地獄の思想を説き、いまだ来ぬ死の恐怖をあおり立ててき
たことである。後世のために信仰をもつことを勧めたり、手厚い葬儀を営んだりし
て、民衆の心を教会や寺院につなぎとめようとしてきた。「今」しか見ないのは、
刹那主義のようにも聞こえるが、宗教の理想的境地は、こだわりなく刻々を生き切
ることである。われわれの肉体が神の座であり、われわれが何をしていようと、神
はそこに具現している。
第5章
愛を妨げているのは誰なのか(p.195 – )
地球上で人類が「愛の文明」を構築できない原因は、人間の心である。著者のい
う無神教は、いかなる対象も必要としない独り立ちする「愛」の体験である。
「愛」の体験を得たとき、宗教が人間の脳に刷り込んだ、あらゆる幻惑を乗り越え
て、われわれは魂を真の意味で自由な世界に解放することができる。「愛」は自他
の二元論の中で見出されるものではなく、愛する対象を求めず、それ自体で成立す
るものである。高山の過酷な自然条件にも打ちひしがれることなく、健気に可憐な
花を咲かせる高山植物の自立した美こそが、「愛」の表象である。
その「愛」はどこから来るかといえば、ほかならぬ自分の中から来るといわざる
を得ない。そのようなことは、仏教の如来蔵思想、グノーシス主義者のいう「霊的
認識」スーフィーの「ファナー(消滅)」などの考え方に一貫するものである。
「良心の交換・フェアトレード」のように小さな努力を長い時間かけて積み重ねて
いくことによって、「愛の文明」が創られる。どこからか救世主がやってきて、
「愛にあふれた人間社会」を創ってくれるという奇跡を期待するより、無神教的コ
スモロジーは人間が人間のことに責任を持つ世界である。
マザー・テレサは相手をキリスト教に回心させようとしなかった。彼女は、すべ
ての人間にイエスを見たから、宣教の必要を感じなかった。彼女が生き抜いた 86 年
は、祈りの生涯だった。動植物は神(自然)と一体になっているので、祈りを必要
としない。神と分離してしまった人間のみが、それへの回帰を願うゆえ、祈りの心
を持つ。そして、祈りの中で「互いに愛し合う」ことを学んでゆく。人類は宗教を
捨ててもよいが、祈りを捨ててはならない。祈りの基盤にあるのは、人間の悲しみ
である。この世のあらゆる悲しみを感じ取る感受性が、祈りを生む。
ジェームズ・ラブロックの「ガイア思想」は「地球とは一つの巨大な生命体であ
る」という考え方である。著者は「ガイア思想」から一歩踏み込んで、地球を「愛
の生命体」と見るべきと思っている。地球は、つねに見返りのない「愛」で、地表
にあるすべての生物を支えている。そのおかげで、われわれは、いつ息絶えてもお
かしくない生命を今日も享受している。その「愛」は、血液となって、生物の肉体
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の隅々まで見事に行き渡っている。見事な血液網を持つ人体は、いかなる宗教も寄
せつけることのない「愛」の曼荼羅である。
このような「愛」を中心に回っている地球の上で、人類が権力と欲望を機軸にし
た文明を築こうとするのは、いかにも傲慢だ。どうやら「バベルの塔」を築きたく
なるのは人類の本能かも知れないが、必ず崩壊することがわかっているような文明
は、やはり築かないほうがいい。政治も経済も教育も、どこまで「愛」を機軸に動
かせていけるのか、そこに人類の命運がかかっている。
第6章
ヒロシマはキリストである(p.231 – )
本書執筆の当時、著者は広島大学で平和科学研究プロジェクトを立ち上げていた。
原爆慰霊碑の前で手を合わせているうちに、ごく自然に念仏の声が腹の底かわ湧き
出てきた。ナムアミダブツと三度唱えているうちに、「ヒロシマはキリストであ
る」との確信が、著者の心に芽生えた。広島と長崎の原爆被爆者が、極限的な苦痛
の中で命果てることによって贖ってくれたのは、日本という国の責任をはるかに超
えて、もっと大きな人類の罪である。
人間がわがまま放題の生き方をするうちに、地球がボロボロになってしまった。
