『言いなり』 著:丸木文華 ill:minato.Bob ふいに、剛の

『言いなり』
著:丸木文華
ill:minato.Bob
ふいに、剛のジャケットから漂う甘辛い臭いが鼻先を掠め、圭一は眉根を寄せた。居酒屋や煙草とはま
た違う種類のものだ。
「お前、これ昨日の行った焼き肉の臭い残ってんじゃん」
「え、そう? 気づかなかった」
「ファブるなり何なりしろよ。クセエ」
ごめん、と困った顔で謝る剛に苛々する。どうせ、何もしない癖に。
こいつはヘラヘラして何でも言うことを聞く低姿勢な性格のように見えて、実はものすごく図太い、と
圭一は感じる。被っている講義の代返をしろと言えば二つ返事で頷くし、金を貸せと言えば貸してくれ
る。先輩たちに飲めと言われればいつまでも飲んでいる。何でも言いなりになるくせに、妙に反抗的に
感じるのは、何を言っても自分自身に関してはまったく変えようとしないところだろうか。
「ケイ君ってさあ、結構臭いに敏感だよね」
剛は適当なことを言う。妙に顔を首の辺りに近づけてきて、犬のように鼻を蠢(うごめ)かせる。ゾッ
として首筋に鳥肌が立つ。
「だからいつもいい匂いさせてるの? これ、何の香水? いつも同じ匂いする」
「お前も香水くらいつけりゃいいじゃん」
「俺なんかがつけたって似合わないよ。ケイ君だからカッコイイんだよ」
確かに、剛に香水は似合わない。家にもきっとろくなボディケア製品などないだろう。圭一はバスルー
ムにぽつんとひとつ置かれた石けんを思い浮かべた。
「それ、あたしがあげた香水なんだよ。ね、ケイ」
向かいにいた森(もり)田(た)夏(なつ)美(み)が口を挟む。赤毛のボブとよく動く大きな目が特
徴的な、美人というよりも愛(あい)嬌(きょう)のある顔立ちだ。
中学、高校とビジュアルバンドの追っかけをしていて、いわゆるバンギャというやつだったらしい。何
で追っかけをやめたのかと聞いたら、歌詞を作っていたのがボーカルじゃなくてドラムだったというこ
とが露見したから、という圭一にとっては意味の分からないことを言っていた。大きなガラス工場の社
長令嬢で、人に贈り物をするのが趣味らしい。財布の紐も緩いが、貞操観念も緩い。
「ケイにはそれが合うと思ったの。いい匂いでしょ」
「そうなんだ。じゃあ、俺にも合う香水教えてよ」
「えー、やだあ」
夏美はケラケラ笑って取り合わない。すぐに隣の女子と話し始めて露骨に剛を無視している。けれど、
剛はそれを気にした様子はない。
「ねえ、ケイ君って、森田さんと付き合ってるんだよね」
少し小声で訊ねられて、圭一は鼻白む。
確かに夏美とは何回か寝ているけれど、それだけだ。夏美も圭一もサークルの中で何人かと関係してい
る。そんなことは暗黙の了解で、知らないのは剛くらいのものだろう。サークル内の相関図を作ったと
したら、線があちこち入り乱れてぐちゃぐちゃになってしまうに違いない。
「付き合ってねえよ」
「え、でも」
「ヤってるだけ」
察しの悪い奴にもわかりやすいようにあけすけに言ってやると、そうなんだ、と剛は口の中で呟(つぶ
や)く。
「じゃあ、納得。付き合ってないなら、好きってわけでもないもんね」
剛が何を言っているのかわからない。首を傾げていると、剛は眼鏡の奥から無遠慮なほどまっすぐに圭
一を見る。
「ケイ君てさ、森田さんのこと見下してるじゃん。あと、他の女の子たちのことも」
なぜか、ギクリとした。
剛は時々ひどく攻撃的に思えるような、率直すぎる物言いをすることがある。柔らかな口調なので批難
とは感じないが、その真意が掴めずに心の底にしこりが残る。
見下しているのは確かだ。誰とでも寝る女は価値が下がるし、最初は魅力的に見えていても、抱いてし
まった後は一段落ちて見える。何度も抱けば更に色褪せ、次第に退屈になる。けれど、遊んでいなさそ
うないかにも真面目な女と関係を持つのは億(おっ)劫(くう)だ。重いから。
ただの男の生理だと片付けていたけれど、「見下している」と言われれば、自分が大層傲慢な奴に思え
てくる。自分だって誘われれば誰とでも寝るくせに、なぜ同じことをしている女を軽蔑するのだろう。
圭一が女と寝るのは、正直に言ってしまえばファッションなのだ。服や指輪と同じ。女の誘いを断るの