人間の心もボロボロである。唯一の被爆国として人類史の悲劇を日本が受け止めざ
るを得なかったことは、この国が近代文明における最初の「愛の枢軸国」として立
ち上がる可能性が与えられたということを意味している。それでこそ、壮絶な十字
架の死を遂げた広島と長崎の被爆者へのほんとうの慰霊ができる。
地球環境の保護や世界平和は、誰もが願うところであり、人類はそれを目指して、
最大限の努力をしなくてはならない。かといって、人類が永遠に存続できるわけで
はない。生命だけでなく、地球にも寿命がある。ラブロックも、40 億年生きてきた
地球の寿命は、あと 20 億年ぐらいと予測している。われわれは、限られた肉体条件
の中で刻々と死が迫ってくるからこそ、真摯に反省もし、今日という日の生活態度
を改めようとするのである。宗教や文化の違いを超えて、人類がもつ倫理観の核心
には、人の道を踏み外さず、なんとかよい死に際を迎えたいとの思念がある。
次世代の宗教は、実感のともなわない救いや、心理的に負担になる罪を説くので
はなく、刻々と終焉に近づきつつある人類に、「今」という時をいかに生き、そし
ていかに死を迎えるかを、ストレートに語る宗教であってほしい。
(4)私(林)が本書を読んだ感想
本感想文の前書きで、私(林)は「本書に書かれている内容は、2013 年から私が
イエス様とキリスト教を勉強して到達した私の考えと非常に似ている。私は本書の
存在を全く忘れていたのに、まるで本書に操れたかのように、私は考えを巡らせて
いたのであろうか」と書いた。以下に、私の考えも記載したい。
ローマ帝国のコンスタンティヌス一世が 313 年にミラノ勅令を発布してキリスト
教を公認して以来、キリスト教は国家と教会の下僕に成り果ててしまった。コンス
タンティヌス帝は、325 年にニケーア公会議を開催して「三位一体説」を正統とし
て承認し、それ以外の説を異端として排斥した。「三位一体説」とは、「父と子
(キリスト)と聖霊が一体(唯一)の神である」との教義である。「三位一体説」
では、「神性は三位一体の神のみにあり、人間にはない」とし、「イエス・キリス
トは十字架で刑死することにより人間の原罪を贖ってくれた」とする。従って、
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「人間はイエス様の教義に帰依じ、キリスト教会に従うことにより、最後の審判で
救済される」とする。私(林)は「三位一体説は、一般庶民は無知・蒙昧であるの
で、国家や教会の命令通りに人生を送ればよい。その代わり、死後は面倒を見てや
る」との教義であると解釈している。このような教義は、ローマ帝国の小作人や奴
隷などの下層民にとっては分かり易いものであった。
一方、正統派キリスト教から、異端の烙印を押されて、徹底的に弾圧されたグノ
ーシス主義は次ぎのように考えた。「この汚辱に満ちた物質的世界を作ったのは劣
悪神・デミウルゴスであり、旧約聖書の神ヤハウェの正体がそれである。イエス様
は、デミウルゴス(=ヤハウェ)が作った劣悪な世界から人間を救済するために、
至高神から派遣された。あらゆる人間の心は、イエス様と同様に神性を持っている。
従って、それを霊的に認識することにより(この認識がグノーシスである)、人間
は至高神と一体になることができる。」このような教義は、ローマ帝国では学問の
ある富裕層の人々しか理解できない高度なものであった。
私は、「小作人や奴隷などの下層民を軽蔑する気持ちは毛頭ないが、現代のよう
に科学技術が進歩すると、グノーシス思想の方が三位一体説より説得力がある」と
考えざるを得ない。グノーシス主義の一派であるバシレイデースは、「何も存在し
なかった時に、無の神(=至高神)が蒔いた微小な種子から、宇宙の総てが自ずと
生まれた」とする宇宙創成神話を提唱した。バシレイデース説は荒唐無稽ではある
が、現代の「ビッグ・バン理論」のメタファー(比喩)であることが興味深い。
図4.
生物の系統樹
本書で著者の町田先生は「無神教的コスモロジー」を提唱している。私もそれと
類似した考えを持つに至った。私は「生命の系統樹」を重視している。図4に、最
近の遺伝子解析により判明した「生物の系統樹」を示す。地球は約46億年前に誕生
したが、最初の生物は約40億年前に地球上で無生物から発生した。ごく単純な最初
の生物がいったん発生すると、生物間で激しい生存競争が始まった。その結果、生
物は多種多様に進化し、現存の生物群が生き残っている。
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図4に示すように、現存の生物群は原核単細胞生物である真性細菌と古細菌と、
古細菌から進化した真核生物とに分類される。真核生物は単細胞生物である原生動
物界と、多細胞生物である植物界、菌界、動物界とに分類される。私が特に強調し
たいのは、「これらの現存の生物群は総て、共通祖先の発生から現在までの約40億
年の間、命を一度も断絶することなく進化して来た」ことである。換言すれば、現
存の生物群は、細菌から人類に到るまで、総てが兄弟であり、約40億歳の年齢を持
っていることになる。
地球上の生物が進化の極限で誕生したのが人類である。人類は宇宙に存在する万
物を観察し、それらの起源や機能を考察することを始めた。つまり、宇宙は自らを
知るための「目」として、人類を創造したことになる。人類の一人一人は、生まれ
ては数十年後に死ぬという、はかない運命を背負っている。しかし、われわれ一人
一人は、40億年もの長い間に一度の断絶もなく綿々と受け継がれた「生命の系統
樹」の曼荼羅(図4)において、その一翼を担う重要な役割を与えられて、この世
に生命を受けている。さらに、一人の人間は、彼または彼女の両親が生産した総て
の精子と卵子(つまり、数百億人の兄弟姉妹)の代表として、この世に生を受けて
いるのである。
地球上の生物を育ててきた太陽にも寿命がある。今から数十億年後には太陽は赤
色巨星となって、地球は生物が住めない惑星になってしまう。そのずっと前に、人
類が滅亡してしまうのは必定である。従って、人類はちょうどよい時期に地球上に
出現したといえる。特に、現在に生きるわれわれは、人類史上でちょうどよい時期
に誕生して快適な生活を謳歌している。
私は「この世が天国であり、浄土である」と思っている。人間には原罪などは、
あるはずがない。それは、特定の宗教の脅しにすぎない。総ての人間は素晴らしい
体と心を与えられて、この世に誕生してきた。(身障者の方々も、ご自分でそのよ
うに考えられているのではなかろうか。)われわれは、そのような天寵を授かって、
この世に生命を受けたことに、感謝しなければならない。しかし、人類の滅亡、地
球生物の根絶、太陽の消滅は、順番に必ず起こる。その前に、人間一人一人に死は
必ず訪れる。それらの総ては必定である。しかし、われわれはこのような自然の道
理を認識(グノーシス)して、今を懸命に生きれば、この世は天国(浄土)になる。
なお、「神、心、および他のいくつかの問題に関する私(林)の諸考察」に関す
る詳細は、林久治の意見:9.7章/fのサイトをご覧下さい。特に、日本の将来につい
て、私の主張を以下に記載します。ぜひ、皆様のご意見をお聞かせ下さい。
1.最近の日本では、新自由主義が蔓延している。「新自由主義」は誤りで、
「友愛精神」に基づいた「清貧な生活」を目指すべきである。
2.「地球温暖化防止」と「経済成長」とは両立しない。日本が経済成長を求める
のは今や幻想であり、世界各国が経済成長を続けるには地球は1ケでは足りない。
3.人類は今後、「物質的追求」から脱却し「精神的充実」を目指すべきである。
4.世界各国は「経済規模縮小と地球環境保全」の政策に大転換すべきである。
5.「東日本大震災、世界大不況、地球温暖化、人口減少を契機に」日本国民と日
本政府は従来の発想を転換し、政策を根本から改革して「経済規模を縮小しつつ」、
清貧で品格ある社会の構築を図るべきである。
6.「アベノミックス」は、「円安誘導」により、「日本国民の財産」の4割を
米国に貢いだ「売国政策」である。「TPP」は、日本市場を「米国のハゲタカ企
業」の蹂躙に任せる「売国条約」である。
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