はダサイから。常に女が側にいるのは様になるから。それは女も装飾品と同様に見ているということな
のだろうか。
思いがけず考え込んでしまい、ハッと我に返る。すぐに、剛などの言葉に狼(ろう)狽(ばい)したこ
とに頭に来て、硬い胸板を肘で突いた。
「お前、何わかったようなこと言ってんだよ。関係ねーだろ」
「ごめん。怒んないで。ごめんね、ケイ君」
「余計なこと言うなよ。剛のクセに」
「ケイー。それ、すげえいじめっ子っぽい台詞」
横で早くも酔っ払った敦司が笑っている。その勢いのまま剛に絡み始める。
「なあなあ。俺、気になってたんだけどさあ。剛って、もしかしてドーテー?」
「え、なんで。違うよ」
ヘラヘラ笑いながら答える剛。なんだ、そうなのか、と圭一は内心意外に思う。敦司も同じだったよう
だ。
「えーっ、そうなんだあ。女なんか全然キョーミないのかと思ってた」
「そんなことないよ。俺だって男だもん」
「じゃ、今は? 付き合ってる女、いるの?」
「今はいないなあ。忙しいし」
「忙しいって、お前毎回飲みに参加してんじゃん」
呆れて言ってやると、「だって、ケイ君がいるから」と当然のように答える。
剛は法学科で圭一や敦司の経済学科とはカリキュラムが違う。あまり剛の個人的なことを訊ねないので
何が忙しいのかわからないが、明正大の中で法学科は最も倍率の高い難関のひとつだし、課題も大量に
あったりするのだろう。
「剛ってどんな女が好みなの」
敦司が妙に興味津々な様子で訊ねる。圭一は剛の女の趣味など知りたくもないけれど、どんな女がこん
なダサイ男と付き合うのかは見てみたい気がする。
剛は首をひねって考えている。太い指先が顎に生えた無(ぶ)精(しょう)髭(ひげ)を無造作に撫で
る。朝には綺麗に剃っていても、夕方になれば生えてきてしまうタイプなのだろう。圭一は数日剃らな
くても問題ない。
「うーん、あんまり好みって、ないなあ」
「何だ、それ。お前、女まで適当なのかよ」
「俺、ケイ君みたいにイケメンじゃないからさ。こっちも選ぶ立場じゃないっていうか」
可愛い子がいいとか、料理ができた方がいいとか、色々あるだろう、と言っても剛はぽかんとした顔で
ビールを飲んでいる。
「もしかしてあれ? 好きって言われたらこっちまで好きになっちゃうタイプ?」
「うーん、どうだろう。でも、確かにこだわりとかはないのかも」
ああでも、と剛は思いついたように顔を上げる。
「素直な子がいいな。俺の好きにさせてくれる子」
「えっ。そうなんだ、意外」
敦司は目を丸くしている。
「俺、てっきりお前は女王様みたいな女が好きなのかと思ってた」
「全然違うよ。どうして?」
「だってさあ」
圭一を横目で見て笑う敦司。確かに、今までの剛を見ていれば、誰だってそう思う。尽くすのが好き
で、顎で使われても嬉しそうに言うことを聞いて、犬のように従順で。
「でも、好きにさせてくれる子、いいよなあ。なんかその響きがエロイ」
「言いなりになってるだけじゃ、すぐ飽きるぜ」
だし巻き卵をつつきながら圭一はぼやく。マンネリは大敵だ。飽きることが怖い。興醒めもしたくな
い。だから、いつでも刺激的な何かが必要だ。
「それって、ケイ君がその子のことそんなに好きじゃないからだよ。遊びだからだよ。好きな子が言い
なりになってくれたら、俺死んでもいいって思うもん」
剛が場違いにマジメなことを言うので、敦司はわざとらしく口笛を吹く。
「剛、意外と情熱的だなあ」
「馬鹿、敦司、こいつはいつだって口だけなんだよ」
くだらない話題。くだらない男。くだらない女。そのぬかるんだ空気に浸っているのが、心地いい。正
論は余計だ。ただ流されていればいいだけなのに、空気を読まない奴はこれだから困る。酒が強すぎて
酔った振りもできない剛は、やはりここでは異分子なのだ。
「俺、本当にそう思うんだけどなあ」
少し寂しそうに呟いて、剛は煙草に火をつける。肉感的な厚い唇から細く煙が吐き出されるのを見て、
圭一は思わず目を逸らした。
作品の詳細や最新情報はダリア公式サイト「ダリアカフェ」をご覧ください。
ダリア公式サイト「ダリアカフェ」
http://www.fwinc.jp/daria